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【講演】金融政策と構造改革

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ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳

日本銀行副総裁 中曽 宏
2016年2月12日

目次

はじめに

このようにジャパン・ソサエティでお話をさせていただく機会を得て、大変光栄に思う次第です。

わが国で資産バブルが崩壊してからすでに20年以上の月日が経過し、経済、金融面で様々な問題が発生しました。この間、中央銀行員として、こうした問題への対処に明け暮れながら、私自身のデフレ克服に対する思いは強まるばかりでした。これとともに最近強く感じているのは、潜在成長率を引き上げることがいかに重要であるかという点です。本日お話ししたいことは、まさにこの点にあります。

潜在成長率を引き上げることの重要性は、何もわが国に限った話ではなく、他の先進国にも同様に当てはまるものだと思います。わが国が経験してきた潜在成長率の低下は、他の国でも起こりつつあることだからです。実際、わが国が経験してきたことを振り返ることで、対処すべき問題の本質が明らかになると思います。

これから、潜在成長率の低下に対してどのように対処すべきか、特に、需要サイドからみた景気刺激策と供給サイドからみた構造改革との関係に焦点を当てながら、お話ししたいと思います。その後、こうした諸施策がこれまでのところどの程度進捗したかを評価しようと思います。

潜在成長率の低下

まずは、わが国の今後の経済成長を展望してみたいと思います。

わが国の潜在成長率は趨勢的に低下しており、日本銀行の推計によると、ゼロ%台前半ないしは半ば程度となっています。潜在成長率がこれくらい低くなると、経済にわずかな負のショックが生じるだけで、―これには、統計上の誤差の発生も含みますが―、計測上、GDPがマイナス成長に陥りやすくなってしまっています。ご承知のとおり、成長率は、労働投入の伸びと労働生産性の伸びに分けることができますが、長い目でみて、どちらの要因も成長率の押し下げに寄与しています(図表1)。

こうした潜在成長率の低下傾向は、いつまで続くのでしょうか。もし続くのであれば、これにどのように対処すればよいのでしょうか。ことの重要性についてだいたいの勘所を持っていただくために、ここで政府が目標とする2%の実質成長率を実現するに当たっての簡単な試算をお示ししたいと思います。図表2では労働参加の前提が異なる2つのシナリオを示しています。ひとつは、「現状維持シナリオ」で、将来の労働参加率が現状のまま維持されると仮定しています。もうひとつは、「楽観シナリオ」です。「楽観シナリオ」では、(1)女性の労働参加率がスウェーデン並みに上昇する、(2)全ての健康な高齢者が、退職年齢を問わず働き続ける、との2つの仮定が設けられています。このうち2つ目の仮定は、例えば、わが国の80〜84歳の高齢者のうち約60%が「問題なく日常生活を送っている」と回答していることを踏まえたもので、ここでは、こうした健康な高齢者が皆働き続けることを仮定しています。この仮定がどのくらい現実的かという問題はさておき、「楽観シナリオ」によれば、労働投入は年間+0.5%程度増加することになるため、労働生産性が+1.5%上昇すれば、2%の経済成長を実現できる計算になります。「現状維持シナリオ」では、労働投入が年間−1%で減少し、2%の経済成長を実現するには労働生産性が+3%上昇する必要がありますので、労働参加を促すことで、生産性向上の負担が随分和らぐことがおわかりいただけると思います。

「楽観シナリオ」における+1.5%の生産性上昇は、歴史的にみても国際的にみても高いといわざるを得ませんが、実現不可能とまではいえないのではないでしょうか。経済学では、経済成長を引き上げる原動力は、最先端企業のイノベーションとそれに追随する企業のキャッチアップにあると考えられています。多くの日本の製造業が技術革新の最先端にいることに疑いはありませんが、一方で、非製造業部門を中心に、キャッチアップの余地がまだ十分にあるようにもうかがえます。たとえば、日本の企業、特に非製造業では、IT投資やこれに関連する専門性が不足していることから、ITの活用という面で海外の競合相手から遅れをとっていることが指摘されています1。実際、経済全体の労働生産性の水準は、最先端とされる米国よりも約35%低いとの試算もあります(図表3)。

