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【講演】デフレ克服 -我々の挑戦-

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Council on Foreign Relations主催の会合(ニューヨーク)における講演の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2013年10月10日

目次

1.はじめに

本日は、歴史ある外交評議会(Council on Foreign Relations)でお話しする機会を賜り、光栄に存じます。

本席では、日本のデフレとは一体どういうものなのか、日本はどのような問題に直面しているのかお話しした上で、日本銀行がデフレをどのように克服しようとしているのかご説明したいと思います。

2.日本が経験しているデフレ

日本では、これまで15年に渡るデフレが続いてきました。例えば、東京の地下鉄の初乗り運賃は、160円(1.6ドル)で、95年から変わっていません。NYの地下鉄の運賃は、この間、1.5ドルから2.5ドルに上昇しました。公共料金は一般に値下げされにくいので、東京の地下鉄料金は下がりもしませんでしたが、日本の物価全体としては、長期間にわたって緩やかに下落しました。

このように日本の「デフレ」の特徴は、緩やかだが、しつこいということです。これは、大恐慌時代の「デフレ」とは様相が大きく異なる現象です。大恐慌時代の米国でのデフレをみると、短期間に大きな物価下落が起こりました。1931年から1932年の2年間は、年間10%近い激しい物価下落に見舞われましたが、デフレが続いていたのは4年間だけでした。これに対して、日本の消費者物価は、この15年間(1998年度〜2012年度)で、4.1%下落しました。年平均にすれば下落率は0.3%にすぎません。ただし、それは非常にしつこく続くものでした。日本の若者は、生まれた時から、「物価は変わらないか、下がるもの」と思って生活してきたことになります。

小幅であっても長期にわたって物価が下がり続けたことは、日本経済から活力を奪いました。デフレのもとでは、現金や預金を保有していることが、相対的に有利な投資になります。実際、日本の企業が保有する現預金は230兆円と、GDPの5割近くにも達しています。しつこいデフレは、投資を行って新たな事に挑戦するよりも、「現状維持」の方が有利になりやすい環境を作り出し、日本にある種の閉塞感をもたらしてきました。新たな挑戦や投資が過少な経済では、成長力は徐々に低下していってしまいます。だから、今度こそデフレから脱却し、人々の新たな挑戦への意欲を高める必要があるのです。

この15年にも景気循環はありました。しかし、景気が回復しても物価が持続的に上がることはありませんでした。その最も大きな原因は、長年のデフレによって、人々の間に物価は上がらなくて当然であるという根強いデフレ予想が定着し、人々はそれを前提に行動するようになってしまったことです。こうしたもとでは、企業も家計も、そして労働組合でさえも、物価が上がらないことを前提に行動するので、そもそも物価が上がりにくくなってしまいます。

これまで日本銀行は、ゼロ金利政策、量的緩和政策、(最近の用語で言うところの)フォーワードガイダンスといった非伝統的な政策を世界の中央銀行に先駆けて採用するなど、様々な取り組みを行ってきました。しかし、それらは、景気の下支えには機能しても、人々の根強いデフレ予想を変えることはできませんでした。したがって、今回のデフレ脱却にあたっての最大の課題は、人々の予想インフレ率を引上げることにあると言えます。

3.「量的・質的金融緩和」の導入

日本銀行は4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。この新たな政策では、インフレ予想に直接働きかけ、グローバルスタンダードである2%まで引き上げることを狙っています。問題はどうやって実現するかです。

我々が至った結論は、(1)2%の「物価安定の目標」を早期に安定的に実現するという明確な約束を示した上で、(2)その決意を裏打ちするため、従来とは明らかに一線を画する、大規模な金融緩和を行うということです。具体的には、日本銀行が供給するマネタリーベースを2年間で2倍にすると宣言しました。この「量的・質的金融緩和」により、2年後の日本のマネタリーベースは270兆円(2.78兆ドル)となり、対GDP比率は56%に達することになります。ちなみに、現在の米国のマネタリーベースは329兆円(3.39兆ドル)、GDPの20%です。

その際、日本銀行の資産サイドでは、長期国債の保有額を2倍にします。それに伴う巨額の買い入れは、国債市場の需給を変え、長期金利に強力な低下圧力を加えることになります。

ただし、ここに一つ問題がありました。日本の10年物の長期金利は1%もありません。どうやって、さらなる緩和の余地を作るのでしょうか。ポイントは、名目金利から予想インフレ率を差し引いた実質金利です。そして、ここでは、日本では予想インフレ率が低迷していることが、逆にブレークスルーを提供しました。予想インフレ率を引き上げる一方で、名目金利の上昇を抑えることによって、設備投資や個人消費の決定に影響を与える実質金利を引き下げることができるということです。

もう少し丁寧に説明しましょう。欧米では、低めの成長率が続くもとでも、実際の消費者物価は各中央銀行が目標としている2%を中心とした動きとなっており、企業や家計の中長期的な予想インフレ率も概ね2%に近い水準で落ち着いています。すなわち、予想インフレ率がインフレ目標の近傍にアンカーされているということです。この場合、これ以上予想インフレ率を引き上げる訳にはいきません。したがって、実質金利を引き下げるためには、名目金利を引き下げる必要があります。一時期のように長期金利が1%台後半という歴史的な低水準になると、名目金利の引き下げ余地には限りがありますので、実質金利の引き下げ余地も限られることになります。

