このページの本文へ移動

【講演】日本経済の変貌と量的・質的金融緩和

English

ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2015年8月26日

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.日本経済の変貌
  3. 3.量的・質的金融緩和のメカニズム
  4. 4.おわりに

1.はじめに

日本銀行の黒田でございます。本日は、ジャパン・ソサエティでお話しする機会を頂き、誠に光栄に存じます。

日本銀行が2%の「物価安定の目標」を掲げ、「量的・質的金融緩和」を導入してから2年あまりが経過しました。この2年間を振り返りますと、1年目の日本経済の改善は、成長率・物価上昇率の両面で、非常にimpressiveなものでした。2013年度は2%を超える実質成長となり、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比も、「量的・質的金融緩和」導入直前の−0.5%から、2014年4月には+1.5%まで高まりました(図表1)。

一方、2年目にあたる2014年度のパフォーマンスについては、冴えないものであったことは否めません。4月の消費税率引き上げの影響は、事前の予想を上回るものでした。駆け込み需要の反動減に加え、実質所得減少を通じた影響もあって、個人消費は、自動車などの耐久消費財を中心に弱めの動きが続きました。こうしたもとで、秋口からは原油価格の大幅下落が生じました。原油価格の下落は、やや長い目でみれば経済活動に好影響を与えるものですが、短期的にはガソリン価格や電気代といったエネルギー価格の低下を通じて、物価を押し下げます。この結果、消費者物価の前年比上昇率は急速に低下し、本年入り後は0%程度で推移しています。

こうした状況を眺めて、日本銀行の2%の「物価安定の目標」の実現可能性について懐疑的な声が少なからず聞かれています。デフレ脱却に向けた動きはストップしてしまったのでしょうか。決してそんなことはありません。

何より強調したいのは、昨年来、物価上昇率の低下に働いた2つの要因―「消費税率引き上げ」と「原油価格の大幅下落」―の影響は、いずれも一時的なものだということです。確かに、成長率や物価上昇率といった表面上の数字は、こうした要因に大きく影響されて低下しましたが、その底流では、デフレ期にはみられなかった大きな変化が着実に進行しているのです。

ここでは、まず、2つの事実を指摘しておきます。第1に、日本企業は、過去最高の収益をあげており、設備投資に積極的になっていることです。第2に、労働需給が逼迫し、過去の求人と求職の関係に照らして両者のミスマッチに起因した失業のみが残る水準と見做せる「完全雇用」が実現するもとで、賃金が約20年振りにはっきりと上昇していることです。

本日は、「量的・質的金融緩和」の2年間において日本経済に生じた変化をご説明したうえで、「量的・質的金融緩和」の理論と波及メカニズムについて改めて振り返ってみたいと思います。講演を聴き終える頃には、日本経済の先行きについて、私どもの見方を共有して頂けるものと思います。

2.日本経済の変貌

過去最高水準の企業収益と設備投資スタンスの前傾化

まず、企業部門の改善についてお話しします。先ほど申し上げた通り、日本企業は、過去最高水準の収益をあげており、バブル経済のピークであった1990年前後を遥かに上回っています(図表2)。

2008年のリーマン・ブラザーズの破綻を直接の契機とするグローバル金融危機のもとで、日本経済は、サブプライム・ローンの中心地であり、危機の震源地となった米国以上の落ち込みを経験しました。2008年度には、鉱工業生産は1割以上も減少し、実質経済成長率は−3.7%となりました。日本経済の落ち込みが特に大きかった理由としては、様々な要因が考えられますが、日本企業の製品や技術がグローバルなサプライチェーンの重要な部分を構成しているため、最終需要の落ち込みが強くあらわれたことが指摘できます。さらに、2011年には東日本大震災が発生し、人的・物的に多くの被害をこうむりました。こうした中で、大幅な円高が進行しました。振り返ってみると、日本経済は、この時期に様々な困難に見舞われました。しかしながら、企業は、そうしたもとで海外移管を含めた生産体制の見直しなど、様々な効率化を進めました。その結果、苦境を経て生き残った企業の収益体質は、非常に強靭なものとなっていたと考えられます。

「アベノミクス」のもとで、行き過ぎた円高の修正も進みました。円高の是正は、海外展開を進めてきた日本企業にとって、輸出の採算が改善するだけでなく、現地子会社等の円建て収益の増加を通じても収益の改善につながります。また、原油をほぼ100%輸入に依存している日本経済においては、昨年秋以降の原油価格下落は幅広いセクターで収益押し上げに働きます。この間、輸出の回復は、円高が是正されたにもかかわらず、日本企業による海外生産の拡大を受けて遅れましたが、昨年7〜9月期以降3四半期連続で増加するなど、持ち直しの動きが明確になってきました。

企業収益は、先行きも高水準を維持する見込みです。短観の6月調査で企業の収益計画をみると、2014年度の実績が上振れて着地するとともに、2015年度の見通しについても高水準を維持しています。このような良好な収益環境のもとで、企業は先行きに対して自信を強めつつあり、設備投資の回復が明確になってきました。特に、過度な円高が是正され、国内における投資を積極化する動きがみられることは、ここ数年間、海外投資を優先してきた日本企業にとって大きな変化といえます。

