【挨拶】 最近の金融経済情勢と金融政策運営名古屋での経済界代表者との懇談における挨拶
日本銀行総裁 植田 和男
2025年12月1日
1.はじめに
日本銀行の植田でございます。本日は、東海地域の経済界を代表する皆様とお話しする機会を賜り、誠にありがとうございます。皆様には、日頃より、私どもの名古屋支店の様々な業務運営にご協力頂いております。この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。
当地は、わが国最大の輸出拠点のひとつということもあり、3か月ごとに開催される支店長会議では、私を含め多くの出席者が、名古屋支店長の報告を大きな関心をもって聞いています。本日も、皆様から直接ご意見をお聞きできることを嬉しく思っています。以下では、皆様方との意見交換に先立ちまして、私から、内外の経済・物価情勢や日本銀行の金融政策運営の考え方について、ご説明したいと思います。
2.経済・物価情勢
(1)海外経済
はじめに、海外経済の動向についてお話しします。海外経済は、各国の通商政策等の影響を受けて一部に弱めの動きもみられますが、総じてみれば緩やかに成長しています。
図表1をご覧ください。IMFによる2025年の世界経済見通しは、本年4月に、米国の関税政策の影響を織り込む形で2%台後半まで引き下げられましたが、その後は上方修正が続き、直近10月の見通しでは、25年、26年ともに3%台の成長を維持することが見込まれています。このように、ひと頃、世界経済の大きな下押し要因と考えられていた関税政策の影響は、これまでのところ、さほど顕在化していません。その背景として、大きく3つの点を指摘できます。第一に、本年夏場以降、多くの国や地域において、米国との通商交渉が合意に至り、先行きを巡る不確実性が低下したことです。第二に、後ほど述べるように、米国内において、関税コストの販売価格への転嫁が緩やかなものに止まっており、米国の個人消費が当初懸念されていたほど下押しされていないことがあります。第三に、AI関連を中心とする世界的なデジタル分野への投資拡大や、コロナ禍で販売が急増したパソコン、スマホの買替需要の高まりなどが、各国の貿易や生産活動を下支えしていることです。
先行きを展望すると、関税政策の影響を受けて海外経済はいったん減速するとの見方に変わりはありませんが、その後は緩やかな成長経路に復していくと予想しています。こうした見通しが実現するかどうかは、世界経済を牽引する、米国の動向が重要なカギを握っています。
図表2をご覧ください。左グラフの米国の設備投資をみると、AI関連需要の拡大を背景に、このところ、大手ハイテク企業による投資が大幅に増加しています。中央のグラフをご覧ください。先ほど述べたとおり、関税賦課の負担が物価の上昇という形で消費者に転嫁されるペースは、これまでのところ、緩やかなものに止まっています。これに、最近の株高による資産効果も加わり、米国の個人消費は堅調に推移しています。もっとも、これは、米国の企業部門が、消費者に代わり、関税のコスト負担を相当程度引き受けていることを意味しています。この点に関し、右のグラフからは、雇用者数の増加ペースが、足もと鈍化していることがわかります。厳格な移民政策の影響を含め、その背景は複雑ですが、関税政策による企業収益の下押しが、労働市場の動向に及ぼす影響についても注意してみていきたいと思います。
このほか、AI関連需要の今後の展開やプライベート・クレジット市場の動向など、米国経済について留意すべき点は少なくありませんが、足もとまでの動きを踏まえると、経済全体の下振れリスクはひと頃より低下していると考えられます。先月半ばに政府機関閉鎖が終了したことも、不確実性の低下につながるものと考えています。
(2)わが国の経済・物価情勢
経済の現状と先行き
次に、わが国の経済の現状と先行きについてお話しします。わが国の景気は、一部に弱めの動きもみられますが、緩やかに回復していると判断しています。図表3をご覧ください。先日公表されたGDP統計をみると、本年7~9月期の実質GDPは、6四半期振りのマイナス成長となりました。もっとも、これは、春先以降にみられた関税引き上げに伴う駆け込み輸出の反動の影響が大きく、マイナス成長は一時的なものとみています。こうした振れを取り除くため、4~6月期と7~9月期を合わせてその前の半年間と比較すると、0%台半ばとみられる潜在成長率を上回る、年率0.9%の成長となっています。こうしたことから、日本銀行では、「景気は緩やかに回復している」というこれまでの基調判断に変化はないと考えています。
