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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策大分県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2025年11月27日

1.はじめに

日本銀行の野口です。はじめに、先日の佐賀関での大規模火災でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方に心からお見舞いを申し上げます。そうしたなか、本日は、県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行大分支店の業務運営への日頃からの多大なご協力を、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日はまず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行のこれまでの政策運営についてお話しし、その後に、日本銀行が掲げている2%の「物価安定の目標」の実現に向けた今後の政策運営のあり方について、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

わが国経済は現在、1990年代初頭のバブル崩壊後からコロナ禍前までの数十年間続いたデフレあるいはゼロインフレ経済から、物価と賃金が共に上昇し続ける中で成長していく経済へと移行する、その過渡期にあるといえます。そうした中で、わが国経済では、雇用拡大による人手不足を背景とした賃上げの進展、企業収益の拡大に基づく株価の上昇、ビジネス機会の多様化による新規事業の拡大など、これまで見られなかった新しい動きが生じ始めています。他方で、コロナ禍の終了とともに始まったコストプッシュによる物価高は、家計にとっての大きな負担となり、個人消費の下押し要因となっています。したがって、わが国経済が真の意味で成長軌道に復帰するためには、人々の賃金あるいは所得が物価上昇を上回るように拡大し続けていくことが必要不可欠といえます。

わが国にとって、2020年に始まったコロナ禍とその後の世界的インフレは、大きな試練であったと同時に、結果としてはゼロインフレ経済からの離脱を強く後押しする役割を果たしました。現在のわが国にとっての最大の試練は、米国の第2次トランプ政権による関税政策です。その影響はまだ十分に明らかではありませんが、わが国経済が成長軌道へと復帰するためには、まずはそれを乗り越えなくてはなりません。

トランプ政権が本年春先以降に明らかにした新たな関税政策は、世界全体に大きな不安をもたらしました。というのは、それは事実上、より開かれた貿易こそが人々を豊かにするという、これまで当然と考えられてきた自由貿易の理念を覆すものであったからです。関税は長期的には、比較優位に基づいた国際分業を阻害し、生産活動の世界的な効率性を悪化させます。そして短期的には、貿易の縮小によって多くの国や地域の経済を下押しします。米国の場合にはさらに、関税による輸入財価格の上昇と、それによる消費の縮小がそこに加わるため、より一層の景気悪化が生じると考えられます。

こうしたことから、IMFをはじめとする国際機関は、米国による新たな関税政策の発表以降、世界経済とりわけ米国の成長見通しを、いったんは大きく引き下げました。しかしながら、それらの見通しは、その後は時の経過とともに上方に修正されていきました(図表1)。その背景の一つに、関税による米国経済への下押しの影響が、これまでのところ、当初の想定よりも小さなものにとどまっていることがあります。

米国経済への関税の影響が大きくはなっていない主な要因として、関税の販売価格への転嫁がきわめて緩慢である点が挙げられます。例えば、自動車メーカーの多くは、米国内での販売価格上昇を避けるために、輸出価格の引き下げを行いました。これは、関税を輸出側が負担していることを意味します。ただし、こうした事例は自動車などにほぼ限られ、他の品目の多くは、輸入側である米国が関税を負担しています。ただしその場合でも、そのかなりの部分は、家計ではなく企業が負っています1。これは、米国の企業の多くが、おそらく消費者への負担をできるだけ意識させないように、関税の価格転嫁を意図的にゆっくり行っていることによります。今後は関税の転嫁が徐々に進展し、企業から家計への負担の移転が進むことが予想されますが、それにはおそらく相応の時間がかかります。これは、関税による米国の物価上昇がかなりのラグをもって進むこと、その結果、消費の下押しも当初の想定よりも後ずれすることを意味します。

米国経済を下支えしてきたもう一つの要因は、AIによる成長期待の高まりです。関税に伴う景況下押しにもかかわらず米国で株価が上昇し続けているのは、その影響が大きいと思われます。米国の個人消費は関税による物価上昇の中でも底堅さを示していますが、このAIに牽引された株高が、とりわけ富裕層の消費を後押ししている面もある、と見られています。実際、AI関連投資の強さは、米国経済の成長を下支えする重要な役割を果たしています。

