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【講演】ポスト・コロナ時代のケインズ主義第28回産研アカデミック・フォーラムにおける講演

日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2023年12月2日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、講演の機会を賜り誠に有り難く存じます。本日のフォーラムの主題は、コロナ禍を経て大きな変貌を遂げた現在の世界経済の状況を踏まえて、ケインズの理論、政策、行動の意義を改めて問い直すというところにあるものと理解しておりますが、私自身はとりわけ政策の問題についてお話ししたいと考えております。より具体的には、コロナ禍による経済的収縮とその後の急激な物価上昇を克服しようとする海外における政府や中央銀行の試みを通じて、ケインズが礎を築いたマクロ経済政策というものの内実がどのような方向に変化しつつあるのかを、私の個人的観点から整理し直してみます。

私はこれまで、マクロ経済政策はどのように生み出されるのか、そしてそれは本来どうあるべきなのかという課題に、永らく一研究者として取り組んできました。そして2021年4月からは、日本銀行の一員として、わが国の金融政策運営に携わってきました。本日は、この一政策担当者としての視点からというよりは、やや俯瞰した研究者的な視点に多少とも立ち戻って、コロナ禍以降の世界における金融政策を含むマクロ経済政策のあり方を再考してみたいと思います。

結論的に言えば、私自身は、コロナ禍は結果として、各国・地域における従来のマクロ経済政策運営のあり方を大きく変えつつあると考えています。それは、各国・地域の政府と中央銀行が、コロナ禍の克服のための大規模な財政支出と金融緩和をほぼ一斉に実行したことが契機となって、財政政策と金融政策の連携あるいは協調の重要性がより強く意識されるようになったという点です。

重要なのは、このマクロ経済政策の新たな枠組みは、単にコロナ禍からの経済回復をきわめて速やかに実現させたに留まらず、2000年代以降の先進諸国を悩ませ続けてきた長期停滞状態、すなわち低インフレ・低金利・低成長といった経済状態からの離脱を実現させつつあるようにも思われるという点です。現在の多くの国・地域は、低インフレが続いていたコロナ禍前の時代にはもう永遠に生じることはないとさえ考えられていたような、高水準のインフレに直面しています。そして、米欧の中央銀行は、現在もその高インフレ克服のために金融引き締めを続けています。世界経済は今、基本的にはこの高インフレからの脱却という苦闘の途上にあり、その完遂にはまだ大きな不確実性が横たわっています。私はしかし、各国・地域のマクロ経済政策が今後も適切に運営され、世界的インフレが克服されていけば、世界経済のより安定した新常態が展望できる可能性は十分にあると考えます。

2.マクロ経済政策はどのように変わっていったのか

(1)ケインズ主義とマクロ経済政策

マクロ経済政策も含むあらゆる経済政策の策定には、「社会にとって何が望ましいのか」という価値についての判断が必要不可欠です。というのは、経済政策は少なくともその意図としては「社会をより良い状態にする」目的で行われているはずのものですが、何が良くて何が悪いのかという価値判断は、しばしば個人個人で大きく異なるからです。その意味では、あらゆる経済政策の背後には、多かれ少なかれ何らかの意味での「主義」が存在しています。

とはいえ、特定の価値判断がコンセンサスとして社会全体でおおむね共有されている場合もあります。例えば、現代の多くの国々では、物価や雇用や所得の動向はトレンドを保ちつつ安定している方が望ましい、逆にいえば失業の拡大や物価の大きな変動は望ましくないという価値判断に基づいて、金融政策や財政政策といったマクロ経済政策が運営されています。まさしくそれがケインズ主義です。というのは、ジョン・メイナード・ケインズによるその主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)の目的は、需要の短期的変動に基づく雇用や所得の変動を資本主義経済の持つ重大な欠陥として捉えた上で、それを克服するための方策を、新たな経済理論を用いて提示することにあったからです。ケインズはそこで、雇用や所得といったマクロ的経済実体の安定化は、政府や中央銀行による財政政策や金融政策を用いた総需要の調整によって実現可能であると論じています。

