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【挨拶】政策研究大学院大学 学位記授与式における挨拶の邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2014年9月12日

目次

1.はじめに

政策研究大学院大学の修士・博士課程を修了される皆さん、また、そのご家族の皆さん、本日は誠におめでとうございます。この晴れの門出に立ち会うことが出来ることを、心から嬉しく思います。

私自身は、1967年に日本の大学を卒業し、1971年に英国の大学院の修士課程を修了しました。いずれのケースについても、在学中に学んだこと、経験したことは、私にとってかけがえのない財産となっていますし、卒業・修了の式典に臨んだ際には、その先に広がる未来に思いを馳せ、心を躍らせた憶えがあります。皆さんの晴れやかな顔を拝見し、その時のことを懐かしく思い出しました。

私は、学部生のときには法律を専攻していたのですが、修士課程には経済学専攻で留学しました。つまり、学士と修士で異なる分野を異なる言語で専攻するという、皆さんの中の一部の方と同様、少し変わった経歴を持っています。また、その後のキャリアを通じて、財務省での仕事に加えて、IMFの理事補、内閣官房参与、一橋大学教授、アジア開発銀行総裁、そして日本銀行総裁と色々な仕事を経験してきました。本日は、そうした私自身の様々な経験を踏まえ、皆さんがこれから、それぞれの立場で政策の立案・遂行に関わる際に、ぜひ大切にして欲しいと思う3つのことをお話しし、皆さんへの贈る言葉とさせて頂きたいと思います。

2.理論と実践の調和を図ること

第1に、「理論と実践の調和を図ること」です。皆さんの多くは、この先そう遠くない将来に、様々な政策課題への対処方法を自ら考える立場に立たれることと思います。その際には、まず、実際に起きている問題をなるべく正確に把握したうえで、現実的で具体的な政策対応を考える必要があります。政策当事者として、そうした実践的なアプローチを習慣付けておくことは、とても重要です。しかし、同時に、実践的アプローチのみに依存することは、政策対応の個別性が強まり一貫性を欠きやすくなったり、十分に抜本的な政策対応に至り難かったりする弱点を持っていることも、十分に意識しておかなければなりません。この点、長期的な視点を持って、一貫性のある政策対応あるいは抜本的な政策対応を考える際の座標軸となるのが理論です。もちろん、理論が導くとおりの政策が実際に有効であるケースは決して多くありません。しかし、それでもなお、実践的なアプローチに加えて理論的なアプローチを意識の中に置いておくことで、現実の問題から少し距離を置いて物事を俯瞰的・立体的に捉えることが出来るようになり、政策立案能力に幅が出てくるものと思っています

例えば、私は1970年代後半に主税局の課長補佐として、1980年代後半から1990年代初めにかけて主税局の課長として、消費税導入や所得税減税の検討作業に参画しましたが、その際には、「最適課税論」を英国の大学院で学んでいたことが非常に大きな意味を持ちました。「最適課税論」とは、簡単に言うと、「課税に伴う損失の発生を最小化し、社会全体の厚生を最大化する」という尺度で税体系を評価する考え方です。これは、今では当たり前の考え方のように聞こえるかも知れません。しかし、1970年代の頃には、「所得分配の公平性」が評価軸として強く意識されてきた従来の租税理論に対し、全く異なる政策的インプリケーションを導き出し得る考え方として、税務当局者に大きなインパクトを与えました。例えば、高所得者に対して累進的に高い税率を課すことは、公平性の観点からは望ましいことと考えられます。しかし、それによって高い生産性をもって高い所得を稼いできたような人々の労働意欲を削いでしまうのだとすると、社会全体の厚生はむしろ低下してしまう可能性があるため、「最適課税論」を考慮に入れると、必ずしもそうした課税制度は正当化されないこととなります。また、例えば、日常的な必需品に対して非常に高い税率を課すことは、相対的に所得水準の低い人にとっての負担感が大きくなるため、公平性の観点からは望ましくない対応と考えられますが、「最適課税論」の考え方をそのまま当てはめると、そうした価格弾力性が低い、言い換えれば課税に伴う損失が小さい財やサービスに対しては、むしろ非常に高い税率を課すことが正当化され得ることとなります。もちろん、そのような考え方をそのまま実践することは現実的ではないのですが、あるべき政策対応を考えるうえでの視野を拡げるという意味で、理論を学んでいたことは非常に有意義でした。結局、消費税導入や所得税減税の実現は大幅に遅れてしまいましたが、その検討過程で蓄積された様々な知見は、私個人にとっても、また税務当局としても、大きな財産となりました。