以上のように、米国経済が関税政策の進展にもかかわらず底堅く推移し、世界経済にも全体として変調は見られないことから、国内経済は安定を保っています。GDPの前期比上昇率(年率換算)は、物価上昇に伴う内需の弱さはみられるものの、2025年4-6月期までは緩やかな成長が継続していました。ただし7-9月期には、米国向け自動車輸出の減少、建築基準法・省エネ法改正を背景とした住宅投資の減少などによって、6四半期ぶりのマイナス成長となっています(図表2)。これらの項目が今後どの程度まで持ち直していくのかについては、注意深く見ていくことが必要です。

  1. パウエルFRB議長は2025年9月17日の記者会見で、「現状ではおそらく、関税は輸出業者ではなく彼らと消費者の間に立つ企業がほとんど支払っている」と述べています。

(2)物価情勢

わが国では、コロナ禍後に生じた世界的インフレの波及を契機に、2022年春から現在まで、消費者物価の前年比上昇率が目標とされている2%を上回る状態が続いてきました(図表3)。ただし、その物価上昇に寄与してきた項目は、時期によってやや異なります。当初は、輸入価格の急激な上昇を背景としたエネルギーや食料品の価格上昇がとりわけ大きく寄与していました(図表4)。その後、世界的インフレの収束に伴って輸入価格の上昇が緩やかになり、エネルギーや食料品の価格も落ち着き始めたことで、昨年半ば頃には消費者物価上昇率が2%から2%半ばまで低下しました。しかしそれは、食料品とりわけ米類の価格上昇を主因として再び伸びを高めていきました。その原因の一つは、食料品に関する国際商品市況などを背景とした飲食料品の輸入価格上昇です。そしてもう一つは、昨年来の供給不足を背景とした米類の価格上昇です(図表5)。

こうした食料価格上昇の背後には、当然ながら輸入食材等のコスト上昇があります。米類の価格上昇も、その直接の契機は供給不足ですが、その背後には、肥料、燃料、農機具など資材価格の高騰による生産コストの上昇があったと考えられます。こうしたコストの価格転嫁は、各所で強く顕在化し始めています。それは後述のように、ゼロノルムすなわち「価格は上がらなくて当然」という人々の通念が崩れ去っていく中で、これまで累積してきたコスト上昇を一挙に取り戻そうとする動きとして理解することができるかもしれません。

3.金融政策

(1)政策金利の調整

日本銀行は昨年3月の金融政策決定会合において、物価安定の目標が持続的・安定的に達成される見通しが十分高まったと判断して、それまでの大規模金融緩和の枠組みを見直し、政策金利である短期市場金利の操作によって金融緩和の度合いを調整する伝統的な政策枠組みに移行しました。日本銀行はその上で、短期市場金利の誘導目標を、昨年7月には0.1%から0.25%に、そして本年1月には0.5%まで引き上げました。

日本銀行は、この1月の会合以降、直近の10月会合まで、金融市場調節方針の現状維持を決定してきました。その主な理由は、4月以降に明らかとなった米関税政策の影響を十分に見極める必要があったためです。既に述べたように、この米関税の影響はこれまでのところ限定的です。今後は、関税転嫁の進展によって経済に下振れの影響がより強まっていく可能性はあるにしても、おそらくそれほど深刻なものにはならないというのが、現時点での一般的な見方です。それは日本銀行が、「経済・物価の展開が見通し通りであれば、金融緩和の度合いを徐々に調整していく」という、昨年3月以来の基本的な政策方針に立ち帰ることを意味します。その政策運営のより具体的なあり方と、その背後にある考え方に関しては、後述したいと思います。

