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【講演】日本における物価変動と金融政策の役割米国・コロンビア大学における講演の邦訳

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日本銀行総裁 黒田 東彦
2022年4月22日

1.はじめに

本日は、コロンビア大学ビジネススクールにおいて講演を行う機会をいただき、大変光栄です。講演会を主催して下さった日本経済経営研究所は、第一線で活躍する経済学者が日本経済に関する研究・啓蒙活動を行う拠点として、長年、非常に重要な役割を果たしてこられました。当研究所の創設者であるヒュー・パトリック名誉教授、現在の所長であるデイビット・ワインシュタイン教授、そして私の長年の友人であり、経済論議の良き相手でもある伊藤隆敏教授のご尽力に、心より敬意を表します。

さて、2020年春のパンデミック発生から、2年以上が経過しました。変異株の流行は、なお断続的にみられていますが、ワクチンの普及により、世界経済は、新型コロナウイルス感染症の影響の克服に向けて、着実に歩みを進めているように窺われます。しかし、そうした矢先に、ロシアによるウクライナ侵攻という、新たな地政学上の不確実要因が加わりました。昨年後半以降、パンデミックからの経済活動の再開に伴い、インフレ率は世界的に高まっていましたが、ウクライナ危機を受けた最近の資源価格の高騰は、インフレ圧力を一段と助長する要因になると考えられています。

そこで、本日は、世界的にインフレが高進する中での日本の物価変動と、そのもとでの日本銀行の金融政策の役割について、米国と比較しながら、お話します。結論を先に申し上げると、日本でも当面のインフレ率は、エネルギー価格の上昇を主因に2%程度となる可能性がありますが、そのマグニチュード、拡がり、そして背後にある経済状況は米国と大きく異なっており、日本銀行は、「物価安定の目標」の安定的な実現に向けて、現在の強力な金融緩和を粘り強く続けていく必要がある、というのが私の基本的な考えです。

2.米国と比較した日本の経済・物価動向

パンデミック発生以降の経済・物価動向

まず、パンデミック発生以降の日本経済の動きを、米国との比較を交えて、振り返るところから、話を始めます。最初に、総需要の動向です。日本の人口当たりのコロナ感染者数は米国の1/4程度、死者数は米国の1/13程度と、かなり低い水準に抑えられてきましたが、日本の需要の回復は米国対比遅れています(図表1)。日本と米国のGDPは、ともに、2020年春のパンデミック発生直後には、幅広い行動制限の結果、急激かつ大幅な落ち込みとなりました。しかし、その後は、日米ともに、人々の感染症への適応が進むもとで、大規模な財政金融政策の発動も下支えとなり、需要の持ち直しが進みました。米国のGDPは、感染症後の落ち込みから、わずか1年程度で感染症拡大前の水準を回復し、その後も非常に力強い拡大を続けています。他方、日本のGDPも、基調として持ち直していますが、米国に比べると改善ペースは緩慢なものにとどまっており、依然として感染症前の水準を2%強下回っています。こうしたGDPの違いは、主として個人消費の動きの違いから生じています(図表2)。すなわち、米国では、財消費が旺盛な耐久財需要を背景に大きく増加しただけでなく、いち早くワクチン接種と経済活動の再開が進んだことから、サービス消費も昨年末には感染症前の水準を回復しました。一方、日本では、財消費が、自動車や家電の供給制約の影響もあって伸び悩んでいるほか、サービス消費も、高齢者を中心としたリスク回避姿勢の強さを背景に、下押しされた状態が続いています。その結果、日本の個人消費は、米国と異なり、全体でも感染症前の水準をいまだに取り戻せていません。このように、国内需要の回復度合いには、個人消費を中心に、日米間で顕著な違いがみられます。

労働需給の状況も、日米間で大きく異なります(図表3)。労働需要の動向を求人数でみると、日米ともに、2020年前半をボトムに、経済の改善に伴って増加していますが、回復ペースには日米間で大きな格差がみられます。すなわち、米国では、労働需要が幅広い業種で拡大するもとで、離職の増加による欠員率上昇の影響も加わり、企業による求人数は歴史的な高水準まで大幅に増加しています。一方、日本の求人数も、回復傾向にはありますが、労働集約的なサービス部門の持ち直しの遅れを反映して、感染症前の水準を引き続き下回っています。労働供給面をみると、米国の労働参加率は、Great Resignation(大離職)といわれる、高齢者等による退職の急激な増加を受けて、水準をはっきりと切り下げており、感染症前を下回って推移しています。一方、日本の労働参加率は、2013年以降の女性や高齢者に牽引された上昇トレンドこそ一服していますが、感染症に伴う大きな落ち込みは観察されません。このように、労働市場でも、需要と供給の両面から日米間で大きな違いが生じており、米国では労働需給の引き締まりが日本よりも明確になっています。

