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【講演】世界経済の新たなフェーズと日本経済の課題日本経済団体連合会審議員会における講演

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2016年12月26日

目次

1.はじめに

日本銀行の黒田でございます。本日は、わが国の経済界を代表する皆様の前でお話しする機会を賜り、誠に光栄に存じます。

今年も残すところ1週間となりました。本席では、その締めくくりに当たって、今年の経済を振り返るとともに、やや長い視点から、現在、世界経済がどのようなフェーズにあるのかについてお話しします。そのうえで、最後に、来年を展望して、日本経済の課題を考えてみたいと思います。

2.今年の世界経済

振り返ってみますと、2016年は、国際金融市場における不安定な動きとともに幕を開けることとなりました。すなわち、年明け早々、中国における人民元レートの動きを巡る不透明感から、上海の株式相場が大幅に下落し、これをきっかけに投資家のリスクセンチメントが急速に悪化しました。その結果、新興国だけでなく、主要先進国においても株価が下落し、長期金利が低下しました。2月下旬に上海で開催されたG20財務大臣・中央銀行総裁会議において、金融市場の変動と世界経済の不確実性の高まりに対して各国が協調して対応していく方針を示したこともあって、市場は、いったんは落ち着きを取り戻しました。もっとも、その後、6月下旬に、英国の国民投票においてEU離脱の方針が示されたことなどから、金融市場では、秋にかけて世界的にいわゆる「リスクオフ」の流れが継続しました。こうしたもとで、景気や物価についても、趨勢的な経済成長率の低下、いわゆる「長期停滞論」(secular stagnation)や、世界的なインフレ率の低下が盛んに議論されました。皆様にとっても、今年は、世界経済の先行きに対する悲観的な見方が拡がった一年であったという印象が強いのではないかと思います。

もっとも、客観的にみると、世界経済は決して悪い状況ではありません。各国の成長率をみると、先進国では、堅調な米国経済を中心に、足もとにかけて伸びを高めています(図表1)。米国経済については、大統領選挙の結果を受けて、先行きの成長率の高まりを予想する向きが増えていますが、実は、それ以前から各種の経済指標は着実に改善を続けています。また、新興国・資源国でも、各国における政策対応の効果もあって、成長のモメンタムが緩やかながらもピックアップしています。このように、世界経済は、全体として上向きつつあるように見受けられます。実際、国際機関による予測をみても、IMFは10月に公表した世界経済見通しにおいて、久しぶりに見通しの下方修正を行いませんでしたし、OECDは、先月公表の経済見通しにおいて上方修正を行っています(図表2)。

やや長い目で俯瞰しますと、世界経済は、グローバル金融危機、いわゆるリーマン・ショック後の調整局面をようやく脱し、新たなフェーズに入りつつあるように窺われます。以下では、グローバル金融危機後の世界経済を振り返りつつ、足もとにおいて生じている変化について考えてみたいと思います。

3.グローバル金融危機後の世界経済

2008年秋に生じたグローバル金融危機後、世界経済の成長率は大幅に減速しましたが、とりわけ、世界貿易量の鈍化、製造業の減速、設備投資の低迷、といった点が顕著でした。例えば、世界各国の輸入を合計して算出した世界貿易量の動きをみますと、最近における伸び率は、金融危機前の平均を大きく下回っています(図表3)。また、世界貿易量の水準を、グローバルな実質GDPから示唆されるトレンドと対比してみても、金融危機後、トレンドから大幅に下方に乖離しています。こうした世界的な貿易の鈍化は、「スロー・トレード」(slow trade)と呼ばれており、グローバル金融危機後の世界経済の大きな特徴となっています。

「スロー・トレード」の背景については、日本銀行を含む政策当局者やエコノミストが様々な分析を行っています。現時点では、確定的な結論が得られている訳ではありませんが、循環的な需要要因に加えて、グローバル・サプライ・チェーンの拡大一服や、中国における内製化の進展といった構造的な要因の存在が指摘されています。特に、こうした分析で指摘されているのは、地域的には新興国の輸入の減少、財別には資本財の輸入の減少が顕著であったということです。世界の実質輸入を先進国と新興国に分けてみると、新興国において、トレンドからの下振れが目立っています(図表4)。また、世界の実質輸入の変化を財別に分解しますと、資本財の輸入の減少が顕著になっています。これらの事実は、新興国経済を中心とした設備投資需要の低迷が世界的な貿易の鈍化の大きな要因となってきたことを示唆しています。資本財に対する需要が低迷を続けたことは、この分野に比較優位を持つわが国の製造業にとっては、特にマイナスの影響が大きかったものと思います。