(2)バランスシートの調整

日本銀行は昨年7月の金融政策決定会合で、大規模金融緩和政策によって低下した市場機能の回復を図るために、2026年3月までの月間の長期国債の買入れ予定額を原則として毎四半期4千億円程度ずつ減額する計画を決定しました。本年6月の会合では、この昨年7月の計画について、中間評価を行った上でその維持を決定し、さらに2026年4月から2027年3月までは長期国債の買入れ予定額を原則として毎四半期2千億円程度ずつ減額するという新たな計画を決定しました(図表6)。それらが実施されていけば、月間の国債買い入れ額は、2027年1月には2.1兆円程度に減少します。また、日本銀行の保有国債残高は、買入れ額を上回る国債の満期償還に伴って、2027年3月には買入れ減額が始まる前の2024年6月と比較して16から17%ほど減少することになります。なお、来年6月には、この2027年3月までの計画についての中間評価が行われると同時に、2027年4月以降の長期国債の買入れ方針について検討し、その結果を示す予定です。

日本銀行はまた、この9月の金融政策決定会合で、保有するETF(上場投資信託)とJ-REIT(不動産投資信託)に関して、ETFについては年間3,300億円程度のペースで、J-REITについては年間50億円程度のペースで、いずれも市場での取引価格に基づいて市場に売却する方針を決定しました。日本銀行は、2013年4月から始まった大規模金融緩和政策の一環として、資産価格のリスク・プレミアムへの働きかけを通じて金融環境をより緩和的なものにすることを目的として、ETFおよびJ-REITの買入れを行ってきました。そして、昨年3月の金融政策決定会合では、物価安定の目標を達成する見通しが得られたことから、ETFとJ-REITについての新規の買入れ終了を決定しました。しかし、その処分のあり方については、それ以降の検討に委ねられていました。9月の決定は、その検討の結果に基づくものです。

これらの決定によって、日本銀行のバランスシートは今後、政策金利である短期市場金利を確実にコントロールできるという意味での「潤沢な準備預金」を保証する最小限の水準にむけて、十分な時間をかけてゆっくりと縮小されていくことになると考えられます2。日本銀行の現状のバランスシート規模はまだきわめて大きいことから、今後それを縮小させていくべきなのは当然です。そもそも、中央銀行による市場への影響力行使は、それが物価や金融市場の安定というその基本的マンデートの達成に必要な限りにおいてのみ許容されています。その意味では、中央銀行のバランスシート規模は、基本的には必要最小限であることが望ましいといえます。他方で、中央銀行の資産売却もまた、場合によっては市場に攪乱をもたらしうることを考慮すると、その遂行は、そのリスクを可能な限り小さくするような手法や規模によって行われるべきなのです。

  1. 2 準備預金への付利金利による短期市場金利の確実なコントロールには、「潤沢な準備預金」が必要となります。それに関しては、野口旭「世界経済の変貌と金融政策の進展── 札幌商工会議所における講演 ──」2025年9月29日、4節(3)を参照して下さい。

4.2%の「物価安定の目標」に向けた政策運営

(1)目標達成への見通し

日本銀行はこれまで、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を目指して、十分に低い実質金利を維持するという意味での金融緩和を続けてきました。他方で、日本の消費者物価上昇率は、2022年春以来、目標である2%を上回り続けてきました。日本銀行がその中で金融緩和を続けてきたのは、この物価上昇には外生的要因が大きく含まれており、必ずしも持続的ではないと考えられたためです。物価上昇が十分に持続的・安定的であるためには、需要の安定的な拡大と、それに伴う名目賃金の持続的上昇が必要なのです。

日本銀行はこの10月に最新の経済・物価情勢の展望を公表しましたが、それによれば、消費者物価上昇率(除く生鮮食品)の政策委員見通し中央値は、2025年度が2.7%、2026年度が1.8%、2027年度が2.0%となっています(図表7)。つまり、政策委員の多くは、「消費者物価の伸びはこれから来年度にかけてはコストプッシュ要因の剥落によっていったん低下するが、再来年度にかけては賃金上昇の浸透などに伴って目標である2%に向けて再び高まっていく」という見通しを持っているわけです。

