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【挨拶】我が国の経済・物価情勢と新しい金融緩和政策:金融政策の過去と現在

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旭川市金融経済懇談会における挨拶要旨

日本銀行政策委員会審議委員 白井 さゆり
2013年6月13日

目次

1.はじめに

おはようございます。本日はご多忙のところを、北海道・旭川の行政ならびに経済界を代表する皆様にお集まり頂きまして、誠に有難うございます。私自身、北海道を訪問するのは今回が初めてでございますので、当地を訪問し、こうして懇談の機会を頂きましたことをとても嬉しく思っております。また、皆様には、日頃から日本銀行旭川事務所および札幌支店の業務運営にご協力頂いておりまして、この場をお借りして、改めて御礼を申し上げます。

さて、ご存じのように、日本銀行は、本年4月4日に「量的・質的金融緩和(以下、量的・質的緩和)」と名付けた新しい金融政策を導入致しましたので本日の講演ではこの政策についても触れたいと思います。まず、簡単に講演の流れについて申し上げると、初めの第2部では、我が国の経済・物価情勢について「経済・物価情勢の展望」(以下、展望レポート)の内容も織り交ぜながらお話し致しました後、量的・質的緩和の特徴や金融緩和の波及経路などについてご説明致します。そのうえで、第3部では、量的・質的緩和の本質についてご理解頂くために、それ以前に採用していた「包括的な金融緩和政策(以下、包括緩和)」を振り返って、効果や限界などをお話ししたいと思います。第4部では、話題を変えて、展望レポートについて、4月に行った提案を中心に、私が考えていることを説明させて頂きたく存じます。最後に、旭川経済について若干触れて、講演を締めくくらせて頂きます。その後は、皆様方から、私の講演に対する率直なご意見や当地経済の実情などをお聞かせ頂ければ幸いです。

2.我が国の経済・物価情勢と新しい金融緩和政策

それでは、我が国の経済・物価情勢の現状と先行きについて、4月に公表した展望レポートの内容も織り交ぜながらお話しした後、新しい金融緩和政策やその波及経路などについてご説明致します。

(1)経済・物価の現状と先行き

まず、我が国経済についてですが、持ち直しています。とくに、政府の各種経済対策や復興関連予算増額もあって歳出が大きく上振れていることや、昨年末以降の金融緩和政策への期待と4月の量的・質的緩和導入もあって、足もと調整の動きが続いているものの株高・円安方向で推移してきたことが、景気にプラスの効果をもたらしています。具体的には、消費者マインドが改善し、消費に広がりが見られており、マンション販売を含め住宅投資が活発化しています。また、公共投資の増加も景気を下支えし、企業マインドも改善しています。

先行きについては、金融緩和や経済対策などの効果もあって国内需要が底堅さを増し、海外経済も米国と中国を中心に成長率が次第に高まっていき、円安方向の動きもあって、輸出や鉱工業生産は回復していくと見ています。この結果、2013年央頃には緩やかな回復経路に復していくと考えています。その後は、2回の消費税率の引上げに伴う駆け込み需要とその反動の影響を受けつつも、生産・所得・支出の好循環が維持され、基調的には見通し期間中(2013〜15年度)は潜在成長率を上回る成長が続くと予想しています(図表1)。

また、規制・制度改革や企業による内外の潜在需要の掘り起こしなどの取り組みが徐々に進展し、企業・家計の中長期的な成長期待も徐々に高まっていけば、一段と景気にプラスの影響を及ぼすと想定しています。なお、私としては、成長期待の引上げが重要だと考えておりますが、その理由は、過去の景気回復局面と比べて、現在の資本ストック循環から見た企業の期待成長率が低く、資本の生産性については全産業で低下傾向にあるからです。確かに、鉱工業生産や輸出が増えていけば緩やかに設備投資も増えていくことが見込まれますが、期待成長率を高める成長戦略や企業努力が同時に伴えば、より設備投資が活発化し景気の回復力が強まっていくと考えています。

次に、物価の現状については、円安により輸入物価が上昇しているものの、消費者物価(除く生鮮食品、以下同じ)の前年比変化率は、これまでのところゼロ%ないし小幅のマイナスが続いてきました。先行きについては、消費税率引上げの直接的な影響を除いた消費者物価の前年比は、「GDPギャップ」(実際と潜在的なGDPの差)の改善や中長期的のインフレ期待の高まりなどを反映して上昇傾向をたどり、(政策)委員見通しの中央値では2015年度に2%程度に達する可能性が高いと見ています(図表2、図表3)。図表2で明らかにしていますように、物価の見通しは消費税率引上げの影響を含めたベースと除いたベースの両方を示しております。金融政策の効果を見るうえでは、消費税率引上げの影響を除いたベースが重要ですが、その理由は消費税率の引上げが物価上昇率に及ぼす影響は引上げの当該年度に限定された一時的なもので、金融緩和の効果とは区別して見ていく必要があると考えられるためです。ただ、企業・消費者にとっては、実際に直面する物価は税金と金融緩和などの両方の効果を含めたものになりますので、結局両方のベースとも重要になります。物価の変化率に大きな影響を与えるGDPギャップについては2015年度に入りますと需要超過幅を拡大していくと予想しています。

この間、労働需給の引き締まり傾向は次第に明確となり、名目賃金にも少しずつ上昇圧力がかかっていくと見込まれます(図表4、図表5)。やや詳しくみると、労働市場では2000年代初めから製造業などで新規求職者数が新規求人数を大きく上回り、人余りの状態が趨勢的に続いています。一方で、医療介護分野では景気動向と関係なく雇用者数が増え続けており、恒常的に新規求人数が新規求職者数を大きく上回る人手不足の状態が続いていますが、この分野では女性の労働参加の拡大が顕著に見られています。また、女性の雇用者数は全産業合計で既に世界金融危機以前の水準を上回っており、完全失業率も本年4月には3.8%となり、同危機前の水準近くまで改善していることが注目されます。また、(男女合計の)時間当たり賃金も一般・パート労働者ともに上昇を続けていることから、景気が回復し製造業でも雇用が増えていけば、労働人口の減少もあって、少しずつ労働市場のタイト感が強まっていくと見ています。同時に、女性や若者・高齢者の能力を生かした働き方への改善も必要だと思っています。

中長期的のインフレ期待については、足元では上昇傾向を示している指標もあります。その他の指標についても、今後は2%に向けて徐々に上昇していくと予想されますが、その上昇ペースは実際の物価上昇率がプラスに転じると幾分速まる可能性があります(図表6)。輸入物価については、為替相場の動きが当面の上昇要因として働くうえ、国際商品市況が世界経済の成長に沿って緩やかな上昇基調をたどるとの想定のもと上昇を続けると見込まれます。

