【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営埼玉県金融経済懇談会における挨拶
日本銀行副総裁 氷見野 良三
2026年8月27日
1.はじめに
本日はお忙しい中ご参加いただきありがとうございます。また、日ごろから日本銀行にご支援、ご協力を賜り、感謝申し上げます。
本日は、私から、経済の動向や金融政策の運営について申し上げたあと、みなさまからご意見をお伺いできればと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
2.経済・物価・金融情勢
まず、中東情勢、AI関連需要、為替相場の動向、金融環境の4点について申し上げます(図表1)。中東情勢に起因する原油価格の上昇は、経済には下押し、物価には上押し方向に働きます。グローバルなAI関連需要の増加は、経済にも物価にも上押し方向に働きます。円安は、経済には上押し・下押し両面に働き、物価には上押し方向に働きます。緩和的な金融環境は、経済活動をサポートすることを通じて、経済にも物価にも上押し方向に働きます。それぞれについて順次検討したうえで、4つ全体を踏まえた景気や物価の見通しについて申し上げたいと思います。
中東情勢
最初に、中東情勢です。
日本銀行では、四半期に一回、その時点での経済や物価についての見通しを取りまとめて、「展望レポート」として公表しています。米国がイランに対する軍事攻撃を開始したのが2月28日でした。その後の展開を受け、4月の展望レポートでは、1つの中心的な見通しと、3つのリスクシナリオ、合計で4つのシナリオを提示いたしました(図表2左)。
楽観的なシナリオから順に並べますと、第一は「急速回復シナリオ」とも呼ぶべきもので、中東情勢を巡る緊張が急速に和らぎ、しかも市場の見方以上に原油価格が速いスピードで下落する、というものです。
第二は「中心的な見通し」です。中東情勢の影響が和らいでいき、原油価格が下落し、サプライチェーンの大規模な混乱も生じない、という見通しで、具体的には、当時の先物市場の見方に従い、ドバイ原油の価格が、4月時点の1バレル105ドル程度から低下していって、再来年度には70ドル台程度になることを想定していました。
第三は、原油価格の「高止まりシナリオ」とでもいうべきもので、105ドル程度の水準が本年末まで続く、というものでした。
第四は、いわば「サプライチェーン混乱シナリオ」とでもいうべきもので、価格だけではなく量の確保にも問題が生じ、わが国企業の生産活動に大きな影響が生じる、というものでした。
拠り所としては原油先物市場の織り込みが一番客観性があるので、これに基づいて中心的な見通しを設定するのは自然な姿です。ただ、私は、「高止まりシナリオ」の可能性もそれなりに高く、場合によっては「サプライチェーン混乱シナリオ」となる可能性もかなりあるのではないか、とも感じておりました。世界の総原油供給の7分の1がホルムズ海峡を通行しており、影響量は過去最大級であること、イラン核合意の破棄をはじめとしたこれまでの経緯からすれば、米国とイランで持続性・安定性のある合意に達することは至難だと思ったこと、合意が得られても、航行の安全についての信頼が回復し、破壊された生産設備が復旧するためには更に時間がかかるだろうと考えたこと、などが理由でした。
しかし、幸いなことに私の懸念は完全に外れ、4月から6月までの展開は、「高止まりシナリオ」どころか、「中心的な見通し」よりはむしろ「急速回復シナリオ」に近いものでした(図表2右)。紅海側からの迂回輸送、米国などによる代替供給、わが国をはじめとした大規模な備蓄放出、中国の石炭転換、米・イラン間の14項目の合意文書の内容など、いずれも私には想定外でした。
ところが7月には、米・イラン双方による攻撃がエスカレートし、フーシ派による紅海の封鎖に向けた活動も始まって、状況は一旦「中心的な見通し」や「高止まりシナリオ」にシフトしているようにも思われました。
一方、第四の「サプライチェーン混乱シナリオ」のリスクは、かなり小さくなったといっていいのではないかと思います。原油については、政府の発表でも、また、過去の船舶の航行データ等から推計された予測値をみても、当面は軍事衝突前の輸入量を概ね確保できる見込みとなっていますし(図表3左・中)、最近では石油備蓄量は高い水準で横ばいで推移しています(図表3右)。ナフサについても米国産やアルジェリア産による代替調達が進展しています。懸念されたサプライチェーンの各段階での在庫の積み増し・抱え込みについても、政府によるきめ細かい対応も功を奏して、米の際に生じたような、供給不足が増幅する現象には至っていません。