なお、ここ数か月、輸出や生産が幾分減速していることを懸念する声も聞かれていますが、これは1〜3月の米国経済の弱さやこのところのアジア経済のもたつきが影響していることが主因であり、一時的なものとみています。実際、最近の短観をみても、企業の良好な業況感は維持されており、2015年度についても、増益基調が続くもとで、設備投資も増加する計画となっています。機械受注や建築着工などの先行指標も設備投資の増加を示唆しています。もとより、新興国・資源国経済の状況や、最近の国際金融資本市場の動向などのリスク要因には十分注意を払っていく必要があると考えています。

完全雇用と賃金・物価の循環的な上昇

日本経済におけるもうひとつの大きな変化は、完全雇用状態が実現するもとで、約20年振りに賃金が上昇し、賃金上昇と物価上昇の好循環が生じていることです。この点は、デフレ脱却という観点からみて非常に重要なポイントですので、詳しくご説明したいと思います。

日本では、90年代後半以降、15年以上にわたってデフレ―物価が持続的に下落する状況―が続いてきました。デフレの特徴は、一旦デフレに陥ると、それが自己実現的に定着する傾向があることです。デフレのもとでは、人々は「先行き物価は下がっていく」「物価は上がらないものだ」という認識に基づいて行動するようになります。この結果、物やサービスの価格下落が、企業の売上・収益の減少につながり、賃金の抑制をもたらします。家計は、賃金の増加が見込めないため、消費に消極的になります。さらに、こうした需要の低迷が物やサービスの価格下落につながるという悪循環が生じるのです。ジョン・メイナード・ケインズは、賃金の下方硬直性が不況期における失業の増加をもたらすことを指摘しましたが、90年代後半以降の日本では、それまで強固と思われていた賃金の下方硬直性が失われ、賃金や物価の低下を伴いつつ、経済の均衡状態が実現するという状況が生じました(図表3)。

デフレのもとでは、物価が上昇することを前提とした経済・社会の様々な慣行に変化が生じます。まず、毎年の労使交渉―日本では、多くの企業で春先に一斉に行われることから「春闘」と呼ばれています―において、物価上昇分を反映してベース賃金が全体的に引き上げられるというプラクティスが、90年代後半に失われました。さらに、従来、日本では、年度の始めに幅広い品目の値上げが行われるということが一般的でしたが、こうしたプラクティスも失われました。

こうしたデフレの状況から脱却するためには、人々の間に定着してしまった「物価は上がらないものだ」という固定観念―デフレマインド―を払拭し、企業や家計が「先行き、物価は緩やかに上昇していくものだ」という認識に基づいて行動するように変えていく必要があります。経済学の用語では、予想インフレ率を引き上げるといいますが、その際、鍵となるのが、企業や家計の経済活動の前提となる人々の物価観なのです。

こうした観点からみると、「量的・質的金融緩和」のもとで、非常にencouragingな変化が生じています。いま指摘した2つの失われたプラクティスが、いずれも復活してきたのです。

まず、昨年の春闘において「ベースアップ」が約20年振りに復活しました。さらに、本年春の賃金交渉では、2年続けてベースアップが実現し、多くの企業で昨年を上回る伸びとなりました。また、ベースアップを行う企業の数が増えるとともに、業種や企業規模にも拡がりがみられています。

新年度の価格改定も、今年度に入って本格的に復活してきたようです。例えば、消費者物価指数(除く生鮮食品)を構成する品目のうち、上昇した品目数から下落した品目数を差し引いた指標をみると、本年度入り後上昇が顕著であり、2000年代入り以降でもっとも高くなっています(図表4)。さらに、食品や日用品の価格を集計し、速報している東大日次物価指数やSRI一橋大学消費者購買価格指数をみると、4月以降、前年比ではっきりとしたプラスに転じており、直近までプラス幅の拡大傾向が続いています。昨年も、多くの企業が新年度の価格改定を試みたのですが、消費税率引き上げと時期が重なったため、その後の需要低迷を受けて、ほどなく撤回を余儀なくされました。今年の動きは、昨年とは対照的なものといえます。ちなみに、ケチャップは、今年4月、25年振りに値上げされました―日本銀行が買ったわけではありませんが。

ベースアップと年度の価格改定が軌を一にするように復活してきているのは、決して偶然ではありません。労働者サイドがベースアップを要求しているのは、物価の上昇傾向が定着しつつあるとみて、物価上昇分を勘案した実質賃金を維持しようとしているためです。一方、経営者サイドは、それを販売価格の引き上げで吸収できるとの見通しを持っているからこそ、これに応じたものと考えられます。もとより、「政労使会議」を通じた政府の働きかけがこうした動きを後押ししたことも事実ですが、賃金の上昇を伴いつつ、物価上昇率が高まっていくという循環メカニズムがしっかりと作用し始めたことは確かです。