ケインズ主義すなわちケインズが提示したこの資本主義経済に対する問題把握とその処方箋に対しては、その成立当初から現在に至るまで、さまざまな立場からの批判が存在していました。そして実際、マクロ経済政策の具体的なあり方は、それらの批判に呼応しつつ、時代とともに大きく移り変わっていきました。しかし、マクロ経済政策を通じた経済の安定化というケインズ主義の中核的なコンセプトは、各国政策当局や中央銀行の間ではおおむね共有されつつ、現在にまで至っています。

(2)マクロ経済政策戦略の時代的変遷

ケインズ主義におけるこれまでのマクロ経済政策戦略の変遷を大きく区分けすると、まずは財政政策主導の時代が長く続いたのち、1980年代前後を境として金融政策主導へと移行したと考えることができます1

ポール・サミュエルソンの教科書『経済学』(1948年)などを通じてケインズ経済学が世界的に普及し始めた当初は、ケインズ的政策とは要するに拡張財政による景気対策であるといった理解がきわめて一般的でした。それは、金融緩和の拡張効果は利子の低下による民間投資の増加という間接的で不確かなものでしかないのに対して、政府による財政支出の効果は直接的かつ確実である上に、財政乗数を通じた増幅的な拡張効果さえも持つと理解されていたためです。

しかし、こうした初期ケインズ主義の立場は、金融政策を重視するミルトン・フリードマンらの批判や、ニクソン・ショック(1971年)による世界的固定相場制崩壊と変動制への移行などを背景として、学界では徐々に衰退していきます。そして、1980年代以降になると、物価や雇用や所得といった経済のマクロ安定化の役割はもっぱら金融政策が担い、財政政策は主に公共財の供給や所得再配分に割り当てるという考え方が定着します。そして、多くの専門家は、その割り当て戦略は確かに一定の役割を果たしたと評価しています2

  1. 前職時代に執筆した私自身の著書(野口 [2021])では、初期ケインズ主義的な財政政策重視の政策戦略をケインズ主義I、金融政策主導の政策戦略をケインズ主義II、財政政策と金融政策の協調を重視する政策戦略をケインズ主義IIIとして区分しています。
  2. ベン・バーナンキ元FRB議長は、FRB理事時代の講演(Bernanke [2004])で、1980 年代半ばから2000年代初頭までの先進国経済には大安定(Great Moderation)と呼ばれるような生産と物価の相対的安定がもたらされていたとした上で、その実現には独立した中央銀行が行う金融政策が貢献したと指摘しています。

(3)長期停滞の時代

しかしながら、世界経済はその後、低インフレ・低金利・低成長の持続を特徴とする、ローレンス・サマーズのいう長期停滞(Secular Stagnation)の様相を強めていきます(Summers [2013])。その徴候は既に2000年代前半には世界的な金利の低下といった形で現れ始めていましたが、2008年秋に生じた世界金融危機によって、より決定的となります。

この「百年に一度の経済危機」に直面した各国政府と各中央銀行は、まずは大規模な財政出動と金融緩和を実行します。しかし、翌2009年にギリシャで財政懸念が生じ、それが欧州債務危機へと拡大した後には、多くの国がさらなる財政悪化を懸念して財政緊縮へと転じ始めます。そうしたことから、各中央銀行による粘り強い金融緩和にもかかわらず、低成長と低インフレからの脱却は容易には進まず、多くの国・地域で名目金利のきわめて低い状況が常態化しました。例えば、欧州や日本では、2010年代後半には政策金利のみならず長期金利もしばしばマイナス化していました(図表1)。

この世界金融危機以降の各国・地域のマクロ政策運営は、それまでとは明確に異なるいくつかの特質を持っていました。その一つは、一般には量的緩和と呼ばれる、中央銀行による大規模な資産購入政策の進展です。それまでの伝統的な金融政策では、その手段とはもっぱら政策金利としての短期市場金利の操作でした。しかし、中央銀行の多くは、深刻な経済危機に直面する中で、ゼロ近傍までの政策金利引き下げを余儀なくされます。それらの中央銀行はさらに、長期国債をはじめとする多様な資産の購入拡大という、新たな次元の政策に踏み出します。ちなみに、日本銀行は既にそれ以前の2001年から2006年に、デフレ克服のためにこの量的緩和政策を先駆的に導入していました。

