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【講演】日本経済の底力と構造改革ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの共催講演会における講演の邦訳

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日本銀行副総裁 中曽 宏
2017年10月5日

はじめに

本日は、由緒あるギルド・ホールでの講演の機会をいただき、大変光栄に存じます。ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの皆様におかれては、私ども日本銀行と、様々な分野で緊密なお付き合いをいただいておりますこと、この場を借りまして、あらためて厚く御礼申し上げます。こうした日頃の関係が、日英両国の相互理解を深めることに大きく資してきたのではないかと思います。

実は、私は、1987年から1989年まで日本銀行のロンドン事務所に勤務しておりました。その当時、シティという金融の最先端の地で、私自身、実に多くのことを学ばせていただき、生涯の友とも言える人たちとも巡り合うことができました。本日、そうした思い出のつまった当地で講演できることに対し、実に感慨深い思いを抱いております。

さて、本日は、「日本経済の底力と構造改革」と題して、わが国経済が如何にして「強固かつ持続的で均整のとれた成長(strong, sustainable and balanced growth)」を実現しようとしているのかについて、お話しさせていただこうかと思っています。その際、いろいろある構造改革の中でも、とりわけ労働市場改革に焦点を当てて、話をしたいと思っています。というのも、構造改革一般が成長にどう資するのかについては、金融政策との関係も含めて、別の機会で既にお話をさせていただいているからです1。また、最近では、人手不足は、個々の企業のみならずわが国経済全体にとって、最も大きな問題であると指摘する声がよく聞かれます。そうした中にあって、現在進行中の労働市場改革を検証することを通じて、日本経済の底力について改めて評価をしたいと思います。

あらかじめお断りしますと、本日の講演では、学問的な厳密さよりも、全体像をお示しすることを優先したいと思っています2。そのため、これから私が申し上げる内容には、暫定的な分析に基づくものや単なる推測を越えないものを含みます。そう述べたうえではありますが、本日の話は、わが国経済をみるにあたり、新たな切り口を与えるものにはなっていると考えています。また、こうした話が、同様の課題を抱える他の経済にとって、適切な政策対応を考える際の一助になれば、とも願っています。

  1. 中曽(2016)「金融政策と構造改革」ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳(2月12日、於ニューヨーク)。
  2. 今回の講演では、「生産性」と「労働生産性」をほぼ同義のものとして扱います。スライドでは、労働生産性について、一人当たり、時間当たりなど複数の定義をないまぜに使っています。

日本経済の再評価

「1990年代初頭にバブル経済が崩壊して以降、日本経済は長きにわたってずっと停滞している」というのが、わが国経済に対してお持ちのイメージではないでしょうか。こうした見方は、皆さんのみならず、広く日本人にも共有されていると思います。「日本経済同様、自分たちの生活水準はよくなっていない」という認識があるからこそ、メディアの論調は悲観的になり、日々の生活に不安を感じている人の割合が、1990年代以降、高い水準で推移していることの一因になっていると思います(図表1)。

本日の講演では、まず、こうした後ろ向きのイメージに異を唱えたいと思います。日本人には、「謙譲の美徳」という言葉があるように、「控えめであること」を良しとする風潮があります。しかし、だからと言って、日本経済の実情を不必要なまでに「控えめ」に、すなわち悲観的にみるべきではありません。

実は、海外の人々は、わが国のもつ底力を既に再発見していると思われます。訪日外国人旅行者数はこの5年間で飛躍的に増加し、世界の旅行先ランキングをみると、日本は2010年の31位から2016年には16位へと躍進を遂げました(図表2)。この勢いであれば、次回以降ランキングが更新される際には、わが国は、現在6位の英国にさらに近づいていけるのではないかとみています。外国人旅行者数が増加している背景には、為替レートなどの経済環境の変化や、ビザ発給条件の緩和といった制度面の後押しがあります。しかし、日本には私達日本人がなかなか気づいていない隠れた魅力、底力があるからこそ、外国人旅行者が引き付けられているのではないでしょうか。例えば、東京にはミシュランの星付きレストランが221軒あります。これは、ロンドン(66軒)のみならず、パリ(101軒)すらも上回っています3。そして、東京以外にも魅力的な場所はたくさんあります。私自身、仕事で世界中を飛び回ってきましたが、休暇の折には日本各地を周って、豊かな自然や素晴らしい文化、美味しい食事に巡り合えることを楽しみにしています。