技術的な面でキャッチアップしている間は、経済成長率が高くなる傾向にあります。図表1で示されるとおり、1980年代までは、わが国はまさにそうした局面にありました。その後、2000年代に入っても、G7諸国の中では労働生産性の伸びが高く、わが国はまだキャッチアップの過程を完全には通り過ぎていないことを示しているのかもしれません。

いずれにしても、この簡単な計算で、潜在成長力の引き上げには労働生産性の改善が鍵を握ることが明らかだと思います。とりわけ、人口減少が予想されるわが国のような経済では、生産性の改善に資する構造改革が一段と重要になると考えられます。

  1.   1  K. Fukao, T. Miyagawa, H. K. Pyo, and K. H. Rhee (2012), "Estimates of Total Factor Productivity, the Contribution of ICT, and Resource Reallocation Effects in Japan and Korea," in M. Mas and R. Stehrer (eds.), Industrial Productivity in Europe: Growth and Crisis, Edward Elgar Publishing.

長期停滞仮説

こうした潜在成長率の低下は、中央銀行にとって何を意味するのでしょうか。

第一に、潜在成長率の低下は、「他の条件を一定とすれば」、需給ギャップのマイナス幅が小さくなることを意味します(図表4)。需給ギャップの変化は、実質GDP成長率から潜在成長率を引いたものと定義されますから、これはこの定義式を単に言い換えているにすぎません。1997年から1998年にかけて金融不安が高まった際、大恐慌が発生した1930年代の米国のように、わが国はデフレスパイラルに陥るのではないかと懸念されました。しかし、その後の消費者物価指数の伸び率は、最悪期でも−1%程度に過ぎませんでした2。このように緩やかなデフレにとどまったのは、潜在成長率の低下に伴い、需給ギャップの悪化が当時思ったよりも小さかったことが挙げられます。しかしながら、皆様を混乱させてしまうようで申し訳ないのですが、この点、話はもう少し複雑です。後ほど、「他の条件が一定でなければ」、潜在成長率の低下は需給ギャップをむしろ悪化させる可能性があるということをお話しします。

第二に、潜在成長率の低下は、均衡実質金利ないしは自然利子率が低下することを意味します(図表5)。均衡実質金利とは、経済が均衡状態にあるとき、―たとえば労働市場は完全雇用となり、インフレ率は目標インフレ率に達するようなとき―、に実現するであろう実質金利を意味し、概念上、政策金利にとっての道しるべともなるものです。理論的には、潜在成長率が低下すると均衡実質金利も低下することになりますので、緩和スタンスを維持するためには、ゼロ金利制約がない限り、中央銀行はその分政策金利を引き下げることになります。

近年、日本だけでなく、ここ米国を含む他の先進国でも、均衡実質金利の低下にまつわる議論が盛んになされています。この議論は、ご案内のとおり、サマーズ教授によって提唱された長期停滞仮説(Secular Stagnation Hypothesis)に端を発しています3。現在、学界、政策当局、金融市場の多くの識者の間で、(a)観察される均衡金利の低下は、時間の経過とともに巻き戻される一時的な現象ではなく、ある程度永続的なものととらえるべきかどうか、(b)その理由は何なのか―潜在成長率の低下はもちろん、投資・貯蓄における選好の変化など様々な仮説が挙げられています―、そして(c)多くの先進国で政策金利がゼロとなる中、この問題にどう対処するべきなのか、といった点が議論されています4

  1.   2  インフレ予想と自然利子率がともに低下したために、緩やかとはいえ長きにわたって物価下落が続く「デフレ均衡」に日本経済が陥ったことについては、H. Nakaso (2014),"The Conquest of Japanese Deflation: Interim Report," Remarks at the Athens Symposium "Banking Union, Monetary Policy and Economic Growth"で論じています。
  2.   3  L. H. Summers (2014), "U.S. Economic Prospects: Secular Stagnation, Hysteresis, and the Zero Lower Bound," Business Economics, vol. 49(2), pp. 65-73.
  3.   4  この点に関する中銀関係者の最近の発言としては、以下のものがあります。A. Haldane (2015), "How Low Can You Go?," Speech given at the Portadown Chamber of Commerce, and S. Fischer (2016), "Monetary Policy, Financial Stability, and the Zero Lower Bound," Speech at the Annual Meeting of the American Economic Association.