以上を要するに、中東情勢の不確実性は依然高いものの、第二の「中心的な見通し」と第三の「高止まりシナリオ」との間で推移していく可能性が高くなっていて、経済の下押し、物価の上押しは起きるものの、量的な制約によって経済の大きな下振れにつながるリスクは小さくなっている、と考えていいのではないかと思います。
グローバルなAI関連需要の増加
次に、AI関連需要についてです。
米国におけるAI関連の設備投資は、2024年頃から爆発的な増加が始まりました。足元では米国全体のIT関連の設備投資額は年間約1.7兆ドル・270兆円相当です(図表4左)。また、2026年にはアマゾン、マイクロソフト、アルファベット、メタ、オラクルの5社だけで年間0.8兆ドル・130兆円程度の設備投資が見込まれており、その大宗がAI関連とみられます。
一方で、私どもは、昨年10月の展望レポートでは、わが国の輸出について、GPUやデータセンター向け製品の多い台湾・韓国とは異なり、わが国IT関連企業の出荷はAI関連需要を十分には取り込めていないのではないか、と説明していました。その後も、輸出品の価格は上昇していても輸出量はそれほど増えておらず、一部のAI関連銘柄の企業の収益や株価にはプラスの影響を与えるものの、経済全体への広がりには欠けるのではないか、という見方をしておりました。
しかし、AI関連輸出の価格上昇は、マクロ的にみても相当な規模に達しています。7月の輸入物価指数(契約通貨ベース)は前年同月比で17%の上昇(図表4中)、輸出物価指数(同)は10%の上昇でした(図表4右)。輸入価格増は、原油や石油化学製品の価格上昇が中心です。他方、輸出価格増で一番大きいのは、AI関連です。実際、7月に輸出価格が前月比で上昇した主な品目をみると、モス型メモリ集積回路、精密測定器、半導体製造装置などといった品目が並んでいます。
中東情勢に起因する交易条件の悪化をAIブームによって相当程度打ち返している姿といっていいと思います。
また、影響のすそ野も思っていたより広いようです。7月の支店長会議の報告では、半導体関連装置や部品の世界シェアが高い地元企業の話など、直接的な話から、データセンターを作るために銅線が必要で、銅の採掘が活発になり、パワーショベルの売り上げが伸びているとか、観光に来る韓国や台湾の人の消費額が増えているとか、やや風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話まで、日本中でさまざまなことが起こっているようでした。地域金融機関の方から聞いた話として、取引先を回っていると「御社もAI銘柄でしたか」と驚くことが多い、という報告もありました。
以上のことは、需要面から経済にも物価にも上押しに働くと思われます。更に、世界的な需給関係からメモリや銅線などの国際相場が上昇し、それが日本の物価にも影響する、という経路も働き始めているようで、例えばパソコンは足元大幅な値上げがみられています。すなわち、物価には需要と供給の両面から上押しに働いていくことが見込まれます。
為替相場の動向
次に為替相場の動向についてです(図表5)。
円安の影響については、さまざまな見方があります。
日本商工会議所が3月に会員に対して行ったアンケートでは、円安の進行の方が金利上昇よりも影響が大きい、という回答が41.5%で、その逆の回答の25.6%を大きく上回りました。グローバル企業の方々とお話していても、巨額の設備投資や資源の確保や企業買収を通じたグローバルな大競争が進む中で、ドル換算した日本経済の規模が小さくなっていくことへの懸念をお聞きすることが多くなったように思います。実際、市場レートで換算した日本経済の規模は、1990年代半ばにはイギリスの4倍以上ありましたが、今ではほぼ並んでいます。NHKが7月に行った世論調査では、円安の日本経済への影響について、「良い影響がある」が22%に対し、「悪い影響がある」が61%だったとのことです。
円安は、グローバル企業の収益やインバウンド需要などにプラスの影響を及ぼす一方、輸入物価の上昇などを通じて、家計の実質所得を下押しするほか、中小企業や小規模事業者の収益にマイナスに作用する面があります。こうしたさまざまな側面をよくみていきたいと考えております。
