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【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営和歌山県金融経済懇談会における挨拶

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日本銀行副総裁 氷見野 良三
2026年3月2日

1.はじめに

みなさま、本日はお忙しい中ありがとうございます。日ごろから日本銀行にご支援・ご協力を賜り、感謝申し上げます。

マクロ経済の見取り図

本日は、まず、日本の経済と物価について、次いで金融政策の運営について、考えを述べさせていただきたいと思いますが、なにぶん、経済も物価も金融政策もいろいろな論点がありますので、どの話がどこにどうつながって、全体の中でどういう意味を持つのか、見えにくいかと思いまして、全体を一覧する見取り図のようなものを用意してまいりました(図表1)。

ちょっと曼荼羅みたいに見えるかもしれませんが、弘法大師もはじめて曼荼羅を日本に持ち帰られた際に、「なかなか文章には載せきれないことがらも、図画で示すと一目でわかる」といった趣旨のことをおっしゃっています1。今回は高野山にもお邪魔させていただく予定ですが、一種のオマージュとしてお許しいただけるのではなかろうかと希望的な観測を抱いております。

なお、中身はマクロ経済学の標準的なモデル「動学的総需要・総供給モデル」の骨格をなす5つの方程式を絵にしたものです2。内生変数を円状に並べ、外生変数のうち比較的恒常的なものをその内側に、一時的な色彩が強いものを外側に配置してあります。また、矢印もいっぱい引いてありますが、変数の間の関係について、方程式で足し算になっているところを黒矢印で、引き算になっているところを白矢印で示してあります。

以下では、時計回りに、左上の経済、右上の物価、下の金融の順にご説明させていただければと存じます。

  1. 空海『御請来目録』806年
  2. 図の左が総需要方程式、左上がフィリップス曲線、右上が適応的期待、右下がテイラー・ルール、下がフィッシャー方程式にあたります。

2.経済の現状と見通し

需要ショックとGDP

では、まず左上の経済からです(図表2左)。曼荼羅では、「GDP」に、矢印が三本向かっています。経済活動の水準「GDP」は、日本経済の巡航速度の水準「潜在GDP」の前後で変動するが、変動の要因の一つは経済の通常の循環の外から需要にショックが及ぶ「需要ショック」で、もう一つは金融の引き締めや緩和の状況を示す「金融環境」だ、という見方です。

日本銀行が1月に公表いたしました「展望レポート」では、以下のように述べております(図表2右)。

先行きのわが国経済を展望すると、各国の通商政策等の影響を受けつつも、海外経済が成長経路に復していくもとで、政府の経済対策や緩和的な金融環境などにも支えられて、所得から支出への前向きな循環メカニズムが徐々に強まることから、緩やかな成長を続けると考えられる。

この文章には「需要ショック」が二つ入っています。一つ目は、「各国の通商政策等の影響を受けつつも、海外経済が成長経路に復していくもとで」というところです。米国の関税政策などが日本からの輸出に影響を与えるマイナスの「需要ショック」のことを述べております。

二つ目は「政府の経済対策…などにも支えられて」と言っているところで、政府の経済対策で需要が喚起され、プラスの「需要ショック」となることを想定しています。

その次に、「緩和的な金融環境」も出てきますが、これについては最後の金融のところでご説明したいと思います。

こうした条件の下で、経済成長がどうなっていくか、がGDPのところの問題ですが、この部分は私どもの見通しが外れたところです(図表3左)。トランプ政権が昨年の4月に関税政策を発表する前には、私どもは日本のGDP成長率は2025年度も2026年度も1%前後になるだろうという見通しを持っておりました。米国の関税発表の直後にはこれを大幅に引き下げたのですが、その後それを順次引き上げてまいりまして、一番最近に公表した見通しでは、結局米国の関税発表前の見通しの水準に戻っています。思ったほど大きな「需要ショック」にはならなかったということになります。

なぜ直後の見通しが外れたのか。私どもは直後の見通しでも、「今後、各国間の交渉がある程度進展するほか、グローバルサプライチェーンが大きく毀損されるような状況は回避されること」を前提に置いておりましたので、実は関税交渉の進み方について大きく読み間違えていたわけではありません。一番想定外だったのは、米国経済が思ったより強かった、ということです。

