【挨拶】 気候関連金融リスクへの取り組み―中央銀行の視点から― 日本銀行金融機構局主催気候関連金融リスクに関する国際リサーチ・ワークショップにおける開会挨拶の邦訳
日本銀行総裁 黒田 東彦
2021年3月25日
1.はじめに
本日は、日本銀行金融機構局主催の気候関連金融リスクに関する国際リサーチ・ワークショップに、各国からの識者の皆様をお迎えすることができ、大変光栄です。ワークショップの主催者を代表して、皆様のご参加に心から感謝申し上げます。今回のワークショップを対面で開催できないことは大変残念ですが、同時に、移動の負担無く、世界各国の皆様が議論に参加できるという点で、バーチャルのメリットも実感しているところです。
本ワークショップのテーマは、気候関連金融リスク、すなわち気候変動が様々な経路を通じて金融システムを不安定化させるリスクです。本会合は、金融システム面を含め、気候変動と経済や金融の関わりをテーマとして日本銀行が開催する、初めてのイベントになります。そこで、以下ではまず、気候変動と中央銀行の関わりについて触れたうえで、気候関連金融リスクについての理解と、日本銀行としての取り組みについて述べたいと思います。そして最後に、本ワークショップの議論に期待するものについて触れさせて頂きます。
2.気候変動と中央銀行
気候変動が、世界の社会・経済に広範な影響を及ぼしうる大きな課題であり、温室効果ガス排出の抑制が、文明の持続的な発展のために不可欠であることは、世界的に共通の認識となってきています。例えば、平均気温の上昇や大規模自然災害の頻度上昇は、気候変動が現実に起きつつあることを示していますし、「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が2013~2014年に公表した報告書をはじめとする科学的知見の蓄積により、それが人類の営みに起因することも明らかになってきています。
もとより、温室効果ガスの排出抑制に向けた道筋をつけていくことは、第一義的には政府の責務になります。この目標に向けては、多くの国において政府がその実現に向けた取り組みを行っており、わが国政府も、昨年、「2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」との長期目標へのコミットを表明しました。
同時に、気候変動は中長期的に実体経済や金融システムに大きな影響をもたらすことから、中央銀行の政策運営にも重要な影響を与えます。従って、中央銀行としても、必要な対応を考えていくこととなります。
すなわち、金融政策運営においては、当然ながら、前提となる経済・物価に関する情勢判断を、気候変動やこれに対する政府の政策対応の影響を踏まえて行っていく必要があります。そこから、より積極的にサステナブル・ファイナンスを支援する政策を採るべきかについては、中央銀行の責務(マンデート)や金融政策手段の市場中立性との関係などが論点となるでしょう。これら金融政策にかかる論点は、本ワークショップでは詳しく取り上げませんが、重要な論点であり、日本銀行としても一層の検討を重ねていきたいと考えています。
また、本ワークショップのメインテーマである金融システムの安定については、気候変動が中長期的に金融システムを不安定化させうる点を踏まえて、中央銀行が取り組むべき重要な課題であるという認識が、世界的に広く共有されつつあるように思われます。
3.気候関連金融リスクに関する理解の進展
こうしたもとで、気候関連金融リスクを把握し、管理するためのアプローチについても、本ワークショップの参加者の皆様を含め、多くの政策当局者、学界、金融機関をはじめとする民間セクターの貢献により、顕著な進歩がみられています。ここでは、この間の進歩について、4つの点を指摘したいと思います。
一つ目は、気候関連金融リスクの波及経路についての理解が進んだことです。気候変動が、実体経済を通じて金融システムに与える影響は、「物理的リスク」、「移行リスク」を主たる経路とする、という概念整理が進みました。ここで、「物理的リスク」は気候変動に起因する大規模災害や海面上昇といった物理的現象が企業や家計に損失をもたらすリスクを、「移行リスク」は低炭素社会への移行に伴う政策、技術、消費者のし好の変化などが企業や家計に経済的影響をもたらすリスクを指します。
二つ目は、気候関連金融リスクを計測する方法論についてです。気候関連金融リスクは、過去の経験則に頼って計測することが必ずしも適切でないため、バリュー・アット・リスク(VaR)等の一般的なリスク計測手法を用いることが難しいという面があります。こうした点を踏まえ、金融当局や金融機関の間で、気候関連金融リスクの計測について探求を進め、ストレステストなどを試行する動きが出てきています。
三つ目は、気候関連金融リスクの開示についてです。開示については、2015年に、気候関連の情報開示を検討する「気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)」が設立されました。TCFDが2017年に公表した最終報告書では、気候変動が財務に与える影響についての基本的な開示項目を定めたフレームワークが提示されました。このように、企業に対し、気候関連金融リスクを把握するように努め、開示を促す仕組みが整備され、その利用が広がっています。
四つ目は、国際的な協力についてです。近年、気候関連金融リスクの把握・管理を行う手法の改善に向けて、国際的な協力が加速しています。こうした協力では、日本銀行も参加する「気候変動リスク等に係る金融当局ネットワーク(NGFS)」が、気候変動にかかるシナリオの提示やそれらのシナリオを用いたリスク計測にかかる手引書の作成、リサーチ課題の取り纏めといった成果物の公表を行い、大きな役割を果たしています。バーゼル銀行監督委員会(BCBS)や金融安定理事会(FSB)等の国際機関においても、気候関連金融リスクを、優先度の高い課題の一つと位置付け、検討を加速させているところです。