6月の利上げのあと、「せっかく利上げをしても、円安是正には効かなかったではないか」というご指摘をいただくことがしばしばありました。「ビハインド・ザ・カーブ懸念を払拭し金融政策への信認を確立できるよう、もっと早く利上げをしていればよかったのではないか」という趣旨でおっしゃっている場合もあれば、「利上げには意味がなかったのではないか」という趣旨でおっしゃっている場合もあったように思います。
もとより、金融政策は為替相場のコントロールを目的とするものではありませんが、為替相場の動向は、わが国の経済・物価情勢に影響を及ぼす重要な要因の一つです。過去と比べると為替の変動が物価に影響を及ぼしやすくなっている面があることや、そうした動きが予想物価上昇率の変化を通じて基調的な物価上昇率に影響する可能性があることにも留意が必要と考えています。
こうした点も念頭に置いて、適切に政策を判断していきます、と、ご指摘にはこのようにお答えしてきていますが、この答を聞いてもすっきりしない、釈然としない、というご反応の場合も多いように感じます。なぜこうしたお答えになるのか、という点については、あとで少し補わせていただければと思っております。
金融環境
最後に、金融環境についてです。政策金利の水準は、6月の決定会合で、31年ぶりの水準である1%となりました(図表6左上)。
しかし、デフレの時代には、売り上げや賃金が横ばいとか漸減なので、ゼロ金利・マイナス金利の下でも、借り入れの返済負担は重く感じられます。他方、物価が上がらないので預金の購買力は維持されます。貯めたお金は増えませんが、貯め終わった時に住宅価格が上がってしまっていた、老後の生活費が嵩んでいた、ということにはなりにくいです。
これに対し、物価が2%前後で上昇する時代には、売り上げや賃金も上がりますから、政策金利1%の下でも、借り入れを返済する力も増えていきます。他方、金利が物価上昇率よりも低ければ、実質ベースでみた預金は目減りしますし、目標額を貯め終わったころには、住宅価格や老後の生活費が上がってしまっている可能性もあります。
すなわち、企業や家計が経済活動を行う際の機能の仕方からすると、デフレの時代のゼロ金利・マイナス金利より、デフレではない時代の1%の方が、実際には低い金利かもしれないわけです。
実質金利は短期・中期のゾーンを中心にマイナスになっています(図表6右上)。金融機関の貸出態度も引き続き積極的で(図表6左下)、銀行の貸出残高はこのところ伸び率を高めています(図表6右下)。こうした状況を踏まえると、わが国の金融環境は緩和した状態が維持されており、引き続き、経済活動をしっかりサポートしていくと考えられます。
さて、6月の利上げののちには、「利上げをすれば、中小企業や、住宅ローンを借りている現役世代の負担増となるのではないか」、「利払いが増えれば財政の負担になるのではないか」といったご指摘をいただくことがありました。
名目の利払い額が増加するのはたしかにその通りですが、第一に、売り上げや賃金の増加、名目GDP上昇に伴う歳入増によって、借り入れを返済する力も高まることも、併せて考えるべきではないかと思います。第二に、物価上昇率や経済状況に見合って金利が上昇しないことは、借り手にとっては都合がいいかもしれませんが、預金者には厳しい、という点も考える必要があります。変化の評価には、直近の状況との比較だけではなく、何がノーマルかという視点も必要ではないかと思います。第三に、これが一番重要かもしれませんが、利上げが遅れてインフレが昂進し、急な利上げが必要になるような事態をあらかじめ防いでおくことが、中小企業や、住宅ローンの借り手や、財政にとっても、最終的には望ましいのではないか、と思います。
経済の見通し
次に、景気の現状と先行きについて考えてみたいと思います。
まず、足元の状況については、6月に行った企業へのアンケート調査・短観では、大企業も中小企業も強い業況判断の水準となっていました(図表7左)。企業収益は歴史的な高水準にあり、設備投資の計画も、高い水準を出発点としたうえで更に昨年並みの伸びが見込まれています。消費者マインドは弱めですが、実際の個人消費は堅調です(図表7右)。物価上昇の影響を受けつつも、バブル期以来の人手不足の下でしっかりした賃金の伸びが続いていることが支えとなっているものと思われます。
