【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策熊本県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2022年4月7日
1.はじめに
日本銀行の野口です。本日は、熊本県の各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜りまして誠に有り難く存じます。皆さまには、日頃より日本銀行熊本支店の業務運営に多大なご協力を頂いております。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
新型コロナウイルス感染症の影響により、前回の金融経済懇談会はオンライン形式での開催でしたが、今回はこのように当地を訪れ、直接皆さまのお顔を拝見しながら懇談ができますことを、大変嬉しく思います。本日は、まず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営、さらには脱コロナ禍に向けた金融政策の展望について、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営についての忌憚のないご意見を承りたく存じます。
2.経済・物価情勢
(1)内外経済情勢
世界がコロナ禍に見舞われてから、ほぼ2年が過ぎようとしています。2020年は各国とも経済が大幅に縮小しましたが、先進国を中心にワクチン接種が進展した昨年春以降は、コロナ変異株出現のたびに頻発する感染拡大に妨げられつつも、海外経済はばらつきを伴いながら相応の回復を続けてきました。結果として、2021年の各国の実質経済成長率は、2020年時点の落ち込みの相当部分を取り戻しました(図表1)。先行きは、ウクライナ情勢を巡る地政学リスクの影響に関する不確実性が大きい状況ではありますが、感染症の影響が徐々に和らいでいくもとで、成長率自体はやや鈍化するものの、この回復トレンドは2022年も維持されるものとみています。ただしその後は、先進国の景気刺激策の一巡などに伴い、各国の経済成長率は徐々に潜在成長率の近傍にまで低下していくことが予想されます。
この経済回復の副産物として生じてきたのが、1970年代以来とも言われる世界的なインフレです。現在、世界の中央銀行の多くは何らかの形でそのインフレへの対応を迫られつつあります。日本経済にはその海外発のインフレの影響が徐々に現れ始めた段階ですが、今後はその帰趨を十分に見極めることが必要になると思われます。その問題については、後段で改めて取り上げます。
国内経済に目を転じると、足許ではやや収まっているものの、年初からのオミクロン株による急激な感染拡大によって、飲食や宿泊といった対面型サービスには依然として下押し圧力がかかる状況が続いてきました。他方で、海外経済は回復を続けてきたことから、自動車関連を中心に一部に供給制約の影響を受けつつも、情報関連財や資本財を中心として輸出・生産は増加基調を続けています(図表2)。それに伴って企業収益は改善し、設備投資は拡大しており、外需増加を起点とした企業収益から設備投資への好循環は途切れていません(図表3)。わが国経済の先行きは、感染症や供給制約の緩和により、回復が継続するとみています。
先行きのリスクとしては、とりわけ以下の二つに注目しています。一つは、感染拡大の再発による民間消費や輸出・生産への影響です。デルタ株による感染拡大が収束して新規感染者が顕著に減少した昨年秋から冬にかけては、短期間ながら明確な経済回復が実現されました。しかし、本年入り後のように感染の再拡大が生じれば、対面型サービスを中心に再び苦境を免れません。また、海外の感染状況がグローバルサプライチェーンに影響を与え、それが国内の輸出・生産に波及するリスクもあります。もう一つは、ウクライナ情勢を巡る地政学リスクです。それに伴ってエネルギー価格等が一段と上昇すれば、物価は上振れする一方、実体経済にはむしろ下押し圧力がかかると予想されますが、その不確実性は高く、世界経済へのその他の影響も含めて状況を注視する必要があります。
(2)物価情勢
国内の物価情勢に関しては、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比をみると、昨年初頭からのエネルギー価格の急速な上昇分が昨年4月以降の携帯電話通信料引き下げのマイナス分に追いつきつつあるもとで、昨年後半以降は小幅のプラスとなっています(図表4)。この4月以降は、この携帯電話通信料下落のマイナス分の多くが剥落することから、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は2%程度となる可能性が高く、国際商品市況の動き次第ではそこからさらに上振れる可能性もあるとみています。