一方、日本では、予想インフレ率は2%の「物価安定の目標」と比べて低すぎる水準にありますので、これを引き上げる余地が十分にあります。この時、名目金利を予想インフレ率の上昇よりも小さめの上昇に抑制することができれば、その分だけ実質金利を低下させることができます。この実質金利の低下によって、設備投資や個人消費が刺激されることで景気が押し上げられ、実際の物価も徐々に上昇していくと期待できます。そして、実際の物価上昇はインフレ予想の上昇にもつながります。

本日は「量的・質的金融緩和」のすべての経路を説明する時間はありませんが、今説明したことはこの政策の骨格をなす部分です。こうした効果が働くことで、実体経済を刺激し、需給ギャップを改善させるとともに、インフレ予想を上方にシフトさせ、2%の物価安定目標を早期に実現していく、というのが私たちの考えです。

4.「量的・質的金融緩和」の成果とデフレ克服の見通し

それでは、「量的・質的金融緩和」導入から半年が経ちましたが、以上述べた効果は出てきているのでしょうか。結論から言えば、金融市場、実体経済・物価、人々の期待は改善しており、「量的・質的金融緩和」は強力にその効果を発揮しています。いくつか実例を挙げます。

金融市場では、株価は年初から30%以上上昇しています。欧州の13%程度はもとより、米国の16%程度をも大きく上回っています。

実体経済面では、GDPは今年入り後、2四半期連続で約4%の高成長となっています。失業率は、最近では4%前後と、リーマン・ショック前の水準まで低下してきています。

人々の期待も変化しました。消費者コンフィデンスの指標は、昨年末ごろを境に、明確に上方に屈折しています。企業のコンフィデンスの指標をみると、日本銀行の短観の業況判断DIは、昨年12月調査の−9をボトムに、直近の9月調査では+2と、リーマン・ショック前の2007年12月の水準まで改善しています。

物価面に目を転じると、予想インフレ率は、マーケット指標や各種サーベイをみると、全体として上がってきています。例えば、BEI(ブレーク・イーブン・インフレ率)は1年前の0.7%台から、足もとは1.6%台まで上昇しています。消費者に1年後の物価に対する見方を聞いた「生活意識に関するアンケート調査」の回答をみても、物価は上がると答えた人の割合が、昨年12月の調査では5割強に過ぎませんでしたが、今年9月の調査では8割強まで増加しています。また、企業に自社の製商品の販売価格動向を質問した短観の販売価格DIをみると、大企業では昨年12月の−15から、この9月の調査では0まで改善しています。

また、実際のインフレ率をみると、消費者物価指数(除く生鮮食品)は、6月に1年2ヶ月ぶりにプラスになった後、8月には0.8%までプラス幅が拡大しています。

このように、株価は上昇し、実体経済は順調に改善しています。インフレ率もプラスに転化し、インフレ予想も上昇しています。経済・物価情勢と人々の予想が改善していることは、長期金利の上昇要因になります。しかし、日本の長期金利は、日本銀行の国債買入れによる強力な押し下げ効果から、10年物で0.6%台と、昨年の同じ時期よりむしろ若干低い水準にあります。また、5月以降、米国をはじめ世界的な金利上昇がみられていますが、日本の長期金利はほぼ横ばいか若干低下しています。また、銀行の新規貸出金利―企業向け、個人向け全ての平均値―は、1%を下回るという歴史的な低水準にまで低下しています。

一方で、人々の予想インフレ率は全体としては徐々に上がってきていますので、実質金利は低下しています。すなわち、我々が狙っていた状況が生み出されています。この実質金利の低下は、設備投資や住宅投資、個人消費などを刺激し、景気を後押しする効果が見込まれます。また、「量的・質的金融緩和」と政府による各種の施策は、人々の気持ちを前向きにし、アニマルスピリッツに火をつけつつあるように思います。実際、企業の資金調達が活発化する兆しが見られます。昨年度前半に前年比ゼロ%台前半まで低下した銀行貸出は、2%強で緩やかに拡大していますし、社債の発行額もこの4〜6月期には、期しくもデフレが始まった98年7〜9月期以来の高水準を記録しました。また、最近ではIPO(株式の新規公開)も活発になってきています。

このように、「量的・質的金融緩和」は、これまでのところ順調に所期の成果を挙げてきており、大きな手応えを感じています。今後とも、2%の「物価安定の目標」を実現するという強い決意のもとで「量的・質的金融緩和」を推進することで、必ずやデフレからの脱却を達成します。

5.おわりに

日本には、今でも優れた技術や人材という成長の基盤があります。欠けているのは、デフレ下の閉塞感の中で失われた自分たちは成功できるのだという自信やアニマルスピリッツであり、前向きな気持ちです。デフレからの脱却は、こうした閉塞感の払拭とともに進みます。日本は自信を取り戻し、再び力強く成長できると信じています。

日本には今、もうひとつの追い風が吹いています。先般決定した2020年の東京オリンピックの開催は、人々の気持ちを前向きにしています。7年後の東京オリンピックの時には、再び輝きを取り戻した日本で皆さんをお迎えできると思っています。その時、東京の地下鉄には、160円では乗れなくなっているでしょうが。