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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策沖縄県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2023年6月22日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、沖縄県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行那覇支店の業務運営へ日頃より多大なご協力をいただいており、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日は、まず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しした後、日本経済にとっての重要な課題である「物価と賃金の好循環」の実現に向けた展望について、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

世界経済のマクロ的様相は、2020年に始まったコロナ禍を分水嶺として、長期停滞とも呼ばれる恒常的な低インフレ低金利から、1970年代以来ともいえる高インフレ高金利へと大きく様変わりしました。米欧では、ワクチン接種の拡大に伴って脱コロナ禍が進展し始めた2021年春頃から急激なインフレが始まり、2022年には消費者物価上昇率が8から10%程度にまで達しました(図表1)。そして米欧の各中央銀行は、その高インフレの抑制のために政策金利を急速に引き上げてきました(図表2)。後述のように、このように高インフレが進んだ背景には、脱コロナ禍局面以降に進んだ労働需給の逼迫が挙げられます。しかし、各国とも、利上げに伴う緩やかな経済減速の中で、足許でも依然として労働需給の逼迫が続いており、そのもとで過去のトレンドを上回る名目賃金上昇が続いています。こうした状況を踏まえると、引き続き金融引き締め局面が続くものとみられ、世界経済は当面減速が続くと考えられます(図表3)。

続いてわが国経済の現状です。わが国経済をみると、輸出と鉱工業生産は海外経済減速が続く中で横ばい圏内の動きとなっているものの、感染症の影響が減衰するもとで対面型サービスを中心に消費は緩やかに増加しており、景気の持ち直しが続いています(図表4)。先行きに関しても、海外経済の減速はある程度は続くものの、円安を背景としたインバウンド需要の一層の拡大、新型コロナ感染症の5類移行に伴う対面型サービスの全面的な正常化、半導体など局部的に残っていた供給制約の解消、さらには製造業生産拠点の国内回帰や人手不足対応の省力化に伴う民間設備投資の拡大等が見込まれることから、国内経済は緩やかに回復していくと見ています。

先行きのリスクに関しては、海外経済やグローバルな金融環境には注視が必要です。上述のように、海外の各中銀はこれまで、急激なインフレの抑制のために政策金利の引き上げを急ピッチで進めてきました。この3月以降に生じた米欧の一部金融機関を巡る問題は、海外金融部門の一部が、最近の金融環境の変化に必ずしも十分に対応できていないことを示しました(図表5)。これらの問題は、各国政策当局の迅速な対応もあり、金融システム全体には及んでいません。しかし、コロナ禍を契機として低インフレ低金利から高インフレ高金利へと世界的なマクロ環境が急速に変化しただけに、何らかの金融的ショックが想定外の形で発生するリスクは存在します。他方で、賃金上昇等を背景とした高インフレは続いており、各中央銀行とも金融引き締めを停止できる状況には至っていません。こうした状況は、政策対応の難易度を高め、世界経済の不確実性を強める方向に作用すると考えられます。

(2)物価情勢

次に国内の物価情勢です。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、昨年4月に2%を超え、同9月に3%、同12月には4%に達しました(図表6)。このインフレの発端となったのは、世界的にコロナ禍に伴う落ち込みから回復する過程で生じたエネルギー価格の急騰です。昨春以降はさらに、ウクライナ情勢等を受けた国際商品市況の一段の高騰や、世界的な高インフレや金利上昇のもとでの為替円安の進行等から、輸入財価格の全般的な上昇が生じました。それらの影響は当初はもっぱら企業物価の上昇として現れていましたが、昨夏以降は小売段階での価格転嫁も進展し始め、食料品等を中心に値上げの波は急速に拡大しました(図表7)。

この消費者物価の前年比は、政府の支援策によるエネルギー価格の低下もあり、本年1月にピークの4.2%を付けて以降は3%台に低下しています。他方で、企業の価格設定スタンスにも変化が窺われることから、食料品等の値上げの動きは今後もしばらくは継続し、当面は財価格の寄与を中心とした2%超の物価上昇が続くと見込まれます。とはいえ、この輸入価格上昇の影響は川上から川下への価格転嫁が一巡する中で次第に剥落していくため、生鮮食品を除く消費者物価の前年比も本年度半ばにかけては2%を下回っていくと考えられます。

