このページの本文へ移動

【挨拶】コロナショックと物価変動「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」に関するワークショップにおける開会挨拶

English

日本銀行副総裁 雨宮 正佳
2022年3月29日

1.はじめに

日本銀行の雨宮でございます。本日は、「コロナ禍における物価動向を巡る諸問題」に関するワークショップにご参加頂き、厚く御礼申し上げます。当ワークショップの開催にあたり、主催者を代表して、私どもの問題意識をお話させて頂きます。

パンデミックという異例のショックからの経済回復に伴い、先進国のインフレ率は、近年経験したことのないペースで高まっています(図表1)。実際、米国や欧州では、生産者物価、消費者物価ともに、このところ数十年ぶりの高い上昇率を記録しています。わが国でも、国内企業物価は、第2次オイルショック時以来の約40年ぶりの上昇率を示しています。もっとも、わが国の消費者物価は、米欧との対比で上昇ペースの鈍い状態が続いています。4月以降は、昨年の携帯電話通信料引き下げの影響の剥落と、ウクライナ情勢にも起因するエネルギー価格の大幅な上昇が重なり、2%程度の伸びとなる可能性もありますが、それでもなお米欧との差は歴然としています。

本ワークショップの狙いは、こうしたコロナ禍における内外の物価動向の違いを足掛かりに、日本銀行スタッフによる分析を叩き台にしながら、学界を代表する皆様方と議論を交わすことで、わが国の物価に関して理解を深めることにあります。

2.コロナ禍における米欧のインフレ高進

そこで、まず出発点として、米欧におけるインフレ高進の背景について、最近の学界や中央銀行における議論を整理しておきたいと思います。論者によって、また対象とする国や地域によって力点のおき方に違いはありますが、米欧のインフレには、コロナ禍で顕在化した次の4つの要因が作用していると考えられています。

第1は、総需要の拡大です(図表2)。2020年春の感染症の流行直後には、各国の経済活動は大きく落ち込みました。もっとも、その後、経済活動の再開が進むもとで、景気刺激的な財政金融政策の後押しもあって、総需要は急激かつ大幅に増加し、米国のGDPは、昨年春には感染症拡大前の水準をはっきりと上回りました。欧州のGDPも、昨年後半には感染症拡大前の水準を回復しています。とくに、個人消費は、行動制限によって消費の機会そのものが人為的に制限されたこともあって、感染の落ち着きとともに、ペントアップ需要が一気に顕在化しました。このことは、労働需要の増加を通じて、人手不足と賃金の上昇圧力につながっています。なお、米欧対比でみたわが国GDPの回復の鈍さについては、後ほど触れます。

第2は、労働面を中心とした供給力の低下です(図表3)。コロナショック直後の米国では、失業率の急激な上昇と、労働参加率の低下により、労働投入量は大きく落ち込みました。その後の経済活動の再開に伴い、失業率は比較的順調に低下傾向をたどってきましたが、労働参加率の回復は遅れており、労働投入量は、GDPとは対照的に感染症拡大前の水準を取り戻せていません。これは、感染症への警戒感が強い高齢者等が、労働市場になかなか戻ろうとしないためであり、米国では「Great Retirement」ないし「Great Resignation」などと呼ばれています。こうした労働参加率の低下は、欧州や日本ではさほど明確ではありません。

第3に、需要の部門間シフトです(図表4)。米国が典型ですが、感染拡大を契機に、サービスから財への大規模な需要のシフトが生じており、対面型サービスの供給超過と、車やデジタル関連財の需要超過が顕著となっています。この結果、個々の品目レベルでみた需給のミスマッチは深刻化しており、半導体の不足や物流の逼迫も生じています。理論的には、個々の需給のミスマッチは、相対価格の変化を引き起こすだけですが、現実には、価格の下方硬直性が存在するため、一般物価には上昇圧力がかかることになります。一方、日本では、こうした需要シフトの動きは限定的です。