米国経済について読みが外れたのは私どもだけではありません。米国の中央銀行であるFRBも一旦見通しを大きく引き下げたあとでまた元に戻しており、しかも最近公表された速報ベースの実績値は直近の見通しをさらに大きく上回っています(図表3右)。

ではなぜ米国経済は思ったより強かったのか。二つ理由が考えられます。第一は、関税負担のかなりの部分を米国企業がかぶって消費者への転嫁を抑えたために、物価がそれほど上昇せず、消費が想定されたほどには抑制されなかったことです(図表4左)。

第二はAI関連の設備投資ブームです。米国ではIT関連以外の設備投資が鈍化する一方、巨大AI企業の設備投資が激増しています(図表4中、右)。私どもは、去年の10月ごろには、「先端半導体に強い台湾や韓国とは異なり、日本は米国のAI関連投資の需要をあまり取り込めないのではないか」という見方をしていました。しかし、1月の支店長会議の報告では、日本国内への影響は、地域的にも広がりがあり、分野的にもデータセンターのエアコンから半導体製造装置まで多様で、直接の輸出企業だけではなく、その協力企業にも幅広く及んでいる、という印象を受けました。

潜在GDPとGDPギャップ

では、そうした状況の下で、現在のGDPは、日本経済の巡航速度の水準である「潜在GDP」を上回っているのでしょうか、下回っているのでしょうか。これが曼荼羅ではGDPの一つ右上に描かれている「GDPギャップ」にあたります。これがプラスであれば、経済は過熱気味であり、設備や労働力といった供給能力は不足している、ということですし、マイナスであれば、経済は停滞気味であり、供給能力には余裕がある、ということになります。

日本銀行スタッフの推計によれば、GDPギャップ(需給ギャップ)は足元では概ねゼロ近傍だ、という結果になっています(図表5赤線)。ここには示していませんが、内閣府の試算でも概ね似たような結果となっています。

だとすれば、日本経済は、過熱も停滞もしておらず、設備や人手は全体としては不足してもいなければ余ってもいない、ということになります。

みなさまの実感ではいかがでしょうか。

私どもが企業に対して行っているアンケート調査「短観」では、業況についての評価は大幅なプラス領域にあり、しかも改善を続けています。人手不足は非製造業を中心にバブル期以来の厳しさとなっており、これと設備についてのアンケート結果を組み合わせて供給能力の過不足の度合いを指標にすると、著しい不足を示す結果となります(図表5青線)。実際、建設や機械については受注残が積み上がり続けています。

他方、だからといって経済に過熱感があるかというと、内閣府のアンケート調査の結果をまとめた消費者態度指数は過去の景気回復局面に比べかなり低い水準が続いています(図表5緑線)。ここには示していませんが、日本銀行が一般の方々に対して行っている「生活意識アンケート調査」の結果も同様の姿を示しています。また、私どもの本店や支店が地域経済の状況の分析をした結果をまとめた「さくらレポート」でも、各地域ともに「持ち直している」とか「緩やかに回復している」といった評価になっています。これは「拡大している」よりは何段階か弱い表現です。経済はまだそんなに強くない、というのが多くの国民の方々の実感ではないかと思います。

こうした矛盾した印象となっているのがなぜかは難しい問題ですが、人口減少の中での成長過程であるために、不足感と停滞感が併存し、これに地域間や所得階層・資産階層間での景気回復に対する実感の違いが輪をかけている、ということではなかろうかと思います。

3.物価の現状と見通し

経済については以上といたしまして、次に物価について見てみたいと思います。曼荼羅でいえば右上の黄色い部分に当たります(図表6)。

物価上昇率

「物価上昇率」に向かって、先ほどの「GDPギャップ」と、「供給ショック」とから矢印が伸びております。「GDPギャップ」からの矢印は、経済が過熱気味であれば物価には上昇圧力がかかるだろうし、停滞気味であれば下向きの圧力がかかるだろう、という趣旨です。また、「供給ショック」からの矢印は、原油高・円安などによって輸入物価が上昇すれば物価には上昇圧力がかかるだろうし、逆に政府の物価対策でガソリン税の引き下げ、高校授業料の無償化などが行われれば、物価を引き下げる効果が生じるであろう、ということです。

