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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策秋田県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2022年12月1日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、秋田県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜りまして誠に有り難く存じます。皆さまには、日頃より日本銀行秋田支店の業務運営に多大なご協力を頂いております。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日は、まず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しした後、世界的インフレ下での金融政策運営の考え方についても、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

世界経済は現在、ポスト・コロナ時代の新たな常態――ニュー・ノーマル――を模索しつつあるように見えます。コロナ禍が始まった2020年には各国とも経済が大幅に縮小しましたが、先進国を中心にワクチン接種が進展した昨年春以降は回復過程に入り、2021年には、各国経済は前年の落ち込みの相当部分を取り戻す、ないしは落ち込みを上回る回復を遂げました。2022年もこれまでのところ、ペースは鈍化しつつも回復トレンドは基本的には維持されています(図表1)。

この景気回復の副産物として生じてきたのが、世界的な高インフレです。海外の中央銀行の多くは、これまで、この高インフレ抑制のために、政策金利の引き上げや量的引き締めといった金融引き締め措置を異例のペースで推し進めてきました。それは、この高インフレを抑制するためには、少なくとも一時的には国内需要を抑制する必要があると判断されるからです。そのインフレの収束過程がソフトランディングで収まるのか否かは不確実ですが、この金融引き締めにより、先行きの海外経済は先進国を中心に減速していくものとみています。

国内に目を転じると、わが国経済は、資源高の影響などを受けつつも、新型コロナウイルス感染症抑制と経済活動の両立が進むもとで、持ち直しています。10月には全国旅行支援や水際対策緩和が始まり、厳しい事業環境にあった対面型サービスにも明確な回復の兆しがみられます(図表2)。輸出と鉱工業生産も、一部に海外経済減速の影響が現れ始めてはいるものの、供給制約が解消されるもとで、基調としては増加を続けています(図表3)。企業収益は、既往の原材料コスト上昇や供給制約による生産遅延などが押し下げ要因として作用したものの、経済再開のほか、為替円安が製造業を中心とした大企業の収益を押し上げたことなどから、全体として高水準で推移しています(図表4)。こうしたもとで、設備投資は、持ち直しています。9月短観における企業の設備投資計画をみましても、今年度は、2桁の高い伸びが見込まれています。わが国経済の先行きについても、資源高や海外経済減速による下押し圧力を受けるものの、感染症や供給制約の影響が緩和するもとで、緩やかに回復していくものとみています。

先行きのリスクとしては、主に3点指摘したいと思います。第一は変異株等による感染再拡大、第二はウクライナ情勢の展開などの地政学リスク、特にそれによるエネルギー価格上昇のリスク、第三は各中央銀行が現在行っている金融引き締めによる世界経済の減速リスクです。とりわけこの第三のリスクの見極めは、ポスト・コロナ経済の先行きを見通すうえでもきわめて重要と考えます。

(2)物価情勢

次に国内の物価情勢です。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、昨年初頭からエネルギー価格が急上昇する中で、本年4月以降、2%を超える状況となっています(図表5)。さらに、この春以降は、ウクライナ情勢等を受けた国際商品市況の一段の上昇や急速に進んだ為替円安の影響から、輸入財価格の上昇の影響が食料品等の販売価格にまで浸透し始めたこともあり、直近10月の生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、3.6%にまで上昇しています。

このように、日本の消費者物価は、諸外国ほどではないにしても、大きく上昇しています。もっとも、この上昇は、基本的には輸入財価格上昇の影響によるものです。金融政策の方向を定めるうえで最も重要なのは、国内のマクロ経済要因に基づく趨勢的なインフレ率ですが、その趨勢的なインフレ率、言い換えれば物価の基調は、未だ低い水準にあります。この「物価の基調」をどう捉えるかは、重要な論点ですので、後段で改めて取り上げます。

ただし、もう少し長い目でみると、こうした川上から川下への価格転嫁の広がり自体もまた、「物価の基調」に影響を与えていく可能性があります。長くデフレが続いた日本ではこれまで、エネルギー等を除けば、企業は価格転嫁の実行にきわめて慎重でした。このところの価格転嫁の広がりは、物価が上がらないことを前提とした企業の行動原理が変わりつつあることを示している可能性があります(図表6)。こうした物価に対する考え方――いわば「物価のノルム」――が変化することは、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に達成するうえで重要なポイントになると考えられます。

