「生産性向上が賃金上昇に反映されなかったのはなぜか:わが国のデフレ期からの教訓」安部展弘、平野竜一郎、開発壮平(日本銀行)
Research LAB No. 26-J-2, 2026年8月14日
- キーワード:
- 賃金・生産性ギャップ、名目賃金の硬直性、トレンドインフレ、再配分効果
- JEL分類番号:E24、E52、J30
- Contact:
- nobuhiro.abe@boj.or.jp(安部展弘)
要旨
本稿では、わが国の実質賃金と生産性の乖離が拡大した背景について、デフレ期に根付いた賃金・物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行が果たした役割に着目して分析を行ったAbe, Hirano, and Kaihatsu (2026)の概要を紹介する。
わが国では1990年代後半以降、生産性が上昇する一方で実質賃金は横ばいで推移し、両者の乖離が拡大した。デフレ期には名目賃金上昇率がゼロ%近辺に集中するという強い硬直性が観察されており、生産性向上が賃金上昇に反映されにくい状況が生じていたと考えられる。理論分析によれば、名目賃金の硬直性はトレンドインフレの低下と、労使交渉において賃金よりも雇用の安定を優先する慣行の定着という二つの要因によって強まり、実質賃金と生産性の乖離の一因になっていた可能性がある。さらに、賃金の硬直性は、賃金をシグナルとした労働移動を停滞させるという負の再配分効果を通じて、経済全体の生産性を下押ししていた可能性が示唆された。
はじめに
わが国は、1990年代後半から2010年代半ばにかけて、総じてみれば緩やかではあったものの、物価が持続的に下落するデフレを経験した。長期にわたるデフレは、社会全体に「賃金・物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行」を定着させることにつながったと考えられる。こうした状況が生まれた背景には、複数の要因が絡み合っている。まず、バブル崩壊後の調整過程における慢性的な需要不足やグローバル化の進展のもとで企業間の価格競争が激化し、仕入コストや労働コスト等の上昇を販売価格に転嫁することが控えられるようになった。また、そうした不透明な経済情勢のもとで、労使双方が賃上げよりも雇用の安定を優先するようになり、名目賃金の硬直性が強まったことも大きく影響していると考えられる1。
この間、生産性は他の先進国と比べて遜色ない程度の上昇を続けていた一方で、実質賃金は横ばいのまま推移した(図1)。その結果として、実質賃金と生産性の間に大きな乖離が生じ、他の先進国と比較してもその差は顕著に拡大している2。この要因の一つとして、デフレ期に強まった賃金の硬直性により、生産性向上が賃金上昇に反映されにくくなった可能性が指摘できる。また、このように生産性向上が賃金上昇に反映されにくい環境では、賃金をシグナルとした労働移動が停滞し、いわゆる負の再配分効果を通じて経済全体の生産性が下押しされる可能性も指摘されている(植田(2023)、伊藤(2024a)、伊藤(2024b)、杉岡ほか(2024)、Watanabe (2025))。
図1. 生産性と実質賃金の推移
本稿では、わが国の実質賃金と生産性の乖離が拡大した背景について、デフレ期に根付いた賃金・物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行が果たした役割に着目して分析を行ったAbe, Hirano, and Kaihatsu (2026)の概要を紹介する。
- 詳細は、日本銀行(2024)を参照。
- 実質賃金と生産性の乖離は、一人当たりの指標ではなく時間当たりの指標を用いても、同様に拡大してきたことが確認できる。詳細は、Abe, Hirano, and Kaihatsu (2026)の補論Aを参照。
わが国のデフレ期における名目賃金の硬直性
わが国における労働者ごとにみた賃金上昇率の実績値の分布を確認すると、デフレ期には上昇率がゼロ%近辺に集中するという、強い硬直性が観察できる(図2)3。1990年代後半以降のデフレ期において賃金上昇率の分布がゼロ%近辺に集中していることは、生産性が向上しても名目賃金に反映されにくい状況が生じていたことを裏付けている。これに対し、直近のデータでは、分布全体が右方向(プラス方向)にシフトするとともにゼロ%近辺の構成比が低下しており、長年続いた賃金の硬直性が緩和しつつあることを示している。
図2. 賃金上昇率分布
