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【挨拶】日本銀行金融研究所主催2017年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2017年5月24日

1.はじめに

おはようございます。今年で23回目となる日本銀行金融研究所の国際コンファランスに、ご来賓の皆様をお迎えすることができ、大変光栄です。コンファランスの主催者を代表し、この場にいらっしゃるご来賓の皆様方、特にこの1日半のコンファランスのために遠方からここ東京までお越し下さった方々に、心から感謝申し上げます。

今年のコンファランスのテーマは「金融政策:教訓と課題」です。私からのご挨拶の後、ベン・バーナンキ前FRB議長に、ご本人の研究者として、また金融政策当局者としての経験に基づき、前川講演を行って頂きます。本日午後には、日本銀行金融研究所の海外顧問の一人であるマーク・ガートラー教授から基調講演を頂きます。また明日のプログラムの最後に、シカゴ連銀のチャールズ・エバンス総裁、ECBのフランク・スメッツ総局長、そして私の同僚である日本銀行の中曽宏副総裁の3名をパネリストに迎え、政策パネル討論を行います。パネル討論では、もう一人の海外顧問であるマービン・グッドフレンド教授がモデレータを担当されます。さらに、3人の優れたエコノミストから、金融理論と金融政策実務の両方の最先端における喫緊かつ重要な課題についての研究報告を頂けることを、大変嬉しく思います。今年の国際コンファランスから、多くの知見が得られることを確信しています。

2.3つの主要な研究課題

では、私からは、本会議の予告編として、プログラムの中に盛り込まれている3つの主要な研究課題をご紹介することで開会挨拶に代えさせて頂こうと思います。

インフレ動学とインフレ予想の動学について

2013年4月の「量的・質的金融緩和」導入以降、日本銀行の金融政策運営における極めて重要な要素は、予想物価上昇率を引き上げ、2%の「物価安定の目標」にアンカーすることです。2016年9月に、日本銀行は「量的・質的金融緩和」政策およびマイナス金利政策を含むその他の政策効果の総括的な検証を公表しました。また、総括的な検証の補足ペーパーシリーズとして、わが国と他の先進国における予想物価上昇率の特徴についての実証研究論文を公表しました1。これらの研究には、本日の論文報告者の一人であるボストン連銀のジェフリー・ファーラー氏による、サーベイ・データを用いたインフレ予想の役割に注目したインフレ動学の分析フレームワークも含まれています2

インフレ予想について、過去数年間に多くのことを学んできたことは間違いありませんが、一方で、多くの未解明の研究課題が残されていることも事実です。例えば、インフレ予想は、かなりの程度の慣性(inertia)や持続性(persistence)を示し、そうした性質は、古くから知られている「名目価格の硬直性」を考慮したとしても、完全情報・合理的期待を仮定する枠組みで説明することが難しい点については、コンセンサスが形成されているように思います。しかし、インフレ予想が持続的な動学特性を示す背景にあるミクロ的な基礎付けについては、コンセンサスはなお形成されていません。こうした中、最近では「情報の硬直性」に焦点を当てた研究が増加しており、研究者の皆さんには、インフレ予想についての研究をさらに進展させていかれることを期待しています。

  1. 日本銀行、「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」、2016年を参照。
    西野孝佑・山本弘樹・北原潤・永幡崇、「『総括的検証』補足ペーパーシリーズ(1):『量的・質的金融緩和』の3年間における予想物価上昇率の変化」、日銀レビュー、No. 2016-J-17、日本銀行、2016年を参照。
  2. Fuhrer, Jeffrey, "The Role of Expectations in Inflation Dynamics," International Journal of Central Banking, Vol. 8, No. S1, 2012, pp. 137-165を参照。

自然利子率

2つ目の研究課題として、古くて新しいトピックと言えますが、自然利子率を挙げたいと思います。これは、やや技術的な用語を使うと、均衡実質金利と言い換えることができます。自然利子率は、マクロ経済学やマクロ経済学に関連する時系列分析において、長い間議論の対象となってきました。

例えば「金融政策スタンスは緩和的である」という場合、これは、実際の実質金利が均衡実質金利よりも低い水準に維持されていることを意味します。このとき、「均衡実質金利はどの水準にあるのか」という自然な疑問が提起されます。この疑問は、実は意外と難しい問題です。自然利子率は、厳密な動学的一般均衡モデルの中では、明確な理論的解釈が可能です。それでもなお、モデルの定式化次第で自然利子率の決定要因は変化します。いくつかの特殊なケースにおいて、自然利子率は経済全体の潜在成長率に一致することがよく知られていますが、現実問題として、常にそうなる保証はありません。また、実際に自然利子率を推計するとなると、計量経済学者は多くの技術的な問題に直面せざるを得ません。例えば、固定年限のリスク・フリー金利のデータを取得することは実際には不可能です。現実の金融市場において、絶対的に「安全(risk-free)」な資産は存在しないからです。また、消費者の時間選好率を推計することは困難であるうえ、無数に存在する消費者のうち誰の時間選好率を推計すべきかという問題に対する一意な回答もありません。

