【講演】 賃金上昇を伴った「物価安定の目標」の達成に向けて 日本経済団体連合会審議員会における講演
日本銀行総裁 植田 和男
2025年12月25日
1.はじめに
日本銀行の植田でございます。本日は、わが国の経済界を代表する皆様の前でお話しする機会を賜り、誠に光栄に存じます。
今年も残すところ1週間となりました。この1年を振り返りますと、わが国経済は、米国の関税政策の影響で企業収益が下押し圧力を受けるもとでも、緩やかな回復が続き、頑健さを示してきました。こうしたなか、日本銀行では、先週の金融政策決定会合において、本年1月以来となる政策金利の引き上げを決定しましたので、本日は、まず、今回の政策変更の背景について、簡単にご説明します。その後、日本銀行が目指している経済の姿を皆様と共有したうえで、企業の経営者の方々への期待を申し上げたいと思います。
2.最近の金融政策運営:政策金利の引き上げ
それでは、最近の経済・物価情勢と、私どもの金融政策運営についてお話しします。日本銀行は、昨年3月に、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況に至ったと判断し、10年以上に及んだ大規模な金融緩和の枠組みを見直しました。これにより、短期金利の操作を主たる政策手段とする金融政策に移行しています。こうしたもとで、政策金利を、昨年7月に0.25%程度、今年1月に0.5%程度にそれぞれ引き上げ、徐々に金融緩和の度合いを調整してきました。
その後は、米国の関税政策を巡る不確実性が高い状況が続くなか、政策金利を据え置いてきましたが、先週開催された金融政策決定会合において、政策金利を0.5%程度から0.75%程度に引き上げることを決定しました。今回の決定にあたり、重要な判断材料となったのは、米国経済の動向や関税政策の影響、さらには来年の春季労使交渉に向けた賃上げの動きでした。
まず、米国経済や関税政策の影響については、不確実性は引き続き残っているものの、低下していると判断しました。米国経済をみると、関税コストの販売価格への転嫁が緩やかなものにとどまるなかで、個人消費が堅調に推移しているほか、AI関連需要の拡大を背景に、設備投資も増加しています。こうした点を踏まえると、労働市場の動向など、なお留意すべき点は少なくありませんが、米国経済全体の下振れリスクは、ひと頃より低下していると考えられます。わが国経済に対する関税政策の影響については、製造業を中心に収益に下押し圧力がかかっているものの、設備投資や雇用・賃金動向を含め、経済全体に波及している様子は窺われません。図表1をご覧ください。先週公表された短観をみると、左グラフの企業の業況感は、良好な水準で推移しています。右グラフの企業収益についても、製造業を含め、今年度の収益計画が3か月前の計画から小幅の上方修正となるなど、先行きの不透明感は次第に薄れてきています。
次に、賃金を巡る環境をみると、労働需給は引き締まった状況が続いているほか、企業収益は、今申し上げたとおり、関税政策の影響を加味しても、全体として高い水準を維持することが見込まれます。こうしたもとで、図表2で示しているように、春季労使交渉に向けた労使の対応方針や、日本銀行の本支店を通じたヒアリング情報等を踏まえると、来年は、今年に続き、しっかりとした賃上げが実施される可能性が高く、企業の積極的な賃金設定行動が途切れるリスクは低いと考えています。物価面では、賃金の上昇を販売価格に転嫁する動きが続くもとで、基調的な物価上昇率は、緩やかな上昇が続いています。
こうした最近のデータやヒアリング情報からは、来年以降も、賃金と物価がともに緩やかに上昇していくメカニズムが維持される可能性が高いと考えられます。その結果として、先行き、「展望レポート」の見通し期間の後半、すなわち、来年度後半から2027年度にかけて、基調的な物価上昇率が2%の「物価安定の目標」と概ね整合的な水準で推移するという、私どもの中心的な見通しが実現する確度は高まっていると考えています。こうした経済・物価情勢を踏まえ、先週の決定会合では、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整することが適切であると判断しました。
先行きの金融政策運営については、現在の実質金利がきわめて低い水準にあることを踏まえると、「展望レポート」で示している中心的な見通しが実現していくとすれば、経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことになると考えています。日本銀行としては、緩和の度合いを適切に調整していくことは、「物価安定の目標」をスムーズに実現するとともに、皆様が安心してビジネスを行う土台となる、息の長い成長につながると認識しています。以下では、日本銀行が目指している、やや長い目でみた経済の姿について、お話しします。
3.賃金と物価がともに緩やかに上昇する経済
(1)目指している経済の姿