以上のような国内需要や労働需給の状況は、インフレ率にも顕著な違いをもたらしています(図表4)。米国の消費者物価の前年比は、足もとでは8%を超え、40年振りの高い上昇率を示しています。内訳をみると、エネルギー価格の上昇も寄与していますが、エネルギーを除いても、6%を超えるかなり高い上昇率となっています。2021年入り後、まず、自動車を始めとする財の価格上昇が明確となり、次に、賃金の上昇もあってサービス分野へと価格上昇の裾野が拡がるなど、ディマンド・プル型のインフレーションの様相が強まっているように窺えます。一方、日本の消費者物価の前年比は、直近のデータでは0%台後半ですが、これには、昨年の携帯電話通信料の引き下げといった特殊要因が大きく寄与しており、その影響の大半が剥落する4月以降は、2%程度になる可能性があるとみています。ただ、こうした物価上昇は主にエネルギー価格上昇によりもたらされており、エネルギーを除いた基調的な物価上昇率をみると、0%台後半にとどまります。内訳をみると、原材料コスト上昇の転嫁が進んでいる食料品を中心に、財価格の上昇率は緩やかに高まってきていますが、サービス価格の上昇は限定的であり、米国のような物価上昇の拡がりは観察されません。

ロシアによるウクライナ侵攻の影響

次に、ロシアによるウクライナ侵攻が、当面の日本の経済・物価情勢に与えるインパクトについて考えてみたいと思います。ウクライナ情勢の今後の展開を巡ってはきわめて不確実性が大きく、その帰趨を見極めるにはなお時間を要しますが、定性的には、次の3つの経路を通じて、日本を含む世界経済に影響を及ぼすと考えています。第1は、国際商品市況の大幅な上昇、第2は、貿易活動の縮小やサプライチェーンの混乱、第3は、企業や家計のコンフィデンス悪化です。

このうち、現時点で、最もインパクトが大きいと考えられるのは、1番目の国際商品市況の上昇です(図表5)。ロシアは、原油や天然ガス、石炭などの主要な生産国です。これらの資源は、戦争に伴う生産停滞やロシアへの経済制裁によって、供給不足に陥るとの懸念が強まっているため、価格が大幅に上昇しています。こうした資源価格の上昇が各国の経済に与える影響は、資源の輸出・輸入構造によって大きく異なります。米国は、原油、天然ガスの世界第1位の生産国であり、貿易収支をみると、輸出と輸入がほぼ均衡しています。そのため、これらの資源価格の上昇は、国外へのネットの所得流出には繋がりません。一方、日本は、原油、天然ガス、石炭すべてについて、その殆どを輸入に依存しており、鉱物性燃料の輸入規模はGDP比で3%程度になります。こうした状況における資源価格の上昇は、国外へのネットの所得流出、つまり交易利得の悪化に繋がるため、日本の経済主体の誰かがその負担を負う必要が出てきます。

日本経済の中で、この所得流出のうち誰がどの程度負担するかは、資源価格上昇の価格転嫁の動向に依存します。まず、原油や天然ガスの価格上昇は、ほぼ機械的にガソリン価格や電力・ガス料金の上昇に繋がるため、家計の実質所得の減少に直結します。さらに、エネルギー価格の上昇は、企業の生産・営業コストの増加にも繋がるため、企業がそれを財やサービスの販売価格に完全に転嫁できなければ、企業収益も減少することになります。このように、資源の輸入国である日本経済にとって、資源価格の上昇は、家計の実質所得の減少や企業収益の悪化を通じて、景気の下押し要因として作用します。

3.日本銀行の金融政策の役割

ここまでの話で、日本の経済と物価の立ち位置は、米国と大きく異なることが明確になったのではないかと思います。次に、日本の経済・物価情勢を踏まえた日本銀行の金融政策の役割について、私の考えをお話します。