政策的含意

時間の都合上、本日は全ての論点を網羅できませんので、以下では、潜在成長率が低下するもとで、どのような政策手段が採られるべきかに絞ってお話ししたいと思います。先ほど申し上げた第二の論点にかかわりますが、長期停滞を打開するには、需要サイドからみた景気刺激策と供給サイドからみた構造改革のどちらが有効かについて論争が繰り広げられています5。均衡金利の低下は過剰な貯蓄によるものとする立場からは、金融政策や財政政策による需要喚起策が重視されています。一方、潜在成長率の低下は供給サイドの要因によるものとする立場からは、規制緩和や教育改革といった構造改革が重視される傾向にあります。

この問いへの私なりの回答は、いずれの政策も必要不可欠であるというものです。2013年1月の日本銀行と政府による共同声明もこうした考えが根底にあります。需要サイドと供給サイドの施策がともに必要である理由として、次のような点が挙げられます。

第一に、実務家サイドからすれば、こうした学術的な議論の決着を待ってはいられない点が挙げられます。景気刺激策と構造改革はいずれにせよ重要であることには間違いないでしょうから、両方を行わない理由はありません。患者に効く可能性があるのなら、あらゆる薬を試してみなければならないときもある、という発想がここにあります。

第二に、構造改革の結果、経済が短期的に痛みを伴うならば、景気刺激策によってその痛みを少しでも緩らげる必要があります。仮に、労働市場改革の実施に伴い、失業率が一時的に上昇するならば、景気刺激策によってこの上昇を抑えることなどがこの事例として考えられます。構造改革を円滑に進めていくためには、景気刺激策を採ることが理にかなっている場合があります。

第三に、経済政策を需要サイドと供給サイドに区別することが、理論上、曖昧なところがあるという点が挙げられます。すなわち、供給サイドにおける構造改革は需要を喚起する面もあると考えられます。構造改革が潜在成長率を高め、将来の不確実性を低下させると認識されるならば、企業の期待収益や家計の恒常所得が高まりますので、投資や消費といった需要が刺激されます。一方、金融緩和政策のような景気刺激策は、資本ストックや労働投入の増加を通じて、潜在成長率を引き上げる効果を持つと考えられます6

需要サイドと供給サイドの区別が難しいのは、均衡金利の低下要因を考える際にも当てはまります。たとえば、先の需要派と供給派の両陣営とも、人口増加率の低下と高齢化の進行が、自然利子率を押し下げる方向に作用していると主張しています。先ほど申し上げたとおり、供給派の立場からは、労働力人口が減少すると潜在成長率が低下しますので、自然利子率が低下することになります。需要派の見解では、若い世代は高齢者に比べてより多くの借り入れをする傾向にありますので、こうした世代の人口シェアが低下すると、借入需要が減少し、ひいては自然利子率が低下することになります7

このように、供給サイドと需要サイドの区別がそう簡単ではないという点は、ここで取り上げました長期停滞論を超えて、「経済成長と景気循環の二分法」という経済学上の伝統的な考え方を見直すというところまで、話が及びうると感じています。大まかに言って、需給ギャップがどのように変動するのかを分析する景気循環の経済モデルでは、潜在成長率を外生的に決まる所与のものとして取り扱う傾向があります。一方、潜在成長率の決定要因を分析する経済成長の経済モデルでは、需給ギャップを明示的には取り扱わない傾向があります。経済学上標準とされる経済モデルにこのような分断があるため、経済成長と景気循環の相互作用を考えることが難しいという面があります8

