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【講演】転換点を迎えて

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日本経済団体連合会審議員会における講演

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年12月24日

目次

1.はじめに

日本銀行の黒田でございます。本日は、我が国の経済界を代表する皆様の前でお話し申し上げる機会を賜り、誠に光栄に存じます。

早いもので、今年も残すところ1週間となりました。本席では、1年の締めくくりに当たって、今年の日本経済を振り返るとともに、やや長期的な視点に立って、「量的・質的金融緩和」のもとで日本経済がどのような変化を遂げたのか、そして、新たな成長のステージに向けて、この先どのような課題が残されているのかについて、お話ししたいと思います。

2.今年の日本経済

まず、今年の日本経済を簡単に振り返ります。景気の面では、比較的堅調な国内需要を背景に、緩やかな回復が続きました。個人消費については、雇用・所得環境の着実な改善が続くもとで、底堅く推移しました。労働需給の逼迫は続いており、現在の3%台前半という失業率は、求人と求職のミスマッチに起因した失業のみが残るという「完全雇用」の水準にほぼ対応しています(図表1)。企業部門については、堅調な国内需要、原油価格下落、そして円高修正という良好な経営環境を活かしながら、過去最高水準の収益を実現しています。企業収益の拡大は、大企業だけでなく、中堅・中小企業にもみられています。こうしたもとで、幅広い業種で前向きな設備投資スタンスが維持されています。一方、外需については、米欧向けは概ね堅調に推移しましたが、本年後半にかけて、中国をはじめとする新興国経済減速の影響がみられました。もっとも、最近では全体として持ち直しています。また、夏場には中国を起点として金融資本市場にも不安定な動きがみられましたが、その後、落ち着きを取り戻しています。

物価面では、生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、1年を通じて概ね0%程度で推移しました(図表2)。もっとも、これは主としてエネルギー価格の下落によるものであり、物価の基調は着実に改善しています。生鮮食品に加えてエネルギーも除いた消費者物価をみると、2013年10月に前年比プラスに転じた後、25か月連続でプラスを続けており、直近では+1.2%まで上昇しています。これほど持続的な物価上昇は、1990年代後半に日本経済がデフレに陥って以降、初めての経験です。東京大学や一橋大学が食料品や日用品などの価格を集計し、日次や週次で速報している価格指数をみると、本年度入り後明確な上昇に転じ、最近まで上昇幅の拡大傾向が続いていることが分かります(図表3)。また、消費者物価を構成する品目のうち、上昇した品目数から下落した品目数を差し引いた指標は明確に上昇しています。これらは、本年度入り後の価格改定の動きが拡がりと持続性を伴っていることを示しています。

このように、日本経済は緩やかな景気回復を続けながら、2%の「物価安定の目標」の実現に向けた道筋をしっかりと辿っています。ここで改めて強調しておきたいのは、日本銀行は、ただ物価さえ上がればよいと考えている訳ではなく、「企業収益や雇用・賃金の増加・上昇を伴いつつ、物価が上昇する」という姿を目指しているということです。物価は様々な要因に左右されますが、所得の増加に裏打ちされたものでなければ、2%の物価上昇率を「安定的に」実現することはできません。

こうした観点からみても、「量的・質的金融緩和」は、所期の効果を発揮していると考えられます。さきほど申し上げたように、企業収益は過去最高水準に達しています。労働需給は引き締まりが続いており、賃金も緩やかながら、はっきりと上昇に転じています。「量的・質的金融緩和」のもとで、日本経済のトレンドは明確に変化しました。以下では、この点をいくつかのグラフを用いながら具体的にご説明します。

3.拡大する経済の復活

まず、図表4をご覧ください。ここ15年間の消費者物価と名目所得の推移を示したものです。

左のグラフは、消費者物価の推移を水準で表したものです。これをみると、15年にわたって下落を続けてきた消費者物価の水準が、「量的・質的金融緩和」導入とともに反転上昇したことが一目瞭然です。右のグラフは、名目ベースの国民所得―大まかに言えば、企業収益と雇用者所得の合計と考えられます―の推移を示したものです。名目所得は、リーマンショックによって大幅に落ち込みましたが、消費者物価と同様、「量的・質的金融緩和」導入以降、明確な増加に転じていることがみてとれます。国内で生産された付加価値を表す名目GDPは、はっきりとした増加に転じました。海外の事業活動から国内に還元された所得も含んだ名目GNI(国民総所得)については、企業の海外展開の拡大と円高の修正を受けて、より顕著に増加しています。