先行きについては、これまで申し上げてきたような点を踏まえれば、原油価格上昇が下押し要因となるものの、中東情勢が経済の大幅な下振れにつながるリスクは低下していると考えます。グローバルなAI関連需要の増加に加え、政府による各種施策や緩和的な金融環境なども経済を下支えすると考えられます。このため、わが国経済は、伸び率を縮小しつつも、緩やかな成長を続けるとみられます。2027年度以降は、原油高のマイナスの影響が減衰し、所得から支出への前向きな循環メカニズムが徐々に強まっていくことから、成長率を緩やかに高めていくと考えております。
6月の利上げのあとには、「政府が官民の投資を底上げし、日本の潜在成長率を引き上げようと集中的に取り組んでいるのに、利上げをして投資を抑制するのは政府の政策と整合的ではないのではないか」というご指摘をいただくことがありました。
この点については、まず、私どもは金融引き締めではなくて金融緩和の度合いの調整をしている、という点を強調させていただきたいと思います。
また、需要不足の時代に景気の底割れを防ぐためには、設備投資を全般的にサポートすることにも意味があったと思いますが、供給制約の時代に潜在成長率を引き上げていくためには、効率が高く戦略的に有望な投資に重点的に資源配分がなされるよう、金利のメカニズムが機能することが肝心だろうと思います。
投資の制約要因として、人手不足とともに、資材価格の高騰を指摘する声もこのところ多くなっています。適切な金融政策運営を通じて物価の安定を実現することは、わが国の成長投資の拡大を支える観点からも重要だと思います。
物価の見通し
物価については、本年前半は物価安定目標の2%を下回る物価上昇率が続きました(図表8)。
これにはいくつかの要因が複合的に寄与しています。図では米価格の寄与を赤、その他の食料の寄与をピンクで示しています。以前は米価格上昇を起点として食料価格が上昇していましたが、最近ではこれらが減速に転じ、それが物価全体の減速に寄与しています。また、図では緑色の「特殊要因」として示していますが、ガソリン代や電気代に対する補助や私立の高校授業料の無償化など、政府・自治体の施策も物価上昇を抑えるのに寄与しています。
しかし、こうした要因の中には一時的なものも含まれています。石油化学製品の価格上昇は、川上の原油輸入企業から川中の中間財企業までは迅速に転嫁されてきているものの、川下の最終財・サービス企業から消費者に転嫁されるのはこれからが本番と考えられます。更に、グローバルなAI関連需要の増加に伴う半導体価格等の上昇や円安の進展も耐久財などの価格上昇につながっていくと思われます。こうしたことを踏まえますと、年度後半には消費者物価の前年比が2%を上回る水準が続くようになると見込まれます。
さて、6月に私どもが利上げを決めたあとには、「消費者物価指数の上昇率が物価安定の目標である2%を下回っているのに、なぜ利上げをするのか」というご指摘や、「米国とイランが合意に向かい、原油価格も下がり始めているのに、なぜ物価の心配を優先するのか」といったご指摘も受けました。
これに対して、「年度後半にはまた2%を超えていくと見込まれる」とか、「原油価格はまた上がった」とお答えするだけでは不十分だろうと思います。
3月に、和歌山での金融経済懇談会の際の記者会見で、次のようなことを申し上げました。すなわち、日銀は、これまでは足元の物価上昇率が3%前後なのに、物価の基調がまだ2%を下回っているからといって、ゆっくりとしか金融緩和の度合いを調整してこなかった。今後は、足元の物価上昇率が2%を下回っているのに、物価の基調が2%に近づいているからといって利上げをすることになる可能性が高い。どちらも分かりにくいのは同じだが、足元の物価の動きより、物価の基調を重視しているという点で、話が一貫しているということは認めてほしい、と、そう申し上げました。実際、その時に申し上げたような形で、6月に利上げを行ったわけです。
物価の基調というのは、「足元の物価上昇率のうちには、原油価格や米価など一時的な要因で上下している部分があるが、では、そうした一時的な要因が収まったらどんな物価上昇率になるだろうか」という意味です。先行きの見通しを考えるうえで軸になる概念です。精密に特定できるわけではありませんが、私どもはこれをいろんな方法で探りながら、政策を運営しています。足元の物価上昇率についての総務省の統計をよく分析し研究しながらも、精密には特定できない物価の基調の方を重視して政策を運営しています。
