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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策山口県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2023年9月6日

1. はじめに

日本銀行の高田でございます。本日、このように山口県の行政、財界、金融界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜りましたこと、大変光栄に思っております。あわせて、皆様には、日頃から日本銀行下関支店の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますことを、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。

本日は、わが国の経済・物価情勢や日本銀行の金融政策運営、「金融政策の多角的レビュー」につきまして、私の考えを交えつつお話しします。その後、皆様から、山口県経済の動向や日本銀行の業務・政策運営、環境変化が及ぼした企業や家計の行動変化などに対する率直なご意見をお聞かせ頂ければと存じます。

2. 経済・物価情勢

(1) 経済・物価の現状

最初に、経済・物価の現状です。海外経済は、回復ペースが鈍化しています。図表1はIMFが本年7月に改訂した世界経済見通しです。これを主要国・地域別に敷衍しますと、米国経済は、利上げの継続を受けて、減速傾向が続いているものの、個人消費は、サービスを中心になお底堅さがみられています。

欧州経済は、ひと頃に比べてエネルギー供給懸念は緩和しているものの、ウクライナ情勢の影響が続くもとで、緩やかな減速が続いています。先行きは、利上げの影響が続くもと、減速傾向が続くとみられます。

中国経済は、経済活動の正常化が進むもとで、サービス消費が底堅く推移しているものの、外需の減速や不動産市場の調整の影響などから、持ち直しのペースが鈍化しています。

わが国経済は、緩やかに回復しています。図表2では、実質GDP成長率と、GDPを構成する民間最終需要、公的需要や外需(純輸出)などの寄与度を示していますが、設備投資や個人消費といった民間最終需要が緩やかに増加してきたもとで、直近4から6月期は、純輸出による押し上げが寄与し、年率+6.0%の成長となっています。図表3のとおり、わが国の実質GDPは、コロナ禍前である2019年の水準を上回った水準にあります。

わが国の物価面をみると、消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、政府の経済対策によるエネルギー価格の押し下げ効果などによって、ひと頃に比べればプラス幅を縮小しているものの、既往の輸入物価上昇を起点とする価格転嫁の影響から、足もとは3%程度となっています。わが国の物価上昇率を米欧と比較すると、図表4のとおり、物価上昇率が相対的に低めで推移してきたことに加え、サービス価格が物価上昇率の押し上げに相応に寄与する米欧と異なり、輸入物価の上昇を起点としたコストプッシュ要因による財価格の上昇が中心であることが特徴です。

(2)経済・物価の先行き

ここで、わが国の経済・物価の先行きに対する日本銀行政策委員の中心的な見方をご説明します。わが国経済は、当面は、海外経済の回復ペース鈍化による下押し圧力を受けるものの、ペントアップ需要の顕在化に加え、緩和的な金融環境や政府の経済対策の効果にも支えられ、緩やかな回復を続けると予想されます。図表5は、本年7月に公表した展望レポートにおける経済・物価見通しですが、実質GDP成長率は、政策委員見通しの中央値で2023年度+1.3%、2024年度+1.2%、2025年度+1.0%と予想しています。

消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、政策委員見通しの中央値では、2023年度+2.5%、2024年度+1.9%、2025年度+1.6%と予想しています。本年4月時点の見通しと比べ、2023年度は既往の輸入物価上昇を起点とする価格転嫁が想定を上回って進んでいることなどから、大幅に上振れています。

(3)先行きのリスク要因

以上、経済・物価の先行きについて政策委員の中心的な見方をご説明しました。続いて、先行きの経済のリスク要因を幾つかお話ししたいと思います。

1つ目は、海外の経済・物価情勢です。感染症の展開や金融政策面の対応の違いもあり、足もと、内外の景気サイクルは大きく異なります。1970年代の変動相場制への移行後、先進国の金融政策スタンスとそれに対応する景気サイクルは、概ね連動していました。もっとも、2022年以降、わが国では金融緩和が継続していますが、米欧では、インフレ高進への対応のため大幅な金融引き締めを余儀なくされました。わが国経済は、大規模な金融緩和の効果もあり、先行きも緩やかな回復を続けていくとみられますが、海外経済が金融引き締めの影響等から減速度合いを強める場合、わが国経済を下押しする力が強まるリスクがあります。

