【講演】 「量的・質的金融緩和」と経済理論 スイス・チューリッヒ大学における講演の邦訳
日本銀行総裁 黒田 東彦
2017年11月13日
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- 講演の様子(チューリッヒ大学ウェブサイト<ドイツ語>にリンク)(動画<英語>あり)
1.はじめに
日本銀行の黒田でございます。本日は、チューリッヒ大学での講演の機会を頂き、大変光栄に存じます。この貴重な機会をご紹介頂いたスイス国民銀行に厚く御礼申し上げます。
現在、日本銀行は、2%の「物価安定の目標」を実現するため、「量的・質的金融緩和」と呼ぶ枠組みのもとで、強力な金融緩和を進めています。本日は、「『量的・質的金融緩和』と経済理論」と題し、次の3つのことをお話ししたいと思います。第一に、「量的・質的金融緩和」という新しい枠組みを導入する背景となった日本の15年間にわたるデフレの経験です。第二に、「量的・質的金融緩和」の柱である、「強力なコミットメント」と「大規模な長期国債の買入れ」について、理論と実践の2つの側面からやや詳しくご説明します。第三に、「量的・質的金融緩和」の成果とともに、最近の経済学の議論も踏まえた課題について、お話しします。
2.「量的・質的金融緩和」に至るデフレの経験
(1)長期にわたるデフレの継続
それでは、15年間にわたって続いた日本のデフレから話を始めます。日本では、1980年代末から90年代初めにかけて、大規模な資産バブルが発生しました。この資産バブルが破裂する過程で、経済の大幅な減速とインフレ率の低下が続き、1990年代末には、消費者物価の前年比がマイナスの領域に落ち込みました。その後、15年間にわたり、例外的な一時期を除いて、物価はマイナス圏から抜け出すことができませんでした(図表1)。
デフレが長期間にわたって継続する要因について、経済理論は2つの可能性を指摘しています。第一の仮説は自然利子率の低下1であり、第二の仮説はインフレ予想の低下2です。自然利子率とは、ある国の経済にとって、景気を加速も減速もさせない中立的な実質金利の水準のことです。学術的にも様々な議論がありますが、その水準は、潜在成長率によって概ね規定されると考えられています。名目政策金利にはゼロ%という下限3がありますので、潜在成長率やインフレ予想が低下すると、自然利子率に比べて実質金利が高止まりしてしまい、十分緩和的な金融環境を実現できなくなります。その結果、デフレからの脱却が困難になるというわけです。
デフレ期の日本では、自然利子率とインフレ予想の双方が低下していたと考えられます。企業や金融機関など、多くの経済主体がバブル崩壊の後始末に追われる中、グローバリゼーションやIT化の進展などの大きな環境変化への対応が遅れ、1990年代初めには4%程度であった日本の潜在成長率は、1990年代末に1%程度まで低下しました。2000年代も、主要国に先駆けて少子高齢化が進行するもとで、潜在成長率の低下に歯止めがかかりませんでした(図表2)。この間、インフレ予想も、実際の物価上昇率が小幅のマイナスを続ける中、趨勢的に低下していったものとみられます。
- Paul R. Krugman (1998), "It's Baaack: Japan's Slump and the Return of the Liquidity Trap," Brookings Papers on Economic Activity, No.2, pp. 137-205を参照。
- Jess Benhabib, Stephanie Schmitt-Grohe, and Martin Uribe (2001), "The Perils of Taylor Rules," Journal of Economic Theory, Vol. 96 (1-2), pp. 40-69を参照。
- マイナス金利政策の発明によって、「ゼロ金利制約」は文字通りの意味ではなくなりましたが、それでも、中央銀行にとって無利息の負債である銀行券の存在などを踏まえると、名目政策金利の引き下げには一定の限度があります。
(2)政策対応力の低下