私が昨年、日本銀行総裁に就任した直後に導入した「量的・質的金融緩和」も、理論と実践の調和を図った典型的な事例の1つとして挙げられます。日本銀行は、1990年代の終わりから、日本経済に加わるデフレ圧力と闘う中で、ゼロ金利政策、量的緩和政策、フォワード・ガイダンスなどの非伝統的な金融政策を世界に先駆けて実践してきました。しかし、それでも日本経済は15年にわたってデフレ状態から抜け出すことが出来ませんでした。日本銀行の政策委員やスタッフとともにデフレ脱却のために必要な政策対応を考えた際、もちろん私は、その原因について諸説あることを認識していました。しかし、この間に、クルーグマン教授、ウッドフォード教授、エガートソン教授、渡辺教授らの貢献により発展を遂げた非伝統的金融政策を巡る理論を踏まえると、大きな要因の1つは、日本銀行のコミットメントが弱く、人々の期待に働きかける力が十分でなかったことと考えられました。私には、1970年代に留学先の大学院のゼミにおいて、ジョン・ヒックス卿が「イングランド銀行が公定歩合をわずか0.5%引き上げただけで経済に影響を与えることが出来るのは、経済安定のために必要であれば幾らでも公定歩合を引き上げる用意があるという決意を示しているからだ」と語り、金融政策におけるコミットメントの重要性や期待の役割を強調していたことも、改めて思い出されました。「量的・質的金融緩和」は、そうした経験と理論の蓄積を踏まえて生まれたものなのです。理論と実践を如何にバランスするかについて、何か1つの決まった答えが用意されている訳ではありませんが、皆さんに忘れないでいて欲しいのは、目の前の現実に囚われ過ぎると思考の幅が狭くなり、本当に必要な政策対応をとることが出来なくなる可能性があるということであり、理論に立ち返ることが、そうした時に思考の自由度を取り戻すきっかけになり得るということです。

3.自らの考えを纏め、外部の評価にさらすこと

さて、1つ目の話が長くなってしまいましたが、私が今日皆さんにお伝えしたいことの2つ目は、「自らの考えを纏め、外部の評価にさらすこと」の大切さです。

皆さんがこれからの人生で直面する課題が何であったとしても、対応策が1つであることはまずありません。具体的な政策対応を纏め上げていく過程では、多くの選択肢の中からより望ましいと思われるものを選ばなければなりません。また、異なる見解を持つ人々と議論し、説得すべき点、取り込むべき点、譲るべき点を見極めていかなければなりません。そうした過程を真に建設的なものとするためには、自分が考えていることをしっかりと、出来れば文章として纏め、その全体像を明らかにすることによって外部の評価にさらすことが重要です。世の中には、政策対応の一部分のみを捉えて是非を論じる向きもありますが、自分がどのような経済モデルを念頭に、どのような仮定を置いて議論をしているのかを明らかにしない限り、議論の中からより望ましい政策対応が生まれてくることは期待し難いでしょう。

