【講演】人口減少下における日本の労働市場:ダイナミクスの変化とマクロ経済へのインプリケーションカンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムパネルセッション「転換期の労働市場の政策的含意」
における講演の抄訳
(於・米国ワイオミング州ジャクソンホール)
日本銀行総裁 植田 和男
2025年8月23日
1.はじめに
シンポジウムにご招待いただき、まずは主催者の皆様に感謝申し上げます。今年のテーマ ―「転換期の労働市場」― は、日本と関連性が高いものです。実際、日本の労働市場は大きく変化していますが、その方向性や変化の底流にある要因には、わが国に特有のものが存在しています。
1990年代初めの資産バブルの崩壊後、ほぼゼロ%の物価上昇率と経済の停滞が続いたことに加えて、労働供給の増加を企図した構造政策が採られてきたことで、わが国では、人口動態の変化から生じる労働需給の引き締まり圧力が長らく覆い隠されてきました。2013年以降の日本銀行による大規模な金融緩和は、コロナ禍後の世界的なインフレの進行と相まって、わが国の物価上昇率をプラス領域へと押し上げました。現在は賃金も上昇しており、人手不足への対応は、日本経済にとって喫緊の課題の一つとなっています。本日は、日本の労働市場で起きている変化をご説明したうえで、そうした変化とマクロの経済動向との関係についても、お話ししたいと思います。
2.人口動態のトレンド
わが国の人口動態は、多くの国々と同様、大きく2つの要素によって規定されてきました。第1に、合計特殊出生率は、1950年代に4程度から2程度まで急速に低下しました。その後、出生率は1980年代初めから再び低下し、2024年には1.15となりました。第2に、平均寿命をみると、男性は1955年の63.6歳から2024年には81.1歳、女性は1955年の67.8歳から2024年には87.1歳へと、それぞれ延びました。これらの結果、生産年齢人口は1995年をピークに、総人口はそれから遅れて2008年をピークに、減少に転じました(図表1)。
人口減少が労働市場の引き締まりや賃金の上昇につながるかどうかは、経済の様々なダイナミクスだけでなく、人口減少が家計や企業にどのように認識されるかという点にも左右されます。
図表2は、短観の雇用人員判断DIを示しています。1980年代後半から1990年代初頭にかけては、経済が過熱し、資産価格が大きく上昇するもとで、労働需給が短期的に引き締まる局面がみられました。こうした労働需給の引き締まりには、生産年齢人口が減少に転じるタイミングが近づくなか、企業がより多くの労働者の確保に努めていたことも影響しています。もっとも、バブル崩壊とその後の金融不安は、長期にわたる経済の停滞をもたらし、その後のグローバル金融危機も経済を一段と下押ししました。労働需給は、人口の減少にもかかわらず、緩和した状態が続き、2010年代半ばに大規模な金融緩和が実施されるもとで、ようやくタイト化の動きが始まりました。
3.女性とシニア層の労働参加の高まり
この間、労働力率の高まりは、人口動態の変化が労働供給に及ぼす影響を緩和する方向に作用してきました。女性やシニア層の労働力率は、2010年代初め以降、はっきりと上昇しており、生産年齢人口の減少を十分に補ってきました(図表3)。15から64歳の女性の労働力率をみると、2000年代初めは60%程度でしたが、2025年6月時点では78%に達しています。
各種の調査によれば、こうした労働力率の高まりは、政策面の対応と社会的な変化の双方に起因しています。例えば、短時間労働者に対する社会保険の適用拡大や育児・学童保育の拡充のほか、女性の雇用を支援する社会慣行の広がりが挙げられます。シニア層に関して言えば、これまでの法整備によって、企業は、65歳までの雇用機会確保を義務付けられているほか、70歳までの就業機会確保に関する努力義務も課せられています。
もっとも、労働力率の更なる引き上げ余地は限られています。実際、現在の女性の労働力率をみると、既に北欧諸国と遜色ない水準となっています。65歳以上のシニア層の労働力率も、2024年時点で25%を超える水準まで上昇しており、OECD諸国のなかでは、韓国に次いで二番目に高い水準となっています。
以下の2つの領域では、依然として労働供給に拡大余地がありますが、いずれも相応の政策的な取り組みが必要になります。第1に、現状、女性の正社員比率が50%程度と男性の80%程度と比べて低いことを踏まえると、この比率を引き上げ、労働時間を増やすことが考えられます。これを実現するためには、例えば、学童保育を一段と拡充するなどの施策が必要になるでしょう。第2に、外国人労働者に関してです。労働力人口に占める外国人労働者の比率は3%程度にとどまっていますが、2023年から2024年にかけての労働力人口の増加率に対する外国人労働者の寄与度は、50%を超えています。外国人労働者をさらに増やしていくかについては、より幅広い議論が必要になるでしょう。
4.賃金上昇の復活
続いて、賃金の動向に話題を移したいと思いますが、以下のお話は、労働市場のダイナミクスと予想物価上昇率の双方が関係します。
わが国の賃金上昇率は、労働需給が引き締まる局面が時折みられたにも関わらず、長年にわたって停滞した状況が続きました。1990年代半ばから2022年までの期間をみると、正社員のベースアップ率は、マイナス1%からプラス1%の範囲にとどまり、消費者物価(除く生鮮食品)の上昇率も、同様に弱めの動きが続きました(図表4)。このように賃金が上昇しなかった背景としては、労働力率が上昇し、労働供給が増えたことに加えて、デフレ予想が定着したことが挙げられます。そうした環境下において、企業は、競合他社は販売価格を引き上げないだろうと想定したため、コストの上昇や需要の高まりに直面した場合であっても、自社の販売価格や賃金の引き上げを抑制しました。こうした均衡から脱け出すためには、大きな外的なショックが必要だったと言えます。