長引くデフレに対抗するため、日本銀行は、1999年、無担保コールレート・オーバーナイト物を事実上ゼロ%で推移するよう促す「ゼロ金利政策」を実施しました。2001年にはマネタリーベースを潤沢に供給する「量的緩和政策」を導入しました。これらは、当時としては先駆的な金融政策でしたが、デフレからの脱却は実現できませんでした。
2008年のグローバル金融危機は、伝統的な金融緩和手段をほぼ使い切っていた日本経済に対し、大きな打撃となりました。当時の日本において、短期政策金利の引き下げ余地は、僅か0.5%でした。この時期3~4%の追加的な利下げが可能であった欧米とは大きな違いです。インフレ予想が低いうえに、名目金利の引き下げ余地も殆どない中で、日本銀行の政策対応力は限られていました。金融機関や金融システムの健全性が維持されていたにもかかわらず、日本経済の落ち込みが危機の震源地である欧米を大きく上回ったのは、政策対応力の乏しさも一因だったと考えられます(図表3)。
デフレを克服するためには、実質金利が、潜在成長率に規定される自然利子率を大きく下回る状況を作り出す必要がありますが、金融政策によって、直接、潜在成長率を引き上げることはできません。中央銀行に残された手段は、実質金利を大きく引き下げることであり、そのためには、ゼロ金利制約を乗り越えて名目金利を大きく引き下げることと、人々のインフレ予想を高めること、の2つが課題となりました。
3.「量的・質的金融緩和」の理論と実践
これら2つの課題への解決策は、短期金利のコントロールによる従来型の金融政策運営の中にはありません。政策運営のイノベーションが必要だったわけですが、そうした時に頼れるのはしっかりした経済理論です。そして、理論の知見を活用して実践できる具体的な政策手段を生み出すことが日本銀行にとっての挑戦でした。日本銀行が出した答えは、「量的・質的金融緩和」という枠組みです。これは、人々の期待への働きかけを狙った「強力なコミットメント」と、長期金利引き下げのための「大規模な長期国債の買入れ」の2つが柱となっています。
(1)強力なコミットメント(フォワード・ガイダンス)
まず、強力なコミットメントについて、少し詳しくお話しします。将来へのコミットメントによって、人々の予想ないし期待に働きかけるという考え方は、経済理論では「フォワード・ガイダンス」として整理されています。「期待に働きかける」ことの重要性は、経済学界において早くから認識されてきました。例えば、20世紀前半に英国で活躍したエコノミスト、ラルフ・ジョージ・ホートレーや、20世紀を代表する経済学者の一人であるジョン・リチャード・ヒックスは、「フォワード・ルッキングな金融政策」や「アナウンスメント効果」といった概念の本質を指摘しています。この考え方は、フリードマンやルーカス、ニューケインジアン等に引き継がれ、具体的に定式化、精緻化されてきました。現在、「中央銀行が物価安定に向けた強い意志を示すことが、人々の期待に働きかけ、金融政策の効果を高める」という考え方は、「インフレーション・ターゲティング」を始め、多くの国の金融政策の理論的支柱となっています4。
さらに近年では、中央銀行が「先行き経済・物価情勢が改善した場合でも、金融緩和を続ける」ことを予め約束することで、ゼロ金利制約に直面するもとでも、将来の緩和効果を前借りできるというメカニズムが精力的に研究されてきました。1998年、クルーグマン教授は、日本のデフレ克服には、マネーサプライを大幅に増加させ、インフレ予想を高めることにより実質金利を十分にマイナスにすることが必要と主張しました。2003年にウッドフォード教授と当時IMFのエコノミストであったエガートソン教授は、デフレとゼロ金利制約に対処するためには、「民間主体の期待形成に働きかけること(expectation management)」が重要であり、そのためには、将来の金融政策を十分緩和的にするというコミットメントが不可欠である点を強調しています5。