2つ目は、各国のマクロ経済政策の影響、特に米国や欧州を始めとしたグローバルな金融引き締めが資産市場に及ぼす影響です。米国の利上げは、国際金融市場の資本フローを通じ、新興国市場にも影響を及ぼします。3月に生じた米国の銀行破綻の事例では、金利が急上昇するもとで適切なリスク管理ができていなかったことが一因であったことにも留意が必要です。また、伝統的な金融機関以外の「ノンバンク金融仲介機関」と呼ばれるセクターに隠れたリスクが蓄積されていないかという点も注目されます。

このほか、昨年来のウクライナ情勢などの地政学的リスクが資源・穀物価格、世界経済や国際金融市場に及ぼす影響についても注視が必要です。

3. 最近の金融政策運営

以上の経済・物価見通しを踏まえつつ、金融政策運営に対する考えをお話ししたいと思います。

現在、日本銀行は、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」という枠組みで、2%の「物価安定の目標」の達成に向けて金融政策を運営しています。

現在の日本経済について、私自身としては、2%の「物価安定の目標」の達成に向けた「芽」が漸く見えてきた状況にあると捉えています。わが国では、根強く定着する賃金や物価は上がらないものと考える規範(ノルム)が転換する変曲点を迎えている可能性があり、今後、企業収益の改善と物価上昇に対応した持続的な賃金上昇による好循環を実現することが課題と言えます。

こうした課題に対して、最近では、図表6のように、二段階の「ビッグ・プッシュ」を背景に、企業の賃金・価格設定行動に変化の兆し――すなわち、達成に向けた「芽」――が生じているとみています。具体的には、第一段階では、2022年後半に海外発の原材料高のコストプッシュで、財価格への転嫁が進みました。足もとでは、第二段階として、今春の労使交渉における賃金上昇のコスト増加分の一部を、サービスを含む価格に転嫁する動きが生じ始めているとみています。今春の労使交渉での賃上げ率は3.6%と、1990年代前半以来の水準となりました(図表7)。賃金変動はそれ自体に高い慣性がみられることから、その上昇は持続的に物価を押し上げやすいという特徴が指摘できます1。賃金版フィリップスカーブ上で、労働需給の逼迫度合いが閾値を超えて、賃金上昇率は非線形的に高まりだす可能性もあります。なかでもベアの増額は一時的所得増と比べて「恒常所得」と考えられ、消費性向の押し上げ効果が大きく、先行きの所得増加期待を高めやすい特徴があります。さらに、第三段階の変化として、ベアの上昇などによる予想物価上昇率の上昇も反映する形で、基調的な物価上昇率にも変化の「芽」が生じています。

私は1990年代初に、当時勤務していた銀行の従業員組合を取りまとめ、経営側にベアを要求する立場にありました。当時、組合は、生活水準を維持するという「生活給」の考え方に基づき、前年の物価上昇による実質所得の低下分を翌年のベアとして要求することが一般的でした。バブル崩壊以降、「生活給」の考え方はほとんどなくなりましたが、本年は、約30年ぶりに、物価上昇に配慮した賃上げの動きがみられており、こうした動きが来年以降も続く可能性が考えられます。

このように、「芽」は漸く見えてきたところではありますが、きわめて高い不確実性のもと、私は、以下の2点から、現行の大規模な金融緩和を粘り強く続ける必要があると考えています。ただし、同時に、現在、前向きな好循環の「芽」もあるなか、先行きの経済・物価情勢を踏まえたうえで、不確実性に備えて機動的な対応をとることも必要と考えております。

1つ目は、足もとの物価上昇率は2%を上回っているものの、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現にはまだ距離があると考えられることです。足もとの企業の価格転嫁の動きにはコストプッシュ要因が大きく影響していますが、輸入物価は既に前年比マイナスに転じており、こうした要因は徐々に減衰していくと考えられます。

