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【講演】「量的・質的金融緩和」の理論と実践

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日本外国特派員協会における講演の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年3月20日

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.「量的・質的金融緩和」の理論
  3. 3.「量的・質的金融緩和」の実践
  4. 4.成長戦略と金融政策
  5. 5.おわりに

1.はじめに

本日は、日本外国特派員協会でお話する機会を頂戴し、大変光栄です。

ECBが資産買入れ策を導入した結果、現在、FRBやイングランド銀行(BOE)を含め、世界の主要中央銀行の多くが量的緩和(QE)を採用しています。私の尊敬する友人である伊藤隆敏教授の言葉を借りれば、"We are all QE-sians now"と言えるでしょう。もっとも、その背景となる経済・物価情勢や、想定している波及メカニズムは、国や地域によって異なっています。そこで、本日は、日本銀行が現在行っている「量的・質的金融緩和」(QQE)の特徴点を、他の中央銀行が導入している量的緩和との異同に着目することで明らかにします。そのうえで、この政策が所期の効果を発揮していることを説明したいと思います。

2.「量的・質的金融緩和」の理論

量的緩和と「量的・質的金融緩和」の異同

今、"We are all QE-sians now"と申し上げましたが、こうした状況にいたったきっかけは、2008年のグローバル金融危機です。欧米諸国では、グローバル金融危機によって、景気が大きく悪化し、失業率が大幅に上昇しました。そこで、中央銀行は、金融緩和によって経済を刺激する必要に迫られました。当初、欧米の中央銀行は、伝統的な政策手段である短期金利の引き下げによって対応しましたが、景気の悪化があまりにも大きかったため、短期金利は直ぐにゼロ%のフロアに直面してしまいました(図表1)。ゼロ金利制約のもとでさらに金融緩和を進めるにはどうすればよいか。FRBやBOEは、その答えとして量的緩和を導入しました。量的緩和は、中央銀行が国債などの債券を多額に買い入れることによって、なお引き下げ余地のある長期金利を低下させることで、景気を刺激することを主たる目的とするものです。

日本銀行の「量的・質的金融緩和」も、多額の国債買入れによって長期金利の低下を促すという点では共通しています。しかし、「量的・質的金融緩和」の場合、長年続いたデフレのもとで定着してしまったデフレマインドを抜本的に転換するというもう一つの要素が加わっています。この点を理解するためには、まず、対応すべき日本経済の「病状」を正確に理解する必要があります。

日本は、1990年代半ば以降、消費者物価の前年比が、ゼロないしわずかなマイナスが続く、デフレの状態にありました。日本のデフレの特徴は、緩やかですが、しつこいということです。日本では、1998年度から2012年度までの消費者物価の下落率は年平均で−0.3%に過ぎませんでしたが、それは15年にわたって続きました(図表2)。日本がデフレに陥った原因は、資産バブル崩壊後の企業や金融機関のバランスシート調整、新興国からの安値輸入品の流入、過度な円高の進行など、様々です。問題は、これらの要因によって現実の物価下落が続いたことで、人々の間に「物価は上がらない、むしろ下がるものだ」というデフレマインドが定着してしまったことです。一旦デフレマインドが定着すると、人々はデフレを前提とした経済活動を行います。その結果、価格の下落、売上・収益の減少、賃金の抑制、消費の低迷、価格の下落という悪循環に陥ってしまったのです。また、デフレのもとでは、物価下落に伴って現預金の実質価値が上昇するため、実物投資に比べて現預金を保有することが相対的に有利な投資戦略になります。こうした状況では、設備や研究開発に投資してリスクをとって新しいビジネスに挑戦するインセンティブが削がれてしまいます。このようにして、日本では、デフレが自己実現的に長期化するとともに、成長力も低下を続けました。

こうした状況を打開するためには、人々の間に定着した「物価は上がらない」という認識を変え、企業や家計が「物価は、毎年、緩やかに上昇する」ということを前提に行動するような状況を実現する必要があります。このような物価の先行きに対する見方を、経済学の用語では「インフレ予想」と言います。実際の物価上昇率は、景気の循環はもとより、コモディティ価格の変動などの一時的な要因によっても変動しますが、中長期のインフレ予想が一定の水準でアンカーされていれば、平均的にみれば、インフレ予想の近傍で推移する可能性が高くなります。