量的緩和に代表される非伝統的金融政策の第一義的な目的は、資産購入の拡大等を通じて、実質長期金利を含む金融環境全体に緩和効果を及ぼそうとするところにあります。日本銀行を含む一部の中央銀行は、その後さらに、中央銀行当座預金金利をマイナスにするマイナス金利政策、短期金利のみならず長めの金利もコントロールする長短金利操作を導入しますが、それらは同様に、金融環境全体への緩和強化を目的とした政策といえます。非伝統的金融政策はその点で、もっぱら短期市場金利から他の金融市場への波及を通じた効果を重視していた伝統的政策とは異なります。

この時期の政策対応のもう一つの特質は、この非伝統的金融政策と並行して、多くの国・地域で景気対策に再び財政政策が用いられるようになった点です。1990年代の日本のような例外はありますが、世界的にみると、財政政策は永らくマクロ安定化の手段としてはほとんど用いられずにいました。しかし、米バラク・オバマ政権によるアメリカ復興・再投資法(2009年)をはじめとして、世界金融危機直後には多くの国が財政刺激策を導入しました。これは、財政政策が久方ぶりにマクロ経済政策の主役として復活したことを意味します。

ただし、このように各国・地域が経済停滞克服のために財政と金融を連携させた局面は、ごく短期間で終わりました。それは上述のように、欧州債務危機の影響などから、各国の財政スタンスが急転換したためです。結局、マクロ政策協調のさらなる展開は、その後のコロナ禍を待たねばならなかったわけです。

(4)長期停滞の克服をめぐる専門家たちの論議

このように、各国・地域の政策当局は、長期停滞に苦しむ中で、一方では非伝統的金融政策を推進し、他方では再び財政政策に目を向けるようになりますが、そこには当然、専門家たちによる議論の積み重ねが存在していました。そうした議論が始まったのは1990年代末以降のことですが、それは、この時期には日本経済が既に長期デフレ不況に突入していたためです。日本は1997年に生じた金融危機を契機に深刻なデフレ不況に陥り、日本銀行はそれに対処するために政策金利をゼロにまで引き下げるゼロ金利政策を行っていました。つまり、日本経済はこの時点で既に、世界に先駆けて長期停滞に入り込んでいたわけです。こうした日本の状況は、ポール・クルーグマンやベン・バーナンキといった海外の専門家たちの関心を大いに引きつけ、デフレ克服のためのさまざまな提案が行われます3。そうしたデフレ不況下での日本の経験は、世界金融危機後に多くの国・地域が同様な状況に陥った時に、直接的に参照されることになったのです4

この長期停滞下でのマクロ政策論議のもう一つの注目点は、高圧経済論の約半世紀ぶりの復活です。この「高圧経済」とは、マクロ経済政策によって到達されるべき理想的経済状況を示すものとして、1970年代初頭にアーサー・オークンが提起した概念です(Okun [1973])。オークンは、低インフレ・高失業の低圧経済と高インフレ・低失業の高圧経済を比較すれば、所得分配でも供給能力改善という点でも後者の方が望ましいとして、マクロ政策の遂行に際しては多少のインフレであっても可能な限り低い失業率の達成を目指すべきことを論じました。オークンによれば、高圧経済では低圧経済下で解雇や賃下げの対象となっていた低スキル労働者の雇用や賃金が改善します。さらに、高圧経済では全体として労働需給が逼迫して賃金が上昇するため、省力化投資が促進され、労働生産性も上昇します。オークンのこの議論は、FRB議長時代のジャネット・イエレンがその講演(Yellen [2016])の中で、長期停滞を克服して高圧経済を達成する意義を示す論拠として言及したことで、改めて大きな関心を集めました。