ただし、各品目の物価上昇率の分布をみると、なおゼロ%近傍の「山」が引き続き存在していますが、最近では、米国でもみられるように、分布が右側にシフトして全体として上昇率を高める品目も増えています(図表8)。また、賃金上昇分の価格転嫁をみる観点でサービス価格の動向に着目していますが、米欧と比較して、足もとの消費者物価上昇率のうちサービスの寄与度は依然として小さい点が確認できます(前掲図表4)。足もとの消費者物価上昇率のうち、エネルギーと食品を除いた財とサービスの寄与度に占めるサービスの寄与度の比率(サービス比率)を試算すると、米国96%、ユーロエリア66%に対し、日本は44%と低水準です。もっとも、サービスの前年比は、携帯電話通信料の影響が概ね剥落した昨年4月のマイナス0.3%から足もと2.0%に上昇してきていること、サービス比率はマイナスであった状況が、1年程度で44%まで上昇してきた点に注目しています。

2つ目は、先行きの海外経済の減速リスクです。先ほど申し上げたとおり、米欧での利上げにより、海外経済が大幅に減速すれば、わが国経済への下押し圧力が強まるリスクがあります。

以上を踏まえると、「物価安定の目標」の実現に向けた変化の兆しが生じているだけに、粘り強く金融緩和を続けていく必要があります。物価上昇率を規定する要因としては、図表9のとおり、需給ギャップが、コロナ禍で大きくマイナス方向に拡大したあと、足もと、ゼロ近傍まで改善してきました。この先、本年度中には再びプラス圏に戻り、緩やかな拡大が続くと見込まれます。また、低金利環境が維持されるなか、予想物価上昇率の上昇から、図表10のとおり、短期・長期の実質金利は低下を続け、金融緩和度合いは強まっていると考えられます。

なお、日本銀行は、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」という枠組みを続けるにあたって、常にその効果と副作用を検証しつつ政策運営を行ってきました。その過程で、市場機能の低下などに対し、現行の枠組みによる大規模な金融緩和の持続性を高めるため、昨年12月、イールドカーブ・コントロールの運用を一部見直しました。その後、本年7月にも、図表11のとおり、イールドカーブ・コントロールの運用柔軟化を行いました。今後も物価や予想物価上昇率の上振れ方向の動きが続く場合、長期金利の上限を0.5%の水準で厳格に抑えることで、債券市場の機能やその他の金融市場におけるボラティリティに影響が生じるおそれがありますが、この措置は、そうした動きを和らげることを意図したものです。ただし、前掲の図表10のとおり、短期や長期とも実質金利は歴史的にみてもきわめて低く、強力な金融緩和が続いている点は変わりません。今後も、イールドカーブ・コントロールによる効果とその副作用に留意して金融政策運営を行うとともに、債券市場の安定性確保のため、モニタリング等を通じて市場の状況をきめ細かく把握して参ります。

  1. 以下では、賃金上昇率がある一定の閾値を超えると企業のコスト上昇による消費者物価上昇率の影響度合い(パススルー)が大きくなる点や、閾値を上回った場合の大きいパススルーが賃金上昇の場合は持続的な傾向がある点を、わが国のデータを用いて実証的に確認しています。
    佐々木貴俊、山本弘樹、中島上智(2023)「消費者物価への非線形なコストパススルー:閾値モデルによるアプローチ」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-5

4. 「金融政策の多角的レビュー」についての私見

以上、最近の政策運営と、その背景にある考えをご説明しました。以下では、本年4月の金融政策決定会合で、1年から1年半程度の時間をかけて行うことを決定しました「金融政策の多角的レビュー」についてお話ししたいと思います。

このレビューでは、過去25年間に実施してきた各種の非伝統的金融政策手段の効果について、副作用を含めて金融市場や金融システムに及ぼした影響についても分析する方針です。さらに、本日のような金融経済懇談会における意見交換の機会なども活用しつつ、その背景として、1990年代以降の様々な環境変化が企業や家計の行動や賃金・物価形成メカニズムなどに及ぼした影響等についても理解を深めることを考えています。