(2)経済・物価見通しのリスクバランス

こうした経済見通しに対するリスクについては、(1)国際金融資本市場の動向、(2)海外経済の動向、(3)企業・家計の中長期的な成長期待、(4)消費税率引上げに伴う駆け込み需要とその反動、(5)財政の中長期的な持続可能性といった上振れ・下振れ要因が指摘できますが、全体として「バランスしている」と判断しています(図表7)。また、物価の見通しに対するリスクについては、(1)企業・家計の中長期的な予想物価上昇率、(2)GDPギャップに対する物価の感応度、(3)国際商品市況や為替相場の変動などに伴う輸入物価の動向といった上振れ・下振れ要因が挙げられますが、中長期的な予想物価上昇率の動向を巡る不確実性は大きいものの、リスクは全体として「概ねバランスしている」と判断しています(前掲図表7)。なお、このリスクバランスについての私の考え方は第4部で改めて申し上げます。

(3)「量的・質的緩和」政策とは

次に、4月4日に導入致しました量的・質的緩和についてご説明します。先ほどの経済物価情勢の見通しには、むろん、この緩和効果が織り込まれております。量的・質的緩和は、それ以前の包括緩和の効果や限界についての検討、並びに2013年1月に導入した2%の物価安定目標の意義や背景などを踏まえたものです。この点については第3部で改めて触れますので、まずは、量的・質的緩和の概要などについて、4つの特徴に整理してお話ししたいと思います。

特徴1:国債買入れの増額と年限延長

第一に、2%の物価安定目標の早期実現を目指すための重要な政策手段として国債買入れを位置づけたうえで(詳しくは第3部で説明しますが)、それ以前の包括緩和で区別していた「資産買入等の基金」による国債買入れと「通常の国債買入れオペレーション」(通称、輪番オペ)を統合して、しかも最長「40年」債を含む全ての年限を買入れ対象としました。イールドカーブ全体に対する下押し圧力を高めることが目的です(図表8)。また、「5年以上10年以下」の国債を相対的に多く買入れることで、平均買入年限を従来の(統合後の)3年弱から「7年程度」(6〜8年)へと長期化しています。保有残高が年間約50兆円に相当するペースで増加するよう買入れを行い、2012年末から2014年末までの2年間(以下同じ)で保有残高を2倍にまで拡大します(図表9)。まさに、金額という「量」と年限という「質」両面ともに、日本銀行が過去に実施した金融政策から飛躍する内容となっています。

特徴2:リスク性資産の増額

第二に、「リスクプレミアム」(国債対比でリスク相当分だけ投資家が要求する超過期待収益)の下げ余地があり、経済効果も高いと思われる指数連動型上場投資信託(ETF)と不動産投資信託(J-REIT)についても増額を決定しました。市場規模や日本銀行のリスク量を勘案して毎年各々約1兆円と約300億円に相当するペースで2年間買入れることにしています。ETFについては保有残高が約2倍まで拡大します。社債とCPについては、既にリスクプレミアムが相当程度下がっていることもあり、従来の買入れ規模を維持することにしました。

特徴3:インフレ期待の重視と量的指標の導入

第三に、デフレ脱却のために中長期のインフレ期待への働きかけを重視しています。その理由は、企業・家計の間で中長期的にはインフレ率が上昇するであろうという予想が高まれば、現時点で設定する販売価格や賃金などに影響を及ぼしうるからです。また、インフレ期待の上昇ペースが名目長期金利の上昇ペースを上回る限り、実質長期金利が低下する(またはその予想が形成される)ので、緩和的な金融環境を整えることが可能となります(インフレ期待の概念的な説明については、この後ほどなく、お話し致します)。

インフレ期待についての日本銀行の従来の考え方は、第3部でも触れますが、企業・家計が過去の低い物価観に慣れていることや様々な主体による成長期待を高める努力が必要なことなどから、2%目標の達成にはある程度時間を要するというものでした。私自身は、この考え方は今でも基本的には正しいと思っています。重要なことは、現在、政府の方でも、我が国の成長力を高めるべく多方面から有意義な議論を重ねて具体的な成長戦略を打ち出したほか、一部では既に実行に移されている政策もあり、従来とは政策環境に変化がみられることです。実際に、こうした変化を受けて企業・家計のマインドも改善しつつあり、株高・円安方向の動きも相まって、消費や住宅投資にもプラスの影響を与えているように見受けられます。そうした望ましい局面にあるからこそ、金融政策の枠組みを大胆に変えることで、インフレ期待をこれまでの想定よりも早いペースで安定的に引上げることが可能ではないかと考えられるわけです。とくに、従来の発想にとらわれずに、日本銀行が採り得る最大限可能な金融緩和政策を実施することで、2%の早期実現に対する揺るぎない意思を市場・国民に対して明確に示すことになると考えられます。

では、どのようにして企業・家計の中長期のインフレ期待に働きかけるのかということですが、金融政策の操作目標として金融緩和の「量」を示す指標であるマネタリーベースを採用することにしました。マネタリーベースは、当座預金残高と銀行券発行残高などから構成されています。従って、その量の拡大は、インフレを連想しやすい通貨の大量供給を意味しますので、国民にも直感的に分かりやすいと思われます。また、金融市場では、各国中央銀行の金融緩和の度合いを判断する材料としてマネタリーベースを用いることが多いように思います。経済学においても、マクロ経済学の基礎として必ず学ぶ概念ですので、世界的にも広く知られています。何よりも、金融調節の操作目標が金利から通貨量へ切り替われれば新しい枠組みに転換したというメッセージを強く発信することになり得ます。以上を踏まえて、マネタリーベースの採用が良いと判断したわけです。そこで、日本銀行では、このマネタリーベースを毎年約60〜70兆円のペースで増加させ、2年間でその残高を倍増する目標を示すことにしました(前掲図表9)。

特徴4:金融政策のコミュニケーション戦略の工夫

最後の特徴ですが、皆様は、日本銀行が「2」という数字を頻繁に使っていることにお気づきになられたと思います。「2」というキーワードを用いることで、デフレ脱却に向けた新しい金融緩和のスタンスを市場・国民に分かりやすく伝えるなど、コミュニケーション戦略上の工夫を施しています。本年4月4日の公表文を見て頂ければ分かりますが、2という数字——「2%」の物価安定の目標、「2年程度」の期間を念頭において、マネタリーベースおよび国債・ETFの保有額を「2年間」で「2倍」に拡大、国債買入れの平均残存期間を「2倍」以上に延長——が多く見られます。幸い、こうした工夫に対して、国内外ともに、分かりやすく、スピード感があり日本銀行のデフレ脱却に向けた強い意思が感じられる、との評価を多く頂きました。ただし、後述しますが、コミュニケーション戦略については更なる改善の余地があると思っています。