図表4をご覧ください。輸出の動向です。自動車関連については、本年春先以降、駆け込み輸出とその反動などから、振れの大きな展開となっています。もっとも、グローバルなAI関連需要の堅調さなどを背景に、情報関連は増加傾向にあり、輸出全体としてみれば、高水準で横ばい圏内の動きが続いています。図表5をご覧ください。左上のグラフで企業収益をみると、製造業の一部で関税による下押しの影響がみられるものの、全体としては高水準を維持しています。左下の表は、東証プライム市場に上場する企業の決算情報です。これによれば、2025年度の収益計画は、製造業で減益、非製造業が増益となっていますが、従来の計画対比では、関税政策を巡る不確実性の低下などから、製造業を含めて小幅の上方修正となっています。こうしたなか、右グラフの設備投資は緩やかな増加傾向にあり、今年度の計画をみても、成長分野への研究開発投資や省力化関連のソフトウェア投資を中心に、積極的な投資スタンスが継続しています。
次に、家計部門について、図表6をご覧ください。左のグラフで個人消費の動きをみると、食料品価格の上昇などから消費者の節約志向が強まるもとで、非耐久財の消費の減少傾向が続いています。雇用・所得環境が改善していることや、足もと、夏季賞与の増加や株価の上昇等に伴い消費者マインドが持ち直していることを背景に、消費全体としてみれば底堅く推移していますが、物価上昇による家計の負担感は高い状況が続いていますので、その影響については、十分留意したいと考えています。
経済の先行きを展望すると、先ほど申し上げたとおり、7~9月期のマイナス成長は一時的で、今後はプラス成長に復していくとみています。当面は、各国の通商政策等の影響を受けて海外経済が減速するもとで、わが国経済の成長ペースは伸び悩むと考えられますが、その後は、海外経済が緩やかな成長経路に復していくもとで、わが国経済も成長率を高めていくと見込んでいます。
こうした中心的な見通しに対するリスクとして、10月末に私どもが取り纏めた「展望レポート」では、海外の経済・物価動向や輸入物価の変動など、様々な要因を指摘しています。もっとも、ここ数か月の最大の懸念事項であった関税政策については、先ほど述べたように、米国内でその悪影響がさほど顕在化しておらず、また、国内でも、企業収益に与える影響が限定的との見方が増えつつあるなど、先行きの不透明感は次第に薄れてきているように思います。
物価の現状と先行き
続いて、物価情勢に話を進めます。図表7をご覧ください。左グラフの生鮮食品を除いた消費者物価の前年比は、足もとでは+3%程度となっています。内訳をみると、青と水色の棒グラフで示した米やその他食料品のプラス寄与が大きい状況が続いていますが、これについては、一時的なコストプッシュ要因が相応に影響していると考えられます。一方で、景気が緩やかに回復し、労働需給がひっ迫するもとで、賃金上昇を販売価格に転嫁する動きも続いており、食料品のみならず、財やサービスの価格も緩やかに上昇しています。この点に関し、右グラフで品目別の価格変動分布をご覧ください。直近10月の分布は、食料品をはじめ、5%以上の上昇を続ける品目数の多さから、右の裾野が厚めとなっていますが、輸入物価上昇の影響が大きかった2023年の分布と比較すれば、品目間のバランスははっきりと改善しています。その結果、わが国がデフレに陥る以前、年平均で2%程度の物価上昇率を実現していた1990年代前半の分布に近い姿となりつつあります。
物価の先行きを展望すると、生鮮食品を除いた消費者物価の前年比は、食料品価格上昇の影響が減衰していくもとで、ガソリン税の「旧暫定税率」の廃止など政府の物価高対策の効果もあり、来年度前半にかけて、いったん2%を下回る水準までプラス幅を縮小していくと考えられます。その後は、成長率が高まるもとで人手不足感が強まり、中長期的な予想物価上昇率が上昇していくことから、基調的な物価上昇率、すなわち一時的な変動要因を除いた物価上昇率と現実の物価上昇率はともに高まっていき、展望レポートの見通し期間後半には、2%の「物価安定の目標」と概ね整合的な水準で推移すると考えています。
こうした見通しには、様々な不確実性が存在します。先ほど述べたとおり、食料品価格の動きは徐々に落ち着いてくるとみていますが、今後、一時的な価格上押し要因が新たに生じたり、人件費や物流費の上昇を販売価格に転嫁する動きが強まったりした場合には、食料品価格の上昇が想定以上に長引く可能性があります。食料品は消費者の購入頻度が高いものであるだけに、価格上昇が長期化すると、予想物価上昇率の変化を通じて、消費者物価を押し上げる方向に作用する可能性があります。一方、家計のコンフィデンスの悪化を通じて個人消費が減少し、消費者物価を押し下げる方向に作用する可能性もあります。現時点では、これらの動きが強まっているとはみていませんが、今後とも、各種のデータを丁寧に確認していきたいと考えています。
為替相場の変動を含む輸入物価の動向、およびその国内価格への波及も、物価の上振れ・下振れ双方の要因となります。この点、企業の賃金・価格設定行動が積極化するもとで、過去と比べると、為替の変動が物価に影響を及ぼしやすくなっていることや、そうした動きが、予想物価上昇率の変化を通じて基調的な物価上昇率に影響する可能性があることに留意が必要と考えています。
3.日本銀行の金融政策運営
