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【挨拶】高橋是清翁顕彰シンポジウムにおける挨拶

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日本銀行副総裁 岩田 規久男
2013年10月27日

目次

1.はじめに

日本銀行の岩田でございます。このような場でご挨拶をさせて頂く機会を頂き、まことにありがとうございます。また、平素から山口県の皆さまには、下関支店をはじめ日本銀行の業務全般に関し、大変お世話になっております。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日は、高橋是清翁の顕彰シンポジウムということでお招きにあずかりました。わが国の金融・財政政策は、長年続いたデフレからの脱却に向けて、大きな転換点を迎えております。こうしたタイミングで、時代背景こそ大きく違うとはいえ、同じような政策課題に立ち向かった偉大な先人を振り返るイベントが開催されることは、大変時宜にかなったことであると感じております。

ご存じのとおり、高橋是清という人は、大河ドラマの主人公にしても良いのではないかと思えるほど、実に波乱万丈な生涯を送った方です。とりわけ、少年時代に留学先の米国でだまされて身売りされてしまったり、ペルーでの鉱山開発事業で詐欺にあって無一文で帰国したりと、その前半生は、自由奔放ながらかなり浮き沈みの激しいものであったと聞いております。

壮年期以降の高橋是清は、日本銀行総裁、大蔵大臣、内閣総理大臣などを歴任し、偉大な功績を残されるわけですが、そうした銀行家・財政家としての道を歩み始めた場所が30代の終わりに初代西部支店長として赴任した、この下関の地でありました。

下関には、わが国の長い歴史を通じて数々の事跡が残っていますが、高橋是清という傑物を育んだという点でも、わが国の経済史を考えるうえで重要な場所であるといえると思います。

2.高橋財政について

さて、冒頭にも触れたとおり、高橋是清の数ある功績のうち、現在の私たちにとって特に興味深く思われるのが、1930年代の初頭に発生した昭和恐慌に対応するために進められた、「高橋財政」と呼ばれる一連のマクロ経済政策です。

当時の経済状況を振り返りますと、1920年代は、第一次大戦による好況期の反動や関東大震災(1923年)、昭和金融恐慌(1927年)などが相次いで起こる、慢性的な不況の時代でした。

1930年には、浜口雄幸内閣の下で緊縮的な政策を進めていた井上準之助蔵相が、大戦中に停止されていた国際金本位制への復帰(金輸出の解禁)を断行します。

しかし、金本位制は、当時の日本のような経常収支赤字国にとっては、緊縮的な財政金融政策によって物価の下落を強いられるデフレ・レジームです。それに加え、井上蔵相は、金と円の交換比率、すなわち為替レートを実態よりも円高な旧平価に設定して金本位制に復帰しました。そのため、日本はたちまちデフレ不況に陥りました。

このような状況に加えて、1929年に始まった世界的な大恐慌が国内に波及したことが、昭和恐慌の発生の背景にあったと考えられます。

このような状況のもと、1931年の末に成立した犬養毅内閣で5度目の大蔵大臣に就任した高橋是清は、財政政策と金融政策を組み合わせた景気刺激的なマクロ経済政策のパッケージを推し進めました。これがいわゆる「高橋財政」です。

高橋是清は就任当日に、金本位制から離脱(金輸出の再禁止)しました。その結果、為替相場は実態にあわせた変動が可能となりました。財政面では、積極的な政府支出を行うことで、需要面の下支えを図りました。金融政策面では、公定歩合引き下げと国債の日銀引き受けによる金融緩和政策を推進しました。

こうした財政・金融・為替政策の適切な組み合わせによる「高橋財政」によって、それまでの過度な円高が是正されるとともに、物価水準の方向が下落から上昇に転じ、わが国は、欧米主要国との比較においてもいち早く、景気の回復とデフレからの脱却に成功しました。

高橋財政の成功は、経済政策のレジームを井上財政のデフレ・レジームから高橋財政のリフレ・レジームへ転換させることによって、人々のデフレ予想を覆して、インフレ予想に変えたことにあります。このレジーム・チェンジによる予想の転換という考え方は、今回、日銀が採用した「量的・質的金融緩和」の考え方にも引き継がれています。

実際に、高橋の実施したマクロ経済政策は、安倍内閣が進めている経済政策、具体的にはアベノミクスの「第一の矢(大胆な金融緩和)」および「第2の矢(機動的な財政政策)」と相似する点が多いため、最近では、「アベノミクスの先駆け」という見方をされることもあるようです。

高橋財政の考え方は、財政・金融政策によって総需要をコントロールする、いわゆるケインジアン的な考え方に即したものですが、瞠目すべきは、そのケインズ経済学が確立される以前に、世界に先駆けて実施されたものであるということです。例えば、米国がルーズベルト大統領の下で、金本位制から離脱して金融緩和政策を採用するとともに、ケインズの理論を取り入れたといわれるニューディール政策に着手するのは、1933年になってからのことでした。

なお、高橋は、1935年には経済は安定軌道に乗ったと考え、歳出を削減するとともに、これ以上、日銀による国債引き受けを続けると、ハイパー・インフレになると考え、日銀の国債引き受けも止めようとしました。そのことが、軍事支出の増加を要求する軍部の反感を買い、高橋は36年2月26日に、青年将校によって暗殺されました。いわゆる、2・26事件です。高橋が暗殺された以後は、日銀の国債引き受けが悪用され、戦後にハイパー・インフレを引き起こす原因になりました。しかし、ハイパー・インフレを引き起こしたのは高橋財政ではなく、高橋が暗殺された以後の国債の日銀引き受けだったことに注意する必要があります。

現在は、この教訓を踏まえ、財政法で原則的に日銀の国債引き受けは禁止されています。さらに、現在の「量的・質的金融緩和」では、デフレだけでなく、高いインフレも望ましくないという観点から、インフレ目標を2%に設定しています。高橋財政は、理論的にも当を得た政策で、高橋はそれを素早く実行しました。まさに、マクロ経済政策の成功事例として日本が誇れるものであり、過去15年間もデフレが続いてきた最近の状況と比べると、そのことの素晴らしさは一層際立つものだと思います。

3.おわりに

本日のシンポジウムでは、主に下関と高橋是清の関わりという切り口で、色々なお話があると伺っております。偉大な先人の業績を振り返る中で、これからの政策を考えるうえでの新たなヒントが見つかるのではないか。そんなことも考えながら、興味深く拝聴したいと思っております。

ご清聴ありがとうございました。