また、近年の成長率を改めてみますと、日本経済が停滞しているという見方からほど遠いものがあります。2008年に発生した世界的な金融危機以降、日本の実質GDPは平均して年率1¼%で上昇しており、金融危機前とほぼ変わりません(図表3、左図)。年率1¼%という数字は、英国の成長率(2%)と比べると目覚ましいものではないかもしれませんが、日本は、他国でみられたような金融危機後に成長率がはっきりと減速するような状況には陥らなかったという点は特筆に値します(図表3、右図)。

日本経済が停滞しているという認識は、基準改定前の古い統計をベースに形成されているのかもしれません4。金融危機後の日本の平均成長率は、現在の統計では1¼%ですが、古い統計では1%でした。こうした新旧GDPの違いは、昨年12月の年次改定において、「2008SNA」と呼ばれる新しい国民経済計算体系を導入した際に生じたものです。改定の結果、日本銀行のスタッフが推計する潜在成長率は、足もとでは+½%ポイントほど上方改定され、¾%となりました(図表4)。

本日は、こうしたGDP統計を越えて、他のアプローチでも日本経済の底力を評価してみたいと思います。まず、日本の平均寿命は約84歳と、他のG7各国と比べて長くなっています(図表5、左図)。長寿であることは、日本が急速に高齢化社会となってしまった証左として悪い意味合いで語られることが多いように思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。より長く生きられるということは、もっと前向きにとらえられてしかるべきと思います。現代の平均的な日本人は、1960年代初めと比べて20年も長く人生を謳歌できるということは、決して悪い話ではありません。

労働時間についても同じような議論が成り立ちます。すなわち、私達日本人の労働時間は、いまだにG7のほとんどの国より長いとはいえ、昔に比べればずいぶんと短くなりました(図表5、右図)。他の条件を一定とすれば、労働時間が短くなりますと潜在GDPの水準低下につながりますので、日本経済にとって必ずしも好ましいことではない、という見方もありえるでしょう。しかし、労働時間が短くなれば、それだけ自分の自由な時間が長くなるのですから、これはやはり好ましいことだととらえるべきです。私が日本銀行に入った40年前と比べて、現代の日本の労働者は、平日一日当たり2時間も追加的に余暇に充てることができるようになっています5

これら2つの要素、すなわち長寿化と時短は、GDP統計には反映されません。一国の「経済厚生」を測る際には、これらの要素を考慮に入れなければならないという議論があります6。その際、経済理論的には、GDP総額ではなく、一人当たりのGDP、さらに厳密には、一人の人間が一生のうちに消費できる財・サービスや余暇の総量に基づいて、経済厚生は計算されるべきとなります7。このため、長寿化や余暇の増加は経済厚生の押し上げ要因となります。さらに加えて、通常、人々は自分が消費できる額があまり大きく振れることを好まないと思います。所得格差が拡大すると、消費可能額の変動が大きくなる可能性が高まりますので、経済厚生を押し下げることになると考えられます。

こうした点を踏まえて経済厚生を計算すると、日本経済はGDP統計が示すよりもずっと良い姿となります。2014年時点で、日本の一人当たりGDPは米国の7割未満であり、G7の中で最下位でした(図表6、左図)。一方、経済厚生をみると、日本は米国の水準にかなり近づき(米国の92%)、英国、カナダ、イタリアとだいたい同じということになります。このように一人当たりGDP対比で日本の経済厚生面での立ち位置が改善するのは、日本が他国と比べて長寿であり、所得格差が小さいことが寄与しています。

さらに、経済厚生の変化でみると、わが国の状況は他国よりも際立ってよいものとなっています(図表6、右図)。1985年以降の年平均で、日本の一人当たりGDPは+2¼%の増加にとどまっている一方、日本の経済厚生は、長寿化と余暇の増加により、+4¼%も増えており、G7の中で最も高い伸びを示しています。