一方、実践の世界では、日本銀行が、こうしたフォワード・ガイダンスの先駆者です。1999年に「ゼロ金利政策」を導入した際、日本銀行は、「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢になるまで」、ゼロ金利政策を継続することを対外的にコミットしました。これが世界で初めて実践されたフォワード・ガイダンスだと理解しています。また、2001年から2006年にかけて実施された「量的緩和」の時期には、「消費者物価の前年比が安定的にゼロ%以上となるまで」、量的緩和を継続することを約束しました。しかしながら、先ほど述べたように、結果だけをみれば、これらの政策によってデフレを克服することはできませんでした。自然利子率が想定していた以上に低下していたことも一つの要因だと思いますが、当時のコミットメントがやや曖昧であったことや、目標とするインフレ率の数字が低かったことが、人々のインフレ予想を引き上げるには、力不足だったのかもしれません。
2013年に「量的・質的金融緩和」を導入したとき、日本銀行は、最新の経済理論を十分に踏まえたうえで、インフレ予想をしっかりと引き上げるため、「日本銀行が2%の目標を責任を持って実現する」ことを強く、明確にコミットすることに力を注ぎました。加えて、昨年9月には、さらに強力なフォワード・ガイダンスである「オーバーシュート型コミットメント」を導入しています。これは、消費者物価上昇率の「実績値」が安定的に2%を超えるまで、マネタリーベースの拡大方針を継続することを約束するものです。一般的に、金融政策は、経済・物価に影響を及ぼすまでに相応の時間を要することから、先行きの見通しを踏まえつつ、早め早めに舵を切っていくことが望ましいと考えられています。そうした観点からは、目標のインフレ率が実際に実現するまで継続することを明示した現在のコミットメントは、中央銀行として異例な対応であり、より強力な措置であると考えています。
- 4黒田東彦、「『期待』に働きかける金融政策:理論の発展と日本銀行の経験」、オックスフォード大学における講演の邦訳、2017年6月8日を参照。
- 5Gauti B. Eggertsson and Michael Woodford (2003), "The Zero Bound on Interest Rates and Optimal Monetary Policy," Brookings Papers on Economic Activity, No. 1, pp. 139-211を参照。
(2)大規模な長期国債の買入れ
次に、「量的・質的金融緩和」の第二の柱である「大規模な長期国債の買入れ」についてご説明します。グローバル金融危機以降、多くの中央銀行は、ゼロ金利制約の問題を回避するため、金利引き下げ余地が残る長めのゾーンを金融政策の対象とすることで、さらなる実質金利の低下効果を追求してきました。そのためのもっとも直接的な方法は、中央銀行による長めの貸出や長期国債の買入れによって、長期金利そのものに働きかけることです。
ただ、中央銀行が長めの金利を押し下げることができるかどうかについて、経済理論では、これが可能であるとの見方と可能ではないとの見方に分かれてきました。ケインズやその流れを汲むトービンは、金融資産間の代替が不完全な状況を想定したうえで、中央銀行による長期国債の買入れが長期金利を押し下げると主張しましたし、1960年代頃まではそうした考え方が主流でした。もっとも、金融市場が高度に発達し、またケインジアンの影響力が後退していく中で、金融市場での裁定が完全に働くことを前提に、中央銀行による資産買入れのオペレーションは資産価格形成に対して中立的であるという、「Wallaceの定理」も有力な理論となっていました6。
このように理論面では2つの見方があったわけですが、中央銀行は、金融政策運営の責務を果たすため、理論が示唆する限界や問題点を理解したうえで、様々な工夫を行いながら挑戦するメリットを比較考量して、新しい政策手段を実践しました。実際、グローバル金融危機以降、FRBをはじめとする主要な中央銀行が大規模な長期国債の買入れを実施し、長めの金利を引き下げることに成功しました。最近の実証分析でも、中央銀行による国債買入れは、長期金利を有意に押し下げることができるとの見方が支配的となっています7。こうした事実に関する理論的な基礎付けはなお道半ばではありますが、最近では、国債には担保としての根強い需要があることや、特定の投資家が長期国債による運用を特に選好することなどに着目した、市場の不完全性や分断に関する分析に再び焦点があたっています。