なぜそういうやり方をしているかについては、あとで少し補わせていただこうと思いますが、ここでは、物価の基調を探るうえで参考にしている指標を紹介させていただこうと思います。一つ目のグループは、一時的な要因の影響を取り除くための加工を行った指標です(図表9左)。二つ目のグループは、アンケート調査の結果や市場情報から企業や家計や投資家が今後の中長期的な物価上昇率について抱いている予想を計測した指標です(図表9中)。三つ目のグループは、物価の基調の背景にある力をみるための指標で、賃金動向(図表9右)、需給ギャップの推計値、設備不足と人手不足のアンケート結果の加重平均DIなどです。
従来、物価の基調が2%に向かってきちんと上がっていくか、2%に到達してそれが定着するか、ということを主な着眼点として政策判断をしてきたわけですが、これらの指標の動きからすると、今後は、そうした点と併せて、2%を超えていく可能性はどうか、ということも考えながら政策判断をしなくてはならない局面に変わってきているのではないかと思います。
3.当面の金融政策運営
以上のような状況を踏まえまして、今後の金融政策運営につきましては(図表10)、基調的な物価上昇率が2%に近づいているなか、現在の金融環境が緩和的であることを踏まえると、経済・物価・金融情勢に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことになると考えております。
そのうえで、調整のタイミングやペースについては、中東情勢やAI関連需要の拡大、為替相場の変動の影響を含め、経済・物価の中心的な見通しが実現する確度やリスクを点検しながら、検討していく方針です。
とくに、基調的な物価上昇率が2%の「物価安定の目標」を超えて上振れていくリスクが顕在化し、それがその後の経済に悪影響を及ぼすことがないよう、基調的な物価上昇率を2%程度の水準で安定させていくという観点が重要であり、これまで以上に物価の上振れリスクを意識する必要があるだろうと考えています。
以上のような認識をもって、毎回の金融政策決定会合において、しっかりと議論してまいりたいと存じます。
さて、日本銀行は6月に政策金利を引き上げておりますが、その後いろいろな方々と話している中でさまざまな問いかけをいただきました。
今日は、経済や物価の動向について申し上げる中で、こうした問いかけに対する私なりの答を申し上げたつもりですが、多分、お聞きになっていて、何かまだるっこしいような、もどかしいような感じをお受けになったのではないかと思います。SNS上では簡潔で明快な主張と論拠が主流になっていますので、なおさらです。
ただ、学校の試験問題の解答であれば、正しい答えが一つあって、それが正しいことを最短距離で論証すれば満点のわけですが、金融政策については、むしろ多角的・複眼的にみることが求められます。さまざまな経済主体の視点から、さまざまな時間軸で、さまざまな外部環境の展開シナリオも想定して、見通しとリスクを両方評価し、どうしたら「物価の安定を通じて国民経済の健全な発展に資する」という目的に一番近づけるだろうか、を考えるわけです。簡潔で明快な答、最短距離の論証は、本質のみをうまく抜き出せている場合もあるでしょうが、多くのことを捨象している可能性もあるだろうと思います。
また、強く豊かな経済を築く主役は民間企業と個人であり、それを後押しする仕事の主役は政府です。金融政策の役割は、主役である企業・家計・政府の取り組みが経済全体として大きな不均衡を起こさないよう気を付けながらサポートすることですので、金融政策の側からの説明は経済の将来像との関係では話が抽象的・間接的になりがちです。
更に、政府には、インフラ整備、規制改革、補助金、税制措置、投融資、保証など、個別の課題や状況に応じたきめ細かな手段がありますが、金融政策の主な選択肢は利上げ・現状維持・利下げの3つしかありません。金融政策が一つひとつの家計や企業に対して及ぼす影響には違いがありますが、それでも我々の説明は、「経済全体としてみればこういう状況にあるので、この政策が最終的には一番皆のためになるはずだ」という形にならざるをえません。
つまり、いろいろな視点からプラスやマイナスを複雑に議論するが、話が抽象的・間接的になりがちで、しかも個別の経済主体の状況に応じたきめ細かな対応策をお示しすることはできない、という宿命にあるわけです。