日本銀行は、日本銀行法に定められているとおり、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」を理念として、金融政策を運営しています。具体的には、2013年の金融政策決定会合において、2%の「物価安定の目標」を定め、そのもとで、賃金と物価がともに緩やかに上昇する経済が実現することを目指しています。
図表3は、こうしたメカニズムを分かりやすく示したものです。企業部門の収益を起点に考えると、経済活動の活発化に伴って企業収益が増加すれば、設備投資が増加したり、賃金が上昇することが期待されます。賃金の上昇は、家計所得の増加を通じて個人消費を押し上げる方向に作用します。そして、こうした需要の増加は緩やかな物価上昇、企業からみれば販売価格の上昇や企業収益の改善につながり、再び、設備投資の増加や賃金の上昇につながることが期待されます。その際、経済が名目ベースだけでなく、物価上昇の影響を除いた実質ベースでも拡大していくためには、企業の積極的な投資などから労働生産性が高まり、それを反映して実質賃金が上昇していくことが重要です。
日本銀行では、このような形で、賃金と物価が循環するメカニズムがしっかりと作動すること、言い換えれば、コストプッシュ要因などによる一時的な物価上昇ではなく、人々が、先行き、緩やかな物価上昇が続くことを前提に経済活動を行い、結果的に、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現する姿を展望しています。このことは、わが国経済が、今後とも息長く成長していくための前提であり、金融政策運営にあたっての理念、すなわち、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」にほかならないと考えています。
(2)現在地の確認
次に、我々が目指している経済の姿に対する、わが国経済の現在地を確認したいと思います。図表4をご覧ください。この10年余りで、企業収益は約2倍に増加しています。労働市場では、生産年齢人口の減少が続くなか、シニア層や女性の追加的な労働供給の余地も少なくなり、労働需給のタイト化が進みました1。こうしたもとで、図表5で示しているように、長年にわたって停滞していた賃金にも上昇圧力がかかるようになり、ここ数年は高い賃上げ率が実現しています。消費者物価についても、コロナ禍後の世界的なインフレや為替円安の影響と相まって、プラスの上昇率が続くようになりました。
生産年齢人口の減少をはじめとする労働市場の構造変化が不可逆的であることを踏まえると、経済に大きな負のショックが生じない限り、労働需給は引き締まった状況が続き、賃金には上昇圧力がかかり続けることが見込まれます。また、プラスの物価上昇率が続き、家計や企業の予想物価上昇率が高まりつつあるなか、賃金や仕入価格の上昇を販売価格に転嫁する動きも着実に広がってきています。こうしたことから、賃金と物価がほとんど変化しないという、いわゆる「ゼロノルム」の世界に戻る可能性は、大きく低下していると考えています。
図表6をご覧ください。最近の物価動向をみると、生鮮食品を除いた消費者物価の上昇率は、前年比+3%程度で推移しています。これについては、米を含む食料品価格が、一時的なコストプッシュ要因によって押し上げられている影響が大きいですが、先ほど述べたように、賃金上昇を販売価格に転嫁する動きが続くもとで、食料品のみならず、財やサービスの価格も緩やかに上昇しています。図表7は、一時的な要因を除いた「基調的な物価上昇率」に関連する指標を示しています。これさえみれば基調的な物価の動きがわかるという単一の指標は存在しませんが、ここにあるいくつかの指標や、物価変動の背後にあるマクロ的な需給ギャップや労働需給などをあわせて考えると、わが国の基調的な物価上昇率は、全体として緩やかな上昇傾向をたどっており、2%に着実に近づいてきています。
今申し上げたわが国における賃金と物価の現在地を踏まえつつ、企業部門の収益や支出の動きを確認すると、目指す経済を実現していくうえでの課題が、幾つかみえてきます。図表8の左グラフをご覧ください。振り返ると、わが国経済がデフレに陥った1990年代後半以降、企業は、雇用の安定を優先し、賃上げや設備投資を抑制してきました。当時の企業行動は、厳しい経営環境に直面するもとで、失業率の上昇を抑える効果があったほか、企業自身の財務体質の改善にとっても必要なものだったと思います。現在は、こうした状況を乗り越え、人件費や設備投資が緩やかに増加するようになってきています。もっとも、企業収益の大幅な増加に比べて、これらの伸びが相対的に緩やかなものにとどまっているとの指摘もあります。結果として、右グラフのとおり、企業が生み出した付加価値の総額と人件費の関係を示す労働分配率は、緩やかな低下傾向が続いています。
