【挨拶】情報技術と金融—中央銀行の視点—第1回FinTechフォーラムにおける挨拶
日本銀行総裁 黒田 東彦
2016年8月23日
目次
はじめに
日本銀行の黒田でございます。本日は第1回FinTechフォーラムにお集まり頂き、誠にありがとうございます。
1.情報技術と金融
本日のフォーラムは「情報」と「金融」の問題を取り上げていますが、金融はそれ自体が、人類が産み出したさまざまな情報技術の集積ともいえます。
歴史を紐解いても、金融は、その時々の情報技術の進歩に支えられ、発展を遂げてきました。
まず、金融の基本的なインフラである「おかね」は、金属や紙に関連する技術を通じて価値の情報を物理的な媒体に表象し、そのやり取りや保存を可能としたものといえます。加えて、人々はおかねを通じて、さまざまな財やサービスに対し、共通の物差しに基づく「価格」という情報を紐付けできるようになりました。この価格という情報が、経済における効率的な資源配分を実現する重要なシグナルとして働いたことは、言うまでもありません。また、同様に紙に関連する技術に基づいて発展した「帳簿」や「複式簿記」は、価格などの情報の効率的な集中管理を可能としました。これにより、経済活動に関するさまざまな情報を幅広い関係者が共有できるようになりました。
金融は、まさにこれらのインフラを背景に、大きく発展してきました。すなわち、銀行貸出などの金融仲介では、帳簿や複式簿記からなる「会計」というインフラを通じて共有される企業の財務情報などが活用されてきました。また決済の面でも、近代以降の経済社会における企業間取引や証券取引は、多くの場合、預金や証券の帳簿上での移転により決済されています。
これらを「情報処理」という観点からみると、人々は決済を通じて、過去の経済活動に由来する売掛金のリスク管理といった情報管理負担から解放され、将来に向けた経済活動にリソースを注いでいくことが可能となります。また、金融仲介を通じて、人々は資金を生産性や成長性の高い分野への投資に振り向けていくことができます。このように、人類は金融という高度な情報処理の体系を築き上げることで、経済社会の発展を実現してきました。
2.現在の情報技術革新と“FinTech”
現在、情報技術は一段と急速な進歩を遂げています。インターネットやスマートフォン、SNSなどの普及により、世の中に溢れる情報やデータの量は飛躍的に増加している一方、技術革新により、このような大量のデータ、いわゆる「ビッグデータ」を迅速に処理することが可能となっています。また、決済に伴う財やサービスの取引情報などを、「ポイントカード」のような手段を通じて収集し、活用できるようにもなっています。さらに、「シェアリングエコノミー」と呼ばれる新しい経済活動も、情報技術を通じて経済社会に散らばっている遊休資源を見出し、需要とマッチングさせることを通じて実現が可能になったといえます。
冒頭に申し上げたような情報技術と金融の密接な関係を踏まえますと、“FinTech”という言葉が示すように、情報技術革新がとりわけ金融に大きな革新をもたらす可能性が注目されていることは、決して不思議なことではありません。
決済や投資判断、リスク管理といった金融の根幹をなす活動は、いずれも見方を変えれば情報処理そのものであり、情報技術やAIなどの進歩は、これらの活動全般に影響を及ぼし得ると考えられます。加えて、FinTechの代表的な技術基盤とされる「ブロックチェーン」や「分散型元帳」は、「帳簿は特定の主体が管理するもの」という従来の考え方を大きく変えるものです。金融の発展自体が帳簿というインフラに支えられてきたことを踏まえれば、帳簿の革新は、金融の形態にも大きな変化をもたらす可能性があります。
3.情報セキュリティの重要性
このように、情報技術革新やFinTechは、金融サービスのフロンティアを拡げる潜在力を持つものですが、他方で情報セキュリティの重要性を一段と高めるものでもあります。
ネットショッピングで商品の検索や購入をしていると、いろいろな商品が「お勧め」されたり、広告に現れるようになります。利用の頻度が増えるに連れて、勧められたり宣伝される商品も、ますます顧客の好みを捉えたものになっていきます。これらはまさにビッグデータの高速処理により可能となった訳ですが、情報技術を通じて個々の顧客の属性を詳細に洗い出すことが可能となっていることは、逆に言えば、万が一にもこのような情報が悪用されれば、その影響は、利用者の心理面への影響も含め甚大となり得ることを意味します。