  1. 3クルーグマンは、政策金利に引き下げ余地がない中でもインフレ期待に働きかけることで実質金利の引き下げが可能であると論じました(Krugman [1998])。バーナンキは、中央銀行による非伝統的な資産購入はポートフォリオ・リバランスを通じて金融環境全体の緩和に役立つことを指摘し(Bernanke [2000])、また政府が減税を行うと同時に中央銀行が国債買い入れを行うという事例を挙げて「デフレ対策の効果は金融当局と財政当局の協力によって著しく高めることができる」ことを指摘しました(Bernanke [2002])。
  2. 4バーナンキは、「[デフレを伴う経済停滞という]難題に直面した日銀が考案し、導入した政策手段は、後に2007から2009年の世界金融危機の最中とその後に、世界中でなんらかの形で採用されることになる」と述べています(Bernanke [2022]、日本語版序文)。

3.コロナ禍は世界経済をどう変えたのか

(1)経済活動の急減から再開後の高インフレへ

2020年に始まったコロナ禍は、こうした世界経済の長期停滞状況を、結果としてまさに一変させました。コロナ禍はまず、世界金融危機以来となるような生産活動の急激な落ち込みをもたらしましたが、経済正常化の進展以降は一転して、各国・地域に数十年ぶりに経験する急激なインフレをもたらしました。各国・地域の中央銀行の多くは現在、その高インフレを抑制して目標とするインフレ率を達成すべく、金融引き締めを続けています。

コロナ禍が拡大した時、各国政府はまず、感染拡大防止のために、経済活動の制限を含む人流抑制政策を行いました。その結果、各国の所得は急減し、物価の伸びも低下しました。それは、感染拡大防止のための規制の多くが、単に供給への制約拡大のみならず、需要の減少をもたらしたからです。その需要減少の影響は、レジャーや外食といった対面型サービスにとりわけ強く現れました。

ところが、ワクチン接種の世界的拡大に伴って経済活動が再開され始めた2021年春になると、多くの国・地域で一転して物価が上昇し始めました。そこには明らかに、供給制約と超過貯蓄という二つの要因が働いていました。コロナ禍による経済活動の縮小は、サプライチェーンや流通網の寸断を通じた供給側のボトルネックを各所に生じさせていましたが、その解消には時間を要することから、経済活動の再開後にはまず供給制約が顕在化しました。また、コロナ禍の下では消費抑制や公的支援によって人々の貯蓄が拡大しましたが、その超過貯蓄は、経済活動の再開以降にはペントアップ需要という形での需要の急拡大を生じさせました。供給が正常化しない中でのこの需要拡大は、必然的に各国・地域にインフレの急伸をもたらしました。

専門家や政策当局者の多くは当初、この脱コロナ禍下での高インフレを、ペントアップ需要の一巡と供給制約の解消によって自ずと収束する、ごく一過性の現象として捉えていました。しかし、現実の推移はその見通しとはまったく異なっていました。2021年から22年にかけて、消費者物価上昇率は米国では9%台、英国では11%台、ユーロ圏では10%台に達するなど、多くの国・地域が1980年代初頭以来の高インフレに直面しました(図表2)。つまり世界経済は、1980年代後半以降の大安定の時代、2000年代以降の長期停滞の時代を経て、ほぼ40年ぶりに、1960年代末から80年代初頭にかけて各国が経験したような高インフレの時代(The Great Inflation)に舞い戻ったことになります。

(2)高インフレ発生のメカニズム

この高インフレが生じた理由は、おそらく基本的にはごく単純であり、「マクロ的な需要超過、すなわち総供給に対する総需要の超過が生じたため」と考えることができます。マクロ経済学の教科書で馴染み深い総需要・総供給(AD-AS)モデルでは、経済が完全雇用に達してもさらに総需要が増加し続ければ、必ず「供給増加を伴わない物価上昇」が生じます(図表3)。米国では成長率が脱コロナ禍局面でV字回復した後に、2022年以降はしばらくほぼ頭打ちになりますが、それは米国経済が労働市場のスラックが限界的にしか存在しない事実上の完全雇用に到達したことを示唆しています。