これらの事実から明らかなように、「量的・質的金融緩和」導入以降の日本経済においては、「企業収益や雇用・賃金の増加・上昇を伴いつつ、物価が上昇する」という日本銀行が目指している姿が、まさに実現しつつあります。

このように物価と名目所得の両方が上昇・増加するもとで、実質所得も増加を続けています(図表5)。重要なことは、物価、名目所得、実質所得のいずれもが上昇・増加する姿に転換したということです。GNIでみると、デフレ期には、実質所得は増加傾向を辿っていましたが、物価が下落を続けるもとで、名目所得は増加していませんでした。その結果として、企業や家計の支出行動が消極的なものになっていたことは、これまで繰り返し申し上げてきた通りです。

このように経済政策によって景気や物価のトレンドが大きく転換することは、歴史的にみてもそう頻繁に起きることではありません。私は、ちょうど2年前、本席で「デフレ脱却の目指すもの」と題する講演を行いました。その際、人々の予想物価が短期間で大きく変化した事例として、1930年代の米国の大恐慌期におけるルーズベルト大統領の「ニューディール政策」をご紹介しました。デフレ脱却に向けた強い決意が示され、金本位制から離脱するとともに大胆な財政政策が行われた結果、比較的短期間のうちに物価が反転上昇し、大恐慌に伴う激しいデフレは収束しました。図表6をご覧ください。物価と所得がV字型に上昇に転じる当時の様子は、その程度はもちろん異なりますが、「量的・質的金融緩和」導入に伴って我が国で生じた変化とよく似ています。この2年あまりで、日本経済は「レジーム・チェンジ」を実現しつつあるのです。

特に、本年度入り後、企業の賃金・価格設定スタンスに明確な変化がみられることは、物価の緩やかな上昇が一時的なものではなく、トレンドの変化であることを示しています。春の労使交渉では、2年連続のベースアップが実現し、しかもベースアップを実施する企業の業種や規模には拡がりがみられました。価格改定の動きが拡がりと持続性を伴っていることは既に申し上げた通りです。これらは、企業や家計の物価観が、「物価は下がるものだ」というデフレ期のものから、「物価は緩やかに上昇する」というものに変化してきたことを示しています。

この点について、エコノミストなどの間では「このところの物価上昇は、既往の為替円安に伴う輸入コスト上昇が主因であり、持続的なものとは言えない」との声も聞かれます。しかしながら、「量的・質的金融緩和」導入以降の物価上昇の大きさと持続性は、マクロ的にみて円安効果で説明できる範囲を大きく上回っています。また、価格改定の動きは、為替レートの影響を受けやすい品目以外にも幅広く及んでいます。こうしたことを踏まえると、物価上昇の背景には、失業率の低下にみられるような経済全体としての需給バランスの改善と、企業や家計の物価観の変化があると考えるのが合理的だと考えます。

4.新たな成長ステージに向けた課題

「量的・質的金融緩和」のもとでの変化を踏まえ、次に、より長期的な視点から、日本経済が置かれている状況を考えてみたいと思います。

バブル経済崩壊以降の日本経済は、2つの大きな課題に直面してきました。ひとつは、バブル時代に蓄積された過剰債務、過剰設備、過剰雇用という「3つの過剰」の清算です。そしてもうひとつが、緩やかながらも非常にしつこいデフレからの脱却です。

ご承知の通り、このうち、「3つの過剰」については、既に解消されています。例えば、長年にわたって減少を続けてきた銀行貸出は、2006年には前年比プラスに転じました。所謂バランスシート調整、デレバレッジのプロセスは、この段階で概ね終了したものと評価できます。一方、もうひとつの課題であるデフレについては、15年にわたって解消できませんでしたが、「量的・質的金融緩和」のもとで、デフレの脱却は確実に視野に入ってきました。すなわち、日本経済は、バブル経済の2つの「負の遺産」の清算を終え、およそ四半世紀振りに前向きな競争のスタートラインに立とうとしているのです。

ここで私が強調したいのは―やや意外に感じられるかもしれませんが―こうした日本経済の状況は、主要先進国の中でも有利であるという点です。グローバルな金融危機の震源地となった米欧では、金融危機の後遺症である過剰債務(debt overhang)のもとで債務水準は1990年代に比べて高く、日本の経験からも示唆されるように、全体としてなおデレバレッジのプロセスが続くと考えられます(図表7)。