  1. 3計数は2017年10月3日時点。
  2. 4日本政府は、経済統計の質の向上を目指し、「統計改革」の推進に乗り出しています。この改革を牽引する統計委員会の委員長は、私の前任を務められた西村清彦教授です。
  3. 5ここでは平日を月20日と仮定して計算しています。厳密に言えば、私が入行した時代には毎週土曜日も半日勤務していましたので、この仮定は正確ではありません。もっとも、日数の仮定が少々変わっても、自由な時間が昔より長くなったという結論は変わりません。
  4. 6Jones and Klenow (2016): "Beyond GDP? Welfare across Countries and Time," American Economic Review, 106(9), pp.2426-2457. Bernanke and Olson (2016): "Are Americans Better Off than They were a Decade or Two Ago?," Blog posted on 19 October, 2016.
  5. 7この話を数式で表すと、個人の将来にわたる予想効用は U = E ΣLifet=1βtu (ct, lt) であるとなります。ここでEは予想を示す記号、βは割引率、u( )は効用関数、ct は一人当たり消費量で、lt は余暇時間を表します。2点目(安定した消費をより好むこと)を表現するには、効用関数の形状について追加的な仮定が必要となります。

労働市場改革と生産性

このように日本経済の底力は実はもっとあるのだと評価できるのですが、わが国が深刻な問題に直面していることも免れることのできない事実です。日本は、生産年齢人口が総人口よりも速いペースで減少していく人口オーナス社会であり(図表7)、少子・高齢化の進展が、日本経済にとっての大きな重石となっています。

もっとも、日本には、追加的な労働供給の余地がまだあるという見方もできます。例えば、近年、外国人労働者は大幅に増加し、すでに百万人を突破しているうえ、今後もさらに増加することが見込まれています(図表8、右図)。女性や高齢者についても、一層の労働参加が予想されます(図表8、左図と中央図)。実際、25~34歳の女性の労働力率はここ数十年で飛躍的に上昇しており、今日では、この年齢層の女性の労働参加は米国よりも進んでいるほどにまでなっています(図表9)8

しかし、こうした労働供給の増加が見込めるとしても、労働生産性をより一層高めていく必要があります。図表10では、日本政府が目標とする2%の実質成長率を達成するために必要な労働生産性や労働力率の組み合わせを示しています。例えば、今後、女性・高齢者等の労働参加が進まないとすると、労働生産性が年率+2.9%というやや非現実的なペースで上昇しなければ、2%成長は達成しません。ここで労働参加について極端なシナリオを考え、簡単な試算を行ってみます。すなわち、(1)女性の労働力率がスウェーデン並みに上昇する、(2)自らが健康と思う高齢者は退職年齢を問わず全員働き続ける、(3)外国人労働者比率が英国並みに上昇する、という仮定をおきます。この場合でも、政府目標の達成には、労働生産性の上昇率は、1990年代以降の平均値である+1%から同+1.2%に加速する必要があります(図表10)9。こうした試算結果からは、日本のように人口が減少する国では、労働生産性の改善が如何に重要なものであるかが浮き彫りになってくると思います。

では、労働生産性の伸びを高めることは可能なのでしょうか。私は、次の3点を踏まえると、困難ではあるが見込みはある、と考えています。

第一に、日本には、生産性を高める大きな余地があります。

米国が技術進歩の最先端(フロンティア)にあると仮定すると、日本の労働生産性はいまだにフロンティアの6~7割程度にとどまっています(図表11)。同図表は、フロンティア国の技術水準に向かって、他の国々がキャッチアップしていく過程を示しているのですが、自国の生産性水準がフロンティア国より低い国ほど、生産性の伸びが高くなるという傾向があります。理由は定かではありませんが、ここ何十年で、様々な国においてキャッチアップの動きが止まり、「生産性の罠」ともいうべき状況に陥っています10。1990年代以降、日本は、英国やドイツと比べて低い生産性水準にとどまるかたちで、この罠に陥りました。多国籍に展開する日本の製造業の企業からは、国内工場の生産性は極めて競争力が高いという話が聞かれることを踏まえると、他国と比べた日本の生産性の低さは、非製造業の生産性に原因があるとみられます。また、製造業であっても、いわゆるホワイト・カラーの労働者が働く本社間接部門の生産性が影響していることも考えられます。

データはやや古いですが、同じ日本国内で、フロンティア企業とそれに追随する企業の生産性を比べると、両者の乖離が拡大しています(図表12)。これは、キャッチアップが進み、国内での生産性格差が縮小することを通じて、生産性を改善する余地が相応に残っていることを示唆しています。加えて、フロンティア企業の生産性がほぼ頭打ちとなっていることを踏まえると、国内の先端企業が世界レベルの先端企業にキャッチアップする余地もまだありそうです。