最後は、エネルギー価格の高騰です(図表5)。昨年来のエネルギー価格の上昇の内かなりの部分は、グローバルな経済活動再開に伴う資源需要の拡大によって内生的に生じているため、この間のインフレの「原因」というより「結果」という側面が強いのは事実です。もっとも、今次局面では、脱炭素化を見据えた化石燃料関連投資の手控えや、ウクライナ情勢を始めとする地政学的リスクの高まりといった外生的な供給要因も、エネルギー価格の上昇を増幅しています。

以上のように、米欧のインフレ率の上昇には、様々な要因が複合的に影響している訳ですが、これが「一過性」の現象なのか、あるいは「持続的」な現象なのかを巡って、昨年来、著名な経済学者や中央銀行エコノミストの間で、激しい論争が巻き起こっています1。これまでの実績を踏まえると、インフレの持続性は増してきているように窺われます(図表6)。実際、米欧中央銀行による物価見通しの修正状況をみると、感染症流行直後の2020年こそ下方修正されましたが、2021年は時を追うごとに上方修正され、最終的には目標の2%をはっきりと上回って着地しました。2022年入り後も、上方修正が続いており、これまでのところ反転の兆しは窺われません。

もっとも、論争の当事者の一人であるブランシャール名誉教授自身が「まだ、ハーフタイムだ」と述べているとおり、今後のインフレの帰趨はなお不確実で、論争にも決着はついていません。とくに、感染症拡大前から指摘されてきた低インフレの要因――すなわち、グローバル化やデジタル化の進展を背景とした企業の価格支配力の低下――には、基本的な変化はないとの見方にも一定の説得力があります。したがって、感染症の影響が和らぎ、供給制約や需要シフトの動きも収まっていけば、元の低インフレ体質に戻る可能性も十分にあります。いずれにせよ、今回の米欧におけるインフレ高進の経験は、リアルタイムにショックの性格やその持続性を見極めることの難しさを物語っています。

  1. 1ブランシャール名誉教授やサマーズ教授といったマクロ経済学者は、米国の大規模な財政支出とその乗数効果に支えられた総需要の拡大は、潜在的な供給能力を大きく上回っていく可能性が高いとして、比較的早い時期から、インフレ率が持続的に高まるリスクに対し警鐘を鳴らしてきました。これに対し、クルーグマン教授といった学者やFRB、IMFなどの当局は、供給制約や需要シフトは、コロナ禍に伴う一過性の現象という面が強く、インフレ率は比較的速やかに落ち着いていくのではないか、との論陣を張ってきました。この間の経済学者や中央銀行エコノミストの間における議論については、例えば、Furman, J., 2022, “Why Did Almost Nobody See Inflation Coming?” Project Syndicate, January 17 を参照して下さい。

3.米欧対比でわが国の物価はなぜ弱いのか

次に、米欧対比でみたわが国の物価の弱さの背景について、考えられる仮説を3つほど提示しておきたいと思います。

第1に、先ほど米欧のインフレ高進の背景として指摘した要因が、日本ではさほど顕在化していないことが挙げられます。すなわち、日本では、家計のリスク回避姿勢の強さもあって、個人消費のペントアップ需要は、これまでのところ限定的です(前掲図表2)。その結果、日本の実質GDPは、いまだに感染症拡大前の2019年の水準を回復出来ていません。また、日本では、労働市場が米国ほど流動的でないうえ、手厚い雇用調整助成金の効果もあって、企業は労働保蔵を行いやすい環境が続いています(前掲図表3)。この結果、わが国では、正規雇用者を中心に離職する動きは目立っておらず、労働参加率の低下による供給制約は限定的です。さらに、わが国では、需要全体が弱めであるだけでなく、サービスから財への需要シフトの動きも鈍めとなっています(前掲図表4)。その結果、米国でみられるような財価格の急激な上昇も生じていません。