続いて、金融政策運営についてお話しします。日本銀行としては、これまでご説明したような経済・物価の見通しが実現していくとすれば、経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和度合いを調整していくことになると考えています。こうした方針の前提として、図表8にありますように、現在の実質金利、すなわち名目の政策金利から物価上昇率を差し引いた金利は、きわめて低い水準にあり、経済・物価に対して中立的な実質金利──経済学の世界では「自然利子率」と呼ばれています──を大きく下回っているとの認識があります。つまり、政策金利を引き上げるといっても、緩和的な金融環境の中での調整であり、例えて言えば、景気にブレーキをかけるものではなく、安定した経済・物価の実現に向けて、アクセルをうまく緩めていくプロセスだと考えています。
そう申し上げたうえで、日本銀行では、最近の米国経済や関税政策を巡る不確実性の低下などを踏まえると、経済・物価の中心的な見通しが実現していく確度は、少しずつ高まってきていると考えています。今は、企業の積極的な賃金設定行動が継続していくかどうかを見極めていく段階にあり、特に、来年の春季労使交渉に向けた初動のモメンタムを確認していくことが重要と考えています。図表9をご覧下さい。まず、前提として、左グラフの短観の雇用人員判断DIをみると、非製造業でバブル期並みの「不足」超となるなど、全体として人手不足感が強い状況が続いています。今年度の最低賃金が前年比+5%超と過去最高の伸び率になったことも、賃上げの裾野を拡げる方向で作用する可能性が高いとみられます。
この間、賃上げの原資となる企業収益については、先ほど述べたとおり、関税政策の影響を加味しても、全体として高い水準が維持される見通しです。こうしたなか、連合は、来年の春闘に向けた闘争方針を先週発表し、目標賃上げ率を前年と同じ「5%以上」とすることなどを掲げています。経営者側も、例えば経団連は、賃上げの「さらなる定着」という方針を強く打ち出しているほか、経済同友会が9月に実施した調査をみても、多くの先が、今年とほぼ同じかそれ以上の賃上げ率を予定しています。先週開催された政労使会議では、政府が、中小企業を含めた賃上げの環境整備に取り組むことを表明しました。現在、日本銀行では、12月18日、19日に予定されております次回の決定会合に向けて、本支店を通じ、企業の賃上げスタンスに関して精力的に情報収集しているところです。決定会合においては、この点を含めて、内外経済・物価情勢や金融資本市場の動向を、様々なデータや情報をもとに点検・議論し、利上げの是非について、適切に判断したいと考えています。
振り返ってみれば、過去10年余りの政府、日本銀行による積極的なマクロ経済政策は、わが国経済に強力な刺激効果をもたらし、これにより、賃金と物価がともに緩やかに上昇するメカニズムが復活しました。こうしたなか、日本銀行は、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現する姿に着地するよう、徐々に金融緩和度合いを調整しています。遅すぎることもなく、早すぎることもなく、緩和の度合いを適切に調整していくことは、金融資本市場の安定を確保しつつ、物価安定目標をスムーズに実現するとともに、わが国経済を息の長い成長軌道に乗せるために必要であり、ひいては、これまでの政府と日本銀行の取り組みを最終的に成功させることにつながると考えています。
4.おわりに
最後に、当地経済について一言触れて、私の話を終わりたいと思います。
まず、改めてですが、経済が持続的に成長していくためには、イノベーションを創出し、それを上手く生かしていくことがきわめて重要です。当地では、多くの企業の皆様が研究開発などの戦略的な投資に加え、事業ポートフォリオの変革を進められているほか、新しいビジネスモデルや最先端技術の担い手となり得るスタートアップを支援する動きなども広がっています。最近では、多くの方々の知見を生かす取り組みとして、オープンイノベーションを積極的に活用する企業も増加しています。
こうした動きは、100年に一度とも言われる大変革期にある自動車産業だけでなく、その他の製造業や非製造業でもみられており、大変心強く感じています。当地の皆様は、これまでも、世の中のニーズを的確に捉え、数多くのイノベーションを生み出しながら、幾多の逆境を乗り越えてこられました。今後も企業家魂の根付く当地の皆様の取り組みが当地経済、ひいてはわが国経済の持続的な成長につながっていくことを強く期待しています。日本銀行としても、企業の皆様がその力を存分に発揮できるよう、物価の安定と金融システムの安定を図ることを通じて、皆様の取り組みを後押ししてまいります。
皆様の挑戦が実を結び、当地経済が益々発展することを祈念して、私からの挨拶とさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。