国内の物価はこのように、昨年後半以降、明確な上昇傾向にあります。ただし、それは明らかに、内需の回復というよりは海外要因によるものです。世界各国では、欧米を中心としてワクチン接種が進展した昨年春頃から、経済活動の再開が急速に進みました。その結果、エネルギーや原材料への需要が世界的に急拡大し、それらの価格が、コロナ禍が始まった2020年の低迷から一転して急上昇するに至りました。それは国内的には、昨年後半からの輸入物価指数や国内企業物価指数の急上昇として現れています(図表5)。ちなみに、このエネルギーや原材料の価格上昇による交易条件悪化は為替の円安と結びつけられることが多いのですが、円安の影響は実際にはきわめて限定的にすぎません(図表6)。
現状では、こうした輸入原材料の価格上昇は、エネルギーを除けば、川下の小売価格にはそれほど転嫁されてはいません。確かに食料品等では原材料コスト上昇による値上げの動きが拡大していますが、その影響は数字的にはまだそれほど大きくはありません。それは、内需の回復が十分ではなく、企業にとって製品価格へのコスト転嫁が難しい経済状況が依然として続いている現れとも言えます。
結局、わが国では今のところ、多くの国が現在経験しつつあるような高インフレは生じていません。確かに、エネルギー価格上昇に伴う一般物価の上振れは生じていますが、エネルギー等を除いたインフレの基調それ自体はきわめて低い水準にとどまっています。それは、日本のマクロ政策上の課題が、インフレの抑制ではなく、依然としてデフレあるいは低すぎるインフレからの脱却にあることを意味します。そのために必要な要件については、後段で改めて詳述します。
3.金融政策
(1)「物価安定の目標」に向けた政策対応
日本銀行は、長引くデフレを克服し、2%の「物価安定の目標」の実現のため、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後も、経済・物価情勢に応じて、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」でマイナス金利の導入を決定し、同年9月に「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」で操作目標を長短金利(イールドカーブ・コントロール)とすると同時に、生鮮食品を除く消費者物価指数の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまでマネタリーベースの拡大方針を継続することを約束する「オーバーシュート型コミットメント」を導入するといった形で、金融緩和を強化してきました。
(2)感染症への政策対応
感染症の経済的影響が深刻化した2020年3月には、企業等への資金繰り支援と金融市場の安定を図る観点から、(1)新型コロナ対応資金繰り支援特別プログラム(「特別プログラム」)、(2)国債買入れやドルオペなどによる潤沢かつ弾力的な資金供給、(3)ETFおよびJ-REITの買入れ、という「3つの柱」の措置を導入しました(図表7)。これらの対応は、企業の資金繰り改善と金融市場の安定化に大きな効果を発揮してきました。2020年春に大きく不安定化した金融市場は、それによって落ち着きを取り戻し、銀行借入やCP・社債発行といった外部資金の調達環境は十分に緩和的な状態が維持されるようになりました(図表8)。
当初は経済への大きな重石となっていた感染症ですが、的を絞った公衆衛生措置やワクチン接種の進展などにより、その悪影響は時とともに徐々に和らいでいきました。とはいえ、変異株の出現等による感染拡大の頻発を踏まえると、コロナ禍対応の縮小は慎重に行う必要があります。こうした中で、日本銀行は、企業等の資金繰りを引き続き支援していくため、2020年12月と昨年6月の金融政策決定会合で、「特別プログラム」の期限を昨年3月末から昨年9月末へ、さらに本年3月末へと延長しました。そして、昨年12月の金融政策決定会合では、「特別プログラム」のうち大企業向けや住宅ローンを中心とする支援措置は期限通り終了しつつも、中小企業支援に相当する部分を本年9月末まで延長することを決定しました(図表9)。これは、対面型サービスを中心とした中小企業の一部には、資金繰りに依然として厳しさが残っているためです。