労働市場の状況を確認すると、そのことはより鮮明です。米国では2021年以降、コロナ禍の最中に急上昇していた失業率が低下すると同時に、欠員率が急上昇しました。その結果、求人倍率すなわち失業に対する欠員の比率は、2倍程度にまで達しました(図表4)。米国の2000年代以降の求人倍率は平均で0.7倍程度であることを想起すると、これは歴史上でも稀にみる労働逼迫の発生を意味します。欠員に直面した企業は、通常は賃金を引き上げて労働力を確保しようとしますが、この時期にはそのことが逆に、より高賃金を求めた離職の拡大をもたらし、いわゆる大離職(Great Resignation)を助長しました。その結果、労働需給はさらに逼迫し、米国の賃金上昇率は、物価と賃金のスパイラル的上昇が続いていた1980年代初頭以来の高さにまで達しました(図表5)。

この米国の状況と比較すれば、欧州に生じたインフレは、需要主導のそれというよりは、エネルギー価格の上昇を主因とするコスト・プッシュの側面が強いものでした(図表6)。それには、2022年2月に起きたロシアのウクライナ侵攻が、隣接する欧州へのエネルギー供給を悪化させたことも影響しています。とはいえ、その欧州でも需要超過による労働需給の逼迫は相応に進展しました。欧州の多くの国は2022年中にほぼ完全雇用に達し、いくつかの国では過度な賃金上昇が危惧されるにまで至りました。とりわけ、7%を超える歴史的な賃金上昇となった英国では、その影響を受けやすいサービス価格の上昇に牽引された根強い高インフレが、2023年後半になっても続いています(図表7)。

(3)「超高圧経済」をもたらした基本要因

「需要超過による強い労働需給逼迫を通じた賃金と物価の相乗的上昇」という、米国経済に最も端的に現れていたこうしたマクロ経済状況は、いわば「超高圧経済」と呼ぶにふさわしいものでした。問題は何がこの状況をもたらしたかですが、それはコロナ禍下で各国・地域で行われた政策を想起すれば明らかです。

コロナ禍が世界を席巻した時、各国政府はまず、感染拡大抑止のための経済活動制限を行いました。それは多くの場合、個人や企業に対する所得補償を必要としたため、各国の財政赤字は急拡大しました(図表8)。それと同時に、各中央銀行は、急激に縮小する経済の下支えのために、世界金融危機後の経済低迷からようやく回復しつつあった中で進めていたそれまでの金融引き締めを停止し、金融危機発生直後のように金融緩和に転じました。しかし、その直前まで低インフレが続いていたため、主要中央銀行の多くは金利引き下げ余地をほとんど持っていませんでした。必然的に、その金融緩和の多くは、国債等の資産購入の拡大という量的緩和を用いて行われることになりました。その結果、各中央銀行のバランスシートは再び急拡大することになります(図表9)。

つまり、コロナ禍は結果として、各国政府と各中央銀行による拡張財政と金融緩和を通じて、「財政と金融の連携」を世界的規模で実現させたといえます。教科書的にいえば、財政政策と金融政策を同時に行うポリシーミックスの効果とは、拡張財政による需要拡大効果が、金融緩和による金利抑制を通じてより強められるという点にあります。ただし、財政と金融の連携にはおそらく、こうした教科書的な意味での金利抑制だけにはとどまらず、市場の安定化という意味での効果も存在するはずです。実際、コロナ禍下での各国政府による国債増発にもかかわらず、各国の国債市場では、金利がきわめて低位に安定していました5。これは、欧州債務危機時の国債市場が、欧州中央銀行が2012年9月に新たな国債買い取りプログラムを公表するまでは混乱をきわめていたのとは対照的です。

コロナ禍下ではこのように、各国で金融緩和と並行して赤字財政政策が行われましたが、そこにはまた民間資産残高の拡大を通じた効果も存在していたはずです6。というのは、政府部門の債務拡大は民間部門の資産拡大に他ならず、それは政府が財政収支を黒字化させない限り保有主体は変わっても減ることはないからです。これは、コロナ禍下で拡大した超過貯蓄の一部は、民間経済主体が「増税を通じた将来的な資産減少を意識していない」という意味で非リカーディアン的である限り、民間に滞留し続ける恒常的資産として捉えるべきことを意味しています。この財政赤字の持つストック効果は、脱コロナ禍下の高インフレが当初の想定以上に長引いた理由の一部を説明するかもしれません。