しかし、金融政策を巡るコミュニケーションを難しくしている一番大きな理由は、これらの点にも増して、時間軸の問題ではないかと思います。日本銀行では、足元の経済・物価動向を確認しつつ、先行きの中心的な見通しやリスクを点検しながら、政策を運営しています。足元の経済・物価動向をきちんと確認しなければ、先行きの見通しやリスクは判断できませんが、政策運営の判断の中心的な基準になるのは、足元の状況自体よりは、先行きの見通しやリスクの方です。
家計も企業も、今、目の前のさまざまな問題に直面して、それをなんとかしようと苦闘しておられるのに、なぜ先行きの見通しやリスクに重点を置いて政策を判断するのでしょうか。
金融政策は金融市場や景気や物価にさまざまな時間軸で影響を与えます(図表11)。
金融市場にはそれこそ秒単位、場合によってはナノ秒単位で反応が出ますが、あとから時間をかけて追加的に出てくる反応もある1、といった実証研究もあり、影響の全体像は目先の動きだけでは判断できない可能性もあります。
日銀の利上げのあと、金融機関の預金金利や貸出金利が引き上げられるまでに要する時間は、比較的明確に捉えることができます。市場金利連動型の貸出金利は速やかに上昇しますが、多くの金融機関が普通預金金利や短期プライムレートを引き上げるのは、最近の実績をみますと2か月後が中心です。変動金利型の住宅ローンの新規貸出の金利が引き上げられるのはそれよりも遅く、既存の変動金利型住宅ローンへの適用金利が引き上げられるのは更に遅れるのが普通です。適用金利が変わっても、多くの住宅ローンには「5年ルール」などが適用されるため、月々の返済額が変わるのはそのまた先になります。更に、固定金利型の貸出の金利は、新規の貸出の際や満期が来て借り換えになる際にしか変わりません。
こうした金融・資本市場や預金・貸出市場の変化は、ひいては家計や企業の活動に影響を与えていくわけですが、実際の金利の変化をみて行動を変える家計や企業もあるでしょうし、先行きの予想をもとに行動する家計や企業もあるでしょう。ですので、経済活動に影響が生じる度合いやスピードは、市場や適用金利の変化よりも予測しにくい面があります。
更に、物価に影響が出るまでにも時間がかかります。為替相場から輸入物価には比較的速やかに影響が出ますが、企業間の取引価格に対する影響のピークは概ね3か月後、消費者物価への影響のピークは概ね半年後ともいわれていました。最近では価格転嫁が以前より速やかになっているので、これより短くなっていると思いますが、それでも一定のラグは生じます。金利から景気への影響が需給のタイトさ度合いを変えて、それが商品の値付けに影響するまでには更に時間がかかりますし、賃金を通じて物価に波及するためにはそれより更に時間がかかります。
学術研究の分析結果にはかなりのばらつきがありますが2、海外中央銀行当局者の講演などでは、金融政策の変更後、経済や物価への影響は徐々に強まっていくものの、ピークを迎えるまでには1から2年程度はかかる、と想定している場合が多いようです。
こうしたことから、私どもは、「金融政策の波及効果には一定の時間を要することなどを踏まえ、日本銀行では、足元の経済・物価動向を確認しつつ、先行きの中心的な見通しやリスクを点検しながら、政策を運営しています」と申し上げているわけです。
あえて粗雑なたとえを行うとすれば、「大型バスにブレーキとアクセルがついているが、アクセルの踏み方を変えても、ブレーキの踏み方を変えても、バスの走行スピードには時間がたってから徐々にしか効いてこない」というのに似ています。もちろん目的地にはできるだけ早く着きたいのですが、あまりスピードを上げると事故を起こすリスクが高くなります。急ブレーキを踏むとお客様に迷惑がかかります。また、デフレ時代に日本が経験したのは、「スピードが落ちすぎてしまうとアクセルをどんなに踏み込んでもあまり効かなくなってしまう」という厄介な問題でした。
こう申し上げると、景気も、物価も、金融市場も、みなうまくコントロールできる万能の特効薬を期待されている方にはがっかりされてしまうかもしれません。
しかし、仮に万能の特効薬ではないとしても、このアクセルとブレーキとがあるとないとでは大違いです。これらをうまく用いれば、事故のリスクを高めすぎない範囲でできるだけ速く運行することは可能なはずです。すなわち、「国民経済の健全な発展」の望ましい道筋から大きく逸れていってしまうようなことは避けられるはずだと考えます。