第二に、構造改革の推進により、生産性を高める余地があります。その際、特に、労働市場の流動性を高める改革が極めて重要とみています。

まず、日本の労働移動のしやすさ(労働市場の流動性)を失業プールへの流入・流出率でみると、歴史的にみても、主要国との対比でみても、低水準で推移していることが分かります(図表13)。これは、日本の労働市場が、正規雇用者・非正規雇用者で分断されているためと考えられます。流動性の水準をみると、非正規雇用者では高いものの、正規雇用者では低くなっています。労働者に占める正規雇用者の比率は低下傾向にあるとはいえ、いまだに7割程度の水準にありますので、日本全体の労働市場の流動性は低位にとどまってしまいます。正規雇用者の労働市場における流動性の低さは、経営者と労働者の間で暗黙のうちに交わされている長期雇用契約によるものと考えられます。正規雇用者は往々にして非正規雇用者よりも高い給料を得ています。こうした恵まれた地位を維持するため、足もとの労働需給がひっ迫していても、正規雇用者は雇用保障と引き換えに大幅な賃上げ要求を行うことを避ける傾向があります(図表14、左図)11。一方、非正規雇用者の賃金は労働需給に対する感応度が高く、最近では前年と比べて+2~3%程度上昇しています(図表14、右図)。

労働市場の流動性と生産性の関係をみると、流動性が高い国ほど生産性の上昇率が高い傾向にあります(図表15)。こうした相関関係をもって因果性を主張することはできません。しかし、私は、労働市場の流動性が低いことが日本の生産性の低さをもたらす一因ではないかと考えています。労働移動が活発であれば、フロンティア企業から追随企業へ、最先端の技術やスキルがよりスムースに伝播されるはずと思うからです。

日本政府は、労働市場の流動性を高めるべく、労働市場改革に取り組み始めています。例えば、「働き方改革」における「同一労働・同一賃金」への取り組みは、先ほどお話しした労働市場の分断を解消する方向に寄与するものと考えられます。こうした施策が、他の成長戦略とともに、着実に実行に移されていくことを期待しています。

第三に、最近の深刻な人手不足は、生産性を改善する契機となるということです。

日本の労働市場は極めてひっ迫した状態にあります。直近の失業率は2.8%であり、1990年代半ば以降で最も低い水準となっています。有効求人倍率などの労働需給指標は、労働市場のスラックが、1970年代前半以来の水準にまで縮小していることを示しています。

このようにタイトな労働需給環境を、日本企業はどのように乗り切ろうとしているのでしょうか。日本銀行の本店と32支店からなる調査網を駆使して、諸々ヒアリングした結果、企業の対応策は次の3つに類型化できるとみています。

1つ目の対応は、賃金も料金も引き上げるということです。ある大手運送会社は、極めて深刻なドライバー不足を解消するため、ドライバーの賃金を引き上げると同時に、配送料金の引き上げの実施も決めました。これは、目下のインフレ率からすると、望ましい動きです。しかし、こうした対応を行う企業は、運送業のほか、一部の外食チェーンといった程度で、なおさほど多くはないのが現状です。

2つ目の対応は、省力化投資を増やすということです。例えば、小売業ではセルフレジの導入が進んでいます。多くの外食店では、タッチ・スクリーンによる注文システムを取り入れており、注文に当たって店員を呼ぶ必要がなくなっています。日本銀行の短観によれば、企業の設備投資は、昨年度は約+½%増にとどまった一方、本年度は約+7%増の計画となっています。この設備投資計画には省力化投資も相応に含まれているとみています。

3つ目の対応は、ビジネス・プロセスの見直しです。例えば、一部の外食業では、人手不足を受けて24時間営業を取りやめましたし、先ほどご紹介した大手運送会社は同日配送サービスを中止しました。日本を訪れた多くの方々は、「おもてなし」というサービス ―― この言葉をどう英語で表現するかはいつも悩むのですが ―― を享受されたはずです。おもてなしは、顧客のための心を込めた特別なサービスを対価を求めることなく提供するものとされています。深刻な人手不足の中、日本の多くの企業は、おもてなしをこのまま続けるべきかどうか検討しているように見受けられます。これを機に一部のサービスの提供をやめてしまうという対応もあれば、サービスに見合った対価を求めるという対応もあろうかと思います。こうすると、売上高に直結しないサービスを提供しなくなるか、同じ労働コストにもかかわらず、サービスに課金した分、売上高が増えるか、ということになりますので、計測上、生産性は高まることになります。