近年、中央銀行が考える「物価の安定」を物価指数に即して具体的に定義すると、消費者物価の前年比上昇率でみて「2%」程度というのがグローバルなスタンダードとなっています。時間の関係で詳細は省略しますが、消費者物価指数は、指数の作成上、物価の上昇を実際より高めに表わす傾向があるという「上方バイアス」や、金融政策運営上、景気の悪化時に実質金利を十分低下させることができるという「のりしろ」の確保などを考慮したものです。

日本経済がデフレから脱却するためには、デフレマインドを払拭し、ゼロ近傍まで低下してしまったインフレ予想をグローバル・スタンダードである2%程度まで引き上げて、そこでアンカーし直すことが必要なのです。このように人々の期待を変えること、それが、現在、日本銀行が「量的・質的金融緩和」のもとで目指していることです。

「量的・質的金融緩和」の理論

実は、金融政策によって人々の期待(mindset)や認識(perception)を変えるという試みの例は過去にも存在します。方向は正反対になりますが、1970年代末から80年代初にかけて、FRBのボルカー議長は、強力な金融引き締めによって、上昇していたインフレ予想を大きく引き下げることに成功しています(図表3)。この当時、失業とインフレの両方が昂進していたため、厳しい金融引き締め策をとることについて、政治的・社会的に様々な困難があったことはよく知られています。しかし、そうした困難は別として、ボルカー議長にとって、インフレ予想を引き下げるための政策手段は極めて明瞭でした。短期金利の大幅な引き上げによって強力な金融引き締めを行い、物価上昇率を抑制すればよかったのです。一方、「量的・質的金融緩和」には、失業という痛みは伴いませんが、金利のゼロ制約に直面するもとで、金融緩和の手段が限られるという別の問題を克服する必要がありました。

「量的・質的金融緩和」の考え方は、以下のとおりです。まず、短期金利がゼロまで低下していることを踏まえ、FRBやBOEのように、多額の国債買入れによって、長期金利に低下圧力を加えることとしました。この点は、既にお話したとおりです。

そのうえで、経済活動に影響を与えるのは、名目ではなく実質金利、すなわち、名目金利から予想インフレ率を差し引いた金利の水準であるという点に着目しました。この点、日本では予想インフレ率が2%の物価安定目標に比べて低すぎる状態にあったことが、ブレークスルーとなりました。つまり、予想インフレ率を引き上げることができれば、実質金利を低下させ、企業や家計の経済活動を刺激することができるのです。その意味で予想インフレ率の引き上げは、デフレ脱却というこの政策の目的そのものであると同時に、この政策の波及経路の出発点でもあるのです。

では、どうすれば人々のデフレマインドを変え、インフレ予想を引き上げられるのか。デフレマインドが蔓延していた企業や家計が「これからは、毎年2%程度物価が上がることを前提に行動しよう」と思うようになるためには、何よりも、中央銀行が2%の物価上昇の実現に強くコミットすることが必要です。こうした観点から、日本銀行は、2%の「物価安定の目標」を、2年程度を念頭に置いてできるだけ早期に実現し、かつ、これを安定的に持続することをコミットし、そのための手段として「量的・質的金融緩和」という大規模な緩和措置を導入しました。

このようにして、実質金利が低下すれば、設備投資、個人消費、住宅投資といった民間需要が刺激されます。民間需要が高まれば、需給ギャップ、すなわち経済全体としてのスラックが縮小し、物価に上昇圧力がかかります。人々が実際に物価上昇を経験すれば、中央銀行のコミットメントに対する信頼性が高まるため、人々のインフレ予想はさらに上昇し、こうした一連のプロセスがさらに強まっていくという好循環が働きます。「量的・質的金融緩和」は、このようなメカニズムによって現実と予想の物価上昇率を、2%に引き上げることを狙いとしたものです。

3.「量的・質的金融緩和」の実践

「量的・質的金融緩和」の効果

ここまで「量的・質的金融緩和」の理論について述べてきましたが、この政策は実際どの程度効果を発揮しているのでしょうか。

まず、多額の国債買入れの結果、長期金利は、一段と低下しています。10年国債の利回りは最近では0.4%前後で推移しています(図表4)。銀行の新規貸出約定平均金利も、史上最低水準の0.9%程度まで低下しています。

