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【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営大分県金融経済懇談会における挨拶

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日本銀行副総裁 氷見野 良三
2023年12月6日

1.はじめに

みなさま、本日はお忙しい中お見えいただきありがとうございます。また、日ごろから日本銀行と大分支店の業務にご支援を賜り、どうもありがとうございます。

現在、日本銀行は、新しい日本銀行券の発行の準備を進めております。大分の偉人・福沢諭吉先生には、1984年11月から40年近くに亘り日本の通貨の顔を務めていただいてきましたが、来年7月前半を目途に、渋沢栄一さんにバトンタッチしていただくことになります。もっとも、今のお札は新しいお札が出たあとも引き続き使えるわけですので、福沢先生にはバトンタッチのあとも並走を続けていただくことになります。

福沢先生には、バブル経済、バブルの崩壊、金融危機、デフレ、リーマン・ショック、震災、「デフレではないがデフレから脱却したとまではいえない」時代、そしてコロナ禍とコロナ禍からの回復まで、日本経済を見守ってきていただきました。

日本銀行は、現在、デフレ以降の時代の金融政策の効果と副作用について「多角的レビュー」を進めておりますが、おおむね福沢一万円札の時代の後半について分析を行うことになります。福沢先生の言葉に、「自由の気風は唯多事争論の間にありて存するものと知るべし」(「文明論之概略」)というのがありますが、私どもからも私どもなりの分析をお示しして「多事争論」のきっかけとし、内外の幅広い方々からご批判や提言を頂戴できればと考えております。

2.経済・物価の現状と先行き

日米欧の経済と物価と金融政策

さて、まず日米欧の状況を概観いたしますと、コロナ・ショックの日本経済への影響には大変大きなものがありました。米国でも日本に匹敵する影響、欧州ではさらにそれを上回る影響がありました。その後、米欧の経済が急ピッチで回復したのに対し、日本は緩やかな回復となりました(図表1)。

反面、物価の面では、米欧では経済の急回復の過程に原油や小麦などの一次産品価格の急上昇が重なり、ピークの物価上昇率は欧州では10%超、米国で9%程度となりました。他方、日本では4%程度でした。

こうした物価の動きに対し、米欧は急速な金利引き上げにより抑え込みを進めましたが、日本は金融緩和を継続し、経済の下支えを続けています。足もとでは、欧州経済の回復は緩やかに減速している一方、米国経済は予想以上に底堅い動きが続いています。日本経済は緩やかな回復が続いています。

日本の物価の先行き――ミクロの企業ヒアリングから

では、先行きはどうなるかですが、物価についての当面の大きなポイントは、足もとの物価高が落ち着いていくかどうかです。日本の消費者物価の上昇率の推移と見通しを、生鮮食品の値動きの影響だけ除いたものと、ガソリン代や電気・ガス料金なども除いたものの両方についてお示ししました(図表2)。家計簿の構成により近いガソリン、電気・ガス込みの方で見ますと、昨年度の実績も本年度・来年度の見通しも3%程度で、「物価安定の目標」である2%を上回っています。食料品など生活必需品の値上がり率は3%よりもさらに高く、多くの家計にとっての負担の実感はむしろそちらに近いと考えられます。これは大変重い事柄です。

他方、最近までは「賃金も物価も両方上がらないのが当たり前」といった状態が続いていたわけで、そこからの脱却に長年努めてきたのに、足もとの物価高が落ち着いた後にまた昔の状態に逆戻りしてしまうことも避けたいと考えています。

日本銀行は、賃金の上昇を伴う形で、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に実現することを目指しているわけですが、そのためには、「今後、インフレ率は下がっていくが、下がりすぎない」という微妙なラインが実現しなければなりません。「足もとの物価高は何とかしたいが、経済の緩やかな回復は守りたいし、賃金が上昇しやすい環境も整えたい。先行きデフレ的な世界に戻ることも避けたい」ということで、ここが私どもにとって一番悩みの深いところです。

こうした課題にどう対応するかを考えるためには内外の色々な要因を見ていかなければなりませんが、ここでは、企業がどのように価格や賃金を決めているのか、という点に着目して考えてみたいと思います。企業による賃金・価格設定行動の変化についても、色々な視点で捉えることが可能ですが、試みに4つの段階に分けて考えてみたいと思います(図表3)。

第1段階は、輸入価格の上昇分を販売価格に反映する段階です。第2段階は、物価の上昇分を賃金に反映する段階です。第3段階は、賃上げに伴うコスト増を価格に反映する段階です。第4段階は、価格戦略に多様性が生まれ、「良い商品を安く」に加えて「魅力ある商品を相応しい価格で」にも取り組みやすくなり、生産性の向上のための選択肢も広がる段階です。