こうした変更が行われたのは、これらの措置があくまでもコロナ禍への対応であり、その影響が十分に和らいでいけば縮小させるべきものだからです。しかしながら、コロナ禍対応が縮小あるいは停止されたとしても、それは金融緩和それ自体の縮小を意味するわけではありません。それは上述のように、日本経済は依然として低すぎるインフレからの脱却を必要としているからです。
(3)より効果的で持続的な金融緩和
感染症は他方で、日本経済への強い下押し圧力として作用しました。それは、2%の「物価安定の目標」実現にはより一層の時間を要するであろうことを意味します。日本銀行はそのため、昨年3月の「より効果的で持続的な金融緩和のための点検」で政策効果等の検証を行い、以下の政策調整を行いました(図表10)。
第1に、金融仲介機能に配慮しつつ機動的に長短金利の引き下げを行うため、「貸出促進付利制度」を創設しました。第2に、市場機能の維持と金利コントロールの適切なバランスを取る観点から、イールドカーブ・コントロールについてより柔軟な運営を行うため、「概ね±0.1%の幅の倍程度」としていた長期金利の変動幅を「±0.25%程度」と明確化しました。同時に、新たに「連続指値オペ制度」を導入し、必要な場合に金利の上昇を強く抑える手段を用意しました。第3に、ETFおよびJ-REITの買入れについて、感染症対応の臨時措置として決定した年間増加ペースの上限を感染症収束後も継続しつつ、その時々の市場状況に応じてメリハリをつけた買入れを行うこととしました。
以下で述べるように、海外の各中央銀行では現在、コロナ禍に対応して行ってきた金融緩和の縮小への動きが進んでいます。しかしながら、長期デフレの中で経済主体に根付いたデフレマインドの影響が未だに大きい日本では、仮にコロナ禍が収束したとしても、2%の「物価安定の目標」が安定的に実現され、金融緩和縮小が視野に入るまでには、相応の時間を要すると予想されます。その間は、現状の金融緩和を粘り強く継続していくことが最重要と考えます。
4.「脱コロナ禍」経済における金融政策対応の現状と展望
(1)「復活するインフレ」が進む海外経済
世界では現在、多くの国でウィズ・コロナを前提とした経済活動が定着しており、「感染と共存しつつの経済拡大」という形での経済の「脱コロナ禍」化が進展しています。欧米や一部新興国では、その経済拡大に伴って高インフレがより長期化する様相を見せています。そうしたことから、海外の中央銀行の多くは現在、コロナ禍対応として行ってきた緊急避難的な措置を手仕舞いした上で、金融政策の方向それ自体を緩和から引き締めへと転換させ始めています。それは、コロナ禍で落ち込んだ経済の下支えのために行われてきた各国のこれまでの拡張的な財政・金融政策が、単なるペントアップ需要にはとどまらない基調的な需要拡大をもたらしつつあるためと考えられます。
こうした物価の上振れが欧米諸国において顕在化し始めたのは、ワクチン接種の進展に伴って人流が拡大し、経済活動の急速な正常化が始まった昨年春以降のことです。この経済正常化の初期段階で顕著に現れたのが、いわゆるペントアップ需要です。これは、公衆衛生措置や感染への警戒感によって抑制されてきた民間消費が、それらの解除によって一挙に復活したことによって生じました。その背後には、人々の消費抑制や政府の財政支援によって積み上げられてきた民間部門の超過貯蓄が存在していました。
このようにして始まった経済正常化は、必然的に世界各国各所で供給のボトルネックを生み出しました。それは、ワクチン接種や感染状況の国・地域ごとのばらつきがほとんど解消されない中で経済活動が再開されたために、サプライチェーンや流通網の寸断が至る所で生じたためです。東南アジアでの昨年夏場における感染拡大が引き金となって生じた自動車等の部品供給遅延や、アメリカの輸入急増と感染による荷役労働者不足により生じたアメリカ西海岸のコンテナ港の混雑は、そうした「世界的供給制約」状況を典型的に示しています。
以上のように、世界経済においては昨年春以降、経済活動の再開に伴って財やサービスの需要は拡大する中で、その供給は様々なボトルネックによって制約されるという状況が続いてきました。その結果として生じたのが、現在まで続く世界的な物価上昇です。とりわけ欧米では物価上昇が昨年後半以降も加速し、数十年ぶりと言われるような高インフレが継続しています(図表11)。それは、欧米の主要中央銀行がインフレの抑制という古くからの課題に久方ぶりに直面しつつあることを意味しています。