(4)2%目標の達成に向けた金融緩和の波及経路

実体経済と物価への波及

次に、量的・質的緩和の実体経済への波及経路について申し上げます。第一は、(名目)長期金利や資産価格のリスクプレミアムへの働きかけを通じた経路で、具体的には、資金調達コストの低下、財務基盤の改善、資産効果を通じて、企業・家計の投資・消費活動の活性化を狙うものです。第二は、投資家や金融機関に対して高い収益が得られる資産への投資を促す「ポートフォリオ・リバランス」を通じた経路で、新興・成長企業へのリスクマネーの供給やリスク資産への投資を増やし、経済の成長力を高める効果を見込んでいます。この第一と第二の効果は包括緩和よりも強力であることを期待しています。第三に、中長期のインフレ期待への働きかけを通じた経路で、インフレ期待が高まることによる実質長期金利の低下により、企業の設備投資や家計の耐久財消費、住宅投資などを刺激する効果を想定しています。こうした三つの経路を通じて、総需要の拡大、GDPギャップの改善、インフレ期待の上昇などが生じることで、物価の上昇傾向が高まっていくと考えています。

長期金利への影響

以上は、実体経済と物価に引きつけた量的・質的緩和の波及経路の説明ですが、ここで、長期金利という点に着目して、改めて量的・質的緩和の影響を整理しておきます。長期金利は、一般的には、(1)リスクプレミアム(タームプレミアムなど)と(2)予想短期金利(将来の短期金利の予想経路)によって決定されると考えられます(前掲図表8)。こうした理解を前提にすると、国債買入れについては、主としてリスクプレミアムを、次いで予想短期金利を下押しする効果(後者は特に「シグナリング効果」と呼ばれています)が期待できます。さらに「2%物価目標の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで量的・質的緩和を継続する」というコミットメントは、これらの効果を強めることが期待されます。他方、景気回復期待やインフレ期待の高まりは予想短期金利の押し上げにつながると考えられますし、海外経済の回復などを受けた海外の長期金利の上昇も予想短期金利に影響を及ぼす可能性があります。なお、こうした下押し圧力は、米国を含め、非伝統的な金融政策として資産買入れを行う他国でも見られています。

この間、長期金利の動きをみると、さきほど述べた引下げ・引上げ双方の圧力が加わりながら推移しています。今後の長期金利の動向については、上昇圧力が強まる局面であっても、日本銀行の量的・質的緩和によって金利低下圧力が継続的にかかり続ける(特にリスクプレミアムの低下圧力は国債買入れの継続による累積効果から強まる可能性もあります)ことと、2%物価目標の安定的実現に向けたコミットメントを通じて、(中長期のインフレ期待も先行き緩やかに上昇していく中で)最終的に2%物価安定目標と整合的な水準へ向けて安定していくことが見込まれます。日本銀行としては、今後も債券を含めた金融市場の動きを丹念に点検しつつ、市場参加者との意見交換等を通じた柔軟なオペ運営とも相まって、長短金利ともに全体として安定的な経路に沿って推移することを期待しています。

(5)インフレ期待を何故重視するのか?

 さて、先ほどインフレ期待について触れましたが、主要中央銀行では中長期のインフレ期待が実際のインフレに影響を及ぼす主因とみなされており、量的・質的緩和で鍵となるポイントですので、ここでもう少し掘り下げて説明しておきます。少し専門的な話になりますが、GDPギャップと物価の変化率の間には、「フィリップス曲線」と呼ばれる比例関係があり、GDPギャップがプラス(マイナス)になると、物価の変化率もプラス(マイナス)となる傾向があります。このフィリップス曲線の勾配と切片に関係するものがインフレ期待です。つまり、インフレ期待が高まると、デフレ状況下とは異なり、企業も販売価格に需給やコストの変化をスムーズに反映させ易くなり、フィリップス曲線の勾配がスティープ化していく可能性があります。同時にインフレ期待が2%に向けて高まっていきますと、フィリップス曲線の切片が上昇し、曲線は上方にシフトします(図表10)。しかし、近年では、我が国を含めて、フィリップス曲線がフラット化しており、実際にこのような動きをしていくのか、エコノミストの間でも議論が分かれているように思います。この点については第4部でも触れます。

フィリップス曲線がフラット化している要因

フィリップス曲線のフラット化は多くの先進諸国で見られる現象ですが、我が国の場合、ひとつの見方として、1990年代後半以降の様々な(例えば、流通・通信分野での)規制緩和、内外の競争激化、金融危機とそれによる内需の縮小などによって賃金やマージンに恒常的な低下圧力が加わる中で、企業やスーパー・家電量販店等の流通業者が、需給やコストの動向よりも競争相手の販売価格を意識した価格設定行動をとるようになったことにあると考えられます。価格比較が容易なネット販売の拡大もそうした価格設定行動を促した面もあります。また、価格交渉力が乏しい中小企業ほど投入価格の上昇を販売価格に転嫁しにくい状態が長く続いていることは、直近の3月の日銀短観からも確認できます。いわゆるデフレ下の価格設定行動と言えるように思います。

我が国の中長期のインフレ期待については、とくに1990年代に大きく低下しています(図表11)。これについては、マイナスのGDPギャップ(すなわち需要不足)が長く続き、同時に構造改革や企業側の供給対応の遅れなどで生産性の上昇率の低下が長期化したことが企業・家計の中長期な成長期待の低下につながったため、物価の下落圧力がより大きくなったとの見方もあります(前掲図表6)。このほか、第3部で説明致しますが、「ゼロ金利制約による金融政策」の限界が、中長期のインフレ期待の低下を招いた可能性もあるように思います。

2%の中長期インフレ期待への収斂

他の先進国では1990年代に「実際」のインフレ率が徐々に低下するなかで、中長期のインフレ期待が緩やかに低下して、2%辺りのインフレ目標へと低下・収束しています。この背景には、中央銀行の独立性の確立やインフレ目標の導入(または物価安定の重視)が関係しているようです。例えば、英国の場合、イングランド銀行(BOE)は1992年にインフレ・ターゲティングを導入し、当初は目標を1〜4%の範囲内にすることを決定しています。1997年には目標を2.5%、2004年には2%へと引下げています1。図表12は英国の中長期のインフレ期待が1990年代から2.5%辺りへ収束し、2004年以降に2%前後で推移していることが見てとれます。英国やインフレ・ターゲティングを導入していなくても2%の長期ゴールを設定しその水準辺りで物価の安定化に努めている米国の連邦制度準備理事会(FRB)などの現在の考え方は、既にアンカーとして定着している2%を維持することにあります。

対照的に、我が国の場合は、中長期のインフレ期待をむしろ2%へ引上げてその水準でアンカーを確立しようとしています。そして、その過程において、インフレ期待や企業の価格決定行動が変化していくことにより、フィリップス曲線の傾きがスティープ化しかつ上方シフトすることを想定しているわけです。

  1.   1  1997年にイングランド銀行は金融政策の独立性を獲得し、金融政策委員会(MPC)を設立しています。また、現在では2%目標の下で、1〜3%の範囲を超えた場合に同銀行総裁は財務大臣に対してその原因と対処方法について説明する公開書簡の提出義務があります。

