このページの本文へ移動

【挨拶】日本銀行金融研究所主催2023年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳

English

日本銀行総裁 植田 和男
2023年5月31日

1.はじめに

本日は、日本銀行金融研究所の国際コンファランスに、各国・地域から識者の皆さまをお迎えすることができ、大変光栄に存じます。1983年に初回を開催し、今年で28回目となるこのコンファランスですが、対面での開催は2019年以来4年ぶりとなります。コンファランスの主催者を代表して、ご参加いただきました皆さまに心から感謝申し上げます。

さて、今年のコンファランスのテーマは「金融政策の古典的な課題と新たな展望」です。前回対面で開催した2019年のテーマは「低インフレ・低金利環境のもとでの中央銀行デザイン」でした。当時は、低いインフレ率をいかにして目標インフレ率に安定的に近づけていくかが課題として認識されていました。その後僅か4年の間に状況は大きく様変わりし、多くの国ではインフレ率が数十年振りという水準に達しました。

高インフレは、金融政策の研究にとって、古典的な課題です。今からちょうど50年前の1973年頃から、日本を含む多くの国はインフレ率が時に2桁を超える高インフレ期(Great Inflation)に入り、高いインフレ率をどのように引き下げるかが主要な政策課題になりました。これを受けて、1970年代以降、物価の形成メカニズムや金融政策に関する多くの理論的・実証的な分析が行われました。その成果として、徐々に、高インフレの背景やその抑制に向けた金融政策についての経済理論が発展するとともに、金融政策運営の枠組みも確立されていきました。今回のコンファランスでは、この古典的な政策課題を再び議論の俎上に載せたいと考えています。

もっとも、こうした課題を議論するにあたっては、コンファランスのタイトルにもあるNew Challengesという言葉が示唆するように、新たな視点も求められます。特に、50年前との違いをどのように評価し、政策運営に織り込むのかという点が重要です。例えば、感染症拡大期に先立つ長期的な低金利環境(low for long)の時代には、長期停滞(secular stagnation)のリスクが懸念されていました。実際、先進国を中心に自然利子率の低下が観察され、その要因として、グローバル化、過剰貯蓄(saving glut)、技術進歩率の低下や人口動態の変化といった幾つかの構造変化が挙げられてきました。また、名目短期金利が実効下限に近付くもとで、金融政策手段も多様化しました。

一方、この50年の間に、New Challengesだけでなく、New Opportunitiesも登場してきています。社会のデジタル化が進展するなか、オルタナティブデータの利活用や計算機の演算能力向上が進み、大規模言語モデルも急速に発達しています。中央銀行にとって利用可能な情報の量や種類、情報技術、コミュニケーションチャンネルも急速に拡大しています。これらはいずれもNew Opportunitiesといえるでしょう。

以下では、Great Inflationについての議論から当時の教訓を振り返ったうえで、現代におけるNew ChallengesNew Opportunitiesを概観します。

2.1970年代の Great Inflationの教訓とNew Challenges

1970年代のGreat Inflationの教訓

まず、1970年代のGreat Inflationから得た教訓を2つ挙げたいと思います。1つは、インフレの原因を把握することの重要性です。Great Inflationは2度の石油危機を含む時期に発生しましたので、コストプッシュ要因によるものと思われがちです。もっとも、日米を含む複数の国において、金融政策が需要を過度に喚起したことが大きな役割を果たしたのではないか、という指摘も有力です。インフレが需要要因によるものか供給要因によるものかは、金融政策運営にとって非常に重要な含意を持ちます。理論的には、需要要因によるインフレの場合には、引き締め政策を講じ、過度な需要を抑えてインフレを抑制することが望ましい対応となります。一方で、供給要因によるインフレの場合には、景気面では引き締め政策は採りたくない一方、インフレを放置するわけにもいかないというジレンマに直面する中で、難しい政策の舵取りが迫られることになります。

この点、現在のグローバルなインフレ圧力の高まりの背景としては、資源価格の上昇、労働供給不足、サプライチェーンの混乱などの供給要因に加えて、拡張的な財政・金融政策の効果や感染症拡大後のペントアップ需要の増加も影響している可能性が指摘されています。また、いずれの要因も、一定のラグを伴って物価に作用していると考えられます。リアルタイムでの把握には更に困難さが伴います。これらの点を踏まえて、物価動向については、様々な指標を丁寧に分析し、基調を見極めていくことが非常に重要です。

Great Inflationのもう1つの教訓は、インフレ予想を安定化させることの重要性です。いくつかの既存の研究は、Great Inflation期において大幅かつ急速なインフレ予想の上昇が生じた可能性を指摘しています。理論的には、中央銀行がインフレ抑制のための果敢な引き締めにコミットすることで、インフレ予想は安定化することになります。実際、こうした問題意識を踏まえて、1980年代以降、インフレ予想の安定化を図るための金融政策の枠組みなどの整備が多くの国で進みました。もちろんインフレターゲティングの導入がその典型例です。

ただし、インフレ予想を巡っては、今後理解を深めていくべき論点が数多くあります。市場参加者、企業、家計はそれぞれ違う予想形成をしますし、そもそも現状のインフレに関する認知の仕方も異なります。それらは、各主体の経験や心理状態、さらには中央銀行のコミュニケーションによっても影響され得ると考えられますし、予想形成のなされ方が時間を通じて一定である保証もありません。この点では、中央銀行のコミュニケーションの在り方との関係を含めて、研究の余地が大きい分野と考えています。