経済回復を支えるための金融緩和

まず、日本の経済情勢を踏まえると、引き続き、金融緩和で経済活動をしっかりとサポートすることが必要であり、適切です。先ほども申し上げたとおり、日本経済は、感染症による大きな落ち込みからの回復途上にあります。経済全体の需給ギャップは、依然としてマイナスであり、景気の過熱を懸念すべき状況にもありません(図表6)。また、当面予想される資源価格上昇を通じた交易利得の減少は、所得の減少を通じて、国内需要に下押しの影響を与えます。したがって、金融政策の果たすべき役割は、緩和的な金融環境を提供することであり、それによって感染症の下押し圧力が残る日本経済の本格回復を後押しするということです。

もっとも、現在の日本経済が、更なる追加緩和が必要なほど、脆弱な状態にあるとも考えていません。この点、リーマン・ショック直前の2008年の資源価格高騰局面と比較することが、有益な示唆を与えてくれます(図表7)。当時を振り返ると、世界経済は、米国の住宅市場の調整などを主因に、2007年半ばには既に減速局面に入っていました。そうした中にあっても、新興国の資源需要の拡大というナラティブや、コモディティの所謂「金融商品化」の動きを背景に、原油価格は2008年7月に1バレル140ドル台の史上最高値まで上昇するなど、資源価格は、リーマン・ブラザーズの破綻寸前まで大幅な上昇を続けていました。この間、日本経済は、海外経済の減速や交易条件の悪化を背景に、2008年初には既に景気後退局面に入っており、前向きな所得形成の力を失っていました。それにもかかわらず、日本の消費者物価は、エネルギーや食料品価格の上昇を主因に、2008年夏場にかけて前年比+2.4%まで急速に上昇率を高めたことから、実質雇用者所得の減少を背景とした個人消費の下押し圧力は強まっていきました。

今回の局面も、資源価格の上昇が、エネルギーや食料品を中心に消費者物価の上昇に繋がっていくと予想される点は、2008年頃と同様です。もっとも、以下の理由から、今次局面における日本経済の資源価格上昇に対する耐性は、2008年と比べれば強いのではないか、と考えています。第1に、既に景気後退局面に入っていた2008年とは異なり、現在は、感染症からの回復の初期局面にあり、改善モメンタムが比較的強いことが挙げられます。先ほども申し上げたとおり、個人消費がいまだ感染症前の水準を回復していないという事実は、先行き感染症の影響が和らいでいけば、ペントアップ需要が顕在化する余地がかなり残っていることを意味します。第2に、長期にわたる行動制限のもとで蓄積した、所謂「強制貯蓄(forced saving)」の存在が、エネルギー価格上昇による家計の実質所得減少のバッファーとして作用することも期待されます(図表8)。昨年末時点で、日本の強制貯蓄は、50兆円程度と、GDP比で9%程度に及ぶと試算されます1。第3に、企業収益をみると、資源価格上昇の影響からはっきりと減少していた2008年当時と異なり、今回は海外需要の増加や国内経済の持ち直しから、しっかりとした改善が続いています。そのもとで、ウクライナ侵攻後に調査を行った日本銀行の3月短観をみても、企業は、緩和的な金融環境にも支えられて、前向きな設備投資スタンスを維持しています。第4に、日本政府は、原油価格高騰に対する対策の一環として、エネルギー価格上昇のマイナスの影響を和らげるための財政支出を行っています。これらを踏まえると、2008年の局面と異なり、先行きの日本経済は、回復傾向を維持し、潜在成長率を上回る成長経路をたどると予想しています。

  1. 具体的な強制貯蓄の試算方法については、2021年4月の展望レポートのBOX3を参照して下さい。

2%目標の安定的な実現のための金融緩和

次に、日本の物価情勢を考えても、目先予想されるインフレ率の上昇は、コスト・プッシュが主因で持続力を欠くものであるため、金融緩和を継続することで問題ないということです。

供給ショックによって、資源価格が大きく上昇し、国内の物価を押し上げる場合、理論的には、金融政策はどのように対応すべきでしょうか。まず、供給ショックによる「直接的影響」、すなわち原油高によるガソリン価格や電力料金の上昇に対しては、直接、金融政策では対応しない、というのが基本です。原油や天然ガスなどの価格は、世界市場の需給で決まるものであり、日本の金融政策でコントロールできるものではありません。今回の局面に即して言えば、日本銀行の金融政策では、ウクライナ情勢に伴う資源の供給不足を解決することはできません。