私自身も、この見通しを大枠としては共有しています。ただし、消費者物価の伸びはこれから全体としては低下していくものの、これまで米類を含む食料品に生じてきたように、局所的な値上げの連鎖が生じる可能性はあると考えています。それは、コスト上昇が積み重なっていけば、価格は結局のところは上昇していかざるを得ないからです。わが国ではこれまで、値上げに対する消費者の忌避感がきわめて強かったことから、多くの企業はコストが多少上昇しても値上げは極力行わず、賃金抑制などによって対応することが常態化していました。それが、賃金・物価のゼロノルムです。しかし、長い間ほとんど上昇することがなかった米類を含む一部食品価格の急上昇が示すように、需給逼迫によって上昇モメンタムがいったん生じれば、価格がこれまでのコスト転嫁の遅れを取り戻すように上昇し続けることは決して稀ではありません。そのような「埋め合わせ」型の値上げは、今後も局所的には生じるかもしれません。

上の見通しによれば、こうした過渡的な価格上昇はあったとしても、消費者物価上昇率それ自体は、今後はいったん低下していきます。問題は、そうした中でも、物価の基調は2%目標に向けて着実に上昇し続けていくのか否かです。それはひとえに、賃金上昇のモメンタムがこれからも維持されるのか否か、さらにはその勢いが中小企業や地方経済にまで浸透していくのか否かに依存します。

この賃金動向に関しては、まずは来年の春季労使交渉に向けた動きが注目されます。労働組合側の基本方針は既に、この10月末に公表された日本労働組合総連合会『2026春季生活闘争基本構想』に示されています。そこでは、これからの「賃上げノルム」のあり方として、ベースアップで3%以上、定期昇給を含めれば5%以上の賃上げの実現が、すなわち2%物価上昇を前提とすれば1%程度の実質賃金上昇の実現が、目標として掲げられています。確かに、仮に名目賃金上昇率が3%程度で安定すれば、消費者物価上昇率が2%近傍で推移する限り、わが国のこれまでの労働生産性上昇率にほぼ等しい1%程度の実質賃金上昇が持続的に実現されることになります。おそらくはそれが、わが国経済が2%目標を達成したのちに到達する定常的な状態です。

私自身は、こうした地点への到達は、見通し期間の前半は難しいにしても、おそらくはその後半、すなわち来年度後半から再来年度にかけての頃には実現されると考えています。ただしそれは、米関税による下押しの影響は今後も大きく深刻化はせず、また新たな地政学的リスク等も生じないという前提条件に基づいています。したがって、それらのリスクが顕在化した場合には、この見通しはおそらくさらに後ずれすることになります。

(2)目標達成までの政策調整のあり方

仮に物価安定目標が見通し期間の後半に達成されるとすれば、日本銀行による政策金利の調整も、それに向けた適切なペースで行われていくべきことになります。それは、「物価上昇率を目標近傍で安定させる」という意味での中立金利に、目標達成時には無理なく到達可能となるようなペースで政策金利を引き上げていくことを意味します。その政策調整のペースはおそらく、早すぎても遅すぎても問題が生じます。

政策調整のペースが早すぎる場合に生じる問題とは、物価目標達成が大きく後ずれし、最悪の場合には達成が見通せなくなるということです。消費者物価上昇率は既に3年以上にわたって2%目標を上回っていますが、特に足もとは米類や輸入食材価格上昇に基づく食料品価格上昇の寄与によるところがきわめて大きい、というのが現状です。それはさらに、「これまで値上げできなかった分を埋め合わせる」という性質を強く持っています。つまり、その価格上昇は、基本的にはコストプッシュ要因に基づく過渡的なものであり、したがって、それは事前の想定以上に長引いてはいるものの、コスト転嫁が一巡すれば収束していくはずです。他方で、賃金上昇が浸透していく中で、賃金と物価が相互に参照しつつ上昇し続けるという物価の基調的な上昇のメカニズムも徐々に強まっています。しかし、政策金利の拙速な引き上げは、その賃金上昇のモメンタムを失わせ、2%目標の達成を遠ざけてしまうリスクを孕んでいます。