また、情報技術の進歩が、ハッキングやサイバー攻撃などの手口をますます巧妙にしている面もあります。とりわけ、ネットワークがグローバルに拡がっている金融の世界では、ひとたびそうした攻撃による侵害がどこかで発生すれば、その影響は国境を越えて拡散し得ることになります。本年初に発生した、バングラデシュ中央銀行の預金が不正に海外送金された事件は、まさにそうしたリスクが顕在化した事例と言えましょう。
FinTechの発展にとっても、情報セキュリティへの対応は鍵となります。FinTechの特色としては、ビッグデータやAIなどを活用した高度な情報処理とともに、インターネットやスマートフォンなど、金融サービスにアクセスできる「媒体」の拡大も挙げられます。このように、金融のネットワークが従来よりも「オープン」な形になっていくことは、顧客利便性に寄与し得る一方で、サイバー攻撃などの潜在的ターゲットも増えることになります。すなわち、「金融ネットワークのオープン化」と情報セキュリティをいかに両立させるかは、FinTechの発展にとって大きなチャレンジです。
もともと金融は、決済や資金仲介などを通じて、空間や時間を超えた経済主体の「繋がり」を生み出すことで付加価値を創り出す情報処理のプロセスとみることができます。このような繋がりは、常に「信頼」によって支えられます。この、信頼の重要性は、FinTechにおいても変わりません。したがって、FinTechの発展のためには、人々のニーズに応える新しいサービスに積極的に取り組む姿勢とともに、金融サービスへの信頼をしっかりと維持していくことも求められます。仮にFinTechに関して情報セキュリティの問題が頻発するようなことが起これば、たとえそれが一部の業者に限られるものであったとしても、FinTech全体への人々の警戒感につながり、その発展が阻害されることになりかねません。
また、FinTechの基盤となる情報技術を磨くことによって、情報セキュリティや金融取引の安全性向上にも貢献できるはずです。例えば、金融取引の伝統的な認証手段である印鑑や暗証番号には、盗難や忘失といったリスクも伴います。この点、例えば新しい技術を用いた生体認証は、これらのリスクに対処し、セキュリティの強化に寄与し得ると考えられます。このように、技術革新をセキュリティ向上に結び付けていく関係者の取り組みを通じて、利用者が「FinTechは金融を便利にするだけでなく、金融取引の安全や安心にも役立つもの」と捉えるようになれば、その発展は大きく後押しされることになるでしょう。
4.日本銀行の取り組み
FinTechは、中央銀行との関連でも幅広いインプリケーションを持ちます。決済や金融サービスへの広範な影響は言うまでもありませんが、FinTechがeコマースやシェアリングエコノミーなど各種の経済活動を刺激するといった実体経済への影響も注目すべきポイントです。また、FinTechと、暗号技術など先端技術が相互に影響を及ぼし合うことも考えられます。さらに、FinTechの健全な発展を促す上では、金融リテラシーや金融教育も重要な意味を持ちます。加えて、日本銀行としては、将来的に自らの業務にFinTech技術を活用する可能性も含め、調査研究を進めて行く必要があると考えています。
このようなFinTechの幅広いインプリケーションを踏まえ、日本銀行は本年4月、決済機構局内に「FinTechセンター」を設立しました。さらに、同センターを事務局とし、行内の関係部署が幅広く参加する「FinTechネットワーク」を形成し、FinTechに関する情報や知見の共有を図ることとしました。日本銀行としては、FinTechの健全な発展を支援するとともに、これが金融サービスの利便性向上や経済活動の活性化に結び付いていくよう、中央銀行の立場からなし得る最大限の貢献をしていく考えです。
本日のフォーラムには、実に多様な主体にお集まり頂いていますが、歴史を振り返っても、金融業や複式簿記などの発達には、ルネサンス期の国境を越えた交易など、多様な文化間の交流が大きなきっかけとなりました。同様に、FinTechという新しい金融サービスが発展を遂げていく上では、IT産業や流通業、スタートアップ企業など、従来の金融業の枠を超えた幅広い主体間での前向きかつインタラクティブなコミュニケーションがきわめて重要と考えられます。本日のフォーラムが、皆様にとって新たな知見や視点を得る場となりますことを期待して、私からのご挨拶とさせて頂きます。
ご清聴ありがとうございました。