3.金融政策

(1)「物価安定の目標」の実現に向けた政策対応

日本銀行は、長引くデフレを克服し、2%の「物価安定の目標」の実現のため、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後も、経済・物価情勢に応じて、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」でマイナス金利政策を導入しました。さらに、同年9月には、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」で操作目標を長短金利とする(イールドカーブ・コントロール)と同時に、生鮮食品を除く消費者物価指数の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を超えるまでマネタリーベースの拡大方針の継続を約束する「オーバーシュート型コミットメント」を導入するといったかたちで、金融緩和を強化してきました。

(2)感染症への政策対応

感染症の経済的影響が深刻化した2020年3月には、企業等への資金繰り支援と金融市場の安定を図る観点から、新型コロナ対応特別プログラム(「特別プログラム」)を含む「3つの柱」の措置を導入しました(図表7)。これらの対応は、企業の資金繰り改善と金融市場の安定化に大きな効果を発揮してきました。その後、感染症による経済への悪影響は公衆衛生措置やワクチン接種の進展などを通じて徐々に和らいでいきましたが、変異株の出現等による感染の波は続きました。そこで、日本銀行は、企業等の資金繰り支援の継続のため、2020年12月と昨年6月の金融政策決定会合で、特別プログラムの期限を、それぞれ昨年3月末から昨年9月末へ、さらに本年3月末へと延長しました。また、昨年12月の金融政策決定会合では、特別プログラムのうち大企業向けや住宅ローンを中心とする支援措置は期限通り終了しつつ、中小企業等支援の部分を本年9月末まで延長しました(図表8)。そして、コロナ禍の落ち着きを踏まえ、本年9月の金融政策決定会合において、中小企業等向けのプロパー融資分を2023年3月末に終了し、制度融資分を2022 年12月末に終了すること等を決定しました(図表9)。

(3)より効果的で持続的な金融緩和

感染症は当初、日本経済への強い下押し圧力として作用しました。それは、「物価安定の目標」の実現に、より一層の時間を要するであろうことを意味していました。そこで、日本銀行は、政策効果等の検証を行い、昨年3月の「より効果的で持続的な金融緩和のための点検」でいくつかの政策調整を行いました(図表10)。その中で、イールドカーブ・コントロールの運営をより柔軟に行うため、「概ね±0.1%の幅の倍程度」としていた長期金利の変動幅を「±0.25%程度」と明確化すると同時に、新たに「連続指値オペ制度」を導入し、必要な場合に金利の上昇を強く抑える手段を用意しました。

(4)世界的インフレによる新たな市場環境への対応

以上のような政策対応は、コロナ禍による経済の落ち込みの阻止に大きな効果をもたらしてきました。しかしながら、2022年に入って各国・地域の経済回復がより一層進展し、世界的にインフレが加速していくにつれて、金融市場の環境は急速に変化していくことになります。それはとりわけ、各中央銀行による高インフレ抑制のための金融引き締めを織り込んだ、世界的な金利上昇となって現れました。2020年には1%を切っていた米国の10年物国債金利は4%超まで上昇し、2021年まではマイナス圏に沈んでいたドイツの10年物国債金利も2%台半ばにまで上昇しました(図表11)。その影響は日本の国債市場にも及び、本年3月末になると10年物国債金利がイールドカーブ・コントロールの上限である0.25%に接近するに至りました。このため、それ以降は昨年3月に導入した連続指値オペを必要に応じて実施しました。さらに、こうした新たな市場環境に対応するため、4月の金融政策決定会合では、この連続指値オペを原則として毎営業日実施することを決定しました。