(2)海外で進行しつつある金融緩和の縮小
経済活動が再開され、物価の上振れが顕在化し始めた当初、主要中央銀行の多くは、コロナ禍は戦争や自然災害とは異なり生産設備の毀損は伴わないことから、供給ボトルネックは早晩解消し、インフレは一過性のものにとどまると想定していました。したがって、中央銀行の多くは、一過性と考えられるインフレに過剰反応はせずに供給制約の解消を待ちつつ緩やかに緩和を縮小するというシナリオを基本に据えていました。それは、インフレの原因が過大な需要ではなく供給不足にある場合には、金融引き締めを行っても経済状況は必ずしも改善しないためです。例えば、金融引き締めによって石油や半導体の需要を抑制できても、それらの供給が増えなければ人々の生活は改善しません。実際、エネルギー価格は上昇を続ける中でも、中央銀行がそれに直接反応することはありませんでした。
しかしながら、その後の推移は、供給制約さえ解消されればインフレは徐々に収まるという各国政策当局の見通しとはかなり異なっていました。というのは、上述のように、多くの国では昨年後半以降、インフレの収束ではなくむしろその加速が生じることになったからです1。それは、コロナ変異株拡大による供給制約解消の遅れが一因ではあるものの、それがより悪化してはいないことを考えると、基本的には需要拡大の勢いが経済再開後のペントアップ需要の一巡後も衰えていないためと考えられます。その背後にはおそらく、各国がこれまでコロナ禍対策として講じてきた拡張的な財政・金融政策が存在しています。
こうしたインフレの進展に対応して、海外の中央銀行は金融緩和の巻き戻しに舵を切り直し始めました(図表12)。新興国のいくつかは、既に昨年春から夏の時点で金融緩和を停止して政策金利を引き上げ始めていました。それと同時期には、コロナ禍への対応として資産購入を行っていた先進国の中央銀行も、続々とテーパリング(資産購入の縮小)を開始しました。さらに、昨年12月には英イングランド銀行(BOE)が、そしてこの3月には米FRBが政策金利の引き上げを開始しました。つまり、海外の中央銀行の金融政策は現在、大勢としては着実にコロナ禍対応の緩和局面から引き締め局面に移っているのです。
この海外の中央銀行の金融引き締めによって現在の世界的インフレがスムーズに収束するか否かについては、今後の推移を見守るしかありません。一部の専門家は、金融引き締めによってインフレは最終的には収まるものの、それは厳しい経済収縮を伴う可能性が高いと論じています2。逆に、このインフレは中央銀行にとってはむしろ恩恵かもしれないとする分析も存在します3。というのは、主要中央銀行の多くは、コロナ禍以前にはむしろ、低インフレに伴う過度に低い政策金利による制約に直面していたからです。2008年リーマン危機以降の世界経済を特徴付けてきたこの持続的な低インフレ・低金利の状況は、ローレンス・サマーズ元米財務長官によって「長期停滞」と概念化されていました4。インフレ抑制のために金利引き上げが必要となれば、このインフレは低すぎる政策金利から脱却できる絶好の機会として捉えることもできるわけです。
ちなみに、今回のウクライナ情勢を巡る地政学リスクの影響で、エネルギー価格等は当面、高水準で推移することが予想されます。それはおそらく、現在の世界的インフレの継続可能性をより高めると考えられます。しかし、これは典型的な供給ショックによるインフレであり、景況にはマイナスの影響を及ぼします。他方で、賃金上昇の一段の高まりといった二次的波及が生じるリスクもあります。そのため、各中央銀行は今後、エネルギー価格等の上昇が基調的なインフレに及ぼす影響を慎重に見極めようとするものと考えられます。
- 2021年11月30日に米上院銀行委員会で証言した米連邦準備制度理事会(FRB)のパウエル議長は、「インフレ率の上昇が持続するリスクの高まりを踏まえると、『一過性』という表現を引き続き用いることは控えるべき」旨を述べています。
- 例えば以下があります。 Anstey, Chris, “Summers Says U.S. Risks Recession by Blaming Inflation on Greed,” Bloomberg, January 14, 2022.
- 例えば以下があります。 Schnabel, Isabel, “Escaping Low Inflation?” speech at the Petersberger Sommerdialog held in Frankfurt am Main, July 3, 2021.