本日は、意見交換に先立ち、まず、バブル崩壊後の企業行動の変化やそのマクロ的な影響、最近みられる変化の兆しについて、歴史的視点から私見や問題意識を述べさせて頂きます。その後で、企業や金融機関の行動変化などについて、皆様からご意見を頂戴したいと思っております。

バブル崩壊後の企業行動の変化とノルムの定着

わが国の経済成長率の推移をみると、1980年代までは、わが国は高度経済成長の残り火もあり高成長が続きましたが、1990年代以降、バブル崩壊とともに一転し低成長が続きました(図表12)。2000年代は、国内での金融危機やグローバル金融危機が深刻化した影響もあって、成長率は一段と落ち込みました。2010年代以降は水準をやや回復しましたが、依然、過去の成長率とは差があります。

成長率の低下には、様々な要因が影響していますが、そのひとつに、バブル崩壊以降に直面した環境変化に対応した企業の行動変化があると考えています。具体的には、大幅な資産デフレ環境の中で、バランスシート上の資産圧縮と投資抑制を通じた「持たない経営」の広がりと、海外との競合環境を背景とする「リストラ経営」の広がりが指摘できます(図表13)。いずれも、個々の企業の立場からみれば環境変化を踏まえた合理的な対応ではありましたが、結果としてマクロ的には縮小均衡に陥ることになりました。また、こうした企業行動は、人的投資の抑制も相まって、わが国の潜在成長率を低下させたと考えられます(図表14)。この間、家計では、デフレ環境のもと資産を現預金で保有することが合理的でした。家計が現預金に対する選好を強め、リスク資産の保有を回避したことも、資産デフレを通じ、マクロでは縮小均衡に繋がる影響をもたらしました。

それでは、企業の「持たない経営」に繋がった資産デフレについて、改めて歴史的観点から確認したいと思います。1980年代、ピーク時には世界の株式市場の時価総額の半分近くをわが国が占めましたが、図表15で示されるように1990年代以降、海外は米国を始め右肩上がりの拡大が続くなか、日本は長年の間、世界の成長とは隔絶された停滞が続きました。その出発点には、株式や不動産を中心とした資産価格の下落がありました。バブル崩壊後にわが国が直面した危機の本質は、一般物価の下落を指す「デフレ」として説明されることが多いですが、より本質的なのは資産価格の下落(資産デフレ)でした。日本の地価は、大都市ではピークから約7から8割程度下落し、金融システムに深刻なダメージを与えました。他方、「持たない経営」の広がりを背景に、有利子負債削減が進みました。その結果、図表16のとおり、本邦企業の自己資本比率は上昇を続け、同時に、予備的動機により現預金を蓄積する傾向が強まりました。

続いて、企業の「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境について、振り返りたいと思います。1989年のベルリンの壁崩壊以降、世界経済のグローバル化が進行しました。同時に、1980年代にかけて、わが国の経済的な存在感が拡大するなか、通商摩擦が高まるとともに、為替市場では急速な円高が進行しました(図表17)。こうした環境下、本邦企業は、自動車など幅広い業種で海外への生産拠点のシフトを進めたほか、半導体産業では生産シェア抑制を余儀なくされました。また、海外市場における国際競争力を維持するため、国内では従業員の賃金を上げない対応が定着しました。この点、図表18のとおり、デフレ期と評される1990年代後半以降、長年にわたり給与の増加が物価上昇率を下回って推移していました。企業としては、賃上げや販売価格への転嫁を行えば競争力を失うとの意識のもと、賃上げや値上げを抑制していたのではないかと考えられます。販売価格や賃金を据え置く行動原理が当然であると受け止められるようになると、企業は、原材料価格が上昇しても販売価格にコストを転嫁せず、コスト削減によって吸収するようになりました。実際、最近の研究では、図表19のように、バブル崩壊以降20年近くにわたり、企業の価格支配力などが反映されると考えられる価格マークアップの縮小傾向のもと、労働市場における企業の賃金交渉力などが反映されると考えられる賃金マークダウンによる賃金抑制傾向を強めることで収益を確保してきたことが示されます2。言わば日本全体で「消耗戦」を続けてきたような状態にあったと表現できるかと思います。