日本銀行がこのようにイールドカーブ・コントロールに基づいて10年物国債金利の上限を厳格に守り続けているのは、日本経済はまだ2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に達成する段階には至っていないと判断しているためです。ドイツなど欧州各国では、過去1年の間にマイナス圏から2%超への長期金利の急激な上昇が生じましたが、仮に同様の動きが日本に生じていたとすれば、それが日本経済に悪影響を与えることは明らかです。そうした長期金利の大幅な上昇は、わが国経済への大きな下押し圧力となり、2%の「物価安定の目標」の達成をより困難なものとします。こうしたことから、私自身は、「物価安定の目標」の達成が確実に見通せない現状では、金融緩和を継続し、金利を低い水準に抑えることが重要であると考えています。

本年春頃から顕在化し始めたもう一つの市場環境の変化は、急速な為替円安の進展です(図表12)。金融政策の役割が為替相場の維持に割り当てられていたかつての固定相場制の時代とは異なり、現在の変動相場制では、金融政策は基本的に物価を含む国内マクロ経済の安定に割り当てられています。それは、為替相場は各国のマクロ経済状況に応じて変化することを意味します。そのもとで一国にとって望ましいのは、為替相場が、こうした経済・金融のファンダメンタルズを反映しつつ安定的に推移することです。他方で、為替変動の影響は一般に、経済主体ごとにきわめて不均一です。また、為替変動があまりにも急激に生じた場合には、各経済主体の調整コストを増加させるという不利益を生みます。したがって、金融・為替市場の動向やそのわが国経済・物価への影響については、引き続き十分に注視していく必要があると考えています。

4.世界的インフレと日本経済

(1)コロナ禍が生み出した世界的インフレ

世界経済は現在、1970から80年代以来ともいえる高インフレを経験しています(図表13)。その契機となったのはいうまでもなく、2020年から始まったコロナ禍です。コロナ禍以前には、とりわけ先進国経済の多くは、しばしば「長期停滞」と呼ばれるような、持続的な低成長・低インフレ・低金利状況に直面していました。しかしながら、ワクチン接種の拡大に伴って2021年春頃から始まった脱コロナ禍の進展以降、状況は一変しました。各国・地域は今、久しく経験することのなかった高インフレに直面し、海外の多くの中央銀行は、その高インフレの抑制のために政策金利を急速に引き上げ続けています(図表14)。

専門家の多くは当初、この脱コロナ禍下でのインフレは、コロナ禍局面において貯蓄が積み上がってきたもとで、抑制されてきた需要――いわゆるペントアップ需要――が経済活動の再開によって一挙に顕在化し、その影響がコロナ禍で生じたサプライチェーンや流通網の寸断という供給制約によりさらに深刻化したためと考えていました。したがって、ペントアップ需要の一巡と供給制約の解消によってインフレは自ずと収束するというのが、専門家たちの一般的な見通しでした。しかしながら結果はその見通しとは異なり、各国・地域でペントアップ需要がほぼ一巡し、供給制約が相応に改善されて以降も、高インフレは明確に抑制されることなく現在に至っています。

私自身は、今回の世界的な高インフレには、各国・地域がコロナ禍対応として行ってきた、きわめて拡張的・緩和的な財政・金融政策が影響していると考えています。コロナ禍が始まって以降、各国政府は、規模や期間は国ごとにさまざまではあるものの、自国の家計や企業への財政的支援を行ってきました(図表15)。また、各中央銀行も、コロナ禍による経済の落ち込み阻止のため、大規模な金融緩和を行ってきました(前掲図表14)。海外の多くの国・地域が2021年以降の脱コロナ禍局面で急速な経済回復を実現し、それ以前の所得水準を早急に取り戻すことができたのは、そうした拡張的・緩和的な財政・金融政策による効果も大きかったと思われます。その意味では、各国が行ったコロナ禍対応の財政・金融政策は、コロナ禍による経済の落ち込み阻止と早期回復の実現という当初の目的を十分に果たしたと評価できます。他方で、コロナ禍以前には、長期に亘って低インフレ・低金利という状況が続いていただけに、低インフレを数十年ぶりの高インフレへと一変させるほどの力を持っていた財政・金融政策の効果を十分に予見することは難しかった面もあったのかもしれません1

  1. 1ただし、この効果は一般論としては以前からよく理解されていました。例えば、2022年にノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ元FRB議長は、FRB理事時代の以下の講演で、仮に政策金利の引き下げ余地がない状況でも財政と金融の統合政策によって必ずデフレからインフレに反転できることを、ミルトン・フリードマンによって提起された「ヘリコプター・マネー」という概念を援用して説明していました。“Deflation: Making Sure ‘It' Doesn't Happen Here,” Remarks by Governor Ben S. Bernanke before National Economists Club, November 21, 2002.