次に、賃金設定行動の変化について、上下両方向の硬直性を勘案したフリクション・モデルを用いて定量的に確認する。この推計では、硬直性がなかった場合の潜在的な賃金上昇率が、物価上昇率や企業収益、労働者の生産性等に依存すると想定する。そのうえで、この潜在的な賃金上昇率が、上下両方向の閾値を越えない一定の範囲内に収まる場合には名目賃金が据え置かれ、その範囲を超えた場合に初めて名目賃金が改定される定式化となっている。推計にあたって、上下両方向の閾値は、局面に応じて変化することを許容している。
推計結果をみると、賃下げ方向の閾値――下方硬直性――は期間を通じて横ばいで推移した一方、賃上げ方向の閾値――上方硬直性――はデフレ期に明確に上昇した(図3)。下側閾値が概ね一定の値をとることは、名目賃金の下方硬直性を指摘した黒田・山本(2003)の結論と整合的である。一方、デフレ期における上側閾値の上昇は、この時期に賃上げ方向の硬直性が強まり、名目賃金が上下両方向に動きにくい状況が生じていたことを示している。これは、Elsby (2009)や平田ほか(2020)が指摘した名目賃金の下方硬直性が上方硬直性をもたらすメカニズム――将来の賃金引き下げリスクが意識される結果として、景気回復局面であっても賃上げが抑制されるメカニズム――が働いていた可能性を示唆する。
図3. 推計結果
労働者ごとに、賃金上昇率の実績値の分布と、硬直性が無かった場合の潜在的な賃金上昇率の分布を比較すると、両者はデフレ期に乖離し始めたことがわかる(図4)。1990年時点では2つの分布が概ね一致していたのに対して、デフレ期には上方硬直性の強まりにより、実績値の分布が潜在的な賃金上昇率の分布から左方向に乖離し、ゼロ%近辺にピークが形成されるようになった。2024年時点では、物価上昇率の高まり等を背景に潜在的な賃金上昇率が上押しされるなか、ゼロ%近辺のピークが解消される形で2つの分布の乖離が小さくなっていることが確認できる。
図4. 潜在的な賃金上昇率の分布
- 3ここではフルタイム労働者の所定内給与を対象としている。
デフレ期に名目賃金の硬直性が強まった背景――理論的考察
なぜデフレ期に名目賃金の硬直性が強まったのか。本節では、この問いに答えるため、企業の生産性にばらつき――異質性――があるもとでの名目賃金の下方硬直性の役割を分析したEhrlich and Montes (2024)をベースに、名目価格の硬直性を導入したニューケインジアンモデルを構築した。
本モデルでは、主に以下の2つの要因が、名目賃金の硬直性に影響を及ぼしている。第一の要因はトレンドインフレの水準――物価上昇率の趨勢――であり、これが賃金の硬直性に影響する点がモデルの核心となっている。第二の要因は労使交渉における賃金の重視度合いであり、同様に賃金の硬直性に影響する。
第一の要因に関わる仮定として、モデルでは名目賃金の引き下げには組合との困難な交渉や労働者の士気の低下といった追加的なコストが発生するという、いわゆる名目賃金の下方硬直性が想定されている。企業は、毎期確率的に変動する生産性に応じて最適な賃金を設定しようとするが、先行きにおいて生産性の悪化等により名目賃金を引き下げる可能性が意識される場合には、たとえ今期の生産性が高くても、名目ベースの賃上げをあらかじめ抑制することが最適となりうる。このメカニズムを通じて、企業の賃金設定は上下両方向に硬直的となり、生産性に見合った最適な賃金から乖離しやすくなる(図5左)。
デフレ期には、この名目賃金の下方硬直性が上方硬直性をもたらすメカニズムがより強く働く。トレンドインフレが低いほど名目賃金上昇率のトレンドも低下し、将来的に企業が名目賃金の下方硬直性に直面する可能性が高まることで、予備的な賃上げ抑制がより強く働くことになるからである。このように、トレンドインフレに依存して賃金の上方硬直性が内生的に変化するのが本モデルの特徴であり、デフレ期の日本で生じていた賃金の硬直性の変化を捉えることができる。
第二の要因に関わる仮定として、モデルでは労使交渉における賃金の重視度合いが定式化されている。すなわち、労働者は企業から提示される賃金が経済全体の平均賃金と比べてどの程度かという相対賃金を基準として、残留か離職かを判断する。相対賃金が低い場合に労働者が離職する確率が高まるが、その上昇幅――相対賃金に対する離職率の弾性値――は、労使交渉において労働者が賃金を重視する度合いに依存する。労働者が賃金を重視する度合いが強いほど、相対賃金の低下に対して離職率は急激に上昇する一方、重視度合いが低い場合には、賃金を引き上げなくとも労働者がとどまりやすく、企業にとって賃上げのインセンティブが低下する(図5右)。
図5. 理論モデルにおける労働市場の仮定