いずれにしても、以上の考え方は、景気刺激策と構造改革の関係は決して代替的なものではなく、むしろ補完的なものという結論につながっていくと思われます。デフレの克服に向けた金融政策と潜在成長率の引き上げに向けた構造改革は、日本経済が持続的な成長軌道に復するために、車の両輪として進められなければならないと考えるのは、まさにこうした点を理由としています。

現在の重大な局面において、中央銀行は、インフレーション・ターゲティング政策を着実に遂行することで経済を支えていく必要があります。そうした中で、金融政策は緩和的であるべきで、実際にそうなっています。図表5で示したとおり、量的・質的金融緩和政策のもとで、金利は自然利子率を十分に下回る水準に維持されています。

しかしながら、バーナンキ前FRB議長が言うように、金融政策は決して万能薬ではありません9。近年の経済成長理論などの発展をみますと、経済成長には、制度設計や経済システムといった視点が不可欠であることを認識させられます。最先端の企業がさらなるイノベーションを生み出し、生産性を引き上げることができるような制度設計が必要となっています。先ほど、わが国にとってキャッチアップが引き続き重要と申し上げましたが、結局のところ、経済成長の究極のエンジンはイノベーションにほかなりません。ここで申し上げている「制度設計」とは、経済的な側面のみならず、法律や教育など、他の社会的な側面をも含んだ概念です10。わが国の政府が、構造改革の継続を通じて、そうした制度設計面での役割を果たしていくことを強く願っている次第です。

  1.   5  L. Rachel and T. D. Smith (2015), "Secular Drivers of the Global Real Interest Rate," Bank of England Staff Working Paper, No. 571; O. Blanchard, E. Cerutti, and L. H. Summers (2015), "Inflation and Activity - Two Explorations and their Monetary Policy Implications," IMF Working Paper, WP/15/230; R. J. Gordon (2015), "Secular Stagnation: A Supply-Side View," American Economic Review, vol. 105(5), pp. 54-59.
  2.   6  D. Reifschneider, W. Wascher, and D. Wilcox (2015), "Aggregate Supply in the United States: Recent Developments and Implications for the Conduct of Monetary Policy," IMF Economic Review, vol. 63, pp. 71-109.
  3.   7  G. B. Eggertsson and N. R. Mehrotra (2014), "A Model of Secular Stagnation," NBER Working Paper No. 20574の世代重複モデルを参照。
  4.   8  J. Faust and E. M. Leeper (2015), "The Myth of Normal: The Bumpy Story of Inflation and Monetary Policy," in Inflation Dynamics and Monetary Policy, 2015 Jackson Hole Symposium: Federal Reserve Bank of Kansas City Economic Conference Proceedings.
  5.   9  B. S. Bernanke (2012), "U.S. Monetary Policy and International Implications," Speech at a High-Level Seminar sponsored by the Bank of Japan and the International Monetary Fund.
  6.  10  D. Acemoglu and J. A. Robinson (2012), Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity and Poverty, Crown Business; E. Moretti (2012), The New Geography of Jobs, Houghton Mifflin Harcourt; R. E. Litan (2011), Rules for Growth: Promoting Innovation and Growth Through Legal Reform, Ewing Marion Kauffman Foundation.

進捗評価

それでは、日本経済は、ここまで申し上げました課題克服に関して、どの程度の進捗を果たしたといえるのでしょうか。

端的にいえば、成果はあがっているが十分とまではいえない、といったところではないでしょうか。すでに成果があがっている分野は確かにあります。たとえば、子育て世代の若い女性や高齢者では、労働参加率が上昇しており、米国を超えるまでに至っています(図表6)。もっとも、次の3つの事実を踏まえると、なお多くの課題が残っているとの結論になるのではないでしょうか。これから申し上げる潜在成長率、成長期待、賃金の伸びに関する3つの観察事実は、生産性が十分には高まっていないことを示すひとつの証左といえるからです。

