【挨拶】日本銀行金融研究所主催2019年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳
日本銀行総裁 黒田 東彦
2019年5月29日
1.はじめに
おはようございます。今回で25回目となる日本銀行金融研究所の国際コンファランスに各国から識者の皆さまをお迎えすることができ、大変光栄です。コンファランスの主催者を代表して、心から感謝申し上げます。
さて、今年のコンファランスのテーマは「低インフレ・低金利環境のもとでの中央銀行デザイン」です。現在の金融政策理論の大枠はグローバル金融危機以前に形成されました。当時は、政策金利が既にゼロ%近くまで低下していた日本を除けば、先進国におけるインフレ率や金利は十分に高く、伝統的な金融政策が有効な状況にありました。すなわち、中央銀行は景気を刺激するうえで名目短期金利の切り下げ余地を十分に持っていました。しかしながら、危機後こうした経済環境は大きく変容し、現在に至るまで10年を超える期間にわたって、インフレ率や金利は危機前の水準を大きく下回っています。
以下では、現在の低インフレ・低金利環境のもとで中央銀行が直面している政策課題を概観したいと思います。
2.低インフレ・低金利環境のもとでの政策課題
具体的には、今回のコンファランスで焦点をあてる4つの論点についてお話しします。最初が金融政策運営の枠組み、次が金融政策手段、3つめが物価安定と金融安定の関係、そして最後が新興国・途上国へのスピルオーバーについてです。
(1)金融政策運営の枠組み
金融政策運営の枠組みについて、教科書的なニューケインジアン・モデルでは、長期のインフレ予想がインフレ目標値にアンカーされていることを前提に、自然利子率をベンチマークとして参照しつつ政策金利を機械的に操作するルールが提示されています。この場合、中央銀行にとって景気を刺激するために必要なのは、実質金利を自然利子率よりも低く設定することです。もっとも、こうした伝統的な金融政策の枠組みは、2つの大きな課題に直面しています。
1つは、実際の金融政策運営において、自然利子率をどの程度ベンチマークとして活用すべきかという課題です。この点は、自然利子率の計測の難しさとも関連しています1。もちろん、複数の手法による推計値の共通トレンド部分を参照するなどして計測上の問題を小さくすることは可能です。実際、さまざまな推計で自然利子率は非常に低い水準にあり、その趨勢的な低下に対する懸念が広がっているのはご存知の通りです。
もう1つは、「失われたインフレ(missing inflation)」のもとで長期インフレ予想が安定的であると考えてよいかという問題です。多くの先進国では、経済活動がはっきりと改善するなかにあっても、非常に緩慢な物価の動きが観察されています。過去の実績がインフレ目標に対する信認を維持するうえで重要であることにかんがみると、この事実は、そうした信認についての懸念を惹起するものと言えます。実際日本は、目標を下回るインフレ率を引き上げ、長期インフレ予想をリアンカリングすることの難しさに直面してきました。こうした経験は、インフレ予想をしっかりとアンカーし続けることの重要性を示しています。同時に、「失われたインフレ」がグローバル化やデジタル化のような構造要因に起因している場合、中央銀行が、フレクシブル・インフレーション・ターゲティングの枠組みのもとで、経済・金融環境の安定を確保しつつインフレ予想をどのようにコントロールしていくことが最適かという点についても、今後とも考えていく必要があります。
- 1例えば Powell [2018b] を参照。
(2)金融政策手段
平時における中央銀行は、名目短期金利の操作によって政策目標の実現を目指します。もっとも、グローバル金融危機以降、非伝統的金融政策手段と呼ばれる代替的な政策手段の活用を迫られることになりました。具体的には、名目金利が実効下限制約(effective lower bound)にあるもとでのフォワード・ガイダンスの活用や中央銀行のバランスシートの規模・構成の操作などです。
こうした新しい政策手段の活用が、実効下限制約に直面するもとで大きな負のショックに対応する際に有効であることは、近年の経験が示すところです。もっとも同時に、非伝統的な政策手段に対するわれわれの理解は、なお十全とは言えないことも事実です。これまで多くの非伝統的な政策手段を発明してきましたが、その有効性や波及メカニズムは金融情勢や経済構造に依存します。また、非伝統的な政策手段を今後どのように活用するのかという点も重要であり、特に、こうした政策手段が平時における標準的な政策手段となり得るかどうかは興味深い論点の1つと言えます。
(3)物価安定と金融安定の関係
物価安定と金融安定の関係については、低金利環境のもとで2つの論点が広く認識されるようになっています。
1つは、低金利環境の長期化が、金融機関のリスクテイク姿勢や金融安定に影響を与えるのかという点です。これについては主に2つのリスクが指摘されています。すなわち、過度なリスクテイクが助長されるとする見解と、金利が「リバーサル・レート」と呼ばれる一定の水準を下回るとリスクテイクが抑制されるとする見解です。この論点に関する実証分析は増えてきてはいますが、現時点ではこれらのリスクの特性やその確率分布は必ずしも明らかになっていません2。
もう1つは、金融安定に関するリスクについて、どのような政策手段で対応すべきかという点です。この点に関しては2つの考え方が提起されています。まず、ティンバーゲン・ルールに沿い、政策目標に対して政策手段を使い分けるという考え方があります。具体的には、物価安定には金融政策手段を、金融安定にはマクロプルーデンス政策手段をそれぞれ割り当てるというものです3。他方、金融政策がさまざまな金融活動に影響を及ぼすという前提にたち、物価安定だけではなく金融安定にも配慮しつつ金融政策を遂行する“lean against the wind”という考え方もあります4。ただし、前者の立場を含む多くの見方において、マクロプルーデンス政策手段は万能ではないと認識されていることや、後者においても、金融環境に起因する循環を逐一抑制するというよりは、制御不可能なまでの金融の不安定化を避けることがその本質であることをかんがみると、2つの考え方は全く相いれないものではないと言えそうです。
- 2過度なリスクテイクが助長されるという見方と整合的な結果については、例えば Maddaloni and Peydró [2011] を参照。政策金利と貸出の間の負の関係を報告した研究については、例えば Heider, Saidi and Schepens [2018] を参照。