このように、「スロー・トレード」が続く中にあって、先進国から新興国向けの輸出は伸び悩み、製造業部門の活動が抑制されました。製造業部門は、多くの国で、景気循環のドライバーとしての役割が大きく、その減速は、先進国の景気回復にとって重石となってきたと考えられます。こうしたもとで、米国や欧州などの先進国では、過去数年間、企業支出が力強さを欠く中で、家計支出の伸びを高めることによって景気回復を実現してきました(図表5)。

もっとも、最近では変化の兆しが窺われます。製造業の全体的な景況感を示すPMIは、昨年来、弱めの動きを続けてきましたが、ここに来て、先進国、新興国・資源国の双方においてはっきりと改善しています(図表6)。また、新興国経済の輸入動向をみますと、中国やASEAN諸国において、下げ止まりから持ち直しの動きとなっています。新興国の輸入の弱さが「スロー・トレード」の大きな部分を占めてきたことを踏まえると、現在生じつつある新興国の輸入の回復は、先進国における製造業に対しても、幅広くプラスの誘発効果をもたらすものと考えられます。

この間、マクロ経済政策の面では、金融政策については、先進国を中心に、国債などの資産の買入れによる量的緩和やマイナス金利などの非伝統的な政策手段を活用しつつ、きわめて積極的な金融緩和が進められてきました。財政政策については、グローバル金融危機の直後は、G20各国で協調して積極的な財政支出が行われましたが、その後は、欧州を中心に、中立的ないし幾分抑制的に運営されてきました。しかし、本年入り後は、世界的な不確実性の高まりが意識されるもとで、G20やIMFにおいて、「力強く、持続的でバランスの取れた包摂的な成長(strong, sustainable, balanced, and inclusive growth)」の実現に向けて、金融政策、財政政策、構造政策の3つを総動員する方針(three-pronged approach)が打ち出されました。現在、各国当局は、こうした考え方を踏まえたうえで、経済成長をサポートしています。

以上申し上げましたように、最近の世界経済は、新興国において成長モメンタムのピックアップがみられるほか、こうした動きを反映して、先進国でも、これまで家計部門中心であった景気回復が、製造業を含めた企業部門にも拡がりつつあります。グローバルな需要の回復を受けて、原油をはじめとするコモディティ価格も、今年前半には底入れし、上昇に転じています(図表7)。先行きについては、不確実性が引き続き大きいことは確かですが、世界経済は、ようやくグローバル金融危機の負の「レガシー」を清算して、新たなフェーズに入りつつあるように窺われます。

4.世界の中での日本経済

次に、こうした世界経済の中における日本経済についてお話しします。2008年に発生したグローバル金融危機は、日本経済にも大きな影響を与えました。ご承知のように、グローバル金融危機は、欧米におけるサブプライム関連損失による金融システムに対する不安をきっかけに拡がりました。この点、わが国の金融機関の損失は限定的であり、金融システムの健全性が維持されていたにもかかわらず、実体経済面での落ち込みが、震源地である欧米を上回るものとなったことが大きな特徴です(図表8)。その背景としては、主として2つの点が指摘できると考えています。第一に、先ほどみましたように、日本経済の「得意分野」である製造業、特に資本財の需要が世界的に低迷したことです。第二に、わが国では金利の低下余地が小さかったことに加えて、国際金融市場において円が「安全通貨」であると認識されていたこともあって、グローバル金融危機の発生を受けて過度の円高が進行し、製造業を中心に大きなマイナスのインパクトを与えたことです。

このように、日本経済は、世界の中でも特に不利な状況に置かれていました。こうしたもとで、日本銀行は、既に0.5%まで低下していた短期の政策金利を0.1%に引き下げたことに加え、CPなどのリスク性資産の買入れを含めた「包括的な金融緩和政策」を実施するなどの対応を行いました。もっとも、短期金利の引き下げ余地が限定的であった中で、緩和効果は十分ではなく、デフレからの脱却には至りませんでした。