この一旦低下した消費者物価前年比が再び2%に向けて伸びていき、それが維持されるためには、「物価の基調」が高まっていくことが重要です。後述のように、今後についてはとりわけ、名目賃金およびサービス価格の動向に注目しています。本年の春季労使交渉では、約30年ぶりの賃上げが実現されましたが、それはこの点で画期的な意味を持っています。この結果は、世界的インフレという外生的な要因を契機としたものではありますが、これまでの粘り強い金融緩和による労働需給の改善が、ようやく物価と賃金の相乗的上昇として結実しつつある現れである可能性があります。

3.金融政策

(1)イールドカーブ・コントロール政策の運営

次に金融政策についてご説明します。日本銀行は、長引くデフレを克服し、2%の「物価安定の目標」を実現するため、2013年4月に「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後は、経済・物価情勢に応じた金融緩和強化のために、2016年1月には「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を、そして同年9月には「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入しました。このいわゆるイールドカーブ・コントロールでは、10年国債金利の目標値をゼロ%程度とするもとで、実際の市場における10年国債金利は±0.1%程度の範囲内で変動していました。その後、変動幅が狭いために市場取引が低調であったことから、2018年7月に、長期金利は±0.1%の倍程度を念頭に、経済・物価情勢等に応じてある程度変動しうるものとしました。さらに、2021年3月には「より効果的で持続的な金融緩和を実施していくための点検」を経て「上下±0.25%」程度へと明確化し、そして昨年12月には「上下±0.5%」程度へと拡大しました。

日本銀行がイールドカーブ・コントロールにおいて、このように10年国債金利の変動幅を拡大してきたのは、2%の「物価安定の目標」の実現には長期金利の低位安定が必要な一方で、長期金利の抑制には市場機能に影響を及ぼす面もあるためです。ただし、市場機能の保全のために金利の変動幅を拡大した場合には、結果として長期金利が上昇し、金融の緩和度合いが低下し、経済回復が遅れる可能性もあります。したがって、長期金利の変動幅をどうするか、という点は、マクロ的な金融緩和効果と市場機能への影響とのトレードオフをどう判断するか、ということも踏まえて考える必要があります。

昨年12月の変動幅拡大も、こうした判断に基づいて行われました。2022年には、各国・地域で経済回復が進んだ結果、インフレが加速し、金利の世界的上昇が生じました。その影響は日本にも及び、同年3月には10年国債金利が当時のイールドカーブ・コントロールの上限である0.25%に接近しました。日本銀行はそれ以降、オペレーションの工夫などにより、日本経済の回復を阻害しかねない長期金利の高騰を防ぎました。しかし、その措置は他方で、イールドカーブの顕著な歪みをもたらしていました。足許では、昨年12月の変動幅拡大に加え、様々なオペレーション上の工夫、さらには、このところの世界的な金利低下もあって、イールドカーブの形状は総じてスムーズになっています(図表8)。

(2)感染症への対応とフォワードガイダンス

日本銀行は、感染症の経済的影響が深刻化し始めた2020年3月以降の金融政策決定会合で、新型コロナ対応特別プログラムを含む「3つの柱」の措置を導入しました(図表9)。同時に、「当面、新型コロナウイルス感染症の影響を注視し、必要があれば、躊躇なく追加的な金融緩和措置を講じる」というフォワードガイダンスを新たに設定し、政策金利については「現在の長短金利の水準、または、それを下回る水準で推移することを想定している」という方針を追加しました。

感染症再拡大のリスクはまだ残るとはいえ、その後の約3年あまりを経て、コロナ禍はようやく過去のものとなりつつあります。一方で、これまで述べてきました通り、内外の経済や金融市場を巡る不確実性は極めて高くなっています。そうした状況を踏まえ、本年4月の会合では、金融政策のフォワードガイダンスから、感染症に紐づいた部分を削除したうえで、「経済・物価・金融情勢に応じて機動的に対応しつつ、粘り強く金融緩和を継続していくことで、賃金の上昇を伴う形で、2%の『物価安定の目標』を持続的・安定的に実現することを目指していく」との方針を明確化しました。これは、引き続き物価安定の目標の持続的・安定的な達成を目指して金融緩和を粘り強く継続するという、日本銀行の強いコミットメントを示しています。

(3)金融政策に関する多角的レビュー

本年4月の会合ではまた、わが国経済がデフレに陥った1990年代後半以降、「物価の安定」の実現のために講じてきた様々な金融緩和策に関して、1年から1年半程度の時間をかけて、多角的にレビューを行うことを決定しました。その方向性はひとえに今後の議論によりますが、以下では、個人的に特に重要と思われる視点について二点申し述べます。