Koranyi, Balazs, “Analysis-Inflation Revival is a Victory, not a Defeat, for Central Banks,” Reuters, October 13, 2021. - 2013年11月に開催されたIMF主催 ”Fourteenth Jacques Polak Annual Research Conference” でのSummersの発言を参照。
(3)物価と賃金との深い関連
以上のように、世界の金融政策は現在、基本的には緩和の縮小から引き締めへと向かっています。とはいえ、その進展度合いは決して一様ではありません。それは、各国のマクロ経済状況には大きなばらつきが存在しているからです。そのことは、先進国と新興国の間だけではなく、先進国間に関しても言えます。それを現在のマクロ経済状況に即してごく大雑把に整理すれば、高インフレ抑制のために金融引き締めを加速しつつある米英、インフレの上振れは見られるものの金融引き締めへの転換には未だ慎重なユーロ圏、インフレ懸念は存在するものの基調としては未だ低インフレの状態にある日本、という3つの極として図式化できます。こうした相違が生じる要因としては、コロナ対策の財政規模、コロナ禍以前からのインフレ基調、労働市場における賃金動向などが存在すると考えられます。以下では、そのうち主に物価と賃金の関係に焦点をあてます。
先進国の中でとりわけ米英が金融引き締めを加速させている大きな要因には、おそらく両国で生じている賃金の急上昇があります。この両国では、経済活動の再開直後から、対面型サービスを中心に求人が急拡大したことで、いわば労働力の奪い合いが生じ、結果として賃金が上昇しました(図表13、14)。米国ではそれに伴ってグレート・レジグネーション(大離職)と呼ばれる自発的離職の拡大が生じ、労働市場はさらに逼迫しました。それは、労働供給不足による賃金上昇が、より高い賃金を求めた離職の誘因となったためです。
中央銀行がこうした賃金動向を注視するのは、物価と賃金との間には本来きわめて密接な関連が存在するからです。労働生産性と物価が共に上昇する標準的な成長経済では、名目賃金は物価以上に上昇する傾向を持ちます。というのは、そうでなければ賃金は実質的に低下し、人々は成長の果実を享受できないからです。実質賃金は他方で、理論上は「完全雇用時における限界的な労働生産性」という制約があるため、1970年代に多くの先進国で生じた賃金物価スパイラルが示すように、労働生産性の上昇を上回る名目賃金の上昇は最終的には物価に転嫁される傾向を持ちます。それはまた、名目賃金には「労働生産性上昇率+目標インフレ率」という、インフレ目標と整合的な上昇率が存在することを意味します。したがって、名目賃金上昇率がその意味での適正水準を上回っている場合、中央銀行は適正なインフレ率の維持のためには、金融引き締めによって物価と賃金を含めた名目所得全体を抑制する必要があります。
このように、賃金上昇は多くの場合、物価上昇を伴います。そしてそれは、企業が労働コスト増としての賃金上昇を販売価格に転嫁することを通じて現実化します。したがって、その現れ方は、各産業における労働コストの比重や調整可能性に左右されます。より具体的には、一般に労働コストの比重が高く技術進歩が生じにくいサービス業では賃金上昇が価格上昇となって現れる傾向が強いのに対して、製造業では労働コストの比重が低いうえにそのコスト増を技術進歩によって吸収しやすいため、賃金上昇の価格転嫁はそれほど強くは生じません。実際、日本、米国、ユーロ圏の比較では、コロナ禍以前には財価格上昇の寄与はいずれもきわめて限定的であったこと、したがって基調的なインフレ率はほぼサービス価格上昇率の寄与に基づくことが示されています(図表15)。そしてそれは、この3つの経済間の名目賃金上昇率の相違を反映しています。
(4)わが国における賃金上昇の可能性
つまり、物価安定のためには名目賃金上昇率の安定が重要です。米英の両中央銀行が金融引き締めに向かっているのは、おそらく、労働市場の逼迫により賃金上昇率が目標インフレ率と整合的な水準以上に高まるリスクがあると判断しているためとみられます。それに対して、ユーロ圏では一般物価は上振れているものの労働市場の逼迫度が米英と比べ低いことから、欧州中央銀行は金融引き締めにより慎重です。そして日本では、企業物価は上振れているものの、一般物価の上昇率は未だ低く、労働市場の逼迫度も高まってはいないと考えられます。それは、日本の金融政策は、米英はもとよりユーロ圏と比較してもより緩和的であるべきことを示唆します。