次に、資源価格上昇の「2次的波及」により、インフレ予想が高まり、賃金と物価のスパイラル的な上昇が生じるリスクがある場合はどうでしょうか。このときには、中央銀行が金融引き締めで対応する必要があるケースも存在します。実際、米欧の中央銀行が金融緩和の修正に踏み出しているのは、2次的波及への警戒が背景にあると理解しています。もっとも、資源の大部分を輸入に頼り、もともとディマンド・プル型の国内インフレ圧力も弱い現在の日本経済にとって、今回のような供給要因に基づく資源価格の上昇が、賃金と物価の持続的な上昇に直ちに繋がる可能性は高くないと考えています。

日本においても、2次的波及効果によりインフレが加速した経験が過去にはあり、その典型例は、1973年の第1次石油危機後に発生した所謂「狂乱物価」です(図表9)。小宮隆太郎名誉教授の有名な論文が説得的に論じているとおり2、1973年10月の第1次石油危機は、行き過ぎた金融緩和により需要が過大となり、インフレ率が既に14%まで上昇していた時に発生しました。こうしたもとで、原油価格の急上昇による輸入インフレの影響が加わったため、1974年の春季労使交渉では30%を超える賃上げが実現し、同年の消費者物価の上昇率は25%まで急激に上昇しました。この点に関し、小宮氏は、「石油危機以前からのインフレの高進が、人々の間に強くかつ根強いインフレ予想(inflationary expectations)と将来の供給不足の心配を生み出しており、その傾向が石油危機によっていっそう強められた」と喝破されています。つまり、「初期条件」として、ホームメイドの国内インフレが発生している中で、原油価格上昇により予想インフレ率の上昇が加速したことが、「狂乱物価」をもたらした基本的な背景です。

このような日本の「狂乱物価」の経験から得られたひとつの教訓は、人々の安定的なインフレ予想の重要性です。実際、1980年の第2次石油危機に際しては、当時の低位で落ち着いたインフレ予想が迅速な金融引き締め政策の効果を高め、2桁の深刻なインフレを回避することに成功しました。もっとも、1980年代後半の資産バブルの発生とその崩壊、それに続く長期のデフレの経験を経て、人々の物価に関する期待が長期的に低迷してしまい、それこそが日本の長年の課題となっていることは周知のとおりです。日本では、物価が上がらないことを前提とした商慣行や賃金形成が社会に深く根付いており、それを変えていくことは容易ではありません。そうした中、2013年に日本銀行が2%の「物価安定の目標」を正式に採用し、その後、大規模な金融緩和を実施することにより、経済の改善とともに、人々のインフレ予想に前向きな変化が生じつつあることは勇気付けられることです。例えば、インフレ予想も反映すると考えられる毎年の春季労使交渉における妥結状況をみると、コロナ禍でいったん落ち込んだものの、今年は、好調な企業業績を反映して、前年を上回る賃上げ率が実現する見込みです(図表10)。そうした観点から言えば、2%の「物価安定の目標」の実現と整合的なかたちで、人々のインフレ予想や賃金の上昇が起こるのであれば、それはむしろ望ましい動きです。

以上みてきたとおり、日本では、需給ギャップがマイナスで、物価面でも安定的な2%目標の実現には依然として距離があります。このため、今回のようなコスト・プッシュ・ショックに直面しても、他の海外中銀と異なり、日本銀行は、経済の安定を優先するか、物価の安定を優先するかという、トレードオフに直面していません。現下の状況で、日本銀行が果たすべき役割はきわめて明確です。現在のイールドカーブ・コントロールを軸とする金融緩和を粘り強く継続することで、コロナ禍からの景気の回復をしっかりと支え、賃金と物価がともに緩やかに上昇していく好循環の形成を促していく、ということです。

