日本銀行パリ事務所 欧州で政治と金融の交差点を読み解く(2026年9月25日掲載)
欧州は複数の国家が独自の歴史と文化を持ちながら、EU(欧州連合)という超国家的な枠組みの下で共存する、世界でも類を見ない地域です。政治や経済の仕組みが重層的で複雑なこの地域において、現地ならではの情報を収集し、日本銀行の政策判断を支える最前線となっているパリ事務所の活動をご紹介します。
ある夏の日の朝。パリ事務所駐在員の塩原じゅんさんは、ベルギー・ブリュッセルの欧州委員会(EUの行政機関)の建物前で、その日の面談に備えていました。パリ事務所の駐在員が、どうしてブリュッセルにいるのでしょうか?
EUと国家の二重構造
事務所のあるアルマ橋から望むセーヌ川とエッフェル塔。
この素朴な疑問に答えるには、欧州が「EUと国家の二重構造」であるという、基本的な成り立ちを改めてひもとく必要があります。
皆さんもニュースなどで、「○○についてEUが決定を下した」といった言葉を耳にすることがあるかもしれません。EUは、それ自体が一つの国と同様、行政・立法・司法といった機能・機関を有しています。こうしたEUの公的機関のために働く人は約5万人に上るとも言われます。
日銀パリ事務所は欧州で、フランス・イタリア・スペインといった主要国に加えてベルギーも管轄しており、そこには多くのEU機関が置かれています。そのため所員は「EUの首都」たるブリュッセルにも頻繁に足を運び、現地での議論をフォローしているのです。
特に最近、ブリュッセルでの情報収集は一段と重みを増していると、駐在員らを束ねる渡邉明彦パリ事務所長は感じています。
「欧州では『平和の配当』の時代が転換期を迎え、防衛問題や経済安全保障など市民生活に直結する問題に直面する中にあって、新たな欧州のあり方を模索する途上にあります」
と、渡邉所長は話します。
「そうした中で、本来であれば純粋に金融・経済的なトピックとして議論されるようなテーマが、政治的な議論の対象へと変貌してきています」その例はEUの経済・財政政策や銀行監督にとどまらず、デジタルユーロや決済システムを巡る議論に及びます。
EUという巨大な存在がありつつ、その内側で各国の思惑がぶつかり合い、政治の力学で物事が決まっていく。
「そんな中、公表される経済統計や表面的な金融の事象だけを追っていては、本質を見誤ることになりかねません」と、冒頭の塩原さん(EU担当)は話します。
「日銀の政策判断に役立つような動向を読み解くには、識者との膝詰めでの対話が欠かせません。その実現には、現場での確かな信頼関係の構築が必要です」
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ブリュッセルのEU議会関連施設は美しい公園の中にあります。
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パリには多くの国際機関が立地しています(IEA前に立つ渡邉所長)。
各国動向の重要性と言語の壁
もちろん、ブリュッセルだけを見ていればいいということはありません。
「EUは、多様な歴史・文化を持った主権国家の集まりです。EU機関だけでなく各国の経済・政治情勢の最新動向や変化など、ダイナミズムを幅広く把握することも、パリ事務所の重要な任務です」
各国の調査を担当する岡田敦希駐在員は、そう話します。
「特にフランスは、ドイツに並ぶ大国として欧州全体の意思決定に大きな影響力を持っています」
と、岡田さんは続けます。
国際政治が揺れ動く中、大陸欧州で唯一核兵器を保有するなど、安全保障分野で存在感が大きいのがフランスです。また、原子力発電が広く普及し、農業も盛んなのでエネルギー・食料ともに自給率が高く、足腰の強い国でもあります。金融業界で言えば、G-SIBs(グローバルなシステム上重要な銀行)が大陸欧州で一番多いのもフランスです。
さらに、経済協力開発機構(OECD)や国際エネルギー機関(IEA)など、よく知られた国際機関もパリに本拠地があります。世界で約3.9億人の話者を擁する「フランコフォニー(フランス語圏)」の中心として、国際社会での存在感は日本から見るよりはるかに大きく感じられます。
現地スタッフはフランス語、英語、時にはイタリア語も駆使して駐在員をサポートする頼もしい存在です。
当地での情報収集には、この言語の壁が付きまといます。英語話者が増えたとはいえ、パリの現場ではまだまだ、フランス語を使った方が、深い信頼を築ける場面もあるのです。
駐在以前にパリに留学していた塩原さんは話します。「ある時本店から、『アフリカの中銀関係者と英語で意思疎通ができないので、フランス語でやり取りしてくれないか』と頼まれました」
塩原さんは留学先での語学クラスの経験も活かして連絡を取り持ちましたが、その際には「事務所のローカルスタッフにも大いに助けられた」と振り返ります。
信頼の再構築
少し時をさかのぼると、パリ事務所が長年にわたり、地道に築いてきた信頼関係が揺らぎそうになった時期もありました。2020年に始まったコロナ禍では、各国関係者との対面でのつながりが寸断されてしまったのです。