個別の事例をマクロ経済全体に一般化して考えることには、一定の慎重さを要するとは思いますが、後述するように、日本の生産性は実際に高まってきています。こうしたことも踏まえると、上述の2番目、3番目の対応にみられるように、人手不足に直面した企業が、生産性を上昇させるために自発的に改革に取り組んだ結果、経済全体でも生産性が向上しているのではないかとの仮説には、ある程度の妥当性が伴うと思われます。こうした企業の自発的な取り組みは、広く労働市場改革の一環として、とらえることができます。構造改革は、何も政府によるもののみならず、民間企業による改革も含まれるはずです。さらにいえば、今後も人手不足が続く一方で、政府による改革も進捗していくならば、今後、生産性は相当程度高まることが見込まれるのではないかと思っています12。そして、まさにこの生産性の向上こそが、アベノミクスの「第三の矢」が目指してきたものです。

日本では生産性の伸びが高まってきたとお話ししました。一方で、近年、米国のみならず英国においても生産性の伸びが鈍化してきています13。この違いの背景について深く掘り下げることはできていませんが、取敢えず、次の2点は指摘できるのではと思います。1つは、日本では早くから少子高齢化が進行し、労働力がより希少な資源となっていることです。このため、日本企業には、生産性を高めるインセンティブがより強く働いているとみられます。もう一点は、すでにお示ししたとおり、日本は諸外国と比べ生産性を高める余地が大きいことです。日本企業にとっては、生産性を高めるためにできることが比較的多く残っており、米英に比して、手っ取り早く成果を手に入れることができているのではないかと思っています。

  1. 8日本では、女性の年齢別労働力率はM字型となっていました。これは、育児期に入ると、女性は労働市場からいったん退出する傾向があるためです。しかし、こうした傾向は近年弱まってきています。
  2. 9この試算は、生産性の改善の重要性を示すことを企図したものであり、ここでの仮定は必ずしも現実的なものではありませんし、また望ましいものとも限らない点は強調しておきたいと思います。
  3. 10このパズルを取り上げた研究としては、以下をご参照ください。K. Aoki, N. Hara and M. Koga (2017): "Structural Reforms, Innovation and Economic Growth," Bank of Japan Working Paper Series, 17-E-2.
  4. 11 こうした説明は、経済学ではインサイダー・アウトサイダー理論として知られています。
  5. 12ここで述べたことを敷衍すると、景気循環が長い目でみた成長トレンドに影響を与えうるということになります。経済学では、通常、景気循環と成長トレンドは互いに独立のものとして考えます。数少ない例外のひとつに、履歴効果(hysteresis)の理論というものがあり、同理論では、景気悪化の結果、失業率が高い状態が続くと、人的資本の毀損を通じて潜在成長率が低下することになります。私が述べたことは、これを逆にみたものと考えることができます。すなわち、景気好転の結果、失業率が低くなっていくと、生産性の改善に向けた企業部門の自発的な取り組みを促進し、潜在成長率を高めうるということです。履歴効果については、次の文献をご参照ください。O. J. Blanchard and L. H. Summers (1986): "Hysteresis and the European Unemployment Problem," NBER Macroeconomics Annual, vol.1 pp.15-90.
  6. 13A. G. Haldane (2017): "Productivity Puzzles," speech made at London School of Economics (March 20, 2017); S. Fischer (2017): "Government Policy and Labor Productivity," speech made at a forum by the Summer Institute of Martha’s Vineyard Hebrew Center (July 6, 2017).

労働市場改革と物価

最後に、中央銀行員としては、労働市場改革が物価動向に及ぼす影響について触れないわけにはいきません。

他の条件を一定にすれば、労働市場改革の進捗とそれに伴う生産性の向上は、一時的にはインフレ率を押し下げる方向に働きます。ここまでみてきたように、日本企業は、正規雇用者の賃金を抑えることで、賃上げを抑制してきました。この結果として、実質賃金はほぼ横ばいで推移しています(図表16、左図)。他方で、企業は、省力化投資やビジネス・プロセスの見直しにより、労働生産性を改善してきました。ここで、実質賃金と労働生産性の乖離である「実質賃金ギャップ」(実質単位労働コストまたは労働分配率に相当)をみると、近年低下してきています(図表16、右図)。このことは、実質賃金の上昇が、労働生産性の上昇ペースに追い付いていないことを意味しています。こうした実質賃金ギャップの低下により、インフレ率が-¼%ポイント押し下げされたとの試算結果もあります(図表17)。

