【挨拶】ポストコロナの「お金」の姿決済の未来フォーラム デジタル通貨分科会における挨拶
日本銀行理事 内田 眞一
2020年7月30日
はじめに
日本銀行の内田でございます。本日は、新型コロナウイルスを巡る厳しい情勢の中で、決済の未来フォーラム・デジタル通貨分科会にご参加いただき、誠にありがとうございます。
本日の分科会では、第1に、今般の新型コロナウイルスが、個人の生活やビジネス・スタイル、さらにはリテール決済手段の選択や金融サービスの提供にどのような影響をもたらしているのか、第2に、そうした背景も踏まえて、デジタル決済には、どういった機能が求められ、これを現在あるいは未来の技術でどう実現していくのか、議論いただきたいと思います。
現金
わが国においては、対面でのリテール決済の主役は、ずっと現金でした。実際、現金の流通残高は100兆円を超え、GDPの2割にも上ります。これは諸外国と比べても突出していますし、歴史的にも高水準です。過去100年間遡ってみても、銀行券流通残高の対GDP比率は、ほぼすべての期間でおおむね8%程度であり、例外は、第2次大戦前後と90年代中盤~現在の2回だけです。このことは決済需要が経済規模との関係でおおむね安定していることを表しており、現在の現金流通残高の大きさは、何か別の原因によると考えられます。その答えのひとつとして言えそうなのは、低金利環境の中で、人々が手元の現金をこまめに預金しに行かないという現象です。
このことは、今般のコロナを巡る状況下でも生じているようです。6月の銀行券流通高は前年比4.8%に上昇しました。ただ、興味深いことに、券種別では千円札、五千円札はそれほど増えておらず、一万円札だけが伸びています。また、ATMの受け入れ・払い出し件数も激減しています。おそらく、決済手段としての現金需要は減少した一方で、銀行やATMに足を運ぶ回数を減らすために、手元に多めの現金を置いた――つまり広い意味の価値保蔵手段としての現金需要が増えた――ということでしょう。コロナと低金利という2つの環境がもたらしたものですが、これは日本だけでなく、程度の差はあれ世界的にも見られる現象のようです。
「ようです」と歯切れの悪い言い方をしましたが、実は「現金」は、最も身近な決済手段でありながら、その振る舞いはいつも謎めいています。その根底には、現金の特質である「匿名性」があります。これはデジタル化の下での決済手段を考える際には、避けて通れない重要な課題のひとつです。
ポストコロナ
さて、「ポストコロナの経済の姿はどうなるのか」ということは、国際会議などでも盛んに議論されています。議論百出ですが、コンセンサスがあるとすれば、以下のようなことかと思います。第1に、コロナ前とは違う世界だろう、第2に、どの程度違うものになるかは、治療薬やワクチンがどれだけ早く普及するかによって変わってくる、第3に、コロナ前から進んでいたデジタル化の動きを、不可逆的に加速させるだろう、ということです。
第3の点は、デジタル化というものの性質のひとつを言い表しているように思います。それは、一度使うと戻らない(あるいは戻れない)ということです。ITリテラシーの高い皆様からは笑われるかもしれませんが、私は、これまで電子書籍を持っていませんでした。本屋さんで紙の本を探すから新しい発見があるのだ、というこだわりによるものです。でも、今回の件で電子書籍を使って、文字の大きさを変えられる、という57歳の私には極めて大きなメリットを経験した結果、今後は併用することにしました。これはコロナが収束しても不可逆的です。もう少し一般的な例を申し上げれば、いくつかのアンケートにおいて、コロナ禍でキャッシュレスを利用する人の割合は増加しており、その人たちは、「感染拡大が収束しても行動は変わらない」と答えています。
本日最初のセッションでは、新型コロナウイルスがもたらした個人や事業者の行動変化について、皆様からご意見をいただきます。
デジタル決済
コロナがもたらす変化がどの程度のものになるか、現時点で確たることは言えませんが、トレンドとしての技術の進歩がユーザーの利便性を高めていくという意味で、経済のデジタル化は必ず進みます。そうした下での決済システムの姿はどうあるべきか、日本銀行としても、皆様方とともに、考えていきたいと思っています。
私は、以前人事課長をしていた時、就職説明会に来てくれた学生さんたちを前に、日本銀行の役割について話しました。一言でいえば「人々が安心してお金を使えるようにすること」というのが私の答えです。そのためにお金の価値、すなわち「物価の安定」を目指し、広義のお金である預金を含め、その流通経路にある「金融システムの安定」を守り、「銀行券」をクリーンで安心なものに保っている、ということです。この点は、デジタル時代においても変わりません。
我々は、「誰でも、いつでも、どこでも、安心して使える」決済手段を提供し続ける責任があります。そして、この点が、本日の2つめのセッションのテーマにつながります。近年、数多くのキャッシュレス決済サービスが登場していますが、オンライン決済が殆どであり、通信環境や電力に依存しないオフライン決済は、実は殆ど増えていません。地震や水害、パンデミックなど大規模な災害が起こっても「いつでも、どこでも」使えるサービス提供の強靭性、「誰でも」使えるユニバーサルアクセスの問題、そして「安心して」使えるセキュリティの堅牢性、こうした課題を新しい技術や工夫によって、どう乗り越えていくのか、第2部では、デジタル決済の改善に向けた技術的課題を議論いただきたいと思います。
中央銀行デジタル通貨
人々が、将来にわたって、便利で安心な「お金」を利用できるように、中央銀行と民間部門は、それぞれ役割を果たす必要があります。現在の仕組みでは、中央銀行は、自らの負債を銀行券という紙の形で、人々が広く使える「お金」として提供するとともに、デジタルベースの中央銀行負債である中央銀行当座預金を、取引先の金融機関に提供しています。これが決済システムの一層目を構成します。そしてこれを土台として、預金をベースとした銀行間の決済ネットワークやノンバンク決済事業者による様々な決済サービスが、提供されています。預金やこうした決済サービスも、人々にとっては同じく「お金」です。
決済がデジタル化しても、中央銀行と民間部門の双方が関与する二層ないしは多層構造は維持されると考えられます。その中で中央銀行が果たすべき役割――あるいは中央銀行負債の提供の仕方――は、決済システムの全体像に応じて、様々考えられます。中央銀行の仕事である「金融政策」も「最後の貸し手機能」も、突き詰めれば、どうやって中央銀行負債を提供するかの問題です。
そうしたひとつの可能性として、中央銀行デジタル通貨(CBDC)が、各国で検討されています。日本銀行は、現時点でCBDCを発行する計画はありませんが、技術動向など環境変化は非常に速いので、将来必要になった場合に的確に対応できるよう準備しておく必要があると考えています。先週には、決済機構局内に新しい組織「デジタル通貨グループ」を作りました。このグループの所掌は、決済システム全体のデジタル化とCBDCに関する事項です。日本銀行としては、これら2つの相関連する課題について、一段ギアをあげて準備・検討を進めていく方針です。
本日のフォーラムが、デジタル決済の未来を展望するうえで有益なものとなることを願っております。
ご清聴ありがとうございました。