政策調整は慎重に行われるべきもう一つの理由は、長きにわたるデフレやゼロインフレの結果としてのゼロノルム慣性は未だに強く、その解消には相応の時間を要すると考えられる点です。わが国経済では現在、上述のような埋め合わせ型の値上げが広範に生じる一方で、家賃のように全般的にはまだほとんど上昇していない項目も残されています(図表8)。こうした「ゼロの岩盤」的な項目も、2%インフレが十分に定着すれば、やがてはそれを織り込んで上昇していくはずです。実際、都市圏では既に、住宅とオフィスの双方で賃料の上昇が生じ始めています。しかし、それはまだ全国的な傾向にはなっていないようです。

こうした、過去における長期デフレやゼロインフレの影響が最も明確に現れているのは、インフレ期待の動向です。コロナ禍以降のインフレ局面を通して、わが国における期待インフレの各種指標は徐々に上昇してきました(図表9)。とはいえ、2%超の物価上昇が既に3年以上も続いているにもかかわらず、それらはまだ2%に届いていません。それは、コロナ禍以前の過去数十年にわたってデフレあるいはゼロインフレが続いてきた影響が、人々のインフレ期待の中に未だ残り続けていることを示唆します。その影響が払拭され、インフレ期待が2%近傍でアンカーされるようになるには、まだ時間が必要なのです。

逆に政策調整ペースが遅すぎることによる問題とは、それによって経済や物価の安定が脅かされる可能性が強まることです。中央銀行が仮に、「物価目標の完遂までは政策金利引き上げは一切行わない」という政策選択を行った場合、目標達成時点で政策金利を一挙に下限から中立金利まで引き上げない限り、インフレは制御できないことになります。しかし現実の世界では、物価上昇率の安定をもたらすようなその時々の中立金利をピンポイントで特定するのはほぼ不可能です。実際の政策運営では、自然利子率に関する様々な推計に基づいて、中立金利が含まれると思われる範囲に一定の目途を付けた上で、経済と物価への影響を確認しつつ時を置いて小刻みに利上げを行っていくのが最も現実的です。その結果、ある段階で物価安定の目途が付いたとすれば、そこがまさに中立金利の到達点です。そしてそれが、私自身の考える「ほふく前進」的な政策調整のあり方です。

仮に政策調整ペースが結果として遅れ、実質金利が中立的水準よりも低い状態が続けば、その結果は物価上昇率の目標水準からの乖離として現れることになります。実際、米国や英国では、コロナ禍後に、労働需給の逼迫による賃金上昇に牽引された高インフレが続きました(図表10)。米英の中央銀行は、当初はそれをコストプッシュによる一過性のインフレと考えていたために、政策調整が遅れ、結果として事後的に政策金利のより急激な引き上げを余儀なくされました。

わが国の労働市場構造は米英とは大きく異なるため、米英のような高い賃金上昇を背景とした高インフレは直ちには起きにくいかもしれません。とはいえ、実質金利が低すぎる状態が過度に長く続けば、その影響は為替あるいは地価や株価といった資産価格に現れてくるはずです。もちろん、金融政策の目的はあくまでも物価の安定であり、為替や資産価格それ自体の安定に向けられるべきものではありません。しかしながら他方で、為替や資産価格は、金融政策にとっての重要な波及チャネルでもあります。実際、為替が円安になれば、輸出入を通じて経済と物価を上振れさせる力が働きます。また地価や株価のような資産価格の上昇は、資産効果を通じた消費拡大や、信用の緩和を通じた投資拡大等を通じて、やはり経済や物価を上振れさせます。

重要なのは、それらのチャネルの効果が経済や物価の安定に寄与するか否かは、その時々の経済状況によって大きく異なるという点です。大規模金融緩和が開始された2013年頃が典型的ですが、高い失業率と物価下落が続いているような経済状況であれば、そこに円安や株価上昇などが生じれば、それが雇用の回復やデフレの阻止にとって大きな力となることは間違いありません。しかし、その経済的安定にとってのポジティブな効果は、経済が完全雇用に近づくほど、そして需給ギャップが縮小するほど、より薄まっていきます。そして最終的には、マクロ的供給制約の強まりにより、経済拡大の効果はほとんど消失し、物価を必要以上に上昇させるだけのネガティブな効果に置き換わっていきます。したがって、中央銀行としては当然ながら、経済における様々なチャネルの効果が経済と物価に最終的にどう働きつつあるのかを慎重に見極めながら、政策金利という手段を用いて金融緩和の度合いを適宜調整していくことが必要になるのです。