(2)国・地域ごとに異なるインフレ動向と金融政策対応

以上のように、現在の世界的インフレは、基本的には、各国・地域がコロナ禍対応として行ってきた拡張的・緩和的な財政・金融政策が、結果的にそれぞれの経済における潜在的な供給能力を上回る過大な需要を生み出したことが影響していると考えることもできます。ただし、これはあくまでも世界的インフレの基本構図であり、各国・地域のおかれた状況は、個々に大きく異なります。というのは、脱コロナ禍局面でまず顕在化したのは、資源やエネルギーに生じた急激な価格上昇であったからです。そのため、日本や欧州各国のような資源やエネルギーの輸入国においては、インフレは需要主導というよりは、輸入財価格の上昇に伴うコスト・プッシュ型のインフレとして現れました。

それに対して、総需要が潜在的な総供給を上回る結果として生じる典型的な現象は、名目賃金と一般物価が同時並行的に上昇する、賃金と物価の相乗的な上昇です。これは、総需要の拡大によって労働需給が逼迫し、完全失業率が低下しすぎた結果、供給拡大よりももっぱら名目賃金や物価の上昇が生じているような状況です2。こうした労働需給の逼迫とそれによる賃金と物価の同時的上昇が観察されているとすれば、そこに生じているのは一般的には、供給ではなく需要主導のインフレです。

こうしたインフレの質的相違は、脱コロナ禍局面以降の米国、ユーロ圏、日本でのインフレ動向にもきわめて明瞭に現れています(図表16)。米国とユーロ圏では、2021年春頃から急速なインフレが始まり、2022年には消費者物価上昇率が8から10%程度にまで達しました。しかし、その内実では両者は大きく異なります。すなわち、ユーロ圏のインフレはエネルギーの寄与が大きいのに対して、米国のインフレはエネルギー以上に財とサービスの寄与が大きく、とりわけ直近になるほどサービスの寄与が強まっています。日本でも2022年春頃からは、米欧よりもはるかに低い水準ながら消費者物価が上昇し始めましたが、それに大きく寄与してきたのはエネルギーです。これは、米国のインフレは基本的に需要主導のものであるのに対して、ユーロ圏と日本のインフレはコスト・プッシュ型のものであることを示唆しています。

そうした相違にもかかわらず、海外の主要中央銀行は現在、ほぼ一様に金融引き締めペースを加速させています。それは、仮にインフレの原因が需要側ではなく供給側にあったとしても、現実のインフレがインフレ予想の上昇に結びつき、それがさらに名目賃金や物価に織り込まれるいわゆる二次的影響が生じた場合には、賃金と物価のスパイラル的上昇によってインフレの基調それ自体が上振れるリスクがあるためです。実際、ECBは、本年半ば以降、政策金利引き上げを加速させてきましたが、当局者が言及しているように、それは基本的にはこの二次的影響への予防措置と考えられます3

それに対して、米国のように過大な需要によって労働需給が逼迫し、賃金と物価のスパイラル的上昇への懸念が強まっている場合には、中央銀行は断固たる金融引き締めによって総需要を抑制し、労働需給を緩和させる必要があります。それは、労働市場により低い欠員率(充足されない求人数の割合)と、より高い失業率をもたらすことを意味します。米国においては、経済の脱コロナ禍が始まって以降、欠員率が歴史的な水準に上昇し、失業率も急低下しました(図表17)。したがって、FRBが賃金と物価のスパイラル的な上昇のリスクを抑制し、インフレ率を目標とする2%近傍に収束させるためには、何よりもこの高すぎる欠員率と低すぎる失業率を適切な水準にまで押し戻す必要があるのです4