3.包括緩和に対する私の見方と3月会合での提案

さて、以上、経済・物価見通しと量的・質的緩和についての概略をご説明致しましたが、皆様から見れば、何故、従来とは内容が飛躍的に異なる新しい金融政策に踏みだしたのか分かりにくい面があるかと思います。そこで、その新しい政策の本質をご理解頂くために、それ以前の包括緩和の効果や限界、並びに2013年1月に2%の物価安定目標を導入した背景などについて私の見方をお話ししたいと思います。また、私自身、国内外の多方面の方々から私が3月に行った提案や新しい政策についてのご質問を多数頂戴しておりますので、そうした点についても、あわせて率直にお話ししたいと思います。

(1)非伝統的な金融政策とは

まず、一般的な景気後退局面で実施される金融緩和政策について考えてみたいと思います。金融緩和は、通常、(名目)短期金利の引下げによって実施しています。日本銀行の場合、無担保コールレートのオーバーナイト物金利がこの短期金利に相当します。ところが、そうした短期金利がゼロ%近傍にまで下がってしまい、それ以上の引下げが難しくなる場合が起こり得ます。我が国も2008年秋の世界金融危機発生後に、そうした状況に直面しました2。包括緩和とは、そのような局面においてもプラスを維持している、より長めの金利に対する下押し圧力を高める政策です。なかでも、国債金利は、企業向け貸出や住宅ローン、社債等の参照金利として使われており、それに下押し圧力が加われば企業・家計の調達コストの抑制につながります。こうした政策は、いわゆる「ゼロ金利制約の下での非伝統的政策」として、同じように短期金利がほぼゼロ%まで低下した米国のFRBや英国のBOEなども採用しています。

  1.   2  具体的には、2008年10月には政策金利を0.5%前後から0.3%前後へ、同年12月にはさらに0.1%前後まで引下げています。

(2)包括緩和の特徴

包括緩和は2010年10月に導入されましたが、その際に、金融市場調節方針における金利誘導目標(無担保コールレートのオーバーナイト物金利)をそれまでの0.1%程度から0〜0.1%程度へと変更し、実質的な「ゼロ金利政策」を採用しました。しかし、先ほども申し上げたように、ゼロ金利制約下の非伝統的な政策として重視されたのは、既に相当程度下がっている短期金利ではなく長めの金利やリスクプレミアムの下押し圧力を高めることを目的とする金融資産の買入れの方です。国債金利の下押し圧力を通じて、第2部でも触れていますが、企業・家計の資金調達コストの抑制やポートフォリオ・リバランス効果も想定していました。

こうした金融緩和の目的で、バランスシート上に日本銀行は「資産買入等の基金」(以下、基金)を設定し、(残存期間が1〜3 年の)国債、国庫短期証券、社債、CP、ETF、J-REITの買入れ等を進めました。とくに長めの金利に下押し圧力をかけるために、国債や短期国債の買入れを集中的に実施してきました。この基金の残高は、開始当初の35兆円から2012年末には65兆円へ達し、2013年末までに101 兆円へ、さらに2014年中に111兆円程度にまで増加することになっていました(図表13)。

ここで、このうちの2014年以降の資産の買入れについてやや詳しく説明致します。実は、2013年1月に、2014年初からは毎月13兆円程度(償還額の再投資を含むグロスベース)の金融資産を買入れる「期限を定めない資産買入れ方式」(オープンエンド方式)の導入を決定しています。13兆円程度の内訳は、国債が2兆円程度、国庫短期証券が10兆円程度、残りの1兆円は社債やCPの残高維持のために償還分を再投資する額に相当します。この月間買入額をもとに基金の残高を見積もりますと、2014年中には111兆円に達し、それ以降は111兆円程度の残高が維持されることになっていました3

このようなご説明をしますと、包括緩和は、金利やリスクプレミアムの下押し圧力と基金残高(つまり日本銀行の資産の「量」)の拡大のどちらを企図しているのか、という疑問をお持ちになるかと思います。実は、両方です。つまり、包括緩和では、長めの金利やリスクプレミアムの引下げに働きかけることも第一義的な目的と位置づけてきましたが、実際の金融政策運営では、基金の残高目標を設定して、その着実な積み上げを図ってきており、約束した資産の「量」の達成にも事実上コミットしてきたわけです4

  1.   3  国債残高については、2013年末までに44兆円へ、2014年末までに48兆円程度へ拡大した後、その水準の維持が想定されました。次に買入額が大きい国庫短期証券については、2013年末までに24.5兆円へ、2014年末までに30.5兆円程度へ拡大した後に、同水準の維持が想定されていました。
  2.   4  包括緩和において「量」の拡大を第一義的な目的として打ち出さなかった理由は、2001〜06年の「量的金融緩和政策(以下、量的緩和)」との違いを明確にし、またその政策から得られた教訓などを参考にしたためです。量的緩和では、(バランスシートの負債側にある)当座預金残高の「量」を金融政策の操作目標として中心に位置づけ、金融緩和の強化の際にはその量を段階的に増やしていました。包括緩和や量的緩和の詳細については、「チャレンジングな経済環境下での我が国の金融政策」(イタリア中銀セミナー及びユーロアジア・ビジネス経済学会における講演、1月11日-12日)の邦訳をご覧ください。

(3)物価安定の目標2%の導入

2013年1月には、資産買入に関するオープンエンド方式の導入に加えて、もうひとつ大きな政策決定を行っています。消費者物価の前年比(インフレ率)を2%とする物価安定目標を導入し、その目標をできるだけ早期に実現することを目指して、金融緩和を推進すると約束したことです。

2%目標の導入に至った背景

それ以前の日本銀行の物価安定の考え方は、中長期的な物価安定の「目途」という言葉を使って、それを「2%以下のプラスの領域」と位置づけ、「当面は1%を目途」という表現も用いてきました。この「2%以下のプラスの領域」という表現には2%が含まれていますので、主要中央銀行が中長期のインフレ目標(またはゴール)として設定する2%のインフレ率を排除しておりません。

むろん2%という数値を最初から示すことも十分考えられたところです。しかし、各委員が数値の高低含めて異なる物価観を持っている中で、政策委員会としてのコンセンサスを得るために、一定の幅を持った表現を採用することが必要です。また、物価目標の達成のフィージビリティという観点からみても、我が国が長期にわたってマイルドなデフレ状態で推移している中で、企業・家計の経済活動や物価安定の認識が低い物価水準に基づいている可能性があり、より高いインフレ率が許容されるような経済物価環境は徐々に作られていくと考えるのが現実的です。また、政府、日本銀行、金融機関、企業等あらゆる経済主体による成長力強化の努力があればインフレ期待は高まりやすく、実際のインフレ率も高まっていくことが期待されますが、それにはある程度時間を要すると考えてきました。

このように、本年1月以前の表現でも2%の数値は視野に入っていたのですが、「目途」という言葉の持つニュアンスの弱さや数値表現の曖昧さが残ってしまったために、どの程度のインフレ率を念頭に置いているのか、デフレ脱却に向けた強固な意思があるのか、市場・国民に対して伝わりにくい面があったことは否定できません。そうした点を勘案すると、本年1月に明確に2%目標が導入されたことは、それらの問題が克服されたことを意味します。また、私は就任当初から最終的な姿として1%超の高めのインフレ率の実現を目指すべきとの思いがありましたので、これは金融政策運営上の前進だったと考えています。

何故2%を目指すのか?