New Challenges

次に、New Challengesについて、ここでは大きく2つに分けて言及したいと思います。

1点目はインフレ動向や経済環境の変化です。長い目でみますと、日本を含む多くの国では、Great Inflationの後にGreat Moderationの時代があり、その後、世界金融危機やlow for longの時代が続きました。現在グローバルに続くインフレ圧力もやがては落ち着き、low for longの時代がまだ続くという見方もあります。他方で、今回の高インフレ期を経て、人々の物価観などが変化し、従来のlow for longの時代から変わっていくという見方もあります。2020年以降の感染症拡大とそれに対する政策対応の結果として、公的部門・民間部門において負債水準が高まっています。また、2022年以降、改めて地政学的リスクが意識され、グローバル化の部分的な巻き戻しが進むという見方も強まっています。これらの点を踏まえますと、既にlow for longとは異なる新しい常態(New Normal)に移行しているという可能性も一概に否定することは難しいように思います。

もう1点のChallengeは、中央銀行自体の変化です。low for longの時代は、多くの中央銀行が、伝統的な政策手段である政策金利の実効下限に直面し、様々な非伝統的金融政策を生み出した時代でもありました。大規模資産買入れやフォーワードガイダンスなどです。多くの実証分析は、これらの施策が需要喚起の面で一定の有効性を持つことを示しています。その一方で、そのメカニズムは現在でも十分に解明されているとはいえません。歴史的な積み重ねがある伝統的な金融政策に比べると、非伝統的金融政策は実践の積み重ねの少なさや効果測定におけるデータ制約といった課題があり、今後の更なる理論構築・検証が求められます。このほか、政策手段の多様化・高度化が進んだことで、従来よりも更に丁寧な対外コミュニケーションが求められるようになっています。これらの問題意識は、4月末に、日本銀行が「多角的なレビュー」の実施を決定したことにも通じるものです。日本経済が1990年代後半にデフレに陥って以来、25年間、日本銀行は様々な金融緩和策を講じてきました。今後、内外の知見も借りながら、それらの施策と経済・物価・金融情勢との相互関係、効果と副作用などについて、レビューを進めていく予定です。

3.New Opportunities

最後に、New Opportunitiesについてお話しします。近年、個々の企業・家計・個人レベルの高粒度データ、日次やイントラデイの高頻度データ、人流データやテキストデータなどの新しい種類のデータが、学界・政策当局の双方において、広く活用されています。計算機の性能向上により、こうしたデータの解析も、かつてより容易に、かつ高度になっています。これは社会のデジタル化がもたらした恩恵と言えます。

こうしたNew Opportunitiesは、例えば感染症拡大期において、経済情勢の実態把握に大きな役割を果たしました。感染症の流行状況に応じて経済情勢が目まぐるしく変化するなか、当局は、企業や個人の経済活動を週単位あるいは日単位といった頻度で把握する必要が生じました。日本銀行も例外ではなく、クレジットカードの決済情報などに基づく消費動向、スマートフォンの位置情報データに基づいた東京の繁華街における夜間人口などの高頻度データを活用しました。

4.結び

それではこれより、第28回国際コンファランスを開会します。今年の前川講演ではカリフォルニア大学バークレー校のモーリス・オブストフェルド教授をお招きしています。教授は、2001年から2014年まで金融研究所の海外顧問を務められ、国際コンファランスには12回参加されています。そのうち9回は私も一緒に参加いたしました。学者として、政策当局者として、あるいは日本銀行の長い友人としてのご経験を踏まえたお話をお聞きできることを楽しみにしております。

基調講演では、金融研究所の海外顧問であるアタナシオス・オルファニデス・マサチューセッツ工科大学教授から、金融政策におけるコミュニケーション、特にフォーワードガイダンスに内包される論点について、お話を頂きます。リアルタイム分析の重要性をいち早く指摘した学者であり、また中央銀行総裁を含め多くのご経験を踏まえた貴重なスピーチを頂戴します。

論文報告は、金融政策を巡る新旧の課題に対し、高粒度データやテキスト分析といったNew Opportunitiesも活用して、新しい視点を提供するものです。第1および第2セッションの論文は米国家計のインフレ予想を、第4セッションの論文は日本の物価動向を、高粒度データを用いて分析したものです。第3セッションの論文は、FOMC議事録のテキストデータを用いた金融政策の分析です。

政策パネル討論では、7つの国・地域の中央銀行および国際通貨基金の方々にご参加いただき、パートAはOld Challenges、パートBはNew Challengesについてご議論いただきます。日本銀行からは、それぞれに私と氷見野副総裁が参加いたします。

現在、我々は、New Challengesに直面しています。過去のOld Challengesで得られた教訓とNew Opportunitiesをどのように活用するのかが鍵となります。政策には綿密な分析と熟慮に基づく活発な議論が重要です。2008年の国際コンファランスにおいて、オブストフェルド教授は、当コンファランスについて、「抽象的な金融理論と実務的な政策課題の双方を高いレベルで寄り添わせ、闊達な議論ができる場」との賛辞を下さいました。本日と明日のコンファランスにおける議論が、中央銀行が直面する状況についての理解を深め、New Challengesへの取り組みの後押しとなることを期待します。

ご清聴ありがとうございました。