第一に、潜在成長率は十分に上昇していません。図表5の試算で示したとおり、潜在成長率は0.5%弱程度にとどまっています。ただし、これは、現在判明しているデータだけを用いた試算値であり、事後的にかなり変わりうりますし、そもそも潜在成長率の推移は、随分と時間が経ってからではないと十分には把握できないものです。今後、わが国が着実な成長を続けていけば、後から見れば、現在の潜在成長率はもう少し高いかもしれませんが、それでも2%に届いているとはなかなか思えません。

第二に、日本の企業は多額の貯蓄を抱え続けています。最近では史上最高水準の収益を背景に設備投資が増え始めており、12月の短観調査によれば、今年度の設備投資計画は約8.5%の増加となっています。ところが、貯蓄投資バランスをご覧いただくと、図表7の左図にお示ししているとおり、今年度上期は約15兆円(GDP対比で6%半ば)の貯蓄超過となっています。これは、企業の投資が貯蓄を上回っていた1990年代前半までとは大きく様相が異なっています。

わが国の企業が貯蓄を続ける背景には、様々な点が考えられます。例えば、近年、金融市場の変動が激しくなっていますが、経済の不確実性の高まりに備えて、企業は手許流動性を多めに確保したがっているのかもしれません。また、かつての金融不安の記憶がなおも残る中で、いざというときの資金を積み上げようとしているのかもしれません。もっとも、私自身は、図表7の右図で示しているとおり、企業の成長期待が十分に上がってこなかった点が、貯蓄超過の原因としては大きいと思っています。低い成長期待は、わが国経済の資本装備率が十分に高まらず、ひいては、将来の生産性の高まりを抑えることにもつながっていきます。

第三に、名目賃金が十分に早いペースで上昇していない点が挙げられます。名目賃金は、最近、前年比で+0.5%程度の上昇となりました。−1.5%近く下落していた数年前と比べれば、状況は大きく変化したといえます。ところが、この賃金の伸びは、2%の「物価安定の目標」はもとより、最近の物価上昇に比べても、かなり緩やかなものにとどまっています。長い目で見れば、名目賃金の伸びは生産性の伸びとインフレ率を足したものとなりますから、現在の緩やかな賃金上昇は、生産性の伸びが低いこととデフレマインドがなおも強いことを反映した結果と考えられます。この点からも、経済成長を持続していくうえで絶え間ない生産性の向上が必要であることが、改めて認識されるのではないかと思います。

その意味でも、今春の賃金交渉、いわゆる「春闘」は非常に重要なものです。この時点で春闘の結果について述べるのは早すぎますし、まだ実態は判然とはしません。賃金の上昇は、安定した消費や物価の伸びにとって不可欠であり、春闘の展開に注目しているところです。

最近の金融政策

このように構造改革は着実に前進していますが、潜在成長率を引き上げるには時間がかかります。自然利子率が低下した国の中央銀行は、それを前提にして金融政策を運営しなければなりません。先ほど申し上げたように、金融緩和とは、自然利子率よりも低い実質金利を実現することを意味します。この点、日本では、自然利子率自体が低下していることに加え、実質金利を引き下げることも難しくなりました。なぜなら、名目金利が大きく低下し、短期金利はゼロ制約に直面するとともに、インフレ期待も次第に低下していったからです。

こうした状況を打破するためには、インフレ期待を引き上げると同時に、名目金利の低下余地を最大限追求することによって、実質金利を低下させることが必要です。日本銀行が、2013年4月に開始した「量的・質的金融緩和」は、まさにこの2つの観点からブレークスルーを図ったものです。すなわち、「量的・質的金融緩和」は、2%の「物価安定の目標」に強くコミットすることによって人々のデフレマインドを転換し予想物価上昇率を引き上げると同時に、大規模な長期国債買入れによってイールドカーブ全体にわたって名目金利の一層の低下を促すことで、実質金利を引き下げることを主たる効果波及メカニズムとして想定しています。