こう申しますと、「お客様に魅力を感じてもらえる商品を開発して、それを相応しい価格で売るために努力する、なんて、そもそも当たり前のことで、第1段階から第3段階までとは関係なく、誰だって昔から取り組んでいるよ」と思われる方も多いかと思います。その通りだろうと思いますが、ここでは「より幅広い企業の背中をさらにその方向に押すような環境が生まれてくるかどうか」という問題を考えてみたいと思いますので、今しばらくご辛抱願えればと存じます。

輸入物価は最近では前年同月比で10%以上のマイナスが続いていますので、第1段階、すなわち、輸入物価の転嫁の段階だけであれば、いずれ昔の世界に戻ってしまうのだろうと思います。他方、第2段階の賃上げと第3段階の人件費の転嫁がともに進む好循環が始まれば、持続性が出てきます。

しかし、「物価上昇の分、賃金が上がる」というだけでは、私たちの暮らしは実質では良くなりません。好循環をきっかけに、第4段階、すなわち価格戦略の多様化・高付加価値化・生産性向上の段階が始まり、その成果が分配されてこそ、暮らしが良くなっていくと考えられます。

第1段階は、輸入インフレとか、私どもが「第1の力」と呼んでいるものに対応し、第2段階と第3段階がホームメード・インフレとか「第2の力」と呼ばれるものと対応します1。第4段階は、付加価値向上に見合った値付けであれば、必ずしもインフレに対応するわけではありません。

色々な企業からお話をお聞きすると、現状、いずれの段階もまだら模様のように見えます。

中小企業のアンケートでは、多くの企業は第1段階の輸入物価の転嫁も一部しかできていない、という結果が出ています。また、世界で事業を展開している素材産業の大企業からお聞きしたところでは、従来、日本の特色として、「原材料価格が上昇した場合でも取引先に自助努力を求めて価格を維持させる」という方針がほとんどの企業でみられた。また、「商品価格は本来需給で決まる」という認識も薄かった。しかし、原材料価格の顕著な上昇という分かりやすい理由のおかげで値上げ交渉が展開できた、とのことでした。多くの製品で高い世界シェアを誇る競争力の高い企業でも日本国内では第1段階突破のハードルがずいぶん高いようです。

また、大手の外食チェーンの方からは、アルバイトの時給を大幅に引き上げているが、コロナ期に進めたコストカットの分で飲み込んでいる、という声がありました。第2段階の賃上げを第3段階の人件費転嫁につなげずにコストカットで対応している、という風に理解できます。

また、同じ外食チェーンの方からは、原材料価格は転嫁してきたが、単純な値上げではなく、高付加価値化で価格帯を広げる形で進めている、というお話がありました。また、小豆の値上がりに苦しんでいる和菓子屋さんからは、恋人にプレゼントできるようなパッケージにして銀座に並べてもらったら高い値段でも売り切れた、といった話もありました。こうした企業は、第1段階の輸入物価転嫁を第4段階の高付加価値化と組み合わせて進めている、と解釈できるかと思います。

さらに、食品製造業の大手企業の方からは、これまでの製造コスト上昇分のみならず、先行きの人件費や輸送コストの上昇分も見込んで、高付加価値化を伴った値上げを行っているが、値上げ後も需要は堅調だ、というお話を伺いました。また、10月にあった日本銀行の支店長会議では、「宿泊業では、個人客を中心とした高付加価値化に動いた先と、特段動かず、団体客向けに標準的なサービスの提供を続けた先との間で、価格転嫁後の客足の変化や人手確保に差が出ている」との声がありました。これらの話は賃上げの第2段階、人件費転嫁の第3段階、高付加価値化の第4段階の組み合わせ具合が二極化している、という風にも解釈できそうです。

ちなみに、「おんせん県おおいた」は、宿泊旅行に関するアンケート調査で2022年度の総合満足度第1位に輝いた、と聞いております。お客様に旅行の価値を感じてもらう工夫を凝らしておられる結果かと想像いたしますが、今日はそのあたりについてもお話を聞かせていただければ幸甚です。

さて、支店長会議の際に、こうした高付加価値化・賃上げ・人材確保といった攻めの戦略はどの程度広がっているのか、何人かの支店長に尋ねてみたところ、そうした話は出始めているが、「人手不足は辛いが、損益分岐点を低く抑え、次の波を乗り越えられるよう歯を食いしばる」という守りの戦略も多い、とのことでした。

また、競争環境の激しさなどから同業者を見ながら横並びで判断せざるをえないとする企業も多いとのことなので、きっかけになった輸入物価上昇の転嫁という第1段階が収まった後で、第2段階以下も消えてしまう可能性も否定できないかもしれません。他方、一旦高付加価値化の第4段階まで進めば、少なくとも当該企業については後戻りの可能性はだいぶ小さくなるのではないかとも期待されます。もちろん、今後の需要の動向、すなわち、消費と投資と輸出がどうなっていくかも、先行きを大きく左右します。

  1. 「第1の力」と「第2の力」については、植田和男「最近の金融経済情勢と金融政策運営――名古屋での経済界代表者との懇談における挨拶――」(2023年11月)を参照してください。