そこで、日本銀行は、2013年4月、2%の「物価安定の目標」をできるだけ早期に実現するため、それまでとは次元を異にする大規模な金融緩和策である「量的・質的金融緩和」を導入しました。この政策は、多額の国債買入れによってイールドカーブ全体にわたって金利に低下圧力を加える一方、日本銀行の強く明確なコミットメントによって人々の予想物価上昇率を引き上げることによって、実質金利を引き下げることを主たる波及メカニズムとしています。その後、2014年10月には「量的・質的金融緩和」の拡大を行ったほか、2016年1月にはマイナス金利政策を導入するなど、強力な金融緩和を推進してきました。その結果、この3年半あまりで、わが国の経済情勢は大きく好転しました(図表9)。過度な円高は是正され、株価は大きく上昇しました。さらに、企業収益が過去最高水準となり、設備投資も回復しました。雇用・所得環境も、失業率が3%に低下するなど「完全雇用」に近い状況が実現するもとで、賃金も緩やかな増加を続けています。物価面でも、原油価格の大幅下落の影響は続いているものの、「物価が持続的に下落する」という意味でのデフレではなくなりました。

たしかに、本年前半については、株価下落に伴うマイナスの資産効果やマインド面の影響などから、個人消費の一部に弱さがみられました。また、企業活動の面でも、新興国の減速や円高の影響に加えて、熊本地震の発生などによる供給制約もあって、輸出や生産の面で鈍い動きが続きました。こうしたもとで、物価上昇のモメンタムも緩やかに低下しました。しかしながら、最近の経済指標をみると、足もとの経済については改善の動きが拡がっています(図表10)。まず、個人消費は、このところ、持ち直しを示唆する指標が増えています。例えば、日本銀行が各種の販売・供給統計をベースに作成している消費活動指数をみると、本年前半は弱めの動きが続きましたが、足もとではしっかりと増加しています。また、景気ウォッチャー調査などのアンケート調査も改善しています。先行きについても、雇用・所得環境が着実な改善を続けるもとで、個人消費は緩やかに増加していくとみています。雇用者所得の面では、近年、企業収益が高水準で推移するもとで、労働分配率は低下傾向にあり、長期平均を下回っています。一方、失業率や有効求人倍率、短観の雇用人員判断など、どの指標をみても、労働需給は引き締まった状態にあります。このため、賃金が上昇していく環境は十分に整っていると考えています。賃金は、個々の企業にとっては人件費というコストですが、マクロ経済の観点からみると、雇用者所得として家計の購買力の源泉となるものです。賃金や雇用者所得が持続的に増加していくことにより、個人消費の増加はより確かなものになっていくと思います。さらに、企業活動の面でも、最近では、新興国の需要の回復もあって、わが国の輸出や生産も増加しています。こうしたことから、日本銀行では、先般の金融政策決定会合において、わが国経済の現状判断を久しぶりに引き上げたところです。

日本経済は、これまでは、いわばグローバル経済の「逆風」の中で奮闘してきましたが、世界経済が新たなフェーズに入る中で、これからは「追い風」を受けてさらに前進していくことが可能な状況になってきていると思っています。

5.日本経済の課題:来年を展望して

そこで、最後に、来年を展望して、日本経済の課題について申し上げたいと思います。本日ご説明したように、世界経済は現在、新しいフェーズに入りつつあり、グローバルな「追い風」の中で、企業経営という観点でみれば、「チャンス到来」と言える状況が生じつつあります。そうした流れの中で、国内においても、海外においても、先んじて行動することが重要になっていると思います。幸い、技術的な面では、幅広い分野で、IoT、AI、ビッグ・データなどの活用が見込まれており、新しい製品やビジネスが生まれる素地は整ってきているように思います。

デフレや低成長を続けてきたわが国では、やや長い目でみた経済の先行きについて慎重な見方があることは承知しています。しかし、どのような状況においても、新しい成長の芽を掘り起こしていくことができるのは、企業家の皆様です。この点、成長の源泉として企業によるイノベーションの役割を重視した経済学者であるシュンペーターは、その代表的著作である『経済発展の理論』の中で、こう述べています。すなわち、

  • 「経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現れ、その圧力によって生産機構の方向が変えられるというふうに行われるのではない」
  • 「むしろ新しい欲望が生産の側から消費者に教え込まれ、したがってイニシアチブは生産の側にあるというふうに行われるのが常である」

ということです。私は、シュンペーターが言うように、企業の皆様が、さまざまなレベルにおいて創造的な力を発揮され、主体的に需要の掘り起こしを行い、消費者の潜在的なニーズを、企業の側から捉えていくことが、日本経済の成長にとってきわめて重要であると思います。

マクロ経済政策の面では、企業がグローバルな「追い風」を最大限活かせるような経済環境を作り出すことが重要です。この点、政府は、財政面で、本年8月に「未来への投資を実現する経済対策」を策定し、今後、その執行を本格化する予定です。構造政策の面でも、労働市場における「働き方改革」の推進をはじめとして、各種の規制・制度改革など日本経済の成長力を高める様々な施策に取り組んでいます。これらの施策は、企業がイノベーションを進め易い環境を整備するものであり、中長期的にみて日本経済の成長力強化に繋がるものであると考えています。