第一は、国際的な視野の重要性です。レビューの焦点の1つとして、量的緩和をはじめとする非伝統的な金融政策手段に対する評価があります。それは、発端としては確かに、日本経済がデフレに直面しつつも伝統的な手段である短期の政策金利には引き下げ余地がほとんどないという切羽詰まった状況の中で、やむなく導入された措置でした。しかし、世界金融危機およびコロナ危機以降には、多くの主要中央銀行で短期金利操作が同様な限界に達し、資産購入の拡大によって実質長期金利を含む金融環境全体に緩和効果を及ぼすという方向への転換が進みました。その結果、現在の主要中央銀行における金融政策の基本枠組みは、短期の政策金利調整と中銀バランスシートを活用した資産買入れの二本立てになっています。つまり、現状では、10年前には非伝統的と呼ばれていた手法こそがグローバル・スタンダードになっています。日本銀行は、期せずしてそれに先鞭を付けたということになります。

第二に、日本に固有の状況として、専門的には「ノルム」と呼ばれる、人々の持つ物価観の影響が挙げられます。現在、多くの中央銀行は高インフレへの対応を迫られていますが、それは逆にいえば、拡張的な政策対応によってもたらされた回復が想定外の強さであったことを意味しています。それに対して、非伝統的な金融緩和政策が最も早く導入された日本は、未だに金融緩和の出口からは最も遠い所に位置しています。それはおそらく、日本のようにデフレあるいはゼロインフレがあまりにも長く続くと、そのことがノルムすなわち人々の規範的通念として固定化されてしまい、そのノルムを覆すことがきわめて難しくなってしまうからです。実際、米欧など先進諸国の多くでは人々のインフレ予想が名目アンカーとしての目標インフレ率と概ね一致していますが、日本では人々のインフレ予想は2%目標にアンカリングされていません(図表10)。それは、日本で物価安定の目標が達成には至っていない要因の一つと考えられます。

4.物価と賃金の好循環を目指して

(1) なぜ賃金上昇を伴う物価安定が必要なのか

世界的インフレの影響は資源エネルギー価格上昇などを通じて日本の物価にも及び、上述の通り、わが国でも2022年春以降は生鮮食品を除く消費者物価の前年比が2%を超え、年初には4%超にまで至っています。しかし、各中央銀行が高インフレ抑制のために金融引き締めを急ピッチで進めてきたのに対して、日本銀行は金融緩和を粘り強く続けてきました。それは、2022年春以降に日本において生じたインフレは、基本的には輸入財価格上昇の影響によるものであり、国内のマクロ経済要因に基づく趨勢的なインフレ率としての「物価の基調」は未だ十分に高まってはいないと判断してきたためです。

日本銀行は従来から、講演等の中で、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に達成されるためには、その物価上昇が賃金上昇を伴うものでなければならないことを指摘してきました1。その観点から現在の状況を判断すれば、消費者物価が海外からのコスト・プッシュ要因によって一時的に上振れたとしても、物価の趨勢そのものが賃金上昇を伴いつつ2%のトレンドに収束しない限り、その一時的要因が剥落した後には再び2%を下回る物価上昇率となる可能性が高いと考えられます。

この物価の趨勢的なトレンドをみていくうえでは、物価指数の構成項目の中でも、変動が大きいエネルギー価格等以上に、変動がより小さく粘着性の高いサービスの価格動向に注目することが重要です。サービス価格が物価の基調的な動きを示しやすいのは、それがサービスのコストの大半を占める、粘着性の高い賃金の動きをより強く反映するからです2。つまり、賃金が一定のトレンドで上昇すれば、主にサービス価格等の寄与を通じて、物価それ自体もまた一定のトレンドで上昇する傾向を持つことになります3

物価の趨勢におけるサービス項目の重要性は、消費者物価の要因分解からも見て取れます(図表11)。米国では、コロナ禍以前には、消費者物価変動における財価格の寄与はきわめて限定的であり、したがって、この間の物価上昇はほぼサービス価格上昇の寄与に基づいていたことを示しています。欧州でも、サービス価格の物価への寄与は相対的には大きかったことが分かります。また、その後の脱コロナ禍局面では、まずはエネルギーや財の価格上昇を起点としてインフレが拡大したこと、さらに米欧ではエネルギーや財価格の寄与が剥落する中で次第にサービス価格主導のインフレに移行していることが示されています。