  1. 5アタナシオス・オルファニデスは、コロナ禍下での財政と金融の連携の意義について、「各国政府はコロナ禍下で大規模な財政支出を行ったが、中銀の資産購入を通じたバランスシート拡大による低金利の維持が、経済停滞の阻止と回復の促進に寄与した」と指摘しています(Orphanides [2021])。
  2. 6バーナンキは、財政と金融の連携によるその効果を、ミルトン・フリードマンによる「ヘリコプター・マネー」の概念を援用して説明しています(Bernanke [2002])。

4.ポスト・コロナ時代のマクロ政策をどう展望するか

(1)コロナ禍下のマクロ経済政策の成果と問題点

脱コロナ禍局面に入った2022年以降、世界経済にとっての最優先課題は、コロナ禍からの回復を一気に飛び越えて、高インフレの抑制に移りました。しかし、それは必ずしもコロナ禍下で行われた財政と金融の連携が失敗であったことを意味しません。というのは、専門家の多くは当初、コロナ禍で落ち込んだ経済の回復には数年を要すると想定していたにもかかわらず、ほとんどの国や地域は2021年以降の脱コロナ禍局面で急速な回復を実現し、それ以前の所得水準を同年中には取り戻すことができたからです。世界金融危機後の長期停滞状況とは対照的なこの経済の急回復は、各国政府と各中央銀行による政策対応がもたらした最大の成果ということができます。

ただし、その経済回復の速やかな実現には、確かにコストも伴っていました。それはいうまでもなく、今後もしばらくは続くと思われる高インフレです。このインフレに関しては、専門家の多くは、それが明確に生じ始めて以降も、「時間とともに減衰する一過性の現象なので必ずしも強い引き締め措置は必要ない」と考えていました。そうした見方が是正され、主要中央銀行が急ピッチの金融引き締めに舵を切り直し始めたのは、ほぼ2022年春頃のことです。それは確かに、後から見るとやや遅れた判断でした。しかし、コロナ禍以前には低インフレ・低金利という状況が長く続いていただけに、政策当局の側も、そうした状況を数十年ぶりの高インフレへと一変させるほどの力を持っていた財政・金融政策の効果を十分に見極めるのは難しかったという面もあったように思います。

(2)緩やかに抑制されてきた高インフレ

高インフレの長期化が明らかになり始めた2022年半ば頃に、米国では一つのきわめて興味深い政策論争が展開されていました。それは、「高インフレを目標水準まで抑制するには、どの程度の失業率上昇を甘受する必要があるのか」という点をめぐる論争です。そこでは、ハードランディング派とされているローレンス・サマーズらが、欠員率を十分低下させるためにはきわめて高い失業率が必要と論じたのに対して(Blanchard, Domash, and Summers [2022])、ソフトランディング派とされているクリストファー・ウォーラーFRB理事らは、欠員率引き下げは失業率の大幅な上昇を伴わずに可能と論じていました(Figura and Waller [2022], Waller [2022])。

この論争の舞台は、時間を通じた欠員率と失業率の組み合わせをトレースした、いわゆるベバリッジ曲線でした。この時期の米国経済は既に、労働需給の逼迫が賃金の急上昇をもたらし、その賃金上昇がサービス価格等への転嫁を通じてきわめて粘着性の高いインフレをもたらすという、賃金と物価が相乗的に上昇する超高圧状態にありました。したがって、高インフレの抑制には、まずは極度に逼迫していた労働需給の緩和が必要なことは明らかでした。問題は、その労働需給緩和から高インフレ収束までの過程で、どの程度の雇用や所得が失われるのかです。ハードランディング派とソフトランディング派は要するに、その見積もりが高いか低いかにおいて異なっていました。そしてそれは、ベバリッジ曲線の勾配の想定が両派では異なることを意味していました。