私どもは、本年度の物価上昇率(除く生鮮食品)を2.7%と見込んでおります。生鮮食品以外の食料品の上昇率が物価安定目標の2%を大きく上回っているので、他の財・サービスの平均は2%を下回っているものの、全体では2.7%となっているわけです。これは国民のみなさまに大きな負担となっており、「生活意識に関するアンケート調査」でも、57%の方々が暮らし向きに「ゆとりがなくなってきた」と答えておられます。

では、この物価高、特に食料品価格の上昇は、「供給ショック」のせいなのでしょうか、それとも「GDPギャップ」のせいなのでしょうか。他の財やサービスの価格が食料品に比べれば落ち着いていること、GDPギャップがゼロ近傍であると推計されていることからすれば、米を巡る状況やカカオやコーヒーの国際市況の高騰など、食料品固有の供給ショックが主因ではないかと考えることができます。このため、「展望レポート」では、

物価の先行きを展望すると、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、米などの食料品価格上昇の影響が減衰していくもとで、政府による物価高対策の効果もあり、本年前半には、2%を下回る水準までプラス幅を縮小していくと考えられる。

と述べています。

もっとも、食料品の値上げの理由として6割強の企業が物流費や人件費の上昇も挙げているという調査結果3もあります。「供給ショック」だけが主因ではなかったとすれば、食料品の影響が落ち着くのに思ったより時間がかかる可能性も考えられます。ただ、1月の消費者物価上昇率(除く生鮮食品)は2.0%でしたので、今のところ見通しに沿った展開となっているようです。

  1. 3帝国データバンク「『食品主要195社』価格改定動向調査」2026年3月

物価の基調とインフレ予想

さて、曼荼羅で物価上昇率の右隣に描いてあるのが「物価の基調」です。これは、一時的な需要ショックや供給ショックの影響が全部収まったあとのインフレ率の落ち着きどころ、という意味です。

では、需要ショックや供給ショックの影響がないのに、なぜそれでも物価が上昇し続けるのでしょうか。その中心として私どもが想定しているのは、「賃金と物価が相互に参照しながら緩やかに上昇していくメカニズム」です。

すなわち、世の中で物価は毎年この程度上がるものだ、という予想が共有されると、毎年の賃上げも物価上昇に生産性の上昇分を上乗せした程度は必要だと労使ともに考えるようになるのではないか、また、企業は賃上げに伴うコスト増から生産性の上昇分を差し引いた程度の価格転嫁は必要だと考えるようになるし、消費者の側の受け止め方も賃上げの状況によって変わってくるかもしれない、そうなれば、格別のショックさえなければ、共有されたインフレ率の予想に即したインフレ率が実際に持続するようになるのではないか、という考え方です。

曼荼羅で言えば、「予想インフレ率」から「物価上昇率」に向かって矢印を描いて、また「予想インフレ率」を「物価の基調」の胎内に描いたのは、以上のような趣旨からです。物価上昇率から予想インフレ率に向かう方向にも矢印が走っていますが、これは、人々はこれまでの実際の物価上昇率の経験を踏まえて予想を形成するのではないか、という趣旨で描いております。

物価の基調を計測するための手法には様々なものがありますが、大きく二つのアプローチに分けて考えてみることができます。

一つ目は、一時的なショックの影響を取り除いた残りを基調と考えるアプローチです(図表7左)。

二つ目は、アンケート結果や市場データをもとに企業・家計・市場参加者等が抱いているインフレ予想を推計する方法です(図表7中)。

さらに、物価の基調の根幹にある上述のメカニズムからすれば、賃金の上昇率が生産性の上昇率をどの程度上回っているかも有益な情報となるはずです(図表7右)。

全体としてみれば、物価の基調が着実に上昇してきている、ということは確かだろうと思います。では、すでに物価安定の目標の2%に達しているかどうか、というと、達観すれば既に概ね2%近傍であるとしても、2%に確実に達しているとまではまだ言えないのではないか、という気がいたします。

日本銀行の「展望レポート」は、物価上昇率が一旦2%を下回ることを予想した先ほどの部分に引き続いて、以下のように述べています(図表8左)。

もっとも、この間も、賃金と物価が相互に参照しながら緩やかに上昇していくメカニズムは維持され、消費者物価の基調的な上昇率は、緩やかな上昇が続くと見込まれる。その後は、景気の改善が続くもとで人手不足感が強まり、中長期的な予想物価上昇率が上昇していくことから、基調的な物価上昇率と消費者物価(除く生鮮食品)の上昇率はともに徐々に高まっていくと予想され、見通し期間後半(注:見通し期間というのは2025から27年度のことです)には「物価安定の目標」と概ね整合的な水準で推移すると考えられる。