以上から、物価の基調を把握していくうえでは、サービス価格およびその背後にある賃金が重要と考えられます。

  1. 1例えば、黒田東彦「最近の金融経済情勢と金融政策運営――デフレからの脱却に向けて――」2013 年7月29 日。黒田東彦「賃金上昇を伴う形での『物価安定の目標』の持続的・安定的な実現に向けて――日本経済団体連合会審議員会における講演――」2022 年12月26 日。
  2. 2パウエルFRB議長は、2022年11月の講演で、物価の基本的動向の見極めには食品やエネルギーの影響を除外したコア・インフレ率を重視すべきとした上で、そのコア項目の中でもとりわけ「ヘルスケアや教育からヘアカットやホスピタリティまで」を含む「住宅以外のコア・サービス」が重要であり、「賃金はこれらのサービスを提供する上で最大のコストを構成するため、労働市場はこのカテゴリーのインフレを理解する鍵を握る」と述べています。Jerome H. Powell, “Inflation and the Labor Market,” Speech at the Hutchins Center on Fiscal and Monetary Policy, Brookings Institution, Washington, D.C., November 30, 2022.
  3. 3実質賃金上昇率は長期的には労働生産性上昇率とほぼ等しくなることから、物価上昇率は傾向的には名目賃金上昇率と労働生産性上昇率との差に等しくなると考えられます。

(2)ようやく実現し始めた名目賃金上昇

米欧では2023年6月現在、消費者物価上昇率それ自体はエネルギー価格の低下に伴ってピークアウトしたとみられるものの、労働需給の逼迫によって粘着性の高いサービス価格がトレンドを上回って上昇し続けているため、依然として2%目標を大きく上回るインフレが続いています。FRBとECBはそのため、2%インフレ率を達成する見通しが得られるまでは、総需要抑制のための金融引き締めを継続するという方針を示しています4

日本の労働市場の現状は、こうした米欧の状況とは大きく異なっています。確かに日本でも、サービス価格の上昇率は足許で高まりつつありますが、それは主に食材や電力等の価格上昇によるものであり、賃金コスト上昇の影響はまだそれほど強くはありません。日本では、人手不足と言われてはいますが、米欧のような労働市場の逼迫は、少なくとも数字上では生じていません。米国では2021年以降、コロナ禍の最中に急上昇していた失業率が低下するだけでなく、欠員率が急上昇しました。その結果、2000年代以降の平均で0.7倍程度の求人倍率(失業者に対する求人の倍率)が、最大で2倍程度にまで達しました(図表12)。それに対して、日本経済は2023年6月現在でも、コロナ禍前に達していた完全失業率や有効求人倍率の水準を回復していません(図表13)。

こうした回復の緩やかさにもかかわらず、とりわけ2023年に入ってからの日本の労働市場には、賃上げ動向という点においては、これまでとは異なる動きが認められます。その点を最も端的に示すのが、春季労使交渉の結果です。そこでの定期昇給と基本給の底上げを示すベースアップ(ベア)を合わせた賃上げ率は現段階で3%台後半であり、約30年ぶりの高水準となっています(図表14)。ただし、この水準でもベアの上昇率は2%をやや超える程度であり、米欧に比較すれば相当に低い状況です。とはいえ、賃上げ率の前年からの変化幅は1980年以降では最大であり、「物価と賃金の好循環」の実現に向けた好ましい動きであると評価できます。

  1. 4パウエルFRB議長は上掲講演の中で、「労働市場では、労働者の需要が利用可能な労働者の供給をはるかに上回っており、名目賃金は2%のインフレと一致するペースをはるかに上回るペースで成長している」と指摘した上で、「短期的には、労働市場のバランスを回復するために労働需要の伸びを緩やかにする必要がある」としています。ラガルドECB総裁も、2023年3月の講演で、さらなる賃金上昇による物価上昇を抑止するため、需要を抑制していく必要がある、としています。Christine Lagarde, “The Path Ahead,” Speech at “The ECB and Its Watchers XXIII” Conference, Frankfurt am Main, 22 March, 2023.