これらの困難を念頭に置きながら、中央銀行の政策当局者は、これまでもなんらかの自然利子率の推計値を使って、注意深く政策決定を行ってきました。そのうえで、中央銀行が自然利子率の水準をどう見積もるかは、近年、潜在的な影響力をますます増大させています。ハーバード大学のローレンス・サマーズ教授が提唱している「長期停滞(Secular Stagnation)」の議論が説くように、自然利子率に関する不確実性は、中央銀行による政策決定の進路を一段と見極め難くしています3。「長期停滞」仮説の詳細について、ここでは立ち入りませんが、自然利子率が近年低下してきているということ自体には異論の余地は少ないでしょう。自然利子率が低下した結果、名目金利の実効下限制約(effective lower bound)と相俟って、多くの先進国における中央銀行は非伝統的金融政策の新たな手段を導入し、細心かつ大胆な行動に踏み切ってきました。したがって、多くの中央銀行は、未だに古くからの課題に直面していると言えると考えています。

  1. 3Summers, Lawrence H., Remarks at the IMF Fourteenth Annual Research Conference in Honor of Stanley Fischer, Washington, DC, 2013を参照。
    Summers, Lawrence H., "Demand Side Secular Stagnation," American Economic Review, Vol. 105, No. 5, 2015, pp. 60-65を参照。

異質的な主体を考慮したマクロ経済学と金融政策の分配効果

3番目の問題は、金融政策と不平等に関連しています。この論点を3番目に挙げたのは、重要度が3番目だからという訳ではありません。最初に挙げた2つの論点が実質金利を通じて密接に関係している一方、この3つ目の論点は明確に異なる問題であるからに過ぎません。

まず、誤解のないようにはっきりと述べますが、金融政策はどのような意味においても分配を主目的とした政策手段ではありません。この但し書きを念頭に置いたうえで、ここでジャネット・イエレンFRB議長の言葉を引用したいと思います。彼女は「マクロ的な経済変動が社会における異なるグループにもたらす効果を政策立案者が理解し、注視していくことは重要である」と述べていますが、私もこの点について完全に同意します4

グローバル金融危機の余波の中で、批評家達はマクロ経済学や金融経済学は全く役に立たないと批判しました。こうした批判の論拠となっている誤解の1つとして、批評家達が現代的なマクロ経済学は代表的個人モデルのみに依拠しており、経済における様々な異質性から生じる重要な含意を無視していると信じていることが指摘できます。異質性の具体例として、貸し手と借り手、金融部門と非金融部門、輸入企業と輸出企業、そしてより物議を醸しやすいものとして、持つ者と持たざる者といった例が挙げられます。異質的個人モデルは、1990年代に考案されて以降、現在に至るまで拡張されてきました5。政策当局者の観点からすれば、真の問題は、異質性がもたらすマクロ的な経済変動への含意を検証するために、より扱いやすい代表的個人モデルの代わりに、異質的個人モデルを用いる必要が本当にあるか否かを考えなければならないということです。これは、適切なモデルの選択という意味で「オッカムの剃刀(Occam's razor)」が適用される古典的なケースと言えるでしょう。

この問題は、現状ではなお十分に研究が進展しているとは言えません。経済政策およびその他の公共政策がもたらす分配効果について、世論の関心が高まっていることは、皆さんもよくご存じかと思います。ただ、こうした状況においても、繰り返しになりますが、金融政策は不平等あるいは二極化といった問題に対処するために適した手段ではなく、中央銀行は引き続き、自身の政策決定がマクロ経済全体にもたらす影響に注目し続けるべきです。しかし同時に、中央銀行が金融政策の分配面にもたらす効果を無視して良いということではありません。とりわけ、金融政策が分配面に与える効果がマクロ経済全体に対してなにがしかの影響を持ちうる場合には、特にこの限りではありません。こうした問題意識のもと、中央銀行は異質な主体を扱うマクロ経済学を広く学ぶべきであり、かつ実際に、そのようにしてきたと理解しています。近年、数値計算経済学(computational economics)の分野の最先端では、異質な主体を扱うモデルの開発に関して、大きな進展がみられています。中央銀行はこうした技術進歩を真摯に吸収しつつ、こうした専門分野における先駆者たちとも肩を並べて進んでいきたいと思っています。

  1. 4Yellen, Janet L., "Macroeconomic Research After the Crisis," Speech at the 60th Annual Economic Conference Sponsored by the Federal Reserve Bank of Boston, 2016を参照。
    原文の表現は以下の通り。"…it is important for policymakers to understand and monitor the effects of macroeconomic developments on different groups within society."
  2. 5Krusell, Per, and Anthony A. Smith, Jr., "Income and Wealth Heterogeneity in the Macroeconomy," Journal of Political Economy, Vol. 106, No. 5, 1998, pp. 867-896を参照。

3.将来に向けて

それではこれより、四半世紀を超える歴史を持つ、第23回国際コンファランスを開会します。今年のコンファランスのプログラムは、今、私がお話しした3つの大きなトピックを軸に議論が展開するよう構成されています。IMFのチーフエコノミストであるモーリス・オブストフェルド教授は、約10年前、――当時、金融研究所の海外顧問として――この国際コンファランスを評して「抽象的な金融理論と実務的な政策課題の双方を高いレベルで寄り添わせ、闊達な議論ができる場」と、この部屋で述べました6。彼の言葉は、このコンファランスに対する大切な賛辞であると考えています。本年のコンファランスもこれまで同様、中央銀行のより効果的な政策運営に資する深い洞察を提供してくれるものと確信しています。

ご清聴ありがとうございました。

  1. 6Obstfeld, Maurice, "Concluding Remarks," Monetary and Economic Studies, Institute for Monetary and Economic Studies, Bank of Japan, 2008, pp. 49-57を参照。原文の表現は以下の通り。"…a venue in which abstract monetary theory and practical policy questions can comfortably be discussed in full depth and side by side."