この文章について、日本銀行が公表している「展望レポート・ハイライト」は、イラストを用いて表現しています(図表8右)。上から階段を下りてくる人物が現実の物価上昇率にあたり、下から階段を上ってくる人物が物価の基調にあたります。二人が右側の2%と書いた広場に到達したあとは、二人とも「物価安定の目標」と概ね整合的な水準で歩んでいく、というわけです。

物価の基調と物価安定目標の間の差を「インフレギャップ」と呼びたいと思います。曼荼羅では右端に登場しますが、インフレギャップは足元ではまだ若干のマイナスだが、いずれゼロ近傍になるだろう、ということになります。

4.当面の金融政策運営

さて、日本銀行の仕事の一つは、経済が過熱して物価に上昇圧力がかかれば金融を引き締め、経済が沈滞して物価が下押しされれば金融を緩和することです。それによって、過度のインフレにもデフレにもならないよう物価を安定させ、経済を息の長い成長軌道に乗せることを目指すわけです。日本銀行法の第2条には、「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」とありますが、これはそのような意味だろうと理解しております。

ちなみに、徳川吉宗公にとっても金融政策は享保の改革の大きな柱の一つでした(図表9左)。治世の前半は引き締め的な金融政策を維持し、後半は緩和的な金融政策に転じた、とみることができます。当時は貨幣の改鋳しか調節の手段がありませんでしたので(図表9右)、機動的な金融政策の運営は不可能で、大御所時代を含む35年間の治世のうち、政策転換は一回しかなかったわけです。現在の金融政策のように経済・物価の情勢に応じて機動的に運営を行う余地はありませんでした。

政策金利

さて、経済が過熱して物価に上昇圧力がかかれば金融を引き締め、経済が沈滞して物価が下押しされれば金融を緩和する、ということを、曼荼羅では、「GDPギャップ」と「インフレギャップ」から「政策金利」に向かう矢印で表現しています(図表10)。

例えば、負の需要ショックが来てGDPが落ち込みGDPギャップがマイナスになれば政策金利を引き下げます。他方、供給ショックの場合にはもう少し間接的になります。例えば、植田総裁は、1月の記者会見で、円安が物価に与える影響について問われて以下のように答えています。曼荼羅の「供給ショック」のところを起点にご覧になりながらお聞きいただければと思いますが、

当然、円安に伴って輸入価格が上昇し、それが国内価格に転嫁されることによって、当面のインフレ率の押し上げ要因になります。現状、私どもとしては、最近、企業の価格・賃金設定行動が積極化しているようにみられますので、そのもとで、国内の価格への転嫁の度合いとか国内価格の輸入価格に対する反応の度合いが大きくなっている可能性については、注意しながらみていきたいと思いますし、また、そうして動く国内価格が、期待物価上昇率に影響を与えたりすることによって、基調物価にも影響するという可能性にも注意してまいりたいと思っています。

以上ですが、曼荼羅の「供給ショック」のところからぐるっと回って「物価上昇率」、「予想インフレ率」、「物価の基調」のところまで変わるのかどうか、注意してみていく、というふうに理解できるかと思います。

では、需要ショックに対しては政策金利を比較的直接的に反応させるのに、供給ショックに対してはなぜ何段階かの見極めが入るのでしょうか。

この違いの理由ですが、曼荼羅でご覧いただくと、政策金利の変更は、左下のあたりをぐるりと回ってまずGDPに影響し、そこからさらに左上のあたりを回ってようやく物価上昇率に影響することになっています。ここのところが背景にあると考えられます。

植田総裁は、昨年7月の記者会見で需要ショックと供給ショックへの対応の違いについて問われて、以下のように答えています。また曼荼羅を見ながらお聞きいただければと思いますが、

物価高対策として金融引き締めがストレートにきれいに当てはまるケースというのはちょっと図式的に申し上げますが、需要サイドからの強い圧力で物価が上がっているという場合だと思います。そうしますと、金利を上げることによって、過熱する景気を冷やしつつ物価を下げるということになるということだと思います。