本席は学術研究の場ではありませんので、フィリップス曲線の推計に関する技術的な細かい点を議論したり、推計の留意点を長々と述べたりすることは致しません。その代わりに、政策的含意を持ちえるものとして、以下、3つの論点を取り上げたいと思います。

第一に、長い目でみれば、価格押し下げ圧力は解消されていくと予想されるということです。

図表16の右図に戻っていただきますと、実質賃金ギャップにはゼロに回帰する傾向があることがみてとれるかと思います14。これは、長い目でみれば、実質賃金は労働生産性と等しくなるということを意味します。こう考えると、実質賃金ギャップによりインフレ率が押し下げられるのは、あくまでも一時的な現象ということになります。ただし、実質賃金ギャップがどのくらいの時間をかけて縮小していくか、「一時的」とはどの程度の長さなのか、についてまで知ることはできません。

また、先ほど、日本企業は労働生産性を一段と高めていく余地が大きいと話しましたが、日本企業がフロンティアに近づき、生産性向上の余地が小さくなるにつれ、賃金上昇を価格に転嫁し始めなければならないときがいずれ訪れるはずです。その時期は、個別業種、個別企業によって、まちまちであろうと考えられますが、より多くの企業が転換点にたどり着くにつれて、インフレ率が徐々に高まっていくのではないかと予想しています。このため、インフレ圧力が増し、2%という物価安定目標に向けたモメンタムが強まるのは、時間の問題だろうと考えています。

さらに付け加えると、生産性の上昇は需要を喚起し、中長期的にはインフレ圧力を高めていくものと考えられます。つまり、実際に生産性が高まり、日本の底力である潜在成長率が高まってきていると人々が感じ始めると、家計の恒常所得や企業の予想収益が改善するもとで、個人消費や設備投資が活発化します。また、潜在成長率の上昇は自然利子率の上昇につながるため、金融緩和効果が高まると考えられます。

第二に、ここで述べた生産性の高まりは、一義的には、供給ショックとみることができるということです。

中央銀行の世界では、供給ショックに伴う価格変動の一次的な効果は、インフレ率にパス・スルーさせてよいのではないかという考えがあります。供給ショックの典型例には、1970年代に経験したような原油価格の高騰が挙げられますが、このときガソリン価格等のエネルギー価格が影響を受けるのはある意味致し方ありません。金融政策当局にとってより問題なのは、そうした価格変動の二次的な効果として、中長期のインフレ予想が、しっかりとアンカーされなくなってしまうという事態です。供給ショックに対する政策対応については、学界でも様々な議論がありますが、議論の前提となる仮定次第で結論は変わるように思います15。ただ、政策実務者の観点からは、供給ショックの一次的な効果はパス・スルーさせる、という考え方には一定の妥当性を伴うと考えています。前述の例に戻って、原油価格の高騰を考えると、そもそも金融政策当局はOPECに働きかけて原油の生産量を引き上げさせるなど、供給ショックを直接打ち消す政策手段を持ち合わせません。また、供給ショックによる相対価格の変化は、適切な資源配分を促すという観点から、必然という考え方もあろうかと思います。このことを、今の日本経済に当てはめると、生産性上昇の供給ショックとしての側面は、二次的な効果についての懸念がないのであればその物価動向に与える直接的な影響をパス・スルーさせてもよいのではないかとも考えられます。

第三に、労働市場改革が進行し、労働市場の流動性が高まると、フィリップス曲線の形状が変化すると考えられるということです。

私ども中央銀行員は、インフレ率が、(1)インフレの慣性や適合的な予想を反映した過去のインフレ率、(2)フォワード・ルッキングなインフレ予想、(3)需給ギャップ、(4)これら3つの要因で捉えられないその他の要因(推計上は誤差項としてとらえられます)、で決定されるというフィリップス曲線のフレームワークで考えるのが通常です(図表19)。