私自身、かなり若いときから個人名で雑誌に論文を寄稿したり、著書を出版したりして、自分の考えを多くの人の眼にさらけ出すように心がけてきました。もちろん、考えが十分に至っていない部分を指摘されることなどもあり、気恥ずかしい思いをしたことも少なくありませんが、その結果として自分の考えがよりバランスの取れたものとなり、より望ましい政策対応へと繋がっていくことも実感しました。また、そうしたやり取りの中から、思いがけぬ人との間で信頼関係が生まれ、永く続く関係が築かれることもありました。例えば、ジョセフ・スティグリッツ教授とは、私が小泉政権下で内閣官房参与を務めていた頃に出席したニューヨークでのコンファランスで意見を交わしたことがきっかけとなり、その後もお互いのオフィスを行き来したりして、数知れず議論を交わしている友人の1人です。また、本学の白石学長とのご縁も、1997年にアジア通貨危機後の対応を検討するに当たって、インドネシアの経済・社会の実情について、専門家である白石先生のもとを飛び込みで訪れて意見交換をさせて頂いたことがきっかけです。その当時、先生のご助言のおかげで、より意味のある政策対応をとることが出来たことに今でも感謝していますし、その後も様々な機会に意見交換をさせて頂いていることを、大変有難く思っています。

皆さんの多くは、これから、何らかの組織の一員として働くことになろうかと思います。そうした中でも、組織の陰に隠れてしまうのではなく、自分自身の名の下にその考えを明確に示し、様々な角度から評価を受ける機会を出来るだけ多く作って頂きたいと思います。

4.多様性を重んじること

私が大切だと思うことの3つ目は、「多様性を重んじること」です。

政策立案を行う際、様々な意見が出てくることは、ともするとネガティブに捉えられがちです。意見の擦り合わせには、往々にして時間を要するものですし、取り纏めに当たる人には粘り強さと柔軟さが求められます。しかし、多くの場合、多様な見解を踏まえるかたちで練られた政策の方が、その後の状況変化などに対して頑健なものですし、多くの人のサポートを得られやすい分、政策の実効性も高まりやすくなります。2つ目のポイントとして、自分の考えを外部の評価にさらすことが大事だと申し上げましたが、その外部の評価も多様な視点からのものであった方が、自分の考えをよりブラッシュアップされたものに出来ることでしょう。そうした意味で、多様な考え方との接点を持つことは、とても重要なことです。

ここで是非覚えておいて欲しいことは、多様な意見というものは、自分が聞きたいときにだけ都合良く聞こうと思っても、決して出てこないものだということです。常日頃から、自分と異なるバックグラウンドを持った人との繋がりを大事にし、自分と異なる見解を尊重する姿勢を持ち続けていなければ、本当に必要とするときに多様な意見に触れることは出来ません。

私が法学部を卒業した後に、経済学専攻で大学院に留学する機会を得られたことは、偶然の産物という側面もありますが、もともと学部生の頃から、法律だけでなく経済学や法哲学など幅広い分野に関心を持ち、それらについての基礎的な素養を身に付けていたことが、ふと訪れたチャンスを逃さないことに繋がったという面もあると思っています。結果的に、政策を立案し遂行する能力を大きく高めることが出来、その後のキャリアをより充実させることが出来たと考えています。

5.結びにかえて

以上、私自身の経験を踏まえて、「理論と実践の調和を図ること」「自らの考えを纏め、外部の評価にさらすこと」、「多様性を重んじること」という3つのことが大切だと思う、ということを申し上げました。この点、皆さんが学ばれたこの政策研究大学院大学の特徴は、第一に、実践的、応用的であることを強く意識しながら、理論的な裏打ちのある政策研究が行われていること、第二に、学生同士、あるいは教員と学生との協働(interaction)が多くの場面で求められており、自らの見解を他者にぶつけてみる機会に恵まれていること、第三に、全学生の3分の2が外国人学生であり、その出身国も65か国以上と多岐にわたっていることに象徴されるように、国際性が豊かで多様性に富んでいること、だと理解しています。つまり、皆さんはこれからの人生において、大きな武器となるであろう資質を、ここでの学生生活を通じて既に身に付けられているということだと思っています。そうした優れたプログラムを用意された白石学長はじめ本学の教職員の皆さんに、改めて敬意を表したいと思います。学生の皆さんにおかれては、ここで築かれた人的な繋がりをいつまでも大切にし、身に付けた武器にこれから更に磨きをかけて、グローバルな政策課題に果敢にチャレンジしていって頂きたいと思います。今日という日が、皆さんの新たな飛躍への第一歩となることを、心から祈念しています。

改めまして、おめでとう!