  1. 2小宮隆太郎「昭和四十八、九年インフレーションの原因」『現代日本経済:マクロ的展開と国際経済関係』東京大学出版会、1988年所収。

不確実性が高まるもとでの金融政策運営

ただし、近年は、新型コロナウイルス感染症に加え、ロシアによるウクライナ侵攻、さらにはやや長い目でみた気候変動問題など、経済以外の要因により、先行きの不確実性は大きく高まっているため、中央銀行の金融政策は、これまでにない難しさに直面しているのも事実です(図表11)。リーマン・ショック前までの「大いなる安定(Great Moderation)」と呼ばれた時代を振り返ると、経済に影響を及ぼすショックは、需要ショックが中心で、経済活動の振幅は比較的小さく、予見可能性の高い状況が続いていました。もっとも、2010年代以降は、日本の東日本大震災や各地の自然災害、感染症、そしてロシアによるウクライナ侵攻など、事態の展開が予測し難い供給ショックが頻発しています。これらは、いずれも近年経験したことのないショックであるため、経済への波及に関する十分なデータの蓄積もありません。このように先行き不確実性がとりわけ高い状況では、中央銀行は、謙虚な姿勢でその時々に判明するデータに向き合い、予断を持つことなく、金融政策運営に当たっていく必要があります。日本銀行は、昨年3月には、金融緩和の枠組みについて「点検」を行いましたが、その主たる目的は、金融緩和の「持続性(sustainability)」を高めるのと同時に、「機動性(nimbleness)」を確保することでもありました。日本銀行としては、感染症も含め様々なリスク要因を注意深く点検するとともに、この「持続性」と「機動性」を増したイールドカーブ・コントロールの枠組みのもとで、適切な金融政策運営に努めていく考えです。

4.おわりに~物価安定のもとでの持続的な成長に向けて~

最後に、日本経済の中長期的な成長力という構造的な面についても、ひとこと触れたいと思います。

日本経済のパフォーマンスをやや長い目で振り返ると、2010年代の実質GDPの平均成長率は+1.2%でした(図表12)。同時期の米国の平均成長率は+2.3%ですので、日米間の成長率格差は1%程度となります。ただし、この間の日米間の人口増加率の差は1%程度ですので、人口要因だけで成長率の格差をほぼ説明できることになります。言い換えると、一人あたりGDPでみれば、日米は1%台半ばで同程度の成長率となっているのです。

やや詳しくみますと、2010年代の日本で、一人あたりGDPの伸びを牽引してきたひとつの要因は、女性や高齢者による労働参加の増加を背景とした、就業率(=就業者数/総人口)の上昇です。女性や高齢者には、短時間労働者が多いことから、一人当たり労働時間は減少していますが、その点を勘案しても、労働供給の増加は、一人当たりのGDPの成長をしっかりと後押ししてきたことが確認できます。これは、1990年代、2000年代には、労働供給の減少が一人当たりGDPの成長を押し下げてきたことと対照的です。そして、一人当たりGDPの成長を押し上げてきた、もうひとつの要因は、多様な労働者による労働参加が進んだにもかかわらず、時間あたり生産性の上昇率が米国並みの+1%程度を維持したことです。

それでは、2020年代の日本の一人当たりGDP成長率は、どのように展望できるでしょうか。女性の労働参加率は、既に米国を超える水準まで上昇しており、出産や子育てに伴う20代後半~40代女性の労働市場からの退出という所謂「M字カーブ」の問題は概ね解消されています(図表13)。このため、先行きの女性の労働参加率の上昇余地は、狭まってきているように思います。他方、高齢者については、ベビーブーマーである1947~1949年生まれの「団塊世代」が、労働参加率が大きく低下する70代後半へと入っていきますので、高齢者の労働参加率も、これまでのようなペースでの上昇は期待できないでしょう。このため、2020年代は、「時間当たりの生産性」を引き上げていくことが、これまで以上に重要になります。この点では、労働市場の一層の流動化に加え、人的資本投資がカギを握ると考えています。米国と異なり、長期雇用が中心の日本企業では、OJT(On-the-Job Training)も含めた企業内での教育訓練投資が、非常に重要な役割を果たしてきました。コロナ禍により加速したデジタル化を背景に、労働者に求められるスキルが大きく変化する中、企業内再訓練による労働者のスキル向上、所謂「リスキリング」の重要性は高まっており、日本政府も、こうした分野での財政支援を強化しています。日本銀行としても、間接的ではありますが、緩和的な金融環境の提供を通じて、人的資本投資の積極化に向けた取り組みを後押ししていきます。

以上、最近の日本経済の状況から金融政策運営の考え方、日本経済の中長期的な課題に至るまで、幅広くお話させていただきました。これらが日本経済に関する理解の一助になることを願いつつ、今後の日本経済経営研究所における日本に関する研究の一層の発展を期待したいと思います。

ご清聴ありがとうございました。