このフィリップス曲線のフレームワークで日本のインフレ率の動向を分析すると、明確な特徴が2つ浮かび上がります(図表20)。1つ目は、インフレ率がとても粘着的だということです。これは、過去のインフレ率にかかる係数が大きい一方、フォワード・ルッキングなインフレ予想にかかる係数が小さいことを意味しています。つまり、日本は、適合的予想形成による影響が強いということです。2つ目は、需給ギャップにかかる係数が小さいということです。これは、インフレ率が経済のスラックにあまり反応しない傾向にあることを意味します。これら2つの特徴は、労働市場の分断構造を反映しているのかもしれません。労働市場が分断したもとで、正規雇用者の賃金は労働需給に反応せず、極めて適合的に変動しています。実際、毎年行われる春闘でベースアップ率を決める際、労働市場のひっ迫度合よりも過去のインフレ率の方が重視されるように見受けられます。

労働市場改革によって労働市場の流動性が高まれば、こうした特徴にも変化が生じると考えられます。労働市場の流動性が高まれば、暗黙の長期雇用契約を前提にした賃金交渉スタイルが変わるかもしれませんし、正規雇用者と非正規雇用者の分断も弱まっていくとも考えられます。この結果として、わが国の賃金は労働需給により反応しやすくなり、粘着性が低下するかもしれません。日本銀行のスタッフの分析によれば、日本の労働市場の流動性が米国並みになると、過去のインフレ率にかかる係数はかなり小さくなり、需給ギャップにかかる係数が明確に大きくなります(図表21)。この試算を前提にすると、需給ギャップが改善している経済環境のもとでは、労働市場の流動性の高まりはインフレ率の押し上げに寄与することになります。

  1. 14この点は現在、アカデミックの場で盛んに議論がなされています。理論的には、労働と資本の代替の弾力性が1を超える場合、実質賃金ギャップや労働分配率は、恒久的に低下することになり、実質賃金ギャップがゼロに戻りません。ただし、暫定的な分析ではありますが、わが国において、労働と資本の代替の弾力性が1を超えているという証左はまだないとみています(図表18)。この点については、次の文献をご参照ください。International Monetary Fund (2017): "Understanding the Downward Trend in Labor Income Shares," World Economic Outlook, Chapter 3, April 2017.
  2. 15 金融政策を巡る議論については、以下をご参照ください。J. Gali (2015): Monetary Policy, Inflation, and the Business Cycle: An Introduction to the New Keynesian Framework and Its Applications, Princeton University Press.

おわりに

ここで本日の講演をまとめさせていただきたいと思います。

私どもは、需給ギャップとインフレ予想が改善を続けるなかで、物価の基調的なモメンタムは維持されていると考えています。本席で議論させていただきましたように、かなりの確度をもって、先行き物価上昇圧力が高まっていくことが見込まれます。現在起こっている労働生産性の改善は、日本経済の底力を上げるためには、まさに必要なことです。そして、本日お話ししたように、この労働生産性は、労働市場改革の進展により、さらに引き上げられるべきと考えます。こうした観点から、成長戦略は引き続き重要です。完全雇用のもとで非常にひっ迫した労働市場は、緩和的な金融環境とあいまって、構造改革の過程で生じる痛みを和らげてくれるはずです。これらを考えあわせると、今は、日本経済の底力をさらに強化する千載一遇のチャンスということになろうかと思います。

日本銀行は、デフレからの脱却という長い道のりを歩んできました。これまでの日本銀行の政策対応を振り返ると、狙い通りの成果が得られたこともありましたが、そうならなかったことがあったことも認めざるを得ません。また、これまで何度か偽りの夜明けも経験してきました16 。しかし、私達は、過去の経験から多くの教訓を学んできたのも事実です。私には、今度こそ、真の夜明けが近いと信じるに足る、より多くの理由があるように思います。

最後に、8世紀の日本の歌人である柿本人麻呂の和歌を引用させていただきます(図表22)。「東の野にかげろひの立つ見えて」ではじまるこの和歌は、万葉集という古い歌集に収録されているもので、夜明け間近に東の空が紫色に明るくなり、月が西に沈んでいく情景を描いています。もしかしたら現在の日本経済は、この和歌で歌われている情景に近いかもしれないと私自身は思っています。朝日が差し込んできたとき長い夜の後に日がまた昇ってきたことを実感するでしょう。その時に、底力がつき、強固かつ持続的で均整のとれた成長に向けて新たな一歩を踏み出した日本経済の姿もよりはっきりと見えてくるだろうと思っています。

ご清聴ありがとうございました。

  1. 16白川(2009)「経済・金融危機からの脱却:教訓と政策対応」ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳(4月23日、於ニューヨーク)。