- 3例えば Svensson [2010] を参照。
- 4例えば Borio and Lowe [2002] 、White [2006] を参照。
(4)新興国・途上国経済へのスピルオーバー
低インフレ・低金利環境は、新興国・途上国に対する課題も提起しています。先進国におけるそうした状況は、インフレ率や名目金利が高い新興国・途上国への資金流入を拡大させる可能性があります。このような資金フローは、受入れ国の経済活動を押し上げますが、一方で、突然の資本流出や為替変動による借り手の損失などを通じて、経済を攪乱するリスクもはらんでいます。近年、こうした資本フローの大きな変動が及ぼし得る負の影響についての認識は、新興国・途上国のみならず先進国においても高まっているように窺われます5。
- 5最近の連邦準備制度の見方として Powell [2018a] を参照。スピルオーバーに関する議論として、例えば Rajan [2015] を参照。
3.結び
それではこれより、第25回国際コンファランスを開会します。私の開会挨拶に続き、今年の前川講演では、スピーカーとして前欧州中央銀行(European Central Bank: ECB)総裁のジャン・クロード・トリシェ氏をお招きしています。ユーロ圏のマクロ経済政策運営についての長いご経験を踏まえたお話しをお聞きできることを楽しみにしております。
基調講演では、金融研究所の新たな海外顧問であるカリフォルニア大学サンタ・クルーズ校のカール・ウォルシュ教授から、低インフレ・低金利のもとでの金融政策の枠組みについて、アカデミアの視点に基づくお話しを頂きます。ウォルシュ教授は、中央銀行員の必読書である「金融の理論と政策(Monetary Theory and Policy)」を書かれており、金融政策研究の第一人者です。
論文報告では、(1)国際的な資本フローを考慮した場合の最適金融政策、(2)リバーサル・レート、(3)金融安定と物価安定を図るうえでのティンバーゲン・ルール、(4)長引く低金利が銀行部門の安定性に及ぼす影響、の4つのトピックに焦点を当てます。
最後の政策パネル討論では、もう1人の金融研究所海外顧問であるアタナシオス・オルファニデス・マサチューセッツ工科大学教授にモデレータをお務め頂くとともに、パネリストとしてクリスチアン・ホークスビー・ニュージーランド準備銀行総裁補とクラウス・マズフ・ECB経済総局上席アドバイザーをお迎えし、若田部昌澄日本銀行副総裁も参加致します。
本日のコンファランスにおける理論と実務の両面からの議論が、低インフレ・低金利環境下における中央銀行の制度設計についての理解を深めることを期待します。
ご清聴ありがとうございました。
参考文献
- Borio, Claudio E. V., and Philip William Lowe, “Asset Prices, Financial and Monetary Stability: Exploring the Nexus,” BIS Working Paper No. 114, Bank for International Settlements, 2002.
- Heider, Florian, Farzad Saidi, and Glenn Schepens, “Life below Zero: Bank Lending under Negative Policy Rates,” ECB Working Paper Series No. 2173, European Central Bank, 2018.
- Maddaloni, Angela, and José-Luis Peydró, “Bank Risk-Taking, Securitization, Supervision, and Low Interest Rates: Evidence from the Euro-Area and the U.S. Lending Standards,” Review of Financial Studies, 24(6), 2011, pp. 2121–2165.
- Powell, Jerome H., “Monetary Policy Influences on Global Financial Conditions and International Capital Flows,” speech at “Challenges for Monetary Policy and the GFSN in an Evolving Global Economy,” Eighth High-Level Conference on the International Monetary System sponsored by the International Monetary Fund and Swiss National Bank, in Zurich on May 8, 2018a.
- Powell, Jerome H., “Monetary Policy in a Changing Economy,” speech at the Federal Reserve Bank of Kansas City’s Economic Policy Symposium on “Changing Market Structure and Implications for Monetary Policy,” in Jackson Hole on August 23–25, 2018b.
- Rajan, Raghuram G., “Competitive Monetary Easing: Is It Yesterday Once More?” Macroeconomics and Finance in Emerging Market Economies, 8(1–2), 2015, pp. 5–16.
- Svensson, Lars E. O., “Monetary Policy after the Financial Crisis,” presentation at the Second International Journal of Central Banking Fall Conference in Tokyo on September 17, 2010.
- White, William R., “Is Price Stability Enough?” BIS Working Paper No. 205, Bank for International Settlements, 2006.