「信頼関係」の裏には拘束力も強制力もありませんから、こればかりは仕方ありません。しかしこうした逆境にもめげず、ここ2年ほどパリ事務所では、欧州各地でのネットワークを再び強固にするため、地道にプロセスを進めてきました。こうして積み上げ直した関係は、時に思いも寄らない、大きな力を発揮することがあります。
「東京で関係を築いていたイタリア中銀の方が起点でした」と渡邉所長以下、塩原・岡田両駐在員は最近の印象深いエピソードとして、偶然の出会いからつながった情報収集の成功体験を振り返ります。
「そのご縁からパリでのレセプションに招待いただき、そこで偶然会話をした方が、当地で現金流通を管轄するフランス内務省の関係者だったのです」
「その方を通じてフランスの発券業務分野での人脈が一気に広がりました。結果として、フランス中銀関係者のほか、パリ貨幣博物館(注)の方との関係構築なども実現し、本店に対して有益な情報をつなぐことができました」
机上の空論だけではない、現場での地道なコミュニケーションと、偶然の出会いをも確かな信頼に変えていく努力こそが、パリ事務所の真骨頂です。
- (注)パリ貨幣博物館訪問については広報誌「にちぎん」2025年冬号巻末「AIR MAIL」をご覧ください。
歴史の中で パリ事務所のルーツ
ところで、日銀と大陸欧州、特にフランスやベルギーとの縁は長い歴史があり、最近始まったわけではありません。
さかのぼること明治時代、日銀の創設者である松方正義が欧州を視察した際には、当時のフランス大蔵大臣レオン・セーと面会しました。セー大臣がその際、日本の中央銀行設立のために最も適したモデルとしてベルギー国立銀行を挙げ、松方に視察を促した、というのは有名な話です。
こうした縁もあり、欧州における日銀の活動の起源は古く、1917年2月には既にパリに駐在員が置かれていました。
今回、パリ事務所のルーツや日・仏中銀間の関係をより詳細に探るため、フランス中銀の歴史担当者にコンタクトを取ったところ、貴重な資料やエピソードをわざわざ探して、快く共有してくれました。これによれば戦前から長いこと、フランス側も日本経済の動向を気にかけていたようです。また、1970年代半ばからはフランス中銀からも日本に幹部候補を派遣し、金融・経済の動向を丹念にフォローしていたんだとか。
さらに関係者との対話からは、1952年の本格的なパリ事務所開設当時、日銀駐在員がフランス中銀内にオフィスを一時的に間借りさせてもらっていた可能性も示唆されました。フランス中銀から、時代を問わず手厚いサポートを提供いただいてきたことの証左です。
現代にいたり、こうした相互交流の一つの象徴として、2008年には日仏交流150周年を記念する合同シンポジウムを開催。また、2026年5月には、パリの地でG7財務大臣・中央銀行総裁会議が開催され、パリ事務所も日本代表団の活動を支えるべく、現地で尽力しました。
こうした歴史的な交流の物語の中に今のパリ事務所があることを所員たちは常に心に置き、日々のつながりを大切にしています。
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フランス中銀職員から、建物の歴史や当地の貨幣に関するレクチャーを受ける様子。学ぶことがたくさんあります。
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G7の会合現場で、欧州の中銀職員と。苦労を共にすれば絆も深まります。
激動の時代における決意
「フランス」「パリ」という言葉からは芸術やグルメといった文化が思い浮かび、金融・経済とは少し遠い印象を抱かれるかもしれません。しかし、日銀がこの国に拠点を置く意義は、そうした華やかな印象とはやや異なるところにあります。
冒頭で触れた「EU」という枠組み一つをとっても、その歴史がフランス人によって形作られてきた一面は見逃せません。欧州統合の父として知られるジャン・モネは、かつての大戦の教訓から、国家間の不信を経済的な相互関係によって克服するという壮大な構想を描きました。また、欧州委員長として単一通貨・ユーロへの道筋をつけたジャック・ドロールも、フランスが生んだ統合の旗手でした。
「欧州の新たな秩序を築いた先人を輩出してきたこの国に身を置き、金融・経済だけでなく政治の視点も含めて複眼的に欧州を見つめ直すと、日本から見えるものとは異なる景色を感じ取れます」
と、岡田さんは思いを率直に語ります。
かつてのように『西側諸国』をひとくくりにでき、当たり前にその恩恵を享受できてきた国際協調が、従来通りには働かなくなってきた「激動の時代」。こうした変化は当地で、地政学リスクの高まりという形で突如として姿を現すこともあります。
「本年3月にキプロスで開催予定だった国際会議が、地政学的な緊張の高まりから直前で中止になり、慌てて出張を取りやめました。対面のつながりが再び絶たれてしまうリスクが今後高まらないか、警戒感を持って注視しています」
と、渡邉所長は表情を引き締めます。
変化が激しく、情報が瞬時に世界を駆け巡る現代においても、事実の裏側にある真に重要なコンテクスト(背景事情)は、人と人との信頼のつながりからしか得られません。
パリ事務所の面々は今日も現地で地道に対話を重ね、信頼の糸を紡ぎながら、欧州の真の姿に迫り続けています。
(肩書などは2026年5月時点の情報をもとに記載)