成長経済では名目賃金が物価以上に上昇するということは、デフレや低インフレを脱却して適正なインフレ率を達成するためには、何よりもその目標インフレ率を上回る賃金上昇が必要なことを意味します。日本経済が長きにわたる金融緩和にもかかわらず2%インフレ目標を達成できないでいるのも、賃金が十分に上昇するまでの経済状況には未だ至っていないためとも考えられます。
ところが、物価と賃金にはかくも密接な関連があるにもかかわらず、金融政策は賃金に対しては迂遠な影響を及ぼすにすぎません。金融政策は確かに、財・サービス市場全体の需要を通じて労働需要に影響を及ぼします。それは具体的には、完全失業率や有効求人倍率といった労働需給の変化となって現れます。実際、量的・質的金融緩和が導入された2013年以降からコロナ禍の直前までは、これらの指標は改善を続けていました。しかし、現実の賃金決定には様々な法的・制度的要因が絡むため、労働需給の変化が直ちに賃金の変化となって現れるとは限りません。それは、賃金には常に硬直性あるいは粘着性があるためです。
1980年代後半から1990年代までの日本経済においては、景気循環とそれに伴う有効求人倍率の変化が比較的明確に賃金上昇と関連していました(図表16)。しかし、2010年代には、リーマン危機後からの景気回復に伴う有効求人倍率の上昇、そして買い手優位から売り手優位への労働市場の明確な転換にもかかわらず、賃金上昇は遅々として進みませんでした(前掲図表16)。それは、日本の正規雇用賃金には過去の趨勢に強く影響されるという意味での強い粘着性があり、1990年代末からのデフレ期に賃金が低下し続けた慣性がまだそこに残っていること、また賃金には本来、よく言われる下方硬直性だけではなく「下げにくいために上げるのを避けようとする」という上方硬直性があること等によると考えられます。
とはいえ、労働需給が賃金と全く関連しないというわけでもありません。2010年代においても、より競争市場的環境にあるパートのような非正規賃金は、有効求人倍率の上昇に伴って明確に上昇していました(前掲図表16)。また、2010年代半ばからは、それまで減少を続けてきた正規雇用が増加に転じ、さらにコロナ禍の直前には「人手不足」を背景として非正規から正規への労働シフトも生じていましたが(図表17)、これは実質的な賃金上昇と考えることもできます。
以上を踏まえると、十分な賃金上昇を通じた物価安定目標の達成のためには、これまでと同様に、粘り強い金融緩和の継続によって労働市場の需給をより改善させ、適度な賃金上昇がもたらされやすい経済環境としていくことが重要です。賃金に粘着性があっても、賃金上昇が継続すればその下押し慣性は徐々に弱まっていくはずです。幸い、政府が「3%超の賃上げ」を目標に掲げていることもあり、本年の春季労使交渉でも多くの民間企業が賃上げ実行を表明し始めています。また社会的にも、日本の賃金上昇率の国際的にみた低さが問題視されるようになってもいます。こうした変化が、日本経済がデフレに陥った90年代後半から失われて久しい「社会規範としての賃上げ」に結実し、所得と支出の好循環がより力強く実現されることを期待したいと思います。
5.おわりに ―― 熊本県経済について ――
最後に、熊本県経済について、支店からの報告を基にお話しさせて頂きます。
熊本県経済は、感染症の影響が和らぐもとで、基調としては持ち直しています。すなわち、個人消費や観光は持ち直しの動きがみられています。また、生産活動は全国を大きく上回る高水準となっています。これは、当地が半導体関連産業の全国有数の集積地であり、コロナ禍で世界的に半導体需要が高まっているためです。製造業の生産水準の高さは、当地の設備投資や雇用・所得環境に対してポジティブな影響を及ぼしています。
当地が中長期的に持続可能な経済発展を実現していくためには、少子高齢化に伴う人口減少などの課題を踏まえつつ、社会環境の変化に的確に対応していくことが重要です。当地は、半導体関連産業の集積のほか、高度な技術力を有する地場企業が数多くあります。また、世界最大級のカルデラを有する阿蘇や美しい島々からなる天草などの豊かな自然や豊富な水資源に恵まれ、農林水産業が盛んです。こうした強みを活かしつつ、SDGsや気候変動への対応、DXの推進も含めた将来を見据えた取り組みも進められています。半導体関連産業については、さらなる集積・技術力強化、その他産業への波及・浸透という観点で、人材育成や交通インフラの整備など、産官学が連携した一段の取り組みも足許で進められています。
当地は、「熊本地震」、「令和2年7月豪雨」といった大きな自然災害に相次いで見舞われましたが、難局に立ち向かって団結して「創造的復興」を着実に進めてこられ、昨年には、復興のシンボルとも言える熊本城の天守閣も復旧しました。脱コロナ禍時代は不確実性に満ちていますが、こうした難局にも果敢に立ち向かい、熊本県経済が更なる発展を遂げられることを大いに期待しています。