バスのスピードは道の傾斜が頻繁に変わるために変動していますが、平地で想定されるスピード(基調的な物価上昇率)が予め設定した目標速度(2%)に近づいているなか、依然アクセルを踏んだ状態にあること(現在の金融環境が緩和的であること)を踏まえると、前方の道路状況や天気予報など(経済・物価・金融情勢)に応じて、適時にアクセルの踏み方を緩めていく(引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく)のが望ましいのではないかと思います(図表10第一段落)。
- 例えば株式市場についてPascal Paul, "The Time-Varying Effect of Monetary Policy on Asset Prices, " The Review of Economics and Statistics 102, no. 4, (October 2020)、為替市場についてMartin Eichenbaum and Charles L. Evans, "Some Empirical Evidence on the Effects of Shocks to Monetary Policy on Exchange Rates, " The Quarterly Journal of Economics 110, no. 4 (November 1995)、など。
- Valerie A. Ramey, "Macroeconomic Shocks and Their Propagation, " Handbook of Macroeconomics , vol. 2, 2016。
4.おわりに
日本銀行は、2年前に新しいお札の発行を開始いたしました。埼玉県出身の渋沢栄一翁には1万円札の顔を務めていただいております(図表12左上)。
渋沢翁は、日本の通貨単位を円と定めることにも貢献されましたし、廃藩置県の日に各地で発行されていた藩札を新しい通貨・円に切り替える作戦を立てられたのも渋沢翁です(図表12右上)。
また、通貨の流通は健全な銀行システムあってのことですが、国立銀行制度の創設を主導されたのも渋沢翁ですし、第一国立銀行の創設・経営、また各地の国立銀行の設立と運営の支援にも尽力されました。
その後、西南戦争が勃発し、政府は戦費を大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣の発行により調達しました。いわゆる財政ファイナンスですが、このために激しいインフレが発生し、給与生活者や年金生活者を困窮させるとともに、経済活動や貿易取引を混乱させてしまいました。こうした状況の下、明治政府は、中央銀行を創立し通貨価値の安定を図ることが不可欠であると考えました。こうして、明治15年、日本銀行条例が制定され、日本銀行が開業するに至ったわけです。
渋沢翁は、第一国立銀行の創設者であり、多くの国立銀行の設立や運営を支援してきたにもかかわらず、紙幣の発行権を日本銀行に集中することができるようにと奔走されました。渋沢翁は、回顧談で、明治15年に日銀を創設することになったことについて述べたうえで、次のように語っています(図表12下)。
「処が前申した様に各国立銀行は紙幣の発行権を持つて居て、二十年に営業満期になつても又継続すれば其の権利はある訳であるから、それでは中央銀行の発行した紙幣がそれ等と同様に見られ、一般に安心して使用出来ないことになるので、拠処なく国立銀行は満期後紙幣の発行を停止すると云ふことにした。
私は当時此事に奔走して、算盤の細かな山中隣之助、安田善次郎等の諸君を説き、又、反対の三輪氏を同意せしめると云ふやうなことに随分骨を折りました。・・・之は十六年のことで、別に物議も起らず命令のみで実行せられたから、世人の注意は惹かなかつたけれども実に大変革であつた・・・。3」
渋沢翁が日本銀行券の顔を務めていただくのにまさにふさわしい方であったことが分かります。
日本銀行の役割は、突き詰めてみれば、みなさまに安心して、しかも効率的に円という通貨を利用していただける環境を守ることにあります。埼玉の生んだ偉人・渋沢翁は、円という通貨の設計・構築が重要な局面を迎えるたびに、大きな視野と構想をもって、必ず中核的な役割を果たされました。日本銀行の立場からはもとより、日本経済全体にとっても、とても大切な先人です。
話が長くなってしまいましたが、ここからは、みなさまから地域経済の実情や日本銀行に対するご意見をお伺いできればと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
- 3「雨夜譚会談話筆記 第七回」(『渋沢栄一伝記資料 別巻5』所収)。