4.気候関連金融リスクの把握・管理に向けた課題
気候関連金融リスクに関する理解が深まるにつれて、これを把握・管理するうえでの課題の大きさも、明らかになってきています。
すなわち、波及経路については、先ほど述べた2つの経路(物理的リスクと移行リスク)間の相互作用、更には、金融から気候変動へのフィードバックも考える必要があるなど、複雑な要素を勘案しなければなりません。これは今回のワークショップの一つの視点でもあります。
また、ストレステストを行うに当たっても、リスク顕現化までの時間軸が非常に長いことなど、シナリオを設定するに当たって、様々な難しさを伴います。加えて、気候関連金融リスクの計測に用いるデータが不十分であることなど、実務的な課題はまだまだ多いのが現状です。それゆえ、少なくとも現段階では、気候関連のストレステストは、金融当局や金融機関が定期的に行っている、金融経済ショックに対する目先数年間における頑健性を評価するストレステストとは、異なる目的や性格のものと理解されています。
5.日本銀行としての取り組み
これまで述べてきた気候関連金融リスクの特徴――リスクの潜在的な大きさ、積み重ねられてきた進歩、残された課題の多さ――を踏まえて、日本銀行は、このリスクを適切に管理する枠組みの構築に向けて、どのように取り組んでいくべきでしょうか。私からは、基本となる考え方として、三つの視点を指摘したいと思います。
第一に、課題の多さや大きさは、この問題への取り組みを遅らせる理由とはならず、むしろ中央銀行は、そうした課題の克服に向けて、他の関係者と協力し、フォワード・ルッキングに、着実に歩みを進めていかなければいけないということです。過去、しばしば金融当局は、危機が生じた後に、その教訓から、次の危機を防ぐための枠組み作りを行ってきましたが、気候関連金融リスクについては、それを繰り返すことは許されません。
第二に、中央銀行が気候変動に対応するアクションを取る際には、あくまでそのマンデートに沿って行う必要があるということです。気候関連金融リスクの文脈でいえば、それへの対応は、金融システムの安定確保という責務に沿って考えることとなると思います。
なお、このように、中央銀行が金融システムの安定確保という観点から取り組みを行うことは、「温室効果ガス抑制に向けた投資などを促すために金融市場や金融仲介がよりよく機能するには何が必要か」という市場参加者の問題意識とも整合的であることを、併せて指摘しておきたいと思います。なぜなら、開示や商品設計、取引慣行整備などの取り組みを通じて、金融資産の価格に気候変動リスクが的確に反映されるようになれば、金融機関が気候関連金融リスクを適切にコントロールしやすくなるほか、関連する金融取引も増加するため、環境分野での金融仲介機能の向上にも繋がるからです。われわれ金融当局は、金融システム安定に関する知見を活かして、市場参加者のこうした取り組みを支援できる可能性があります。
第三に、気候関連金融リスクに対処する具体的な措置を検討するに当たっては、その時点で我々が持っている知見やエビデンスに基づいて、最適な手段を選択する必要があるということです。
この点を現状に照らして敷衍すれば、何よりも、気候関連金融リスクを計測し、またそれを管理する体制や手法について、金融機関との対話を深めていくことが、喫緊の課題となります。他方で、金融規制への反映を検討するに当たっては、リスク計測の枠組みが十分に整い、しっかりしたエビデンスに基づく議論が出来るようになることが、前提条件となるでしょう。
日本銀行としては、以上のような基本的な考え方に立って、これまで、気候関連金融リスクの把握や管理の具体的なあり方について、金融機関と対話を重ねてきたところであり、今後も、こうした取り組みを一段と加速していく必要があります。
同時に、日本銀行自身も、ストレステストをはじめとする気候関連金融リスクの計測手法について、知見を深めていく必要があります。気候変動という課題の大きさや複雑さを考えると、それには金融実務家や学界を含めた、国際的な連携が不可欠であり、それゆえに、今回のワークショップのような試みが重要となります。
以上が、金融システム面での取り組みになりますが、冒頭述べたように、気候変動の影響は金融システム面に止まりません。このため、日本銀行では、情報共有や連携を促進し、気候変動への対応について検討を進めるため、行内に「気候連携ハブ」という組織横断的な会議体を立ち上げるなど、体制の強化を図っているところです。
6.今回のワークショップに期待するもの
このワークショップには、私が、気候関連金融リスクに取り組むために必要ではないか、と考える様々な要素が詰まっています。
我々中央銀行家は、気候変動をあくまで我々に与えられた責務の文脈で捉えるべきでありますが、同時に、気候変動がグローバルな社会、経済に及ぼし得る影響の全体像も忘れるべきではありません。私の次に登壇するサックス教授は、きっとそうした大きな視点を提供してくれることと思います。
続く論文セッションでは、日本銀行のエコノミストが気候関連金融リスクについての学界における最近の研究成果を俯瞰した後、この分野の研究を牽引する学者に登壇頂きます。気候関連金融リスクの研究は急速に進んでおり、その内容も多岐に亘りますが、今回のワークショップでは、金融システム安定の観点から、気候変動が銀行行動に与える影響や、気候関連金融リスクの資産価格への織り込み、といった点に着目した研究をとりあげています。ここでの議論が、気候変動と金融の複雑な関係について理解を深める一助となることを期待しています。
そして政策パネルとクロージングにおいては、同僚の中央銀行・監督当局者から、気候関連金融リスクをどのように把握し管理していくか、その哲学や最先端の取り組み、課題などについて、有意義な示唆が得られるものと確信しています。
ご清聴ありがとうございました。