さてここで、そもそも何故2%を中長期的な物価安定の目標として目指すのか考えてみたいと思います。本来、物価安定とは「インフレが0%で変化しない状態」を指すはずなので、何故、それより高いインフレ率を目指す必要があるのでしょうか。実は、第2部でも触れましたが、近年の主要中央銀行の中長期的なインフレ目標は2%に収斂してきています。その理由は、多くの主要中央銀行が、将来の景気後退局面に備えて金融政策による対応力や機動性を高めておくために、名目短期金利の引下げ余地をできるだけ残しておく必要があるとの認識を共有しているからです。つまり、「ゼロ金利制約」を回避し、短期金利を下げられる余地を残しておくべきという見解が反映されています。

2%インフレ目標についての海外の動向

ここでこの点に関する世界の動向について簡単に触れておきます。まず、国際通貨基金(IMF)のオリヴィエ・ブランチャード調査局長は、2010年に、将来の様々なショックに備えて、米国のインフレ目標を現行の2%程度から4%程度へもっと引上げるべきではないかとの問題意識を示して、大きな話題となりました。また、その後、関連する学術研究も発表されるようになっています5

そうした議論を背景にして、2013年3月のFRBの連邦公開市場委員会(FOMC)後の記者会見において、バーナンキ議長に対して記者の一人が「2%よりも高い水準に(中)長期のインフレ目標を設定し、金利の引下げ余地を作ることを検討したことはあるのか」と質問しています。それに対して、同議長は、(2%のインフレ目標を設定しているにもかかわらず)米国がゼロ金利制約に直面していることを認めたうえで、インフレ目標として0%近傍は望ましくなく、2%程度が適切だと回答しています。つまり、「0%近傍ではデフレリスクが生じ、また名目金利が低すぎるため景気後退に対応しにくくなってしまう。2%はこうしたリスクとインフレのコストのバランスがとれた水準であるので、この目標水準を変更することは考えていない」と発言しています6

また、バーナンキ議長やブランチャード局長が指摘するように、デフレはインフレよりも望ましくないと一般的には考えられています。デフレが長期化しますと、名目長期金利が下がったとしても売上単価や賃金が下落あるいは下落する期待が高まっていることが多く、企業・家計にとって実質的に金利負担が重くなります。その結果、借金をして投資・消費を行う経済活動が抑制されて、経済成長が停滞する可能性があります。また、通貨の増価(円高)や資産価格の低迷を生じかねず、税収不足による財政の悪化をもたらす恐れもあります。

  1.   5  例えば、これまでは2%程度のインフレ目標であればゼロ金利制約に陥る可能性は低いと考えられてきましたが、最近ではもっと高い頻度で発生しやすいと指摘する研究があります。中長期インフレ期待を引上げられれば生産などの実体経済を改善する効果があると指摘する研究も見られます。これらの研究は、インフレ目標をさらに引上げて中長期インフレ期待を高めるべきとの見解を示唆していると思われます。
  2.   6  興味深いのが、その後に続くバーナンキ議長の発言です。同氏は、「2%という数字は最近設定したばかりであり、このテーマは学会で議論がなされている最中なので、その帰結を見守りたい。しかし、数量化を試みることは、興味深いテーマである」と述べており、より明確な学術研究の成果が得られた段階でインフレ目標の変更を検討しうる可能性を示唆しているようにも見受けられます。

(4)包括緩和の効果と限界

包括緩和の効果については、実際、国債利回りやリスクプレミアムが相当程度低下しましたので、それによる景気を下支えする効果があったと考えています。しかし、デフレ脱却には十分な成果を上げていなかったのも事実です(その一因として、リーマンショック以降も、欧州債務問題、東日本大震災、タイの洪水、日中関係などの相次ぐショックが生じたことが影響しているとは思いますが)。しかも、2%目標の導入以降、これまで包括緩和の下で打ち出してきた政策では同目標の達成には不十分だとの認識が市場・国民の間に広がりつつあったと感じています。ここで、そうした認識が広まった要因として、個人的には三つの要因を重視しています。

複雑な金融政策の枠組み:通常の国債買入れオペと基金オペの併存

ひとつは金融政策の枠組みが複雑で、他国と比べて金融政策が分かりにくい面があったことです。とくに私自身が就任以来、折に触れて指摘してきたのが、「通常の国債買入れオペレーション」(通称「輪番オペ」)とは別に、金融緩和の目的として新たに(前述の)基金を設立して国債買入れを始めたことに起因する問題です。このため、私自身は、二つのオペを統合すべきとかねてより考えてきました。輪番オペは、(残高自体は2012年末で65兆円と大きいものの)残高の年間増額ペースは基金と比べてごく僅かな金額ですが、30年債までの年限を万遍なく買入れる方式を採り、1年以上3年以下の国債を大量に買入れる基金とは買入方法が異なっています。輪番オペは、(日本銀行のバランスシートの負債側の)銀行券発行残高を上限としてその残高を見合いに、(資産側として)国債を買入れるものです。この上限設定は、「銀行券ルール」と呼ばれており、成長通貨の供給のためのオペと財政ファイナンスとの誤解の回避という2つの意味合いを持っています。

成長通貨供給オペの側面からみた論点

まず、最初の論点となるのが、輪番オペを金融緩和の目的と区別する根拠の一つとして、「成長通貨の供給のためのオペ」と位置づけてきた点です。成長通貨とは、経済が成長すると経済規模(例えば、名目GDP)が大きくなるので、その分だけ経済に必要な通貨量(銀行券発行残高)も増加するとの見方を反映しています。そこで、経済成長に対応して趨勢的に増えていく銀行券発行残高(日本銀行の負債)の見合いとして、(日本銀行の資産側でも)より長めの国債を買入れるのが適切だという考えが導かれます。このように中央銀行が成長通貨を供給して、その見合いとして国債を買入れる場合、その買入れは景気と物価に対して中立的なので、市場にあまり影響を与えないと考えられます。従って、この目的での国債買入れは、金融緩和措置ではないとも言えるわけです。実際、そうした認識にもとづいて、FRBやBOEも「平常時」は銀行券の見合いとして国債を買入れていました。

ところが、日米英ともにリーマンショック以降の金融緩和の局面では、そうした状況がもはや成り立ちにくくなっています(図表14)。私は、その要因として、銀行券発行残高の増加が、経済成長以外の要因、具体的には積極的な金融緩和それ自体の影響を受けているためと考えています。例えば、金融緩和によって短期金利がきわめて低い水準で推移する中、銀行券を保有してもその機会費用が低下しているため、銀行券需要が経済成長見合い以上に増加している可能性が指摘できます。こうした点を踏まえると、危機以降、非伝統的な金融政策により金融緩和を積極的に進める局面では、国債買入れについて、銀行券発行残高の増加に対応する部分(経済成長に見合う部分)とそれ以外の部分とに区別する必要がなくなっているように思います。