さらに、物価に対する人々の見方は、明らかに変化しています。中長期のインフレ予想に関する各種の指標は、「量的・質的金融緩和」の導入前と比べて明確に上昇しています。例えば、コンセンサス・フォーキャストの中長期の予想インフレ率は、2012年10月には0.8%でしたが、最近では1.5%になっています。この結果、実質金利は、長期にいたるまではっきりとしたマイナスとなっています。

家計や企業の実感としても、物価を巡る状況は大きく変化しています。ここでは、2つの注目すべき事実を紹介します。第一に、消費者物価は、2013年6月から20か月連続で前年比上昇を続けています。人々がこれだけの期間にわたって物価上昇を経験するのは、実に1998年以来のことです。20代以下の若者にとっては、人生で初めて実際の物価上昇を経験していることになります。第二に、昨年以降、名目賃金も上昇に転じていることです。特に、昨年春の賃金改定交渉(いわゆる春闘)では、約20年振りに基本給与の引き上げ(ベースアップ)が実現し、今年も多くの企業で実現する見通しにあることです。

いずれも、長年にわたってデフレが続いてきた日本では、画期的な変化と言えます。「デフレ」という言葉はすっかり日常語になっていましたが、最近では、人々の会話の中で「デフレ」という言葉が使われることはめっきり少なくなりました。

さらに、こうしたデフレマインド転換のモメンタムは、原油価格の下落の影響によって、消費者物価上昇率が低下する中でも、維持されています。インフレ予想に関する指標のうち、ブレーク・イーブン・インフレ率などの市場指標は、欧米と同様にひと頃よりも低下していますが、エコノミストや家計などを対象とする各種のアンケート調査では、中長期の予想インフレ率は、上昇傾向が維持されています。これは、原油価格の下落がインフレ予想の低下を通じて、賃金交渉や価格設定行動などへ影響を及ぼすリスクに対して、昨年10月に「量的・質的金融緩和」を拡大して予防的(preemptive)に対応したことが成果を発揮しているからだと考えています。

このように、「量的・質的金融緩和」は所期の効果を発揮しており、「理論の上でも、実践の上でも、しっかりとワークしている(QQE works both in theory and practice)」と言ってよいでしょう。この先も「量的・質的金融緩和」を着実に推進していくことで、2%の「物価安定の目標」を実現することができると考えています。

以下では、経済・物価情勢についてやや詳しく説明し、私がそのように考える理由を明らかにしたいと思います。

経済・物価情勢

まず、景気動向です。企業部門は好調です。企業収益は改善を続けており、既にピークの水準にあります(図表5)。原油価格の下落は、コストの低下を通じてさらに恩恵をもたらすことになるでしょう。加えて、このところ輸出や生産が持ち直しています。こうしたもとで、企業は前向きな投資・雇用スタンスを維持しています。

家計部門では、企業の積極的な雇用スタンスを背景に労働需給はタイトで、ほぼ完全雇用の状態にあります。実際、失業率は3%台半ばと構造失業率と概ね同じ水準まで低下しています(図表6)。タイトな労働需給は賃金上昇圧力として作用しており、名目賃金は今後も上昇を続けるとみられます。こうした雇用・所得環境の着実な改善を背景に、個人消費は全体として底堅く推移しています。そのもとで、消費税率引き上げ後の反動減に起因する下押し圧力については収束しつつあります。原油価格の下落も、個人消費にはプラスに作用します。

このように景気面ではフォローの風が吹いており、来年度の日本経済の成長率は2%程度になるとみています。1月に公表した「展望レポート」中間評価における実質GDP成長率の見通しでは、2015年度は+2.1%、2016年度は+1.6%と予想しています(図表7)。

以上の経済情勢のもとで、経済のスラックを示す需給ギャップは、労働市場を中心に大幅に改善しており、概ね過去平均並みのゼロ%程度となっています。先行き、日本経済がゼロ%台前半ないし半ば程度と推計される潜在成長率を上回る成長を続けていくもとで、需給ギャップはさらに改善するとみられます。加えて、先程述べたように、中長期のインフレ予想は上昇傾向を維持しています。物価の基調を規定する2つの要素である需給ギャップとインフレ予想が好転していますので、基調的な物価動向については改善していると考えられます。