デフレ期の日本では、労働者が賃金を重視する度合いが低下していたことが複数の先行研究において指摘されている。例えば、小倉(2017)やWatanabe (2025)は、デフレ期の労使交渉において、賃上げよりも雇用の安定を優先する慣行が定着したことを指摘している。こうした慣行が広がると、企業は賃上げなしに労働者を引き留められるため、生産性が向上しても賃金に反映されづらくなり、名目賃金の上方硬直性が強まることになる。
本稿では、名目賃金の下方硬直性は時間を通じて一定である一方、賃金の重視度合いは期間を通じて変化しうると仮定した上で、モデルから導出される名目賃金上昇率の分布が、実際のデータに近づくようにパラメータを設定した。設定されたパラメータを用いて算出した賃金上昇率分布をみると、デフレ期にゼロ%近辺に集中し、2024年にかけてその集中度合いが緩和するというデータの特徴を概ね捉えられている(図6)。
図6. データとモデルのマッチング
以上の要因が実質賃金に与えた影響を、2つのシナリオによる反実仮想シミュレーションで検証する。ベースライン(実績値)に対して、(1)トレンドインフレが2%であった場合と、(2)それに加えて労使交渉における賃金の重視度合いがデフレ期以前と変わらなかった場合について、それぞれ実質賃金への影響をみると、1995年から2023年までの累積でみて(1)では+5%、(2)では+10%程度、上押しされる結果となった(図7)。この結果は、デフレ期におけるトレンドインフレの低下と労使交渉において賃金よりも雇用の安定を優先する慣行の定着が、経済全体の実質賃金を相応に下押しした可能性を示唆する。なお、図8にあるように、いずれのシナリオにおいても実質賃金と生産性の乖離が縮小しており、デフレ期における賃金の硬直性が乖離拡大の一因となっていた可能性を示唆する。
図7. 賃金水準への影響
図8. 実質賃金と生産性の乖離幅
賃金の硬直性が生産性に及ぼす影響
賃金の硬直性は、実質賃金の水準を下押しするだけでなく、賃金をシグナルとした労働移動を停滞させるという負の再配分効果を通じて、経済全体の生産性を低下させていた可能性がある。本節では、前節の理論モデルと、ミクロデータを用いた実証分析の両面からこの点を検証する。
理論的には、賃金の硬直性が緩和されると生産性に応じた労働移動が促進され、経済全体の生産性が押し上げられることが示唆される。前節のモデルでは、トレンドインフレの上昇による賃金の硬直性の緩和や労使交渉における賃金の重視度合いの高まりによって、生産性に応じた最適な賃金が設定されやすくなり、その結果として生産性の高い企業への労働移動が促されるというメカニズムが働いている4。前節と同様の2つのシナリオのもとで反実仮想シミュレーションを行ったところ、経済全体の生産性はそれぞれ(1)0.5%程度、(2)0.75%程度、押し上げられる結果となった(図9)。この結果は一定の仮定に基づく試算であり幅をもって解釈する必要があるが、デフレ期における賃金の硬直性が経済全体の生産性を下押ししていた可能性を示唆する。
図9. 生産性への影響
この理論的含意は、ミクロデータによる実証分析によっても裏付けられる。企業データを用いて生産性が相対的に高い企業群と低い企業群の雇用者数変化率を比較するとともに、その差が賃金の硬直性の有無によって異なるかを検証した。推計結果をみると、いずれのグループにおいても生産性が高い企業群の雇用増加率が大きく、かつその差は賃金が硬直的でない場合に大きいことがわかる(図10)。この結果は、賃金の硬直性が低い場合ほど、生産性が高い企業への労働移動が促進される傾向を示しており、理論モデルが想定するメカニズムと整合的な結果と言える。
図10. 生産性が企業の雇用変化率に与える影響
- 4ただし、トレンドインフレが過度に高い場合には、相対価格の歪みを通じて資源配分の効率性が損なわれ、生産性に対して負の効果をもたらす可能性がある。
おわりに
本稿の分析からは、デフレ期に根付いた賃金・物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行が、実質賃金と経済全体の生産性の双方を下押しする要因となっていた可能性が示された。トレンドインフレの低下は名目賃金の上下両方向の硬直性を強め、労使交渉において賃金より雇用の安定を優先する慣行の定着は企業の賃上げインセンティブを失わせた。さらに、こうした賃金の硬直性は、賃金をシグナルとした労働移動を停滞させるという負の再配分効果を通じて、経済全体の生産性を下押しした可能性が示唆された。これらの結果は、デフレ期に根付いた考え方や慣行からの脱却が、賃金の硬直性を緩和し、資源配分の効率化を通じて経済全体の生産性の改善をもたらしうることを示唆する。