コロナ禍後の世界的なインフレの進行は、こうした外的なショックとなりました。消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、2023年初めには4.2%まで上昇し、プラスの物価上昇率が続くという予想が定着し始めました。春季労使交渉では、3年連続で高い賃上げ率が実現しており、定期昇給分を含んだ今年の賃上げ率は5.25%と、34年ぶりの伸び率となりました。賃金上昇が大企業から中小企業にも広がっていることも、重要な点です。
先行きを展望すると、大きな負の需要ショックが生じない限り、労働市場は引き締まった状況が続き、賃金には上昇圧力がかかり続けると見込まれます。この間、わが国の労働市場では、労働力率の高まり以外にも、構造変化が生じています。
5.労働市場の流動性の高まり
まず、労働市場の流動性は、歴史的に低い水準だったところから高まってきています。わが国では、従来は正社員の転職が非常に少なかったため、企業は、人材係留のためにベースアップを行う圧力にほとんど晒されていませんでした。もっとも、最近では、人材確保に向けた競争が激しくなっており、図表5の左のグラフが示すように、とりわけ若い世代の間では、正社員の転職が増えています1。
賃金が上昇している点も、こうした労働移動を後押ししています。例えば、中小企業のなかには、賃上げの動きに追随できず、事業の停止や合併を選択している先もあり、その結果、労働者が転職市場に流れてきている面があります。この点、図表5の右のグラフは、生産性の低い企業から高い企業への労働移動が増えている可能性を示しており、人口動態の変化に伴う逆風を軽減しているようにも見受けられます。こうした動きは、人手不足のもとでの緩やかな賃金の上昇が、資源配分の効率性を高める方向に作用する一例と言えるかもしれません。
- 最近のわが国における労働市場の流動性に関しては、日本銀行(2025)や池田ほか(2024)を参照。
6.資本による労働代替
構造的な人手不足は、省力化投資を促進している面もあります。宿泊・飲食サービスや小売等の労働集約的な業種は、こうした動きを牽引しており、これらの業種におけるソフトウェア投資の伸びは、他の業種を上回っています(図表6)2。より広い視点でみると、省力化投資は、設備投資の重要な推進力になっていると言えます3。
この間、日本企業におけるAIの活用状況は、依然として初期段階にあることが窺われます(図表7)。先行研究では、定型的な業務は、相対的に女性や非正規労働者によって担われており、こうした業務の多くは、AIの技術によって自動化され得るとの指摘もみられています4。もっとも、わが国では、非正規労働者の比率はこのところ低下する動きがみられているものの、過去10年間における雇用者数の増加の多くは、女性の労働参加によって実現しています。AIの活用により、若年層の雇用に影響が生じている国も見受けられますが、日本では、若年層の失業率は過去30年で最も低い水準となっています。これまでのところ、AIの活用が日本の労働市場に大きな摩擦を引き起こしている訳ではありません。人口減少の影響を相殺するのに十分なほど、AIが労働力を代替できるのかどうかは、現時点では分かりませんので、今後の展開を見守る必要があるように思います。
- 2 人手不足下における最近のわが国の設備投資動向については、池田・近松・八木(2023)を参照。
- 3「金融政策の多角的レビュー」の一環として、日本銀行が実施した大規模な企業向けアンケートの結果をみると、多くの企業は、前向きな設備投資スタンスの理由として、人手不足を挙げている。詳しくは、日本銀行(2024)を参照。
- 4 例えば、De La Rica and Gortazar (2016)やBrussevich et al. (2018)を参照。
7.おわりに
本日お話ししたとおり、1980年代に始まった人口動態の変化は、このところ、人手不足感の強まりと持続的な賃金上昇圧力をもたらしています。また、労働力率の上昇、労働市場の流動性の高まり、資本による労働代替の広がりを通じて、経済の供給サイドにも大きな影響を及ぼしています。
こうした一連の動きは、労働市場の状況と賃金や物価との関係を複雑にするとみられます。日本銀行としては、今後の動向を丁寧にみていくとともに、経済の供給サイドで起きている変化に関する評価も踏まえたうえで、金融政策を運営していく方針です。
ご清聴ありがとうございました。
参考文献
- Brussevich, M., E. Dabla-Norris, C. Kamunge, P. Karnane, S. Khalid, and K. Kochhar (2018), "Gender, Technology, and the Future of Work," International Monetary Fund Staff Discussion Notes, No. 2018/007.
- De La Rica, S. and L. Gortazar (2016), "Differences in Job De-Routinization in OECD Countries: Evidence from PIAAC," IZA Discussion Papers, No. 9736.
- 池田周一郎・川野潮・高田耕平・眞壁祥史・八木智之(2024)、「人口動態の変化が労働市場や賃金の動向に与える影響」、日銀レビュー・シリーズ、No.2024-J-12
- 池田周一郎・近松京介・八木智之(2023)、「人口動態の変化が中長期的な設備投資に与える影響」、日銀レビュー・シリーズ、No.2023-J-13
- 日本銀行(2024)、「「1990年代半ば以降の企業行動等に関するアンケート調査」の集計結果について」、地域経済報告―さくらレポート―(別冊シリーズ)
- 日本銀行(2025)、「BOX3:労働需給と労働者の企業間移動」、経済・物価情勢の展望(2025年4月)