- わが国の労働市場における構造的な変化については、植田和男(2025)「人口減少下における日本の労働市場」(カンザスシティ連邦準備銀行主催シンポジウムにおける講演)を参照。
(3)期待されるさらなる変化
以上を踏まえますと、わが国では、息の長い経済成長を現実のものとするため、将来を見据えた人への投資や設備投資が、これまで以上に強く求められる局面を迎えているように思います。どの時代にあっても、一国の経済成長のエンジンは、企業の皆様の積極的な行動です。以下では、皆様への期待を込めて、この点について少し詳しくお話しします。
第1に、人への投資については、先ほど申し上げたとおり、ここ数年、高い賃上げ率が実現しているほか、企業規模や地域の面でも、賃上げの裾野に広がりがみられています。来年の春季労使交渉に向けても、経団連では、賃上げのモメンタムの「さらなる定着」を目指すとの方針を打ち出されており、大変心強く感じています。日本銀行では、こうした前向きな動きが続くなかで、わが国における賃金の期待形成メカニズムが変化していくことを期待しています。例えば、これまでの春季労使交渉では、労働組合側は、過年度の物価上昇を賃金(ベースアップ)に反映させることを要求するケースが多かったように思います。しかしながら、賃金と物価の循環メカニズムがしっかりと作動し、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現する世界では、将来にわたって2%の物価上昇が続くことを前提に、フォワードルッキングな形で賃上げを求める交渉スタイルに変化していく可能性があります。実際、本年9月に公表された連合の報告書2では、将来の賃金に関する人々の予想を安定させる仕組みとして、先行きの物価見通しを賃上げの要求水準に反映させることが提案されています。経営者側が賃上げについて判断するにあたっては、企業収益、労働需給、物価動向など様々な要素を勘案していると理解していますが、その際に、2%の物価上昇が続くことを検討の前提に加えるようになっていけば、わが国全体として、賃金と物価がともに緩やかに上昇するメカニズムは、より強固かつ持続的なものになっていくと考えられます。
第2に、設備投資に関する取り組みです。長年にわたるデフレ期には、投資を先送りし、将来の不確実性に備えて現預金を積み上げる誘因が働きやすかったように思います。しかしながら、緩やかな物価上昇が続く世界に移行すれば、現預金の実質的な価値が目減りしやすくなる一方、将来を見据え、先んじて投資を行うことの重要性が、これまで以上に高まっていくと考えられます。また、人手不足の継続が見込まれるもとでは、AIの利活用を含め、労働代替型の投資を一段と進めていく余地も大きいように思います。実際、そうした動きは、すでに広がりつつあります。先週公表された私どもの短観における2025年度の設備投資計画をみると、前年比+10%程度のしっかりとした増加となっており、AIなどの成長分野への研究開発投資や省力化関連のソフトウェア投資を中心に、企業の皆様の積極的な投資スタンスが続いていることが確認されました。こうした前向きな設備投資を通じて、人手不足という供給面の制約を乗り越え、企業の収益力や労働生産性の向上につなげていくことが重要です。その際、設備投資から得られるリターンを高めるためには、投資を行うだけではなく、それをビジネスに活かすべく、リスキリングを含めた人材育成によって、AIやソフトウェアを使いこなせる人材を確保していくことも大切だと思います。人への投資と成長分野などへの設備投資を同時に進めることで、労働生産性の向上を伴う形で、賃金と物価の循環メカニズムが一段と強まっていくことが期待されます。
今申し上げた企業の取り組みは、政府や日本銀行の政策が適切に後押しすることで、力強さを増していくと考えられます。この点、政府は、先般、「『強い経済』を実現する総合経済対策」を策定しています。これについては、各種の給付策を通じて家計や企業の負担を軽減することに加え、企業の賃上げ環境を整備したり、成長投資を促進する効果が期待されています。日本銀行としても、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を通じて、金融面から、企業の皆様の前向きな行動をしっかりとサポートしていきたいと考えています。
- 2 連合(2025)「『未来づくり春闘』評価委員会報告書」を参照。
4.おわりに
そろそろ、頂いた時間も、残り少なくなってきました。本日は、日本銀行が目指している経済の姿を皆様と共有したうえで、企業の皆様方への期待を申し述べさせて頂きました。労働需給のタイト化が進むなか、ここ数年、企業の賃金・価格設定行動は大きく変化しており、賃金上昇を伴う形での2%の「物価安定の目標」の実現は、着実に近づいていると考えています。来年が、我々が目指す経済の姿に一段と近づく年になることを祈念して、本日の講演を締めくくりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。