企業にとって、バブル崩壊後の環境変化は、大きな痛みを伴ったトラウマのような経験であり、その対応に向けた「持たない経営」と「リストラ経営」は縮小均衡に繋がり、その後、四半世紀近くにわたって賃金・物価は上がらないものと考えるノルムの定着に繋がりました。わが国の物価上昇率に関する予想形成は、過去の経緯に影響を受ける「適合的」な側面が強いことが実証研究で示されていますが、バブル崩壊後の縮小均衡の負の経験が大きく影響し、なかなか変わりにくくしていたと考えられます。

  1. 2青木浩介、高富康介、法眼吉彦(2023)「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-4を参照。

最近みられる変化の兆し

もっとも、バブル崩壊後の企業行動の背景にあった要因は、すでに大きく転換しています。まず、2010年代入り後、株式や不動産市場を中心に資産価格は安定的に上昇するなど、「持たない経営」に繋がった資産デフレは、この10年間で大きく改善しています。さらに、足もと、株式市場は日経平均株価でみて既に1990年以来の水準に戻っています。また、「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境についても、通商摩擦の状況は過去のものとなり、「六重苦」と言われた環境からは変わったほか、経済安全保障の観点を含む外部環境の変化から、半導体などで国内生産を強化する、歴史的にみて大きな転換もみられています3

2021年3月の「より効果的で持続的な金融緩和を実施していくための点検」では、金利低下が需給ギャップを改善させる効果の波及経路として、資金調達コストの低下を通じた経路に加え、金融資本市場(株価・為替)を通じた経路も大きな影響を与えていたことが示されています(図表20)。この結果からは、日本銀行の金融緩和が、バブル崩壊後の企業行動の変化を招いた要因である、資産デフレや「六重苦」からの転換に多少なりとも貢献した可能性が示唆されます。日本銀行が長年にわたって粘り強い緩和姿勢を続けているのは、ノルムの転換に時間を要したことも一因と考えられますが、粘り強い緩和を継続することが金融市場の安定に寄与してきた面もあると思います。

加えて、最近では、「持たない経営」や「リストラ経営」に代表されるバブル崩壊後の企業行動からの歴史的な転換期待が生じています。具体的には、「少しでも価格を下げる」から「良いものの価格は上げる」、「投資抑制」から「ヒト・モノも含めた投資拡大」、といった変化が窺われると感じます。こうした動きが継続するかどうか、さらには賃金・物価は上がらないものと考えるノルムの変化が生じていくか、先行きを巡る不確実性は、依然として高いですが、今後を展望するため、最近みられる3つの環境変化の兆しを指摘したいと思います。

1つ目は、先ほども申し上げましたが、海外発のコストプッシュとはいえ、40年ぶりと言われる大きな物価上昇ショックが、前掲図表6でも示した昨年から今年に至る2段階の「ビッグ・プッシュ」となり、販売価格や賃金を据え置く行動原理が当然であるという企業の考え方に変化が生じる可能性です。先ほど紹介した1990年代前半以来の高水準の賃金上昇は、バブル崩壊以降続いた、価格マークアップが縮小すると同時に、賃金を引き下げることによる「消耗戦」とも言える状況に変化の兆しが生じていることの現れだと思います。その結果、2段階の「ビッグ・プッシュ」に次いで、予想物価上昇率の底上げによって、バブル崩壊以降のデフレ期に下方シフトしていたフィリップスカーブが、長年の金融緩和も相まって、上方シフトし始めた可能性もあります(図表21)。なお、予想物価上昇率が高まり、フィリップスカーブが上方にシフトして初めて、持続的な物価上昇が実現されることになります(図表22)。また、最近、図表23に示されるように、名目GDPの伸びが高まり、名目ベースで経済活動が拡大していることが注目されます。売上、利益、給与など、企業活動は名目値であるだけに、名目値の拡大は大きな意味があります。こうした環境では、価格を据え置くとの固定観念を脱し、一定のマージンの確保といった新たな発想を通じて、企業を起点とする好循環の実現が期待されます。

