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【講演】 グローバル化と金融政策 BISアジア事務所開設20周年記念シンポジウムにおけるパネリスト・スピーチの邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2018年10月15日

BISアジア事務所の開設20周年に際し、Carstens BIS総支配人、Remolona事務所長ほか皆様に、心よりお祝い申し上げます。この20年間、アジア経済は大きな変化を経験し、とりわけ海外からのショックに対する耐性という点で顕著な改善がみられました。BISアジア事務所は、こうした改善の過程で、域内中央銀行間の協力強化を媒介するなど、重要な役割を果たしてこられました。

グローバルな通貨価値や金融システムの安定性を高めるうえでの地域協力の重要性については後ほど触れたいと思いますが、まずはグローバル化が進む中での各国経済における物価と金融の安定について論じたいと思います。

グローバル化は、物価と金融の安定にどのような影響を及ぼしてきたのでしょうか。10年前の世界金融危機や20年前のアジア通貨危機の際には、グローバルないし地域間での金融統合の動きが、多くの国の国内金融システムの安定に影響を及ぼしました。金融統合は時間を通じた消費の平準化や国を跨いだリスク分散を可能にする一方、その結果として生じる大規模で変動の激しい資本フローがグローバルな金融安定へのリスクを高めます。こうした金融の安定への影響に比べますと、グローバル化が物価の安定に与える影響は、それほど明白ではないように思われます。10年ほど前にBISのエコノミストが「国内物価に影響を与える要因はグローバルなものになってきている」との仮説を提唱して以来1、この仮説は多くの関心を集めてきました。これに伴い、世界的な需給バランスや国際競争といったグローバルな要因が国内物価の変動にどの程度影響を与えているか、グローバルな経済統合が進むにつれてその影響は高まっているのか、といった問題について、多くの実証研究が行われてきました。しかし、これまでのところ、これらの問題に決着をつけるような実証結果は得られていないようです。

グローバル化が国内物価に影響を及ぼす経路は、いくつか考えられます。最も明らかなのは、輸入品の価格変動が消費者物価の変動に直接つながる経路です。これに加え、国際競争圧力や多国籍企業による各国間での価格差別化といった要因は、対象となる品目が実際に輸入されなくても、国内物価に影響を及ぼし得ます。これらの要因は、輸入物価に加え、グローバルな需給ギャップや価格マークアップ率を、標準的なフィリップス曲線の式に説明変数として追加することによって、実証的に捉えることができるかもしれません。さらに、最近のBISエコノミストの研究によりますと2、グローバルな要因の国内物価への影響を説明するうえで、グローバル・バリュー・チェーンの重要性の高まりが鍵となることが示されています。こうしたグローバルな要因がどの程度統計上有意か、ということをめぐる実証的な研究は、今も続けられています。

ここで、国内物価の変動におけるグローバルな要因の役割をよりよく理解するために、3つの点を指摘したいと思います。

第1に、グローバル化が国内物価に与える影響の大きさや経路は、各国の経済規模、所得水準、貿易の開放度などによって、大きく異なるという点です。例えば日本は大きな先進国経済ですが、新興国経済を含むグローバルないし地域のバリュー・チェーンにすでに深く組み込まれています。また、国内の需給ギャップは、純輸出を通じて、海外の市場動向も少なからず反映しています。こうしたもとでは、新興国経済からの競争圧力の高まりが追加的に国内物価に及ぼす影響は限られているかもしれませんし、もしあったとしてもフィリップス曲線の推計によって識別することは難しいかもしれません。

第2に、グローバル化には、貿易、競争、バリュー・チェーンといった様々な側面があり、それらが国内物価に与える影響の方向は異なりうるという点です。競争圧力の高まりやグローバル・バリュー・チェーンの統合の進展は国内物価を押し下げる方向で作用してきました。ただ、情報通信技術を集約的に用いるサービス産業などでみられている、グローバルな市場集中度の高まりという最近の新しいトレンドは、マークアップ率の上昇を通じ、将来的に物価を高める方向に作用するかもしれません3