実際、米英では、先ほど指摘した考え方から一時的に離れて、銀行券発行残高をはるかに上回る国債などの資産を大量に買入れ、しかも、その資産買入れ額全体を金融緩和の度合いと位置づけるアプローチを採りました。同時に、従来の長い年限まで買入れる手法をそのまま維持し、場合によっては以前よりも長期の国債の比重を高めて大量買入れを行っています。

財政ファイナンスに関係する側面からみた論点

次に論点となるのは、銀行券ルールの中の財政ファイナンスに関連する側面についてです。これは、政府の借金である国債を日本銀行が買入れることが、財政ファイナンスと市場・国民に誤解されないように国債買入れの上限額を設定したものです。この考え方を維持するために、2010年10月に一時的な金融緩和の目的で基金を導入し、銀行券ルールが適用される輪番オペと明確に区別するアプローチを採用しました。

しかし、基金による金融緩和が長期化していく中で、日本銀行が基金オペと輪番オペの両方で買入れた国債を合計すれば銀行券発行残高を上回る規模となっていました。しかも、基金による国債買入れだけを金融緩和目的と位置づけたことで、買入額全体を金融緩和と位置づける米英などの中央銀行と比べ、国債買入額(あるいは買入年限についても)が見劣りし、金融緩和スタンスも消極的との誤解も生じました。こうした誤解を払拭する意図もあって、2011年8月以降の基金の増額の際には、対外公表文に輪番オペの買入れ額を基金の総額に加えて別途記載し始めました。ところが、市場・国民の皆様からみてその趣旨が分かりにくく、かえって二つの国債買入れ方法が併存するという分かりにくさが増幅されたように思います。

また、日本銀行は、簡便的に金融緩和の度合いとしてバランスシートの規模の実額や対GDP比を示して、他の主要中央銀行と比較することもしばしば行っていました。しかし、その数値には両方のオペによる国債買入れの結果が反映されているわけですから、そのような数値を持ち出したことで、基金だけを金融緩和とみなしてきた本来の趣旨と整合的でないとの指摘も聞かれました。

なお、これとは別に、基金で買入れる国債の最高年限を3年以上に長期化して、例えば5年程度へ延長するべきとの考えを私自身は昨年末から深めるようになりました。しかし、仮にそうなりますと平均買入年限が4年程度の輪番オペとの重複感が強まりますので、こうした点でも、統合を検討すべき理由として考えてきました。

小出しで大胆さに欠けるとみなされた金融緩和

二つ目の問題ですが、包括緩和の導入以降、1回あたり5〜10兆円という規模の基金の増額を9回にわたって行うなど、積極的な金融緩和を実施してきたと思います(前掲図表13)。にもかかわらず、市場・国民との対話が必ずしも効果的ではなかったのか、小出しで大胆さに欠けるとの見方を持たれた方々が少なからずおられたようです。日本銀行はデフレ脱却に消極的との印象を拭えず、金融緩和に対する本気度にある程度疑問が投げかけられていたことは認めなければなりません。また、過去に日本銀行が行った金融緩和の出口のタイミングが早かった——例えば、2000年8月のゼロ金利政策の解除や2006年3月の量的金融緩和政策の解除——との見方も根強いように思います。そうしたこともあり、日本銀行は包括緩和を実施しながらも本気ではデフレ脱却を望んでいないのではないかといった批判に拍車がかかったように感じています。

基金の下での金融緩和の限界

三つ目は、基金の下での金融緩和の方法では、効果が限界に近づいていた点にあります。まずは残存期間3年までの国債を大量に買入れてきた結果、既にこのゾーンの利回りは殆どつぶれており、下げ余地が限定的となっていました。そこで3年以上の年限への延長が考えられるわけです。ここで、例えば2年から3年へ延長した2012年4月時点を思い起こしますと、当時はそれ以前から基金の積み上げが次第に困難になり始めたとみた市場による延長期待が高まっており、延長決定時には既に市場に織り込まれた恰好になっていたとも言われています。市場に催促される形、しかも織り込まれた状態で金融緩和の強化に踏み切ることになると、金融緩和の効果も薄れてしまいます。本年に入り、再び基金の下での手詰まり感を反映してか、市場では5年辺りまでの延長が既に予想されていました。そして、その予想が織り込まれ、その年限の国債利回りも低下して、2012年4月と類似した状況にあったと思います。従って、従来の買入方法と異なる新たな買入方法を模索すべき時期に来ていたと思っています。

(5)本年3月会合における基金・輪番オペ統合と追加金融緩和の提案

以上の問題意識から、私は、金融政策決定会合においても、昨年来、何度か、問題提起を行なってきました。そうした経緯を踏まえて、これまでの主張を取り纏めて3月会合での議案提出に至ったわけです。この提案では、日本銀行が買入れ対象とする資産として最も重要な資産を国債と位置づけた上で、その買入れの具体策をパッケージとして示しています。その内容を簡単に整理しますと、以下の通りです。

第一に、輪番オペと基金オペを統合し、基金の下での国債買入れも輪番オペと同様の30年まで広げて、イールドカーブ全体の押下げ圧力を高めます。30年までのゾーンを含めるのは、多様な年限があれば市場からの買入れも容易になること、金融緩和効果が高まること、金融緩和姿勢の見せ方としてもメッセージ性が強まると考えたからです。

第二に、統合後の国債買入れ額については、現在の月額4兆円程度から「少なくとも5兆円程度」に増額し、「期限を定めない資産買入れ方式」を2014年初から前倒しして速やかに導入します。

なお、平均買入年限については、両者の統合後、残存期間5年程度を中心に買入れを増やすことで、現在の3年弱から4年以上に長期化することを見込んでいました。また、国債の年限別区分については、個人的には、新発国債が多く流動性が高い年限の2年、5年、10年を中心に、「3年以下」、「3年超5年以下」、「5年超10年以下」、「10年超30年以下」といった区分がよいと考えていましたが、実際に各ゾーンで日本銀行による買入れがどの程度可能なのか不透明な部分もありますので、執行部に検討してもらい成案を得たうえで、速やかに導入するという形式をとることに致しました。最終的に、4月4日の量的・質的緩和の導入において、統合が実現に至ったことは、大きな政策の前進であったと大変高く評価しています。

(6)「量的・質的緩和」と私の提案の類似点と相違点

ここで、量的・質的緩和と前述の私の3月提案との関係を申し上げますと、共通している点は、2%の物価安定目標の早期実現を目指すための重要な政策手段として長期国債の買入れを位置づけたこと、イールドカーブ全体への下押し圧力を高めることを重視していること、輪番オペと基金オペを統合したことが挙げられると思います。