  1. 2それを下回るとインフレ率が上昇することが想定される完全失業率の水準は、NAIRU(Non-accelerating inflation rate of unemployment)と呼ばれています。
  2. 3例えば下記を参照。Lagarde, Christine, “Monetary Policy in a High Inflation Environment – Commitment and Clarity,” Lecture organised by the Bank of Estonia and dedicated to Professor Ragnar Nurkse, Tallinn, November 4, 2022.
  3. 4現行の高インフレを目標水準にまで抑制するにはどの程度の失業率を甘受する必要があるのかに関しては、いわゆるハードランディング派とソフトランディング派の間で見方が分かれており、ローレンス・サマーズ元財務長官らは、欠員率を十分低下させるためにはきわめて高い失業率が必要とするのに対して、クリストファー・ウォーラーFRB理事らは、欠員率引き下げは失業率の大幅な増加を伴わずに可能と論じています。これは、欠員率と失業率の動きを描いたベバリッジ曲線(UV曲線)の勾配の想定が両派では異なることを意味します。これについては下記を参照。Blanchard, Olivier, Domash, Alex, and Summers, Lawrence H., “Bad News for the Fed from the Beveridge Space,” Peterson Institute for International Economics Policy Brief 22-7, July, 2022.
    Waller, Christopher J., “Responding to High Inflation, with Some Thoughts on a Soft Landing,” Speech at the Goethe University Frankfurt, Germany, May 30, 2022.
    Figura, Andrew and Waller, Christopher J., “What Does the Beveridge Curve Tell Us about the Likelihood of a Soft Landing?” FEDS Notes, July 29, 2022.

(3)日本経済が持続的成長経路に復帰するための条件

上述のように、世界経済の脱コロナ禍を背景として、日本でも、エネルギー価格や輸入原材料を用いる消費財などの価格の上昇が消費者物価を押し上げており、生鮮食品を除く消費者物価の上昇率も本年4月から2%超が続いています。しかし現状では、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に達成されつつあるとは判断できません。というのは、現在生じている物価上昇は、輸入資源や原材料の価格上昇が販売価格に転嫁された結果であり、この海外からのコスト・プッシュ要因が剥落すれば消費者物価上昇率も再び2%を下回ることが見込まれるからです。この点、資源エネルギーの国際市況は、世界的な金融引き締めに伴う経済減速を織り込み、一頃からは低下しています(図表18)。

つまり、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現するためには、こうした変動の大きい海外要因による上昇ではなく、国内のマクロ経済的要因に基づいて物価が基調的に上昇していくことが必要です。そしてその背後では、名目賃金が年々相応の率で上昇し続けていることが重要です。

本来、労働生産性と物価が共に上昇する標準的な成長経済では、名目賃金は物価以上に上昇する傾向を持ちます。というのは、そうでなければ実質的な賃金が低下し、人々は成長の果実を享受できないからです。他方で、実質賃金は、理論上は「完全雇用時における限界的な労働生産性」という制約があるため、労働生産性上昇を上回る名目賃金の上昇は最終的には物価に転嫁される傾向を持ちます。これが、賃金と物価の相乗的上昇の一つの経路です。

つまり、適正な物価上昇を安定的に達成するうえでは、目標とするインフレ率を上回る賃金上昇が重要です。日本経済が長きに亘る金融緩和にもかかわらず2%の「物価安定の目標」を達成できなかったのも、名目賃金が十分に上昇する状況には至らず、結果として、賃金の影響を受けやすいサービス価格がほとんど上昇しなかったためと考えられます(前掲図表16)。日本経済が持続的成長経路に復帰するには、名目賃金が物価を上回りつつ両者がともに緩やかに上昇し続けるような、「持続的・安定的な賃金物価の相乗的上昇」が必要不可欠なのです。

ただし、物価と賃金にはかくも密接な関連があるにもかかわらず、金融政策が賃金に対して与える影響は状況に大きく制約されるという難しさがあります。金融政策は一般に、財・サービス市場全体の需要を通じて労働需要に影響を及ぼします。それは具体的には、欠員率、失業率、求人倍率といった労働需給の変化となって現れます。この労働需給の変化は、市場が十分に競争的であれば、通常は賃金の変化に結びつきます。実際、現在の米国における急激な賃金上昇は、労働市場の逼迫を背景に生じています(前掲図表17)。しかし、待遇改善を伴う転職機会が限定されている日本の正規労働市場では、賃金が労働需給の影響を受けにくい面があります。