第3に、グローバル化がインフレ率に及ぼす短期的な影響と長期的な影響を区別することが重要です。輸入物価の変動はインフレ率に短期的な影響しか与えませんし、インフレ率のトレンド的な動きに対するグローバルな要因の影響度が高まっているという実証結果はほとんどありません4。インフレ率のトレンドは、多くの国において、主に国内要因、とりわけ長期的なインフレ予想の影響を受けてきました。近い将来のインフレ予想はインフレ率の実績値に左右されますが、遠い将来のインフレ予想は結局のところ何らかのアンカー(錨)によって決められるとの考え方が一般的です。

この最後の点は、金融政策が海外からのショックの波及という困難な状況にどう対応し得るか、という問いへの一つの答えにもつながります。すなわち、中央銀行による明確で信頼性の高いコミュニケーションが行われ、より強くアンカーされたインフレ予想を保つことが、海外からのショックの波及に対応する一つの方法になるということです。もちろん、新興国の中央銀行が資本フローや為替レートの激しい変動の影響を相対的に受けやすく、より困難な状況に直面していることは承知しています。しかしながら、今月初めに公表されたIMFのWorld Economic Outlookの中で示されているように5、新興国におけるインフレ予想のアンカー度合いは、この20年間で顕著に改善しています。また、アンカー度合いがさらに改善すれば、インフレ率の変動の持続性や為替レートの国内物価へのパススルーを弱めることなどを通じて、海外からのショックに対する経済の耐性を強められることも示されています。ここで、アジア通貨危機の震源地であったタイの例に簡単に触れておきましょう。危機の後、タイでは、変動為替相場制とフレキシブルなインフレーション・ターゲティングの政策枠組みに移行し、金融政策が中央銀行によって独立して運営される法的な枠組みも確立しました。危機後の20年間を通じて、物価の安定という面では総じて優れた成果が上がり、近年では高インフレよりもむしろ低インフレの問題と格闘しています。

最後に、中央銀行が海外からのショックの波及に対応するもう一つの方法として、地域協力について触れたいと思います。東アジア・太平洋地域では、域内の経済・金融情勢について中央銀行同士で議論する機会がたくさんあります。こうした機会などを通じた中央銀行間の密接なコミュニケーションや協力は、特に海外発の巨大なショックが国内の物価や金融の安定を揺るがしかねないような危機時には、決定的に重要なものとなり得ます。海外からのショックに対する地域経済の耐性を高めるため、すでに、地域協力を通じた数多くの取組みが行われています。例えば、チェンマイ・イニシアティブは、危機の予防と解決のための域内金融セーフティーネットとして構築されました。さらに、アジア通貨危機の際に債務の返済負担を増大させた通貨と期間のダブル・ミスマッチを取り除くうえで重要な、自国通貨建て債券市場の育成に向けた努力も続けられています。そのようなイニシアティブの一つとして、東アジア・オセアニア中央銀行役員会議(EMEAP)に参加する中央銀行が2003年に始めたアジア・ボンド・ファンド(ABF)がありますが、BISはこのイニシアティブの開始以来、EMEAPと密接に協働してきました。

以上述べましたように、より密接な地域協力と、各国のより良いマクロ経済政策の枠組みの両方を追求することは、海外からのショックの波及に対応する重要な手段となりますし、ひいては、グローバルな通貨価値や金融システムの安定性を高めることにもつながると考えられます。

最後になりますが、BISアジア事務所が20年間にわたり、特に域内の中央銀行間の協力への支援を通じて果たしてこられた役割に改めて感謝を申し上げまして、私の話を締めくくりたいと思います。

ありがとうございました。

  1. Borio, C. and A. Filardo (2007) "Globalisation and inflation: new cross-country evidence on the global determinants of domestic inflation," BIS Working Papers, 227.
  2. Auer, R., C. Borio, and A. Filardo (2017) "The globalisation of inflation: the growing importance of global value chains," BIS Working Papers, 602.
  3. Andrews, D., P. Gal, and W. Witheridge (2018) "A genie in a bottle? Globalisation, competition, and inflation," OECD Economics Department Working Papers, 1462.
  4. Forbes, K. (2018) "Has globalization changed the inflation process?" Paper presented at 17th BIS Annual Research Conference on June 22, 2018.
  5. International Monetary Fund (2018) "Challenges for monetary policy in emerging economies as global financial conditions normalize," Chapter 3, World Economic Outlook, October 2018.