一方、両者で異なる点は、月間買入れ額の多寡です。具体的には、私の3月提案はオープンエンドの買入れ方式で少なくとも月間5兆円程度の買入れを速やかに実施するという内容でした。それに対して、新しい政策では2年程度の期間に集中してネットベースで年間50兆円程度、(償還分を含む)グロスベースに換算しますと、月額「7兆円強」の買入れを行うというものです。つまり、私の提案では、より長い期間の金融緩和の実施を想定しつつ、月間買入れ額を少なくとも5兆円程度としているのに対して、4月の政策内容はより短期間に集中してより多額の買入れを行う点に違いがあります。この点、私は、3月の提案において、月間買入額として5兆円程度が妥当と考えましたが、より大胆な金融緩和が必要ではないかとの思いを、3月の提案以降、徐々に強めました。

最終的に、私は、量的・質的緩和の導入に際して、月間国債買入れ額を7兆円強とすることに賛成しましたが、その理由を改めて申し上げれば、以下のとおりです。今申し上げたように3月時点以上の月間買入額が必要だという思いがある一方、国債の新規発行額(月間10兆円程度)に近づくと財政ファイナンスと誤解される懸念がありますので、その中間程度の金額が妥当だと考えたからです。ちなみに、世界金融危機以降、金融市場において、日本銀行はFRBに比べて金融緩和に消極的との意見が多く聞かれましたが、4月の政策は米国対比でみても遜色ないものだと思います。すなわち、月間買入額は(償還分を除く)ネットベースでは4兆円程度ですので、FRBのネットベースの月間買入額である850億ドル(国債450億ドル、MBSが400億ドル、円換算で8.5兆円)の半分程度に達することになります。我が国の経済規模(例えば、名目GDP)が米国の4割程度であることを考えますと、かなりの買入額だということが分かります。また、平均買入年限についても、FRBの平均買入年限が9年程度であることを踏まえれば、7年程度(6〜8年)への延長は十分長期化したと思います。

4.展望レポートに対する私の見解と本年4月会合での提案

さて第2部でもご紹介しました展望レポートについては、量的・質的緩和の導入後初めての公表ということもあり、国民の皆様の関心も高かったかと思います。実際、日本銀行としても、内容をコンパクトなものにする等の見直しを行いましたが、その展望レポートの内容について、私も含めて様々な意見や提案が出されました。そこで、以下では、今回の展望レポートについて、私が考えるところを、実際の提案内容に沿って申し上げたいと思います。

(1)経済・物価見通しを1年延長した理由

まず、今回の展望レポートでは、見通し期間を1年延長して2015年度までとしましたが、その背景について、私の考えをお話しします。重要なポイントは、4月4日の金融政策決定会合において、(消費税率の引上げの影響を除いた)2%目標を、「2年程度の期間を念頭においてできるだけ早期に実現する」べく、量的・質的緩和を導入したことを受けて、市場・国民の間では、いつまでに2%程度が見通せるのか関心が高まっていたということです。従って、そうした関心に応え、経済・物価の先行きに対する日本銀行の認識を分かりやすく示すことが従来以上に求められていると思います。今回は、物価上昇率についての委員見通しの「中央値」をもとにすれば、結果として2015年度に2%程度に達することが見込まれますので、2015年度までの見通しを示すことはこの点でまず適切だと思います(前掲図表2)。また、現時点ではマネタリーベース、国債、ETF、J-REITの買入額を2014年末までの2年分の見通しを示していますが、それらの効果が実際の経済成長率や物価に反映されるまでにはある程度のラグを伴うことを考えますと、政策効果を点検するうえでも、2015年度まで延長するのが妥当と判断しました。

無論、さらに長く延長することも考えられますが、先行きの不確実性は高く、2015年度でも委員の見通しの間で幅が拡大していることをみても、例えば2016年度まで延長したところでそれほど有用な情報を提供できない可能性もあります(前掲図表7)。この点、海外の主要中銀の事例をみますと国によって様々ですが、3年の期間を選択するところが多いようです。7

  1.   7  FRBについては、昨年は5回(1月、4月、6月、9月、12月)経済見通しを発表していますが、このうちの9月までの4回は当該年を含む3年間と長期見通しを示しており、12月時点だけが1年延長した4年間と長期見通しを示しています。欧州中央銀行(ECB)については、年4回(3月、6月、9月、12月)発表していますが、このうちの最初の3回は当該年を含む2年間とし、12月時点のみを3年間としているようです。BOEは数値としてではなくファンチャートとして3年先まで示しています。

(2)リスク要因に関する記述の見直し

消費税率引上げに伴う影響についての私の提案

次に、経済見通しに対する日本銀行のリスク評価については、第2部でも指摘していますが、全体として「上下にバランスしている」と判断しています。ただし、リスク要因のうち消費税率引上げに伴う影響について、個人的には注意してみています。この点は、2%の物価安定目標の実現との兼ね合いでも重要ですし、実際、私は4月26日の金融政策決定会合において提案を行いましたので、その提案の内容にも触れつつ、お話しします。

むろん、財政の健全性と社会保障制度の持続性の見地から消費税率引上げは着実に実施されることが望ましく、その点を問題にしているわけではありません。私が懸念しているのは、今回の消費税率引上げは、1989年の消費税導入と1997年の消費税率引上げ時期と比べて、大規模な金融緩和による物価上昇の影響が重なることが見込まれており、日本銀行や政府による適切なコミュニケーションが行われなければ、消費税率引上げを含めたインフレ率の上昇が家計の想定を上回るのではないか、その結果、家計の予想を超える実質所得の減少によって想定以上に景気が下振れるリスクがあるのではないか、ということです。具体的には、2014年度に予定されている消費税率の5%から8%への引上げは、インフレ率を2%ポイント程度引上げると想定されています。その一方で、企業・家計の間では「2%のインフレ目標」という言葉がメディアなどを通じてかなり浸透しています。ところが、その2%が、家計の側から見れば、消費税率の引上げによる2%なのか、それとも量的・質的緩和の効果にもとづく2%程度のインフレ率を示しているのか、定かではありません。

仮に、両方の効果を含めるのであれば、本来、短期的なインフレ率として、4%程度(消費税引上げ分2%プラスその他の物価上昇分2%程度)が予想されても不思議ではありません。この点、展望レポートで示している委員見通しの中央値で確認しておくと、2014年度の消費者物価(除く生鮮食品)は、消費税率引上げ分を除くベースで1.4%、これに引上げ分を加えれば3.4%にもなり、2%よりも高くなります(前掲図表2)。ところが、実際には、短期のインフレ期待を示す指標をみると、最近上昇傾向にありますが、その水準にはまだ距離があるように見えます。つまり、家計がそれだけのインフレ率の実現を予想しているとは今のところ思えません。むしろ、家計の(2014年度辺りを反映した)「短期」のインフレ期待は、2%程度かそれ以下に留まっている可能性があると考えた方が実感に近いように思います(図表15)。