2つ目は、社会の構造面から、DX化に向けた動きや脱炭素に向けた世界的な取り組みなど、新たな社会への転換に向けた投資意欲が高まっており、前掲図表13で示したような縮小均衡に繋がる投資抑制姿勢からの変化が期待されます。また、労働市場にも新たな働き方の導入を含めた様々な動きが生じています。これらは資本蓄積、労働市場の流動化や生産性の向上などを通じて、わが国の潜在成長率を引き上げる可能性もあります。

3つ目は、1つ目・2つ目とも関連しますが、バブル崩壊後の縮小均衡を経験していない若い世代の増加です。こうした世代はグローバルにも「z世代」と称されることもありますが、10年にわたって資産デフレや海外との競争環境の改善が続くなかで、過去のトラウマに囚われない世代が徐々にわが国の経済活動において存在感を高めてきたことは、これまで浸透してきた行動原理等からの変化に繋がり得ると考えられます。

日本経済が、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に実現していくためには、バブル崩壊後、縮小均衡の中で生じた企業や家計の意識、ノルムに変化が生じているかを見極めることが重要です。今日、ノルムの変化、変曲点を迎えている可能性もあるだけに、今後、日本経済が、持続的な成長を実現する「真の夜明け」を迎えることを期待したいと思います4

この後、皆様から頂戴するご意見も含め、漸くみられたノルムの変化の兆しが実際の変化に繋がっていくのか、丹念に確認して参りたいと考えています。

  1. 3東日本大震災後から2012年頃まで、企業が直面した「六重苦」として、円高、経済連携協定の遅れ、法人税率の高さ、労働市場の硬直性、環境規制、電力コスト高が指摘されてきましたが、そうした状況は全体として改善していると評価されています。こうした変化は、わが国の立地競争力の向上に資すると考えられています。詳細は、「令和3年度 年次経済財政報告―レジリエントな日本経済へ:強さと柔軟性を持つ経済社会に向けた変革の加速―」や「平成29年度 年次経済財政報告―技術革新と働き方改革がもたらす新たな成長―」を参照。
  2. 4中曽宏(2017)、「日本経済の底力と構造改革――ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの共催講演会における講演の邦訳」。
    https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2017/ko171005a.htm

5. 山口県経済について

最後に、山口県経済について、お話しさせて頂きます。

山口県では、他の地域と同様に、人口減少や少子高齢化が進むもとで、感染症への警戒感が和らいで経済活動が正常化していることから、人手不足は一層厳しさを増しています。こうした状況に対して、企業は、DXを始めとする省力化・省人化投資のほか、インターンの戦略的な活用、賃上げ・リスキリングを含む人的投資など、効率化やスキルアップによる生産性向上を意識した取り組みを進めていると伺っています。行政機関においては、人手の確保に向けて、幅広いプロジェクトをいち早く策定しているほか、経済団体、金融機関も、そうした取り組みを行う企業の支援を重要施策と位置付けて推進しており、これらの取り組みが着実に実を結ぶことが期待されます。

また、山口県では、瀬戸内海沿岸を中心に、生産過程でCO2排出量が多くなりやすい産業が集積しており、脱炭素化に向けた対応がますます重要になっています。この点に関し、山口県では、カーボンニュートラル実現を目指して、様々な取り組みが行われているところです。特に、周南地区のコンビナート企業群が関係諸団体と連携して、燃やしてもCO2を排出しないアンモニアを発電燃料として石炭に代替することや、石油化学製品の原料として石油由来のナフサでなくバイオマスを利用することなど、脱炭素に関係する具体的な構想が公表されています。産学官・地域の連携も含め、カーボンニュートラル実現に向けたリーディングケースとして、これらの取り組みが着実に進展していくことを期待しています。

山口県は、古くから交通の要路として栄えてきたほか、優れた先人を各界に輩出してきた歴史があります。これを可能にしたのは、有望な若者が見出され、登用される伝統と、変化を恐れず挑戦を良しとする気風とが相まってのこと、とも聞かれています。現在直面する課題に対しても、先進的で意欲的な取り組みが実施されることにより、山口県経済が一段と発展を遂げられることを祈念しまして、ご挨拶といたします。ご清聴ありがとうございました。