両派のどちらがその後をよりよく予見していたのかは、ベバリッジ曲線のその後の推移を確認すれば明白です。すなわち、米国では2022年後半以降、失業率が大きく上昇することはなく、もっぱら欠員率が低下するという形で労働需給の緩和が進みました(図表10)。これは、ソフトランディング派にとってさえ想定外だった、ほぼノーランディングとも言える状況が現実化したことを意味します。そうした中でも、労働需給緩和に伴って米国の賃金上昇率は徐々に低下し、また消費者物価上昇率も、その粘着性はきわめて高いながらも、2022年後半以降は緩やかに低下しています(前掲図表5)。米国経済はつまり、少なくとも2023年までのところ、確かにリセッションなきインフレ抑制を実現してきたといえます。

(3)ポスト・コロナ時代の新常態

国や地域によってばらつきはあるものの、各中央銀行が金融引き締めを続けてきた中で、脱コロナ禍の過程で生じた世界的高インフレは徐々に低下し続けてきました。おそらく、各中央銀行は今後、いわゆるHigher for Longerといった、中立金利を上回る高めの政策金利を維持しつつ、インフレ率が緩やかに低下していくことを辛抱強く待つ局面に入っていくと思われます。それは、現在生じているような賃金上昇に基づく粘着性の高いインフレを抑制するためには、何よりも賃金の抑制が必要となるため、それを短期間にやろうとすればハードランディング的な失業の急拡大が避けられないためです。

他方で、高インフレがあまりにも長く続けば、人々のインフレ期待がそれに伴って上方シフトし、結果として高インフレが制御不能になるリスクも存在します。1970年代には、まさにそれによって世界的大インフレが発生しました。しかし、幸い現状では、確かに高インフレは続いているものの、インフレの二次的波及、すなわちインフレ期待が上方シフトして賃金と物価がスパイラル的に上昇する、といった1970年代的な現象は生じていません。そのリスクがない限りは、中央銀行はインフレの緩やかな収束を忍耐強く待つことができます。

仮に数年後に各国・地域のインフレ率がその目標水準に収束した時、世界経済はどのような姿になっているのでしょうか。それは再び、コロナ禍前のような低インフレ・低金利・低成長の長期停滞的状態に戻るのでしょうか。その問いに関する専門家の見解は二分されていますが、ほぼ合意されている点もあります。それは、世界経済の潜在成長率は上昇してはおらず、したがって長期的な中立金利はコロナ禍前と比較して高まってはいない、という点です。これは、コロナ禍は生産性を高めたのではなくむしろ低めたとすれば、ごく自然な推論です。

他方で、各国・地域は数十年ぶりの高インフレと高金利に直面しています。これは、短期的な中立金利はコロナ禍前から高まっていることを示唆しています。この短期的な中立金利上昇の一要因と目されているのは、各国の財政状況です。これは、マクロ経済の観点から見たコロナ禍前との最大の相違が、各国政府債務の突発的な拡大にあることを想起すれば、至極当然です(図表11)。

既述のように、政府部門の債務拡大は民間部門の資産拡大に他ならず、それは政府が財政を黒字化させない限り、少なくとも名目上は減少しません。実際、米国では金利上昇にもかかわらず堅調な民間消費が続いていますが、それはコロナ禍で拡大した民間貯蓄が資産として維持されているためと考えられます。ただし、この拡大した民間資産は、継続する高インフレによって時間の経過とともに実質的に縮小していきます7。したがって、民間消費の水準も徐々に切り下がり、中立金利もそれにつれて緩やかに低下していくと考えられます。

このように、中立金利が現状で大きく高止まっている原因が各国の財政にあるとすれば、それを政府が今後どのように運営するかは、マクロ経済の先行きを見通す上で決定的に重要です。仮に、政府が債務残高をコロナ禍前の水準に戻すような財政政策を急激に行うとすれば、おそらくは再び低インフレと低金利が常態化することになります。というのは、長期的な中立金利が依然として低位である以上、中央銀行は民間消費とインフレ率の低下に歩調を合わせて政策金利を引き下げていくしかないからです。逆に、高インフレの抑制局面で政府が過大な財政拡張を行った場合には、中央銀行は想定外の金融引き締めを強いられます。したがって、それらの事態を避けるには、政府と中央銀行が目標を共有しつつ、財政政策と金融政策を適切に連携していくことが重要になります。

