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名目賃金の下方硬直性に関する再検証 1

—— ある程度のインフレは労働市場の潤滑油として必要か? ——

1999年11月
木村武

日本銀行から

日本銀行調査統計局ワーキングペーパーシリーズは、調査統計局スタッフおよび外部研究者の研究成果をとりまとめたもので、内外の研究機関、研究者等の有識者から幅広くコメントを頂戴することを意図しています。ただし、論文の中で示された内容や意見は、日本銀行あるいは調査統計局の公式見解を示すものではありません。

なお、ワーキングペーパーシリーズに対するご意見・ご質問や、掲載ファイルに関するお問い合わせは、論文の執筆者までお寄せ下さい。

以下には、(要旨)を掲載しています。全文は、こちら (cwp99j04.lzh 954KB [MS-Word]) から入手できます。

要旨

  •  賃金の伸縮性は、労働の効率的配分を容易にするという重要な役割を持つ。仮に名目賃金が下方硬直的であるとすれば、インフレ率が低くなると、実質賃金の伸縮性が確保されず、労働市場の調整機能が阻害され得る。したがって、名目賃金が硬直的な場合には、インフレ率がある程度プラスである方が望ましいと考えられる。物価の安定を目標とする中央銀行にとって、こうした賃金の下方硬直性が存在するか否かという問題は、ゼロインフレを目指すべきか、ある程度のインフレを許容すべきかを判断する上で、重要な論点の一つとなる。
  •  日本では、90年代半ば以降、ゼロインフレが続いているため、「名目賃金の下方硬直性が存在しているのか」という点を検証する上で、最適なサンプル国といえる。にもかかわらず、賃金の下方硬直性に関する分析は、ごく限られたものにとどまっている。本稿は、こうした問題意識から、主に産業ごとのデータを使って、日本における名目賃金の下方硬直性を検証したものである。 具体的には、マクロ・ミクロのショックに対して、名目賃金変化率がどのように反応するか、賃金変化率がゼロ近傍ではショックに対する反応度合いが小さくなるか、という点を検証すべく推計を行った。その結果は、「97年までのデータを使用すると名目賃金の下方硬直性が確認された一方で、それに98年のデータを加えると、そうした硬直性は統計的に棄却されるようになった」というものである。このような97年までの賃金の特性とそれが98年を境に変化した理由について、明確な解答を見出すことは困難であるが、本稿では、以下のように、日本の雇用システムの特性と関連付けられると考えた。 日本の雇用システムの特徴の一つとして年功賃金体系が挙げられるが、そうした体系は、「若年時に生産性を下回る賃金しか支払わない一方、中高年時にはその分を還元する」という「暗黙の契約」が結ばれていることを意味している。中高年層はそれを前提に生活プランを立て、住宅ローンなど名目固定的な契約を結んでいるとすれば、賃金カットは彼らの生活に大きな影響を及ぼすこととなる。こうしたことなどから、とくに中高年層は賃金カットには抵抗が強く、したがって名目賃金は下方硬直的となり易い可能性が指摘できる。この点、年齢別データが利用可能な97年までの期間で、年齢別に下方硬直性を検証すると、中高年層において強い硬直性が確認された。 この考え方をベースにすれば、98年に下方硬直性が消えた理由としては、能力給の導入などにより、年功賃金体系の本格的な修正が始まったという可能性が指摘できる。ただ一方で、マイナスショックが余りにも大きかったために、緊急避難的に賃金が引き下げられたに過ぎない可能性もある。いずれの仮説が正しいかは、現時点では判断できない。
  •  年功賃金体系の行方はなお不透明なだけに、名目賃金の下方硬直性が完全になくなったとみるか、ある程度残存しているとみるのか、予測は困難である。それだけに、金融政策へのインプリケーションを導くことも容易ではないが、今後も、こうした賃金の下方硬直性に関する分析を進めていくことは重要と考えられる。
  1.  本ペーパーは、Kimura and Ueda[1997]の分析フレームをベースにし、(1)使用データの拡充(「賃金センサス」と「毎月勤労統計」)、(2)サンプル期間の延長(前者は97年まで、後者は98年まで)、(3)推計モデルと推計手法の改善、の3点で分析の改善を施したものである。作成にあたっては、植田和男氏(日本銀行審議委員)から有益なコメントを頂いた。なお、本論文中で示された内容や意見は筆者個人に属するもので、日本銀行の公式見解を示すものではない。

以上