(3)過渡期としての日本経済

冒頭で述べたように、わが国経済は現在、賃金と物価の上昇ゼロが持続する経済から、それらが共に緩やかに上昇し続ける経済へと移っていく、その過渡期にあります。多少抽象的な言い方をすれば、われわれは今、一つの定常均衡から別の定常均衡への移行の最中にあるといえるのです。コロナ禍前までのゼロインフレの時代には、物価、賃金、金利は上がらないことが当然と考えられており、企業や家計は常に、それを前提として行動していました。しかしながら現在は、それらはむしろ上がっていくのが当然と考えられ始めており、そのことが企業の経営や家計の資産運用などにも大きな変化を与え始めています。

日本銀行のそこでの役割とは、適切な政策調整を通じて、その移行に伴う摩擦や混乱を可能な限り抑え、経済を新たな成長経路へと導いていくことです。ただし、航空機の運航は離着陸時が最もリスクが高いのと同様に、その調整の遂行にはおそらく様々なリスクと困難を伴います。私自身はしかし、それらを乗り越えた先には、日本経済の新しい姿が現出していることを信じて疑いません。

5.おわりに ―― 大分県経済について ――

最後に、大分県経済について、支店からの報告も踏まえてお話しいたします。

大分県は、肥沃な土地と良質な水に恵まれ、カボスや椎茸などの農産物や麦焼酎の生産が盛んなほか、潮流の速い豊後水道で獲れる関アジ・関サバなど、豊かな名産品があります。また、湧出量日本一の温泉や、千年以上の歴史がある宇佐神宮や臼杵石仏といった観光資源・文化遺産が各地に点在しています。このほかにも、石油化学コンビナートや鉄鋼、自動車、半導体など、県北・県央・県南でそれぞれ異なる製造業が集積しています。このように、県内各地にバラエティに富む産業があり、それぞれに魅力や強みを持っている点が、大分県の大きな特徴です。近年でも、大分県は、大手ホテルなどの県外資本による投資を惹きつけていますし、インバウンドも増加基調が続いています。

こうした中、大分県経済は、一部に弱めの動きがみられるものの、全体としては緩やかに回復しています。個人消費は所得が増加する中で底堅く推移しているほか、別府や湯布院などでの観光消費は緩やかに増加しています。設備投資や公共投資が高水準となっていることも、緩やかな景気回復を支えています。

更なる経済の活性化に向けて、大分県では、魅力や強みを活かした様々な取り組みが進められています。例えば、製造業では、持続的な成長に向けたカーボンニュートラルへの対応として、水素の利活用やCO2の回収といった新技術の開発が行われているほか、県全体として再生可能エネルギーの供給拡大に取り組んでいます。また、観光面では、16年振りにホーバークラフトの運航再開が実現したことは、全国的なニュースにもなりました。国内外の企業の連携により進められている、大分空港を拠点とした宇宙産業創造プロジェクトについても、今後の動向が注目されます。

一方で、全国の多くの地域と同様に、生産年齢人口の減少が早いペースで進んでいることが、様々な課題を生んでいます。タイトな労働需給が続く中で、働き手は希少な経営資源となっており、後継者不足も課題となっています。また、20代を中心に女性の県外流出が多く、働き手や婚姻件数の減少などが経済に様々な影響を与えています。人口減少が将来的にも続くと予想される中、大分県では、2035年に県内人口100万人を維持する目標を掲げて、「第3期まち・ひと・しごと創生大分県総合戦略」が策定されるなど、地方創生に向けた施策が総動員されています。

大分県にはかつて、全国的にもあまり例がないほど多くの藩校が置かれ、将来を見据えた戦略のもとで輩出された多くの優れた人材が、官・民それぞれの立場で、日本や地域の発展に貢献しました。今後も、企業と自治体が一体となった取り組みが着実に成果を上げ、大分県経済がますます発展することを祈念しまして、私からの挨拶とさせて頂きます。

ご清聴、ありがとうございました。