第2に、物価が上がりにくいことを前提とした日本固有の企業行動、すなわち「ノルム」が、今次局面で改めて浮き彫りになった面もあるように思います(図表7)。例えば、半導体の調達難に伴う自動車の供給不足は、グローバルな現象ですが、自動車価格の上昇は、各国で一様ではなく、米国で顕著です。これには、PMIの入荷遅延指数が示すとおり、わが国では供給制約が米欧ほど深刻化していないという事情もありますが、わが国企業の慎重な価格設定スタンスも影響しています。米国企業は、ある財で供給制約が生じると、比較的速やかに値上げを行い、高い価格を払ってくれる顧客から、優先的に財を割り当てていく傾向があります。これに対し、日本企業は、顧客との長期的な取引関係を重視し、価格を据え置いたまま、顧客の需要に出来る限り応えていく傾向が強いように見受けられます。実際、入荷遅延指数と製品価格の時差相関係数を比較すると、日本は米欧と比べて有意に低く、供給制約が生じても日本企業はなかなか値上げに踏み切らない様子が浮かび上がります。こうした日本企業の慎重さは、労働市場でも同様にみられ、例えば、人手不足が生じても、わが国企業は長期雇用関係を重視し、賃上げに消極的です。

第3に、物価指数の計測上の問題も、無視できない影響を与えている可能性があります(図表8)。近年、わが国のサービス価格のうち米欧対比で弱めの動きとなっている品目は、比較的大きなウエイトを占める家賃と携帯電話通信料です。いずれも、精度の高い価格の計測が難しいサービスの代表例ですが、統計実務面での各国の違いについても、理解を深めておく価値があるように思われます。

4.おわりに

以上、今回のパンデミックを契機に、改めて浮き彫りになった米欧とわが国の物価動向の違いについて、お話させて頂きました。最後に、より長い目でみた日米間のインフレ格差について、私が長年抱いてきた疑問についても申し述べたいと思います(図表9)。日本のインフレ率が米国を下回る状況は、1990年代後半のデフレ期から始まった現象ではなく、第2次オイルショック期以降、一貫して続いている現象です。1980年頃より以前は、逆に日本の物価上昇率が米国を恒常的に上回っており、第1次オイルショック時に先進国中最も高い+20%を超えるインフレ高進に苦しんだのは、日本でした。

2度のオイルショックとスタグフレーションという苦い経験を経て、学界では、インフレ予想に関する理論が急速な発展を遂げ、それが日本銀行も含む各国中央銀行の金融政策運営に多大な影響を及ぼしてきたことは、よく知られているとおりです2。インフレ予想の重要性を考慮した金融政策運営が、1980年代以降の日米におけるインフレ率の低位安定につながったことは、学界と政策担当者の密接なインタラクションの成果といってよいでしょう。しかし、もう一歩進んで、1980年頃を境に、日米間でインフレ率の逆転が生じ、その後も1980年代後半の景気過熱期も含め日本のインフレ率が米国をコンスタントに下回り続けたのはなぜかについて、腑に落ちる説明はなかなか得られていません。

コロナショックに伴う各国間の物価変動の違い、そして長期的にみた日米間のインフレ格差などをみるにつけ、物価に関する我々の知識は、依然として限られているという認識を新たにします。コロナショック以降、中央銀行の間では、「Humble」であるべき、という言葉がキーワードとなっており、こうした物価に対する私の認識は、各国当局者の間でも概ね共通しているのではないかと感じています。わが国の物価は米欧対比なぜ弱いのか、その要因は構造的なものか、それは将来変化しうるものか、といった点について、従来の見方にとらわれず、現実のデータに「謙虚」に向き合うことが重要だと思います。今回のワークショップを通じ、専門家や学者の皆様方と活発な意見交換を行いながら、これらの点を含め、物価に対する理解が前進することを期待しています。

ご清聴ありがとうございました。

  1. 2日本銀行が1975年に公表した調査月報論文(「1970年代の世界インフレーション」)では、インフレ予想の上昇に伴い短期フィリップス曲線が上方シフトする結果、長期フィリップス曲線が垂直になることが、既に指摘されています。日本銀行の情勢判断におけるフィリップス曲線の活用の歴史については、原尚子・小池良司・関根敏隆(2020)「フィリップス曲線と日本銀行」日銀レビュー、2020-J-3を参照して下さい。