もちろん、日本経済は、新興国の台頭によるグローバルな競争の激化や、高齢化の進展に伴う労働力人口の減少といった各種の構造的な問題に直面しています。しかしこれらの多くは、主要先進国に共通する課題です。「負の遺産」の清算を終えた日本経済にとっては、前向きな支出活動に取り組み、他国に先んじてこうした構造的な課題に立ち向かえる好機と言えます。以下では、今後の大きな課題である「生産性の伸びの低下」と「労働力人口の減少」への対応について、申し上げたいと思います。

我が国において、バブル経済の後遺症が長引くもとで、生産性の伸びが大幅に低下してきたことは広く知られていますが、図表8が示すように、先般の金融危機以降、米欧先進国も同様の問題に直面しています。最近の労働生産性の伸び率には、日米欧で目立った差はみられません。米欧において、今後、長期にわたって成長の低迷が続くのではないかという所謂「長期停滞論」(secular stagnation)が議論されているのは、こうした背景に基づくものです。

生産性の伸びの低下が世界的な現象であることは事実ですが、私自身は「長期停滞論」には幾分懐疑的です。近現代における世界経済の歴史を振り返ってみると、生産性の伸びは必ずしも直線的ではなく、高成長の時期と低成長の時期が繰り返されているように思います。1970年代にも、生産性の伸びが世界的に低下しました。その原因については、政策当局者や経済学者の間で、オイルショックの影響や技術革新の枯渇など活発な議論が行われました。議論はいまだに決着していませんが、はっきりしていることは、振り返ってみると、生産性の停滞には一時的な面があったということです。特に、米国経済について、1980年代に国際競争力が低下し、貿易赤字・財政赤字の「双子の赤字」に悩まされた後、1990年代後半から2000年代初頭にかけては、いち早くIT革命の果実を享受して生産性の大幅な引き上げに成功し、「繁栄の90年代」(roaring nineties)と呼ばれたことは、記憶に新しいところです。こうした長期的な視点に立てば、現在の世界的な生産性の伸びの低下についても、リーマンショック後に低下した各国の企業のコンフィデンスが回復する中で、企業家の創意工夫やイノベーションによって乗り越えられるものだと考えています。そして日本経済にとっては、各国が一線に並んだ今が反転攻勢のチャンスです。

労働力人口減少への対応については、そのペースが他国を上回る我が国では、特に喫緊の課題です。これは、個々の企業レベルでは、人材の奪い合いが激化することを意味しています。この3年間、女性や高齢者などの労働参加が増加していたにもかかわらず、人手不足は深刻化しました(図表9)。今よりも多くの企業がデフレ期のマインドセットから転換し、積極的な行動を採ることになれば、人材をめぐる競争はもっと激しくなるでしょう。労働市場や働き方の改革など政策的な対応についても、個々の企業の人材確保についても、時間的な余裕はありません。

設備投資と人材への投資をどう組み合わせて、経営資源の最適な配分をグローバルに実現していくのか、これは皆様が日々深く考えておられる経営戦略そのものだと思います。私に付け加えられることは多くは無いのですが、ひとつだけ申し上げるならば、私には、世界の情勢と日本の環境は、「今、決断すべき時期になってきているのではないか」と、私たちの全てに迫っているように思えてなりません。私は、日本の企業や家計がデフレ期のマインドセットの中に沈んだままで動いていないとは全く思っていません。「量的・質的金融緩和」のもとで、デフレマインドは着実に転換してきています。海外子会社の投資やM&Aなどを含めれば積極的な投資を実践している企業や業種もみられます。皆様の中にも、既に行動を起こされている企業はたくさんあると承知しています。むしろ、日本経済の置かれた状況を考えれば、そうした積極的な動きをさらに拡げていくべき重要な時期、クリティカルな時期にある、と申し上げたいのです。