これに対して、現在の物価高のかなりの部分が供給サイドの要因によっている。このときに利上げで対応しようとしますと、どういうことになるかというと、必ずしも景気がものすごい過熱しているわけではないのに、景気を利上げで冷やして所得が減るから、例えば食料品に対する支出が減って食料品価格も下がるというルートになります。これは本当に望ましいかどうかということについて、皆さん、考え込んでしまうというところがあるのかなというふうに思っています。

以上ですが、需要ショックによる物価高に金融政策で対応する場合には、原因になっているGDPの動きを打ち消す形で対処できますが、供給ショックによる物価高に金融政策で対応しようとすると、問題が生じていないGDPまで動かしてしまわざるを得なくなるわけです。

さらに、影響経路の違いから想像されるように4、様々な実証分析でも、政策金利の変更に対し、GDPは比較的速やかに反応するのに対し、物価に反応が出るまでには時間がかかるという結果となっています5。したがって、一時的な供給ショックに対応する場合には、政策の効果が出たころにはショックの影響は消えてしまっているということにもなりかねません。このため、物価の基調まで見て対応するほうが適当と考えられるわけです。

では、以上のような一般論を今の日本の状況に当てはめると、どういう結果になるでしょうか。

まず、先ほど申し上げた「インフレギャップはまだ若干のマイナスだが、今後ゼロ近傍に近づいていく」という見通しからすれば、ある程度緩和的なスタンスから出発して、政策金利のゆるやかな引き上げを通じて、だんだん中立に近づけていく、ということになると思います。

GDPギャップについても、私どもの見通しでは、足もとのゼロ近傍から今後はプラス幅を徐々に拡大していくと想定していますので、政策金利を緩やかに引き上げていく方向に働くことになりそうです。しかし、すでに申し上げた通り、GDPギャップをめぐっては異なる見方もあります。供給能力不足の状況からすればGDPギャップの実態は推計値よりも高いはずだ、という見方(前出図表5青線)に立てば、もっと利上げを急ぐべきだ、ということになりそうですし、経済はまだ強くない、という実感のほう(前出図表5緑線)に立つとすれば、そんなに急がなくても、ということになるかもしれません。

日本銀行は昨年12月に政策金利を0.5%から0.75%に引き上げましたが、これについては、遅すぎた、というご批判も、早すぎる、というご批判もいただいているところです。このように見方が分かれる背景には、今申し上げたような事情も働いているのではないかと思います。

さて、GDPギャップとインフレギャップとを見て、例えば金融政策は若干緩和的にすることが適当だと判断したとして、では具体的には政策金利を何パーセントにしたらいいのでしょうか。

曼荼羅では、「自然利子率」と「予想インフレ率」のところから「政策金利」に矢印が向かっています。自然利子率というのは景気に中立的で経済を加速も減速もさせない実質金利の水準のことで、これに予想インフレ率を足すと、景気に中立的な名目金利の水準になります。政策金利をこれより若干低めにしておけば、金融政策は若干緩和的になることになります。こうしたやり方で政策金利を定めておけば、政策金利から左方向に向かって計算していくと、ちょうど頃合いの「金融環境」になるだろう、というわけです。

  1. 4矢印の中には単なる定義であり時間差を伴わないものもありますが、多くの矢印は経済主体の反応を通じて時間差をもって働きます。
  2. 5例えば、Christina D. Romer and David H. Romer, "A New Measure of Monetary Shocks: Derivation and Implications", American Economic Review, vol. 94, no. 4, September 2004

自然利子率と金融環境

では、以上の計算を数字を使ってやってみましょう。現在の政策金利は0.75%です。予想インフレ率については、「展望レポート」の見方をもとに、今後2%程度になっていく、とします。そうすると、実質金利は、マイナス1%より若干低いあたり、という計算になります。

自然利子率については、日本銀行のスタッフが何種類かの計量的なモデルを構築して推計を試みており、マイナス1%からプラス0.5%の間あたりにあるのではないか、という結果になっています。仮に真の値がマイナス1%だとすれば、現在の金融環境は若干緩和的だろう、プラス0.5%だとすれば、著しく緩和的だろうということになります。

評価の幅があまりに広いので、これだけでは、0.25%の利上げを12月に行ったのが早すぎたのか遅すぎたのか、とか、次の利上げはいつがいいか、といった論争に結論を出すことは難しいです。