「量的・質的金融緩和」は、所期の効果を発揮してきました。実質金利の低下は民間需要を刺激し、史上最高水準の企業収益と完全雇用といえる労働市場の状況をもたらしています。また、物価の基調も着実に改善しています。変動の大きい生鮮食品とエネルギーを除く消費者物価の前年比は、27か月連続でプラスを続けており、直近では+1.3%まで上昇しています。先行きも、メインシナリオとしては、わが国経済は基調として緩やかに拡大し、消費者物価の前年比は、「物価安定の目標」である2%に向けた上昇経路に復していくと考えています。

日本銀行は、先日、「量的・質的金融緩和」にマイナス金利という要素を付け加え、金融緩和を強化しました。このところ、原油価格の一段の下落に加え、新興国・資源国経済に対する先行き不透明感などから、金融市場は世界的に不安定な動きとなっています。このため、企業のコンフィデンスの改善や人々のデフレマインドの転換が遅延し、物価の基調に悪影響が及ぶリスクが高まっています。こうしたリスクの顕在化を未然に防ぎ、「物価安定の目標」の実現に向けたモメンタムを維持するためには、この重要な局面で、金融緩和の一段の強化が必要と判断しました。

「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入に当たっては、2つの点を重視しました。第一に、「量的・質的金融緩和」の基本的な枠組みを維持しつつ、マイナス金利を付加することです。「量的・質的金融緩和」のもとでの大規模な長期国債買入れによりイールドカーブ全体の金利低下を促すことに加え、マイナス金利によりイールドカーブの起点を引き下げることで、より強い緩和効果が生じます(図表8)。このように、「量」と「金利」は矛盾せず、相互補完的なものなのです。

マイナス金利は、欧州のいくつかの中央銀行において採用されており、日本銀行は、その知見を大いに参考にしました。もっとも、日本の特性に合わせる必要があり、欧州のマイナス金利政策の単純な移植は考えられませんでした。すなわち、日本の場合、中央銀行預金の規模が非常に大きく、今後も「量的・質的金融緩和」のもとで年間約80兆円のペースで増加していきます。そこで、金融機関の負担が大きくなり過ぎ、金融仲介機能に悪影響を与えることがないよう、日銀預金に階層構造を採用し、その増加分にマイナス金利をかけるといった、制度設計上の独自の工夫をこらしました(図表9)。

第二に、「量」・「質」に加えて、「金利」面でも拡張可能性を確保することです。必要があれば、「量」・「質」をさらに拡大することも可能であり、一部に言われているように限界が近づいているとは思っていません。これに「金利」の引き下げというオプションが加わることで、日本銀行は、「量」・「質」・「マイナス金利」の3つの次元で、追加的な金融緩和措置を講じることができるようになります。この新たな政策枠組みは、デフレからの脱却という日本銀行の任務を遂行する手段を格段に補強すると考えています。

日本銀行の取り組みは、潜在成長率の引き上げにも寄与すると考えています。日本銀行は、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を推進することで、緩和的な金融環境を提供するとともに、人々に定着してしまったデフレマインドの払拭を図っています。このことは、企業が積極的な投資や生産性向上に取り組みやすい環境作りに資すると考えています。各経済主体がこうした極めて良好な環境を最大限に活用すれば、潜在成長率は高まっていくと思います。また、実際にそうなることを、心から願っています。

結びに代えて

わが国では潜在成長率を引き上げることが喫緊の課題であり、われわれはこれを実現する責務を負っています。これは、われわれ自身のみならず、将来生まれてくる世代が希望に満ちた人生を安心して送ることができるように、やり遂げなくてはならない課題です。そのためには、需要サイドと供給サイドの政策を最大限に活用していく必要があります。金融政策については、先月末、金融緩和をさらに進めました。この際、アベノミクスの元の「第三の矢」、すなわち成長戦略は、さらに加速させる必要があると思っています。こうした取り組みは前途多難ではありますが、それがいかに困難なものであれ、結果を出さなければなりません。それにより、わが国が、潜在成長率の低下に直面した他国への、良い手本となることを望んでいます。

ご清聴ありがとうございました。