5.量的・質的金融緩和を補完するための措置

こうした認識を踏まえ、日本銀行では先週の金融政策決定会合において、いくつかの新しい措置を導入しました。まず第1に、日本銀行は「量的・質的金融緩和」の中で年間約3兆円のペースでETFの買入れを行っていますが、これに加えて3,000億円の買入れ枠を新設し、「設備・人材投資に積極的に取り組んでいる企業」を対象とするETFの買入れを行うこととしました。新たな枠に基づくETFの買入れは、来年4月から開始する予定ですが、当初は、JPX日経400連動型のETFを買入れることとします。今後、新たな株価指標やファンドの組成に向けて、市場関係者において前向きな取り組みが進んでいくことを期待しています。具体的な買入対象基準の策定に当たっては、市場関係者からのご意見なども参考に幅広い観点から検討を進める予定ですが、設備投資額や雇用者数・給与支払額といったことだけでなく、生産性・効率性の向上に努めている企業や、働きやすい職場環境作りに積極的に取り組んでいる企業など、様々な観点・アイデアがあるのではないかと思います。資本市場の役割は、将来の収益を生み出す力のある企業を評価し、そこにリターンを求める投資家と結び付けることにあります。我々の買入れは市場の規模に比べれば大きな金額とは言えませんが、企業の皆様にも、ひとつの問題提起として受け取って頂ければと存じます。

また、2010年から実施している成長基盤強化支援資金供給についても、「設備・人材投資に積極的に取り組んでいる企業」に対する投融資について、より利用しやすい制度とすることを検討しています。政府では、「生産性向上設備投資促進税制」や「所得拡大促進税制」など、設備・人材投資を促進するための各種の優遇税制を実施されていますが、こうした制度の適用対象企業に対する投融資について手続きを簡素化することなどを予定しています。

日本銀行は、2%の「物価安定の目標」の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで、「量的・質的金融緩和」を継続します。今後とも毎回の金融政策決定会合において、経済・物価の現状と先行き、様々なリスク要因、金融資本市場の動向などを十分吟味し、政策判断を下していきます。そして、2%の「物価安定の目標」の早期実現のために必要と判断すれば、躊躇なく対応します。先週の金融政策決定会合においては、この面でも対応を行いました。すなわち、日本銀行は「量的・質的金融緩和」のもとで大量の国債などを買入れていますが、こうした資産買入れをより円滑に進めることができるようにしました。具体的には、日本銀行が多額の国債買入れを進めるもとで、金融機関の国債保有額は減少しています。金融機関にとって、国債は日本銀行からの借入や市場における各種取引の担保として用いられているため、担保不足を指摘する声が聞かれていました。こうした状況を踏まえ、金融機関の外貨建て証書貸付債権を新たに日本銀行の適格担保とするとともに、住宅ローン債権について、債権流動化に当たって民間実務で広く行われている方法を参考に、多数の住宅ローンを一括して信託受益権としたうえで担保として受け入れる制度を導入することとしました。この点に関連して、一点お願いですが、日本銀行は従来から円建ての「企業向け証書貸付債権」を担保に金融機関に貸出を行っています。ただ、担保差し入れに当たっては、債務者企業からの異議なき承諾が必要となりますので、取引先金融機関から要請があったときには、ご協力頂ければと存じます。

また、日本銀行は、保有国債の残高が年間約80兆円のペースで増加するよう国債買入れを行っていますが、来年は、今年に比べて保有国債の償還額が増加するため、グロスベースでの買入れ額が増加する見通しです。こうしたもとで、国債市場の流動性に配慮しつつ、買入れをより柔軟かつ円滑に実施するために、国債買入れの平均残存期間を従来の「7年〜10年程度」から「7年〜12年程度」に長期化し、かつ幅をもたせることとしました。

こうした一連の措置は、それ自体は所謂「追加緩和」ではありませんが、資産買入れを一層円滑に進めることを可能にすることで、先行き「量的・質的金融緩和」をしっかりと継続し、また、必要と判断した場合に「調整」することができるようにするものです。

6.おわりに

「量的・質的金融緩和」を導入して2年半が経過しましたが、当初は、デフレからの脱却や2%の「物価安定の目標」の実現について、多くの人が懐疑的でした。今なお、懐疑的な方々もいらっしゃるかもしれません。しかし、さきほど図表4でお示ししたように、「量的・質的金融緩和」のもとで、景気・物価のトレンドは明確に反転しました。これは、疑問を挟む余地のない事実です。

ローマ時代に遡ることわざに、“Fortune favors the bold”、「幸運は勇者を好む」がありますが、転換期を迎えた現下の日本経済に非常に相応しい金言であると思います。来年は、新たな成長のステージに向けて行動すべき年になると考えています。

最後に、日本銀行として、デフレから脱却し、2%の「物価安定の目標」を実現するために「できることは何でもやる」ということを改めてお約束して、締めくくりとしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。どうか良いお年をお迎えください。