では、どうしていったらいいのでしょうか。

戦前の米国の経済学者ウイリアムズの有名な言葉に、「自然利子率は抽象的な概念であり、信仰と同じで、その働きによってしか知りえない」というのがあるそうです6

利上げの影響は、金融市場の変化、金融機関の金利設定や融資行動の変化、企業の設備投資行動や家計の貯蓄・投資行動の変化などの経路を経て、景気や物価の変化となって現れていきます。各段階での働きを、我々はヒアリングや様々な指標を通じて把握することができます。そうやって、利上げの働きを注意深く観察することによって自然利子率を見定めていくことが考えられます。

すなわち、「モデルで推計された自然利子率と足元の実質金利の関係から緩和度合いを評価する」というアプローチだけではなく、「実質金利の変化が金融環境に与える影響を評価することにより自然利子率を見定める」というアプローチも同時にとっていくことで、地に足の着いた政策判断が可能になるのではないかと思います。

現在の金融環境に関して数字でとれるものをざっと見てみますと、企業の調達金利は上昇していますが(図表11左上)、企業の資産収益率も上昇しており、しかも調達金利よりも資産収益率の方がずっと高いので、企業セクター全体の平均では、借金をして投資しても十分見合う状態が続いているのではないかと考えられます(図表11右上)。また、企業へのアンケートの結果では、銀行の貸出態度や企業の資金繰りの状況も緩和的な状態が続いています(図表11左下)。貸出残高の伸びは高まっており、CPや社債の発行残高も高めの伸びが続いています(図表11右下)。

以上からすれば、利上げによる影響はこれまでのところ限定的であり、金融環境は依然緩和的な領域にあるのではないかというふうに見えます。ただ、影響が数字に出てくるのは必ず遅れます。本日は、みなさまの肌感覚としてどうか、というお話をぜひお聞きしたいと思っております。

1月に日本銀行が公表いたしました「展望レポート」では、先行きの金融政策運営方針について、次のように述べています(図表12左)。

金融政策運営については、現在の実質金利がきわめて低い水準にあることを踏まえると、以上のような経済・物価の見通しが実現していくとすれば、経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことになると考えている。日本銀行は、2%の「物価安定の目標」のもとで、その持続的・安定的な実現という観点から、経済・物価・金融情勢に応じて適切に金融政策を運営していく。

以上ですが、先ほどの「展望レポート・ハイライト」は、この部分についてもイラストで表現しています(図表12右)。ドライバーの右足は依然アクセルの上に置かれていますが、2%のゴールが近づいてきているので、計器盤の3つのメーターに示された経済・物価・金融情勢を見つつ、徐々にアクセルを緩めています。

  1. 6John H. Williams, "The Monetary Doctrines of J. M. Keynes." The Quarterly Journal of Economics, vol. 45, no. 4, 1931, pp. 547–87.

図表1の不十分なところ

なお、この曼荼羅には描き込みませんでしたが、政策金利が金融環境に影響を与える経路は、実は自然利子率と実質金利の関係を通じたものにはとどまりません。政策金利、これは短期の金利ですが、これを動かすと長期の金利も、為替レートも、株価も影響を受けます。これらの相場の動きは、経済活動や物価にも様々な影響を与えます。

ですので、市場の動向はきわめて重要であり、日々注意深くモニターしていく必要がありますが、金融政策に市場がどう反応するかには様々な要因が影響し、一筋縄ではいきません。日々の市場の動きに右往左往すると、かえって投機筋に見透かされてしまうこともあります。「経済と物価の動向に対応してきちんと政策運営を行っている」という信頼を得ることが、まずもって根本にあるべきだろうと思います。

金融政策の位置づけについても一言申し上げたいと思います。経済政策の3つの柱は財政政策、金融政策、構造政策といわれます。この曼荼羅でも、財政政策は「需要ショック」と「供給ショック」として、構造政策は「潜在GDP」と「自然利子率」の変化の形で、それぞれきちんと表現できるのですが、ただ、明示されていませんので、絵だけ見るとまるで金融政策が主役であるかのように見えます。これは私が日本銀行員なので「吾が仏尊し」と信仰しているからというわけではなくて、標準的なマクロ経済学の教科書の枠組みを持ってきたからですが、では、なぜ教科書はそのような教え方をしているのでしょうか。