日本銀行も、主要中央銀行を大きく上回る規模の国債買入れを実施しています。現在の日本銀行のバランスシートの規模は約500兆円ですが、これは日本の名目GDPにほぼ匹敵します。FRBやECBのバランスシートは、名目GDPの2~4割程度ですので、日本銀行の国債買入れがいかに大規模なものであるかがご理解頂けると思います(図表4)。具体的な買入れの方法も、この4年半で進化してきています。当初は、イールドカーブ全体の低下を促すため、1年間に買入れる国債の「量」を設定しました。この方法は、実務的な運営方法がシンプルなこともあって、日本銀行だけでなく、他の主要な中央銀行でも、広く採用されています。もっとも、この方法には、同じ金額の国債買入れであっても、どの程度の長期金利の引き下げにつながるかは、経済・物価情勢や金融市場の動向次第で異なるという問題があります。望ましいイールドカーブに比べて、金利の引き下げが不十分なものに止まったり、逆に過度な引き下げをもたらす可能性がありました。
この問題を解決するため、日本銀行は、昨年9月、10年物国債金利の水準を目標とする「イールドカーブ・コントロール」を導入しました。数年にわたる大規模な国債買入れにより、日本銀行は、国債市場で大きなプレゼンスをもっていたことから、相応の長期金利のコントロール力を有していました。さらに、より精緻な金利調整手段として、特定の金利水準で無制限に国債を買い入れる「指値オペ」という強力なツールも実装することにしました。実際、この1年間、日本銀行は、10年物金利を、目標どおりの水準にコントロールし、金融市場調節方針と整合的なイールドカーブを安定的に実現することができています。
- 6Neil Wallace (1981), "A Modigliani-Miller Theorem for Open-Market Operations," The American Economic Review, Vol. 71 (3), pp. 267-274を参照。
- 7例えば、Joseph E. Gagnon (2016), "Quantitative Easing: An Underappreciated Success," Policy Brief, No. 16-4, Peterson Institute for International Economicsを参照。
4.「量的・質的金融緩和」の成果と見えてきた課題
こうした「量的・質的金融緩和」による強力な金融緩和は、目に見える効果を発揮しています。インフレ予想の上昇と長めの金利の大幅な低下により、日本銀行は、20年近くに及ぶゼロ金利制約との闘いの中で、初めて実質金利を自然利子率より有意に低い水準まで引き下げることに成功しました(図表5)。そのもとで、マクロ的な需給ギャップは着実に改善し、企業収益は過去最高水準を更新しています。労働市場では、ほぼ完全雇用の状態が実現しています(図表6)。物価面では、エネルギーと生鮮食品を除いた消費者物価の前年比は、約4年にわたってプラス基調を続けています。日本にとって、こうした状況は、1990年代末以降、初めてのことです。日本はようやく、「物価が持続的に下落する」という意味でのデフレではなくなりました。
日本経済は着実に改善していますが、一方で、生鮮食品を除く消費者物価上昇率は0%台後半にとどまっています。一頃高まりをみせたインフレ予想も、原油価格下落の影響による物価上昇率の低下等を受けて、弱含みの局面が続いています。過去15年間続いたデフレによって、企業や消費者の間に、物価は上がりにくいものとする見方、いわゆるデフレマインドが根強く残っており、2%の「物価安定の目標」の実現には、なお距離がある状況です(図表7)。そこで、最後に、この間の金融政策運営の経験から見えてきた課題について、最近の経済理論の視点も踏まえつつ、お話ししたいと思います。
(1)デフレマインドの払拭
第一の課題は、人々に根付いたデフレマインドを、どのように払拭していくかということです。日本銀行の経験から言えることは、2つあります。
第一に、理論が示唆するとおり、中央銀行は人々のインフレ予想に働きかけることができるということです。このことは、「量的・質的金融緩和」の導入後、最初の1年間で明確となりました。2%の実現に向けた日本銀行の強く明確なコミットメントと、それを裏打ちする大規模な金融緩和策に対して、人々のインフレ予想はポジティブに反応し、多くの指標は、比較的短期間ではっきりと上昇しました(図表8)。