(3)ビッグ・プッシュを契機とした物価・賃金のノルム転換

日本ではこれまで、労働需給の相応の改善にもかかわらず、名目賃金の十分な上昇は実現していませんでした。仮に名目賃金が市場メカニズムを通じて決まるのであれば、労働需要としての求人が労働供給としての求職に対して拡大し、両者の比率である求人倍率が上昇すれば、名目賃金は上昇する傾向を持つはずです。実際、米国では求人倍率と名目賃金上昇率との間には明確な相関関係が見出せます。ところが、デフレに突入した1990年代末以降の日本では、求人倍率と名目賃金上昇率との間にこうした明確な相関関係は見出せません。日本銀行が量的・質的金融緩和を開始した2013年以降を含む2010年代に限定しても、有効求人倍率はコロナ禍直前までほぼ一方的に上昇し続けたにもかかわらず、名目賃金の上昇はごくわずかに留まっていました(図表15)。

こうした状況がこれまで続いてきた背後には様々な要因が存在していたと考えられますが、おそらくそのうちの最も重要な一つは、物価や賃金に対する企業や家計の規範的通念としての「物価・賃金のゼロノルム」です。日本では、1990年代末から続いていた「物価が持続的に下落する」という意味でのデフレが金融緩和政策を通じて克服された後にも、賃金上昇を伴う形での物価安定目標が実現しない状況が続いてきました。それは、それまでの長い経済停滞を通じて価格引き上げが販売減少に直結する事例が拡大した結果、「賃金コストの抑制を通じた販売価格の維持」が優先されるようになってきたためと考えられます5。その結果として企業や家計に根付いたのが、物価・賃金のゼロノルム、すなわち「物価も賃金も上がらないことを常態とする通念」であったと考えられます。

あまりにも強固であったこの物価・賃金のゼロノルムも、足許では、世界的インフレ下での輸入財価格の高騰という外生的なショックが「ビッグ・プッシュ」となり、ようやく転換しつつあるように見えます。それは何よりも、これまでとは大きく異なり、輸入原材料等の価格転嫁が小売段階まで広範に行われ、それによって1980年代以来の消費者物価上昇が実際に生じてきたという事実が示しています。もちろんこのこと自体は、基本的にはコスト・プッシュによる物価上昇であり、物価の基調の上昇に直結するものではありません。しかし、その動きが賃金コスト部分を含む価格転嫁にまで波及し、それによってさらに賃金上昇が誘発される場合には、物価の基調を押し上げることになります(図表16)。

これまで賃上げがなかなか実現されなかった一因は、賃上げの価格転嫁が困難な中で、とりわけ離職可能性の低い正規雇用者の賃上げが抑制されてきた点にあると考えることができます6。しかし、これまでの粘り強い金融緩和を通じた労働需給の改善は、離職抑制のための賃上げのような「外圧効果」や同僚間の公平性確保のための賃上げのような「内圧効果」といった形で、正規雇用者の賃上げ圧力をより高めつつありました7。今回のビッグ・プッシュはその点では、今年の賃金交渉の中で、文字通り「決定的な一押し」となった可能性があります。

  1. 5青木浩介・高富康介・法眼吉彦(2023)「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-4)は、2005年度から2020年度までのデータを用いて、この時期のわが国企業は、コストを価格に転嫁するマークアップ行動を縮小させ、価格抑制のために賃金を抑制するマークダウン行動を拡大させてきたことを明らかにしています。
  2. 6この点に関するより詳しい分析は、大久保友博・城戸陽介・吹田昴大郎・高富康介・幅俊介・福永一郎・古川角歩・法眼吉彦(2023)「わが国の賃金動向に関する論点整理」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-1)を参照してください。
  3. 7この「外圧効果」や「内圧効果」に関しては、古川角歩・城戸陽介・法眼吉彦(2023)「求人広告情報を用いた正社員労働市場の分析」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-2)を参照してください。

(4)持続的な賃金上昇への展望

今最も重要なのは、金融緩和の継続を通じて、ようやく芽生えつつあるこの賃上げのモメンタムをより強固なものとし、趨勢的なトレンドとして定着させることです。それが実現されたあかつきには、日本経済から失われて久しい物価と賃金の好循環のもとでの経済成長を取り戻すことができるはずです。日本銀行による粘り強い金融緩和の究極の目的は、まさしく日本経済をそのような姿に蘇らせることにあります。

他方で、日本経済が今後も成長し、人々の実質所得が確実に増加し続けていくためには、技術進歩を通じた労働生産性の上昇が必要不可欠です。それは、基本的には研究開発や事業・生産プロセスの改善といった個々の民間企業の努力によるものです。金融政策は、緩和的な金融環境の提供を通じて、もっぱらその後押しを図っています8