これにはいろいろ背景があると思いますが、財政政策は経済・物価の安定のみならず国政全般にわたる様々な政策目標を同時に追求していること、構造政策は政策措置を数字で表現しにくいうえに効果が出るまでの時間軸もきわめて長いことから、いずれも内生変数として扱うことが難しく、そのため便宜上こういうモデルを出発点にしているということではないかと想像いたします。重要性の比重とは関係がないはずです。

例えば、本日何回か触れさせていただいた「あちこちに供給力不足の徴が出ているが、みなが満足できるような成長にはなっていない」という問題を解決するためには、「潜在GDP」を高めることが有効だろうと思われますが、これは構造政策が重要な役割を果たし得る分野です。

循環の全体像で考える

さて、以上で経済・物価・金融の循環の全体像の図式的な整理を一通りご覧いただきましたが、どのようにお感じになったでしょうか。もう少し単純明快に整理できないのか、と思われた方もおありではなかったかと思います。

ただ、いろいろな要素が影響しあいながら、循環し、変化していく姿を全体像として把握すること7には、三つぐらいのメリットがあると思います。

第一に、経済の状況について評価する際に、特定の指標の動きだけで判断するのではなく、循環の中の様々な兆候を総合して、全体としていったい何が起きているのかを考えることができるようになります。例えば、全体のシナリオのどこにほころびの兆しが出ても、それに気づきやすいだろうと思います。

第二に、ショックや政策の直接的な影響だけではなく、様々な間接的な経路を通じた副作用やフィードバックにも注意しやすくなるのではないかと思います。

第三に、それぞれの指標には誤差もあれば推計の幅もあります。特殊要因による一時的な動きもあれば、大きな変化の兆しもあります。指標相互の関係や、全体の中での動きを評価することにより、指標のより的確な読み方ができるようになるのではないかと思います。

FRBのパウエル議長は、「入ってくるデータの全体像に基づいて」政策を判断する、としばしば強調していますが、今申し上げたような趣旨も含まれているのではないかなと勝手に想像しています。

  1. 7詳しくは、氷見野良三『易経入門 孔子がギリシア悲劇を読んだら』文春新書、2011年、をご覧ください。

5.おわりに

さて、最後に、和歌山出身の偉人についての物語の中で、私が一番好きな話について触れさせていただければと思います。それは、儒学者山井鼎(やまのいかなえ)と徳川吉宗公の物語です(図表13)。

山井鼎は現在の和歌山県海南市にあたる場所に生まれ、紀州藩の藩校の先生に習った後、京都で伊藤東涯に学び、一人で徒歩で江戸に向かって荻生徂徠の門下となります。そして、下野の足利学校に残る古写本・古版本を主な資料として、儒学の古典の本文批判、テクスト・クリティクを行い、その成果を「七経孟子考文」(図表13左)としてまとめ上げました。

この書物は吉宗に献上され、その画期的な研究に驚いた吉宗は、自ら命じて美濃の国で特別に漉かせた紙を用いて印刷させ、題字を当時随一の書家に揮毫させて、長崎奉行に命じて中国へと輸出させます。

この書物には、やがて長崎往復の商人を通じて中国から注文が繰り返し来るようになります。そして、乾隆帝が四庫全書編纂の号令を出した際に、有名な蔵書家から本書が献上され、ついに四庫全書に収録されるに至りました(図表13右上)。さらに、大考証学者で大政治家の阮元が彼の地で本書の復刻版を刊行します(図表13右下)。

吉川幸次郎によれば、最初の輸出から「六七十年して、中国でもテクスト・クリティクの仕事が盛んになるのは、この山井の書の刺激である」とのことです8

狩野直喜はこの当時の記録を読んで、こんな趣旨のことを述べています。

実にすばらしい意気込みで、百年後の今、これを読んでも、中国の学問を我が国から逆輸入させてみせようという将軍はじめ当時の人達の意気込みに想い到るときには、誠に痛快の感を禁じ得ない次第である9

暴れん坊将軍はどうやら学問の世界でも痛快な暴れん坊だったようです。

ご清聴ありがとうございました。

  1. 8吉川幸次郎『古典について』講談社学術文庫、2021年
  2. 9狩野直喜「山井鼎と七経孟子考文補遺」(『支那学文藪』みすず書房、1973年、所収)。文語調の表現を口語調に改めました。