加えて、消費税率引上げ分を含む物価上昇率に関する認識は、2014年度入り後に消費税率が引上げられてから、急速に国民の間に浸透する可能性があります。つまり、消費税率の上昇分が大きい2014年度については、家計のマインドに物価面から現在想定している以上の下押し圧力が加わることで内需が減少しその影響が長引く可能性を意識しています。

こうした点を踏まえますと、展望レポートの書き振りはその可能性に十分踏み込んでいないと判断致しました。なぜなら同レポートでは「第4に、消費税率引上げに伴う駆け込み需要とその反動の規模は、その時々の実質所得や物価の動向によって大きく変化し得る」との記述に留まっているからです。そこで、私は、4月会合では、当該記述について、家計の実質所得減少の可能性をより織り込んだ記述に変更する旨の提案を行いました(この提案は、後述する展望レポートの「2つの柱」の書き振りについての改善案とともに提出しました)。また、こうした想定外の需要の下押し圧力が生じないように、今後、国民に対して、日本銀行自らが消費税率引上げ分を含めた物価の見通しについて、早くからより効果的に情報発信をしていく必要があると考えています。

なお、私の提案は結果的に否決されましたが、提案の意図は、より実体を反映したリスク要因に関する記述を含めて、具体的な改善を目指したものです。従って、展望レポートの内容自体に反対したわけではありませんので、その後の議長案については最終的に賛成することにしました。いずれにせよ、私が指摘した点は引き続き重要だと考えており、今後も家計・企業のインフレ期待などの動向を把握しながら、注視していきたいと思います。

物価の感応度や転嫁の度合い

次に、日本銀行の物価の見通しに対するリスク評価については、第2部でも触れましたが、リスクは上下に「概ねバランスしている」と判断しています。全体の評価に異論はないのですが、あえて言えば下方リスクを少し意識する必要があると個人的には考えています。

とくに注目しているのは、GDPギャップに対する物価の感応度——すなわちフィリップス曲線の勾配の変化——についてであり、不確実性が高く、想定するほどスティープ化しない(つまりフラットなままの)可能性を意識しております(前掲図表10)。すなわち、消費税率引上げに伴う個人消費の減少を懸念する企業が多い場合には、消費税の上乗せ分以上の(需給ギャップの改善見合いの)販売価格の引上げを2014年度に行わず、一部を2015年度以降に先送りする可能性があるかもしれません。そうした点を考慮すると、2014年度の物価上昇率は想定よりも下振れる可能性を意識しています。

とはいえ、その一方で、為替が円安方向にあることで2012年末から円ベースの輸出物価がプラスに転じていることや一部の安価な輸入品の流入が抑制されることで、国内のデフレ圧力が和らぐ可能性もあります。また、コモディティ価格が軟調なことで2000年代半ばの円安の時期に比べて輸入価格の急騰が回避されています。従いまして、現在は、国内販売価格の上昇や賃金の改善につながりやすい環境になりつつあるとも考えられます。景気回復力が強まり、国内企業が経営体力をつけられれば、価格転嫁や賃金引上げもしやすくなるかもしれません。こうした点をこれからも注視して見ていきたいと思います。

(3)展望レポートの構成:2つの柱についての提案

最後に、4月の決定会合では、展望レポートの構成について、国民への分かりやすさを高めるべきとの観点から、記述方法についての改善提案を行いましたので、この点について説明したいと思います。同レポートは、(1)先行きの経済物価情勢の点検、(2)金融政策運営に当たって重視すべきリスク、をそれぞれ第1の柱と第2の柱として点検するという構成になっています。

この点検作業に異論はありませんが、その構成については日本銀行の意図が十分伝わる形式になっていないと考え、就任当初から様々な機会を捉えて問題提起や議論を行ってきました。そして、最終的には、新体制の下で初めて展望レポートを公表する4月26日会合の場で、改善提案を行いました。すなわち、現状の書き方では、点検作業を第1の柱、第2の柱と名付けて、それらの点検結果を切り出して(後方に位置する)第3章で記述する形式をとっています。しかし、この方法では、第1章と第2章に書かれている内容と第3章とのつながりが一読して分かる構成となっておらず、読者の方々に、二つの柱の意図が十分理解されずに読み過ごされてしまう可能性が高いと感じています。そこで、第3章の第1の柱と第2の柱という用語自体とそれに関する記述を全て削除し、全体の文章を通して該当箇所に適宜それらの柱で点検した内容を織り込むべきとする内容の提案を行いました。具体的な内容は以下のとおりです。

第1の柱に基づく点検結果については、第1章「我が国の経済・物価の中心的な見通し」の最後に記述する。

第2の柱に基づく点検結果については、(1)「景気」部分について、第2章「上振れ要因・下振れ要因」の第1節「経済情勢」の最後に、(2)「物価」部分について、第2章の第2節「物価情勢」の最後に、(3)残る「金融の不均衡」部分について、第3章の「金融政策運営」のなかに残したうえで若干書き改めて、それぞれ記述する。

他にも改善方法は様々あるように思いますが、全体の文章を通してスムーズに読める方が良いと考えたわけです。私としては、日本銀行は、展望レポートを含む公表物について、従来の読者層だけではなく、より多くの市場・国民の皆様にお読み頂けるように、謙虚な気持ちで、読者の視点に立った分かりやすさを追求していくべきだと思っております。私自身は、今後もコミュニケーション戦略の改善について考えていきたいと思っております。

5.終わりに〜旭川・道北経済について〜

最後になりますが、旭川・道北地域の経済情勢についてお話ししたいと思います。当地域では、震災後観光客の減少に見舞われるなど、厳しい経済状況が続いてきましたが、足もとでは、公共投資が底打ちしたほか、円安に伴うインバウンド観光の好調や生産水準の緩やかな回復など、一部に持ち直しの動きがみられています。先行きについては、国内需要が底堅く推移する中、観光好調などが続くことから、持ち直しの動きが徐々に広がってくるとみています。

より長い目でみると、当地域では、全国を上回るペースで人口減少と高齢化が進む中、地場産業の競争力向上と国内外での新規需要創出が喫緊の課題となっています。この点、当地域は、(1)全国有数の農業やブランド力がある食品加工業などの食関連産業、(2)旭山動物園や富良野など豊富な観光資源を擁する観光業、(3)高度な医療技術拠点が集積する医療・福祉サービス、(4)デザイン力に優れる家具などの地場製造業、などに強みを有しており、潜在的な成長力を十分有しているとみております。

幸い、これまでに旭川市をはじめとする官民の関係者の皆様により、(1)地場食材を活用した新商品開発や海外販路開拓、(2)地域の特性を活かした企業誘致、(3)食と観光を一体的にPRする観光振興への取り組み、(4)最新の情報通信技術を活用した遠隔医療ネットワークの国内外への拡大、などが積極的に進められていると伺っております。こうした官民を挙げた取り組みが早期に実を結び、今後、旭川・道北地域の経済が一層発展していくことを心より願っています。

ご清聴頂き、誠に有難うございました。