第二に、日本銀行によるフォワード・ガイダンスが、他国よりも遥かに強力であるにもかかわらず、インフレ予想の上昇は緩やかであるということです。中央銀行のフォワード・ガイダンスに対して、インフレ予想などの経済変数が理論モデルよりも緩やかにしか反応しない状況については、学界でも、「フォワード・ガイダンス・パズル」として研究が進められています8。日本の場合、この間の分析により、人々のインフレ予想が、「負の価格ショック」に対して脆弱であることが、改めて明らかになりました9。2014年の夏以降、原油価格の大幅な下落などによって実際のインフレ率が低下すると、それまで順調に上昇していたインフレ予想は、これに引きずられる形で頭打ちから弱含みに転じました。日本のように、インフレ予想がインフレ目標にアンカーされていない経済では、予想の形成が過去のインフレ率に引きずられる、いわゆる「適合的な期待形成」が強く、中央銀行のフォワード・ガイダンスにインフレ予想が即座に反応しないと考えられます。
15年間にわたるデフレによって形成されたデフレマインドを一気に払拭することは容易ではありません。しかし、第一の経験から明らかなように、日本においても、「負の価格ショック」の影響を回避できれば、理論どおり、フォワード・ガイダンスによって人々のインフレ予想に影響を与えることが可能です。2%の「物価安定の目標」の実現に向けた日本銀行の揺るぎない姿勢と粘り強い取り組みが重要と考えています。
- 8Marco Del Negro, Marc Giannoni, and Christina Patterson (2015), "The Forward Guidance Puzzle," Federal Reserve Bank of New York Staff Reports, No. 574, Alisdair McKay, Emi Nakamura, and Jon Steinsson (2016), "The Power of Forward Guidance Revisited," The American Economic Review, Vol. 106 (10), pp. 3133-3158を参照。
- 9日本銀行 (2016)「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」、西野孝佑・山本弘樹・北原潤・永幡崇 (2016)、「『総括的検証』補足ペーパーシリーズ(1):『量的・質的金融緩和』の3年間における予想物価上昇率の変化」、日銀レビュー、2016-J-17、日本銀行を参照。
(2)最適なイールドカーブの把握
第二の課題は、2%の「物価安定の目標」に向けて最も適切と考えられるイールドカーブの形状を、どのように把握するかということです。
伝統的な金融政策の世界では、望ましい短期金利水準を判定するためのベンチマークが数多く考案されてきました。自然利子率と実質短期金利の相対的な関係は金融緩和の度合いを評価するうえで重要ですし、テイラー・ルールは、望ましい短期政策金利を直接計測しようとする試みです。「量的・質的金融緩和」のもとでは、こうした方法を、短期金利からイールドカーブ全体に拡張して、新たな判断基準を構築していく必要があります。この点、日本銀行では、「均衡イールドカーブ」の概念を整理し、計測するという形で、理論的・実証的な取り組みを始めています。研究途上ではありますが、今後とも、その成果について学界・実務界の方々と議論していきたいと思います10。