他方で、日本の労働市場においても、より流動性が高く、競争的な環境にあるパート等の非正規雇用者の賃金は、労働需給の改善に伴って明確に上昇しています。また、正規雇用においても、新卒の初任給は着実に上昇していますし、転職率が相対的に高い若年層の賃金は相応に上昇しています(図表19)。したがって、賃金上昇の促進のためには、現状の金融緩和を粘り強く継続し、未だコロナ禍以前の水準に達していない労働需給の状況、具体的には失業率や有効求人倍率をさらに改善させていく必要があります(図表20)。

金融緩和の継続が必要なもう一つの理由は、賃金上昇と物価上昇との間には、前者が後者をもたらす経路と同時に、後者が前者をもたらす経路も存在するという点にあります。というのは、物価上昇が今後も続くであろうというインフレ予想が強まれば、労働の需要曲線と供給曲線もそれを織り込んで上方にシフトし、名目賃金が上昇すると考えられるからです。この点からは、賃金が一段と上昇するためには、長期に亘るデフレの間に強固に根付いた「物価は上がらないもの」という物価観の転換、すなわち「物価のノルム」の転換が必要です。これは物価の上昇が賃金の上昇をもたらすという意味で、インフレの二次的影響そのものです。重要なのは、高インフレによる二次的影響の抑制が必要な米欧とは異なり、インフレの基調が未だ低い日本では、インフレ予想の上昇が賃金上昇に結びつくという二次的影響こそが今まさに必要とされているという点にあります。私自身は、現行の金融緩和の継続はそのための最も基本的な要件であると考えています。

5.おわりに ―― 秋田県経済について ――

最後に、秋田県経済について、支店からの報告も踏まえてお話しさせて頂きます。

秋田県経済は、持ち直していると判断しています。個人消費は、感染症の影響が和らぐもと、全国旅行支援やプレミアム付きの飲食券・商品券といった政策効果もあって、持ち直しています。この間、生産面をみると、主力の電子部品・デバイスや食料品などの需要が好調な中で、緩やかに増加しています。

秋田県は、急速に少子高齢化、人口減少が進んでおり、地域経済を取り巻く環境は大変厳しいですが、こうしたもとで、製品・サービスの高付加価値、DXの推進、農業などにおける大規模化といった生産性向上の取り組みが進められています。また、70歳以上でも働き続けられる企業の割合が全国トップであるほか、女性就労のM字カーブがほぼ解消しつつあるなど、高齢者や女性の労働参加が進んでいます。さらに、官民を挙げた若者の県内定着率の引き上げに向けた取り組みにより、県外への転出人口は、ここ数年間、減少傾向にあります。

また、脱炭素社会の実現といった近年の世界的な潮流は、風力や地熱、バイオマスといった再生可能エネルギー源に恵まれた当地にとって、追い風といえます。特に、風力発電は、年間を通して吹く日本海からの強風をエネルギー源とし、全国有数の発電導入量となっています。これまでは沿海部に風車を設置する陸上風力発電が主流でしたが、足元では遠浅の海に風車を設置する洋上風力発電の計画も進んでおり、秋田港・能代港湾内における国内初となる本格的な洋上風力発電の商業運転開始が目前に迫っているほか、一般海域での大規模な洋上風力発電の導入も複数予定されており、雇用の創出や関連産業の育成など、様々な経済波及効果が期待されています。

今年は、秋田竿燈まつりを始めとする、様々な行祭事が3年振りに開催されました。当地には、ユネスコ無形文化遺産の「男鹿のナマハゲ」や世界自然遺産の「白神山地」、2021年に世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」など、世界に誇る観光資源もあります。こうした資産も活かしつつ、当地経済が持続可能なかたちで発展していくことを期待しています。

日本銀行としても、秋田支店を中心に、秋田県経済の一層の発展に貢献して参りたいと考えています。ご清聴ありがとうございました。