なお、本分析は賃金の硬直性というチャネルに焦点を当てたものであり、交易条件の悪化や非正規雇用の拡大など、実質賃金や生産性に影響しうる他の要因は明示的には考慮されていない。デフレ期における実質賃金と生産性の乖離は複合的な要因によるものであり、本稿が示す効果はその一部を捉えたものと解釈すべきである。
参考文献
- Abe, N., Hirano, R., and Kaihatsu, S., 2026. What Prevents Productivity Gains from Translating into Wages: Lessons from Japan's Deflationary Period. BOJ Working Paper Series, No.26-E-12.
- Date, D., Kurozumi, T., Nakazawa, T., and Sugioka, Y., 2024. Heterogeneity and wage growth of full-time workers in Japan: An empirical analysis using micro data.(外部サイトへのリンク)Journal of the Japanese and International Economies, 73, 101324.
- Decker, R. A., Haltiwanger, J., Jarmin, R. S., and Miranda, J., 2020. Changing business dynamism and productivity: Shocks versus responsiveness.(外部サイトへのリンク)American Economic Review, 110(12), 3952-3990.
- Ehrlich, G., and Montes, J., 2024. Wage rigidity and employment outcomes: Evidence from administrative data.(外部サイトへのリンク)American Economic Journal: Macroeconomics, 16(1), 147-206.
- Elsby, M. W., 2009. Evaluating the economic significance of downward nominal wage rigidity.(外部サイトへのリンク)Journal of Monetary Economics, 56(2), 154-169.
- Watanabe, T., 2025. Japan's Chronic Deflation: Causes and Consequences.(外部サイトへのリンク)Center on Japanese Economy and Business Working Papers, 393.
- 伊藤隆敏(2024a)、「第3セッション:パネルディスカッション」、日本銀行編『「金融政策の多角的レビュー」に関するワークショップ第2回「過去25年間の経済・物価情勢と金融政策」の模様』、pp. 14.
- 伊藤元重(2024b)、「新陳代謝を阻んだ下方硬直性」、異見達見、日経ヴェリタス(2024年2月25日)、日本経済新聞社
- 植田和男(2023)、「賃金と物価:過去・現在・そして将来── 日本経済団体連合会審議員会における講演 ──」
- 小倉一哉(2017)、「賃上げについての経営側の考え方とその背景」、玄田有史編『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』、慶應義塾大学出版会、44-58.
- 神林龍(2011)、「日本における名目賃金の硬直性(1993-2006)―擬似パネルデータを用いた接近―」、経済研究、62 (4)、301-317.
- 黒田祥子・山本勲(2003)、「わが国の名目賃金は下方硬直的か?(Part II)─ フリクション・モデルによる検証─」、 金融研究, 22(2), 71-114.
- 杉岡優・伊藤雄一郎・開発壮平・高富康介(2024)、「物価変動のコスト・ベネフィットを巡る議論の潮流」、日銀リサーチラボ・シリーズ、No.24-J-4
- 日本銀行(2024)、「金融政策の多角的レビュー [PDF 14,013KB]」
- 平田渉・丸山聡崇・嶺山友秀(2020)、「賃金版フィリップス曲線のフラット化と名目賃金の下方硬直性:2010年代の経験」 、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、20-J-3
日本銀行から
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