もっとも、実際の物価は、生鮮食品を除く消費者物価の前年比でみると、昨年夏以降、主として原油価格の大幅な下落から伸び率が鈍化し、今年の1月は消費税率引き上げの直接的な影響を除いたベースで+0.2%となりました(図表8)。先行き、エネルギー価格下落の影響からゼロ%程度となり、当面そうした状況が続く可能性があります。しかし、基調的な物価上昇率は今後もしっかりと高まっていくと予想されますので、前年比でみた原油価格下落の影響(base effect)が剥落するにつれて、消費者物価上昇率は高まり、2%達成が見込めるようになります。原油価格が現状程度の水準から先行き緩やかに上昇していくとの前提にたてば、2015年度を中心とする期間に2%に達すると考えています(前掲図表7)。その時期は、原油価格の動向によって多少前後する可能性はありますが、エネルギー価格の寄与に伴うものであることがはっきりしているのであれば、base effectがなくなることは容易に見通せるはずなので、市場参加者がそこに政策的な意味合いを見出すことはないと思います。

もちろん、こうした物価の基調的な動き、とりわけインフレ予想の動向、に変化が生じ、「物価安定の目標」の早期実現のために必要になれば、躊躇なく調整を行う方針に変わりありません。

4.成長戦略と金融政策

最後に、日本経済の成長力強化についてお話します。日本の潜在成長率は、1990年代以降、趨勢的に低下してきました(図表9)。日本の成長力低下の背景には、生産年齢人口の減少といった人口動態の変化に加えて、様々な規制や制度が企業活動の足かせや競争を起こりにくくする要因になったことが指摘できます。成長力を高めていくためには、民間主体の前向きな経済活動を阻害していたこれらの要因を取り除いていかなければなりません。この点、政府の成長戦略によって、様々な規制・制度改革が着実に実行されていることは心強く感じています。

そのうえで強調したいのは、デフレから脱却すること自体が、日本経済の成長力の強化に資するということです。成長力の源泉は、あくまでも民間企業の投資であり、イノベーションです。政府の成長戦略の役割は、企業がビジネスチャンスを十分に活かせるような環境を整備することです。デフレから脱却し、経済主体が2%の物価上昇を前提に行動するような経済・社会を実現することは、企業や家計の失われたアニマルスピリットを復活させることになります。そうなれば、リスクをとった積極的な投資が行われるようになり、各種のイノベーションも生じやすくなります。また、そのようにして企業や家計の経済活動が積極的になることで、規制や制度のうちどの部分が成長を阻害していたのかがはっきりしてきます。過去に、規制や制度の改革がなかなか進まなかったのは、民間主体の経済活動が活発でなかったために、改革に向けたモメンタムがつきにくかったという面もあったのだと思います。実際のニーズが生じることは、規制や制度改革を前に進める大きな原動力となります。

「量的・質的金融緩和」のもとで、デフレマインドの転換は着実に進んでいます。日本銀行としては、今後も「量的・質的金融緩和」を推進し、2%の「物価安定の目標」をできるだけ早期に実現することで、日本経済の成長力の強化に貢献したいと考えています。

5.おわりに

本日は、日本経済の課題と、その処方箋としての「量的・質的金融緩和」の特徴についてお話しました。日本の経験に基づく最大の教訓は、「一旦デフレに陥ると長引く傾向があるので、まずはデフレに陥らないことが大事」ということです。デフレのリスクがあるのなら、とにかくデフレに陥らないように、あらゆる政策的な努力を試みるべきです。

そのうえで、不幸にしてデフレに陥ったとしても、政策面でのイノベーションによって、そこから脱却することは可能だということです。日本銀行は、「量的・質的金融緩和」によってデフレからの脱却を果たすことで、リーディング・ケースを示したいと思います。

一旦デフレに陥っても、そこから脱却する金融政策手段があることが明らかになれば、中央銀行が物価安定目標を実現する能力に対する人々の信認が高まり、インフレ予想がアンカーされる力を強めます。その結果、そもそも経済がデフレに落ち込むのを防ぐことに役立つのです。その点で、日本銀行の「量的・質的金融緩和」が成功することは、日本経済だけでなく、世界の金融政策の歴史においても、重要な意味を持つと考えています。

ご清聴ありがとうございました。