日本銀行は、本年9月に行われた金融政策決定会合において、これまでの金融緩和策についての「総括的な検証」を行い、その結果を踏まえて、金融政策の新たな枠組みとして「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入しました。具体的には、「イールドカーブ・コントロール」と「オーバーシュート型コミットメント」の2つの柱から成り立っています。この政策の枠組みは、経済や物価を押し上げる「追い風」の効果をさらに強める働きがあります。例えば、政府の財政支出は、通常は、金利の上昇などにより、民間投資を抑制するいわゆる「クラウディング・アウト」をもたらしますが、日本銀行が長短金利を抑えることによって、これを防ぐことができます。また、民間企業の皆様のご努力や政府の成長力強化の取り組みによって、将来の成長や物価に関する期待が高まれば、低い長短金利水準は、経済・物価に対してより強い押し上げ効果を持つことになります。さらに、グローバル化した金融市場においては、本日お話ししたような海外経済の好転が明確になっていくにしたがって、日本の長期金利にも上昇圧力がかかっていきます。実際、先月以降、米国の長期金利が大幅に上昇し、その影響から多くの国において長期金利が上昇していますが、わが国の10年物金利は「ゼロ%程度」で安定的に推移しています。このことは、「イールドカーブ・コントロール」が所期の効果を発揮していることを示しています。日本銀行は、この政策の枠組みを適切に運営することによって、グローバル経済の回復のモメンタムを、わが国経済にとってより大きな「推進力」に増幅していくことが可能になると考えています。さらに、そのことが企業の積極的な活動に繋がれば、その動きをさらに加速していくことができると思います。

また、日本銀行は、この政策のもう一つの柱である「オーバーシュート型コミットメント」によって、消費者物価上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまで、大規模な金融緩和を続けることを約束しています。この3年半の金融緩和のもとで、日本経済は、デフレではなくなりました。例えば、4年前、2012年の年末と比べ、経済・物価情勢が好転したことは、皆様の実感にも合うと思います。しかし、グローバル・スタンダードである2%はなお達成できていないのも事実です。2度とあのデフレの時代に戻らないためにも、今回の緩和によって、2%を是非実現しなければなりません。

この点、2%の「物価安定の目標」について一部には、「わが国経済の現状を踏まえると、高過ぎる目標ではないか」との声も聞かれます。しかしながら、先ほどご説明したように、リーマン・ショックの際、欧米諸国と異なり、金融政策対応の余地が限られたのは、わが国だけがデフレの状況にあったからに他なりません。こうした過去の苦しい経験を踏まえると、グローバル・スタンダードである2%程度の物価上昇を実現し、景気に中立的な金利の水準を引き上げることによって、金融政策の対応力を確保しておくことが不可欠です。実際、海外の中央銀行やエコノミストの間では、「政策の対応力を確保するためには、2%の物価上昇は不十分であり、3%ないし4%の物価上昇を目指すべきではないか」といった議論さえ行われています。日本の経験やグローバル金融危機後の各国の経験を踏まえると、デフレに陥り金融政策の対応力を失うことの危険性がそれほどまでに強く意識されているということです。なお、この議論の一つの系として「わが国の潜在成長率は諸外国に比べて低いため、低めの物価上昇率を目指すべきである」との意見も聞かれますが、私は、むしろ逆だと思います。景気に中立的な金利水準は、理論的には、潜在成長率に中長期的な物価上昇率を加えたものになります。政策対応力の確保という観点からは、低い潜在成長率は、より高い物価上昇率を目指すべき理由にはなり得ても、より低い物価上昇率で満足すべき理由にはなりません。潜在成長率が低いほど、デフレに陥るリスクは大きくなり、それだけ十分なのりしろが必要になるということです。もとより、日本銀行が目指しているのは、あくまでもグローバル・スタンダードである2%です。「オーバーシュート型コミットメント」は、日本銀行がこの目標を必ず成し遂げるというスタンスを明確にしたものです。

この一年は、企業経営者の方々にとっても、日本銀行にとっても厳しい一年でしたが、風向きは「逆風」から「追い風」に変わりつつあります。新しい年、2017年は、日本経済がデフレ脱却に向けて大きく歩みを進める年になるものと思います。先ほど申し上げたような、企業の皆様の前向きな取り組みによって、こうした歩みが確実なものとなることを期待して、本日のお話を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。