また、金利の年限によって金利低下の効果が異なることも、最適なイールドカーブを考えるうえで考慮すべき一つのポイントです。経済や物価への影響という点では、一般的に、短期から中期の金利低下による効果が大きいと考えられます。企業や家計の資金調達に占めるこのゾーンのウエイトが大きいためです。一方、より長めの金利については、保険や年金といった金融の社会インフラの機能と強い関連があると考えられます。このため、長期・超長期金利の過度な低下は、これらの運用利回りに対する不安感などを惹起し、マインド面を通じて経済に影響を及ぼす可能性に留意する必要があります。このほか、金融仲介機能への影響という点では、最近、「リバーサル・レート」の議論が注目を集めています11。これは、金利を下げすぎると、預貸金利鞘の縮小を通じて銀行部門の自己資本制約がタイト化し、金融仲介機能が阻害されるため、かえって金融緩和の効果が反転(reverse)する可能性があるという考え方です。日本の場合、日本の金融機関は充実した資本基盤を備えているほか、信用コストも大幅に低下しており、現時点で、金融仲介機能は阻害されていません。ただし、低金利環境が金融機関の経営体力に及ぼす影響は累積的なものであるため、引き続き、こうしたリスクにも注意していきたいと思います。
最適なイールドカーブの形状の把握にあたっては、理論的にも実務的にも様々な論点があります。そうした中にあっては、経済・物価情勢だけでなく、金融機関や金融市場の状況について幅広く目配りすることができる中央銀行の機能を、最大限活用していく必要があります。日本銀行は、各種の定性的な情報も考慮しながら、2%に向けたモメンタムを維持するために最も適切と考えられるイールドカーブの形状を不断に追求していく方針です。
- 10今久保圭・小島治樹・中島上智 (2015)、「均衡イールドカーブの概念と計測」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.15-J-4、日本銀行を参照。
- 11Markus K. Brunnermeier and Yann Koby (2017), "The Reversal Interest Rate: An Effective Lower Bound on Monetary Policy," mimeoを参照。
5.おわりに
そろそろ時間がなくなってきましたので、本日の話を締め括ろうと思います。2013年に導入した「量的・質的金融緩和」は、それまでよりも遥かに強力な政策であるため、「異次元」の金融緩和と呼ばれています。しかし、もしこの「異次元」という言葉に、理論を超越した単なる「思い切りの良さ」や、「無鉄砲さ」といったニュアンスを投影するのであれば、それは間違いです。
言うまでもなく、理論と実践は対極にあるものではなく、互いを高め合うものです。「良い理論ほど、実践的なものはない」12という有名なフレーズは、金融政策の理論と実践にも当てはまります。中央銀行は、政策当局として、常に実践の世界で行動する存在ですが、政策の効果や成否は、経済や社会に大きな影響を及ぼすため、常にしっかりとした理論的裏付けを求めます。例えば、オーバーシュート型コミットメントは、従来のどのフォワード・ガイダンスよりも強力で、世界に前例のないものですが、それだけに、この間に発展した期待形成に関する経済理論に立脚しています。一方、中央銀行は、常に変化する現実の世界と対峙するため、実践の過程で、既存の理論では説明できない困難に直面することも少なくありません。大規模な国債買入れやイールドカーブ・コントロールを導入した際には、理論が示唆する限界や問題点を理解したうえで、それに挑戦するメリットを比較考量し、冷静な判断を行いました。こうした実践の世界の新たな一歩が、将来の新たな理論の構築に繋がることもあるように思います。
日本では、2%の「物価安定の目標」に向けて取り組むべき課題はなお残されていますが、それでも、物価を巡る環境は、5年前に比べて、着実に改善しています。「量的・質的金融緩和」を支える経済理論や、それに基づく日本銀行の挑戦に間違いはなかったと確信しています。先行きについても、マクロ的な需給ギャップが着実に改善していくなか、企業の賃金・価格設定スタンスは次第に積極化してくるとみています。実際に価格引き上げの動きが拡がれば、人々のインフレ予想も着実に上昇していくと考えられます。日本銀行としては、こうした前向きの動きが途切れることがないよう、今後とも、強力な金融緩和を粘り強く続けていく方針です。
ご清聴ありがとうございました。
- 12Kurt Lewin (1945), "The Research Center for Group Dynamics at Massachusetts Institute of Technology," Sociometry, Vol. 8 (2), pp. 126-136を参照。