なお、賃金上昇の背景である労働需給の逼迫について、付言しておきたいと思います。失業率は、「量的・質的金融緩和」導入前には4%を超えていましたが、労働参加率上昇と雇用者数増加の双方を伴いながら、3%台前半まで低下してきました(図表5)。この3%台前半という水準は、求人と求職の間の過去の関係に照らして、両者のある程度のミスマッチに起因した失業のみが存在し、過剰労働力は解消していると見做せる「完全雇用」に対応すると考えられます。米国では、長期失業者の存在などを背景に、実際にどの程度の労働のスラックがあるのかを巡って議論が盛んなようですが、日本の場合は、どのような指標をみても労働需給が逼迫していることに疑問の余地はありません。例えば、所謂縁辺労働者までを勘案した広義の失業率―米国のU-6に相当します―も6%程度まで低下しており、過去対比で既に低水準となっています。

3.量的・質的金融緩和のメカニズム

以上ご説明したように、日本経済には、この2年間で目覚ましい変化が生じています。もちろん、そのすべてが日本銀行の「量的・質的金融緩和」の成果でないことはいうまでもありませんが、「量的・質的金融緩和」は、概ね導入時に想定した通りの波及メカニズムを通じて、所期の効果を発揮してきたものと評価しています。ここでは、「量的・質的金融緩和」の波及メカニズムについて、振り返ってみたいと思います。

日本の金融政策は、長きにわたって短期金利のゼロ制約に直面してきました。「量的・質的金融緩和」は、こうした状況にあっても、長期の実質金利を低下させ、さらなる金融緩和効果を引き出すことを狙いとしています。具体的には、2%の「物価安定の目標」に対する強く明確なコミットメントとこれを裏打ちする大規模な金融緩和によって、予想物価上昇率を引き上げるとともに、巨額の国債買入れによってイールドカーブ全体に下押し圧力を加えます(図表6)。この結果、長期の実質金利が低下し、民間需要が刺激されれば、需給ギャップが改善し、実際の物価上昇率を押し上げます。実際の物価上昇率が上昇すれば、人々の予想物価上昇率がさらに押し上げられ、一連のプロセスがさらに強まっていくことが期待できます。

「量的・質的金融緩和」導入後の変化は、概ねこうしたメカニズムに沿ったものです。名目長期金利は、10年債の利回りでみて、0.3%ポイント程度低下しました。一方、中長期の予想物価上昇率は0.5%ポイント程度上昇したとみられますので、合わせて実質金利は1%弱低下したことになります。欧米の先行研究によれば、経済・物価に対して、長期金利を含めたイールドカーブ全体の低下は、伝統的な政策手段である短期金利のみの低下の数倍の政策効果を持つとされています。私どものスタッフの分析でも、「量的・質的金融緩和」は、短期の政策金利を2%程度引き下げたのと同程度の効果を持っていると推計されています。こうした強力な金融緩和を行っているのですから、日本経済に先程ご説明したようなdrasticな変化が生じているのは、決して不思議なことではありません。

バーナンキ前FRB議長は「量的緩和の問題点は、現実には効果が認められるが、理論的には効果が説明できないことである」と語ったと伝えられます。量的緩和の効果は、その前提となる経済状況や金融構造によって異なると考えられますし、学会においても、まだ結論が得られているわけではありません。もっとも、日本に関する限り、「量的・質的金融緩和」は、理論的に効果を説明でき、現実にも効果を認めることができる政策であったと評価されると考えています。

こうした認識に基づき、日本銀行は、2%の「物価安定の目標」の早期実現に向け、引き続き「量的・質的金融緩和」を着実に推進してまいります。その際、経済・物価情勢について上下双方向のリスク要因を点検し、必要があれば、躊躇なく調整を行う方針です。

4.おわりに

デフレからの脱却が明確になってくれば、成長力強化の動きは加速します。政府は、規制・制度改革などの成長戦略を推進しています。これまでも、幾多の成長戦略が打ち出されましたが、それらの結果は、皆さんを失望させてきたと思います。理由は、実現に向けたインセンティブや推進力が不足していたからです。企業がやる気にならない中では、ハードルを取り除いても効果はありませんし、取り除くための政治的なエネルギーも生まれません。しかしながら、今回は違います。デフレ脱却を意識した日本企業と日本経済においては、様々な変化が実現するのです。企業は、デフレ下では合理的であった「現状維持」という経営スタンスが許されなくなり、行動を開始しました。積極的な企業行動は、経済成長の障害となる規制や制度を変える強いdriving forceとなります。実際、企業行動が積極化するとともに、労働需給がタイト化するもとで、政府による成長戦略を通じた後押しもあり、日本経済の長年の課題であった女性の労働参加率の上昇が実現しました。成長戦略の鍵は「実行」であり、その環境が整っているということを申し上げたいと思います。日本銀行としては、「量的・質的金融緩和」によって、2%の「物価安定の目標」をできるだけ早期に達成し、デフレマインドを払拭することで、成長力の強化に貢献したいと考えています。

ご清聴ありがとうございました。