ここで留意すべきは、日本企業がその点の努力を怠ってきたわけでは決してない、という事実です。というのは、少なくとも2010年代の日本経済では、人口減少や労働時間減少が続くことで確かに一国全体の経済成長率という点では緩やかなものに留まってはいても、労働時間当たりのGDP成長率という点では米国をも上回っていたからです(図表17)。

こうした状況は、日本経済が生産性の上昇を伴いつつ、着実な成長を続ける可能性は十分にあるということを示唆しています。問題はむしろ、長きにわたるデフレと低すぎるインフレを通じて物価・賃金のゼロノルムが根付いてしまい、物価と賃金の好循環の実現に至らなかったという点にあります。日本銀行としては、当面、そのノルムが変わりつつあるのか否かを慎重に見極めていく必要があると考えています。

  1. 8金融政策は間接的に生産性にプラスの影響をもたらすとの議論もあります。例えば、アーサー・オークンやジャネット・イエレンらが唱えてきた高圧経済論によれば、マクロ経済政策を通じて労働需給が逼迫すれば、省人化・省力化のための投資が拡大するため、結果として労働生産性はより上昇することが予想されます(図表16も参照)。Arthur M. Okun, “Upward Mobility in a High-Pressure Economy,” Brookings Papers on Economic Activity, no.1, 1973.
    Janet L. Yellen, “Macroeconomic Research after the Crisis,” Remarks at “The Elusive ‘Great' Recovery: Causes and Implications for Future Business Cycle Dynamics,” 60th Annual Economic Conference Sponsored by the Federal Reserve Bank of Boston, 2016.

5.おわりに ―― 沖縄県経済について ――

最後に、沖縄県経済について、支店からの報告も踏まえてお話しさせて頂きます。

観光が基幹産業である沖縄県経済は、コロナ禍の影響をとりわけ大きく受け、長らく厳しい状況が続きました。しかし、ようやく昨年春以降、感染症の影響が和らぐもとではっきりとした改善に転じ、現在も回復が続いています。コロナ禍で大幅に減少した観光客数はペントアップ需要から急速に回復しています。国内客は既にコロナ禍前の水準にまで増加しているほか、インバウンド客も、国内客ほどではありませんが、国際線やクルーズ船の再開により、着実に増加しています。こうした中で、個人消費は、物価上昇の影響を受けつつも、緩やかに増加しています。設備投資も、能力増強投資、省力化・省エネ投資などの増加から、持ち直しています。先行きも、感染症の影響が一段と和らいでいくもとで、現在の回復の動きが当面は続いていくものとみています。

当地には、美しい海や世界自然遺産の「やんばるの森」などの豊かな自然、アジア各地を結ぶ中継貿易で栄え、各地の文化を取り込みつつ育まれた独自の文化があります。こうした観光資源を活かしつつ、官民一体となって観光の魅力を高める取り組みが進められています。そうした中で、観光を含めた産業の付加価値をテクノロジーで向上させる「リゾテック(ResorTech)」といった取り組みも行われています。また、新しい産業の振興という観点で、アジアに近いという当地の特性を活かした国際物流拠点の形成、スタートアップやベンチャー企業の育成など、多様な取り組みが進められています。

そのうえで、当地経済が持続的に発展していくための重要な課題は、人手不足への対応です。当地の景気が回復する中で、現在、人手不足の問題は喫緊の課題です。中長期的にみても、これまで人口増加が続いてきた当地でも、昨年は本土復帰後初めて人口減少に転じるなど、全国対比では緩やかとは言え、今後、少子高齢化の問題は避けられないと考えられます。しかしながら、こうしたピンチはチャンスでもあります。これを契機に、賃上げを含む人的投資やDXを始めとする省力化投資が一段と進めば、当地経済の生産性、すなわち稼ぐ力は向上し、持続的な発展につながると考えられます。実際、既に当地の多くの企業がこうした取り組みを始めており、行政や金融機関、経済団体も、企業の生産性向上の取り組みを支援するために、様々な施策を講じています。

沖縄県は、昨年、本土復帰50年という節目の年を迎えました。この50年間で沖縄県経済は大きく成長しましたが、今後も、さらなる飛躍を可能とする潜在的な力があります。様々な課題はありますが、それらを乗り越えて、沖縄県経済が一段と発展を遂げられることを大いに期待しています。ご清聴ありがとうございました。