  1. 7これとは逆の、「物価下落が資産の実質価値上昇を通じて消費を促進する」という効果は、提唱者であるアーサー・セシル・ピグーの名を取ってピグー効果と呼ばれています。

(4)日本経済の課題

本講演ではこれまで、主に米欧諸国の経済状況を念頭において、コロナ禍以降のマクロ経済政策状況を整理してきました。その中では、日本経済についてはあえて言及を避けてきました。それは、日本のマクロ政策は、未だに根強い低インフレ状況からの離脱を最大の目的とする点で、高インフレ抑制のために金融引き締めを続けてきた米欧とはまったく局面が異なるからです。

確かに世界的高インフレの影響は日本経済にも及んでおり、日本でも2022年春以降は、消費者物価上昇率が目標とする2%を超える状況が続いています。しかし、それは依然として輸入価格上昇によるコスト・プッシュが主因であり、米欧のように賃金上昇が主導するインフレにはなっていません。2%物価目標の達成には、それと整合的な持続的賃金上昇に裏付けられた物価上昇が必要です。日本の現状は、2023年の春季労使交渉で実現された30年ぶりの賃上げによって、ようやくその目標達成の可能性が見えてきた段階にすぎません。

各国・地域がコロナ禍を経て低インフレ・低金利の長期停滞状態から離脱した中で、このように日本のみが未だにその状態から完全に抜け出せていない最大の要因は、物価・賃金のゼロノルムすなわち「物価も賃金も上がらないことを常態とする通念」にあると考えます。日本では、1990年代から続いた経済停滞を通じて、企業の価格引き上げが販売減少に直結する事例が拡大したことから、多くの企業で「賃金コストの抑制を通じた販売価格の維持」が優先されるようになっていきました。その結果として企業や家計に強く根付いたのが、この物価・賃金のゼロノルムでした。

日本の物価に強い上方硬直性が定着していることは、物価上昇トレンドがより高い他国と比較すれば容易に確認できます。例えば日米間でコロナ禍前(2019年9月)の価格変動率の品目別分布を比較すると、分布の「山」の位置だけではなく、そのばらつきも大きく異なっています(図表12)。すなわち、日本では変動率がゼロの位置に多くの品目が集中し、かつその集中度合いが高いのに対して、米国ではプラス2%前後の変動率に最も多くの品目が集中しつつも、その集中度合いは低く、全体として価格変動のばらつきが大きくなっています。

つまり、日本の低インフレには、物価と賃金のゼロノルムという、その傾向をより強めるミクロ的要因が存在していたということです。しかしながら、価格変動率品目別分布のその後のシフトが示すように、コロナ禍による世界的高インフレは、輸入価格上昇という「ビッグ・プッシュ」を通じて、明らかにそのノルムを打ち壊しつつあります。日本にとっての喫緊の課題は、2%物価安定目標と整合的な新たな物価と賃金のノルムをいかに定着させていくかにあります。

5.おわりに

政府と中央銀行が財政政策と金融政策を用いて物価、雇用、所得の安定化を実現するというケインズ主義の基本的な考え方は、さまざまな批判に耐えつつ、またさまざまな戦略的改変を経つつ、各国の政策現場で生き続けてきました。コロナ禍以降の各国のマクロ政策実践は、そのケインズ主義の思考枠組みに、新たな確証と教訓を付け加えたと思います。その確証とは、マクロ経済政策は結局のところ、経済への負のショックを和らげ、経済を成長軌道へ復帰させるのに大いに役立つというケインズ主義の基本ビジョンが、改めて裏付けられたということです。しかし、それは同時に、インフレはどのように起きるのかといった点については、われわれは常にマクロ経済の基本原理に立ち返る必要があるといった、重要な教訓をも与えるものでした。その確証と教訓は、今後の各国のマクロ経済政策運営に必ず活かされていくであろうと考えます。

参考文献

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