物価上昇と価格設定行動の関係――マクロの分析から

さて、こうしたミクロの情報は、転換期に何が起こっているのかを理解するためには不可欠ですが、それだけで全体像を評価できるわけではありません。福沢先生も、「天下の形勢は一事一物に就きて臆断す可きものに非ず」として、「スタチスチク」、すなわち統計の重要性を強調しています(「文明論之概略」)。定量的な統計データで見てみるとどうでしょうか。

一言でいうと、変化は着実に進んでいるように窺われます。

名目賃金と消費者物価指数の動きの相互関係を分析すると、物価が上がれば賃金が上がる、という第2段階の関係も、賃金が上がれば物価が上がる、という第3段階の関係も、1990年代前半にははっきり見られたのに、2010年代にはそれが観察できなくなっていました(図表4)。しかし、直近時点では、物価から賃金への波及は統計的にも確認できるようになっていますし、統計的な確度には不十分な部分はあるものの、賃金から物価への波及も幾分戻ってきているように見える、という結果が出ています。

先ほど申しました通り、賃金と物価の好循環は、デフレ的な世界に戻ってしまうかどうかを左右する要ですので、これは良い方向のしるしといえると思います。

この分析は、物価全体、賃金全体の動きを見たものですが、もう少し内訳まで立ち入って見てみるとどうでしょうか。家計が買うものには、ガソリンのように頻繁に値札が動くものもあれば、42年間1個10円のままだったお菓子もあったわけですが、それらを品目カテゴリーごとに「過去1年間にほとんど価格が変わらなかった品目」と、「ある程度(±0.5%超)価格が動いた品目」に分けて、価格が動いた品目の比率を見てみます(図表5)。50%だと、半分の品目は1年間ほとんど価格が変わらなかった、ということですし、90%ですと、大半の品目の価格が変わった、ということになります。

1998年の金融危機の後、ゼロインフレやデフレの時代が続くなかで、個別の品目の値段もどんどん動きにくくなっていったことがわかります。1994年と2007年はともに平均値としてのインフレ率はゼロ近傍でほぼ同じですが、変動品目比率は8割強から6割弱にまで落ちています2

他方、2%以上のインフレの時代には、大半の品目が毎年値段が変わるようになっていく、という風にいえそうです。足もとでは、デフレ前の時期並みに値段が変わる状態に戻っています。

また、日本銀行のスタッフの最近の論文3によれば、国内からの仕入れ価格の動きに近いと思われる「企業物価」についても、海外からの仕入れ価格を左右する「為替」についても、そして人件費に相当する「賃金」についても、それぞれの上昇率が一定水準を超えた場合には、消費者物価上昇率に反映される度合いが急に高くなる、とのことです。

これは、仕入れ価格や賃金の上昇率が一定水準以下であれば我慢して、できるだけ価格改定を避けるが、自社なり取引先がどうにも我慢できなくなったら改定する、という行動パターンのように見えます。

長年行ってこなかった価格改定を行おうとすれば、タイミングや値上げ幅の判断のために、データの収集や分析も行わなければなりませんし、社内の調整、取引先との交渉も必要です。こうしたコストに加え、顧客や競争相手が想定外の反応を示すリスクも伴います。

また、会社によっては、「何かをやって失敗すると個人が厳しく責任を問われるが、何もしなかったために失敗しても誰のせいなのかはっきりしない」とか、「何かをやって成功してもそれほど報いられないが、何かをやって失敗すると厳しく責められる」といった、非対称なインセンティブ構造がある場合もあるかもしれません。

価格設定を巡るコストやリスク、インセンティブの構造に内在する非対称性を前提とすると、販売価格を維持しつつ、コストカットに取り組む、あるいは取引先にコストカットを求める、という作戦には魅力があります。他方、価格設定戦略を変える、付加価値の高いセグメントに進出する、などに取り組むには覚悟と勇気が必要になります。

しかし、世の中全体で賃金と物価の循環が回りだすと、何かをすることのハードルが下がり、何もしないことのリスクが高くなり、どこかで両者の関係が逆転すると、これまでに起きなかったような変化が起きる、という見方もできるのではないか、という気がします。

この論文では、非線形の変化が起きるその臨界点の水準まで推計しています(図表6)。水準の推計自体は相当幅を持ってみる必要があると思いますが、こうした臨界点の先の世界に入ると、価格変更のコストやリスク、インセンティブの非対称性の壁を崩しやすくなる、と解釈することもできそうな気がします。物価上昇率0%の世界はこの世界と大きな距離があるが、2%の世界はこの世界にかなり近い、といえないでしょうか。物価上昇率0%の世界は、値段が変わらない世界ではなくて、値段を変えられない世界という面があるのではないでしょうか。

今年の春頃、戦略コンサル業界の方から、「従来はコストカット戦略の相談が中心だったが、最近はプライシング戦略の相談が来るようになった」というお話を聞いたことがあります。企業の方は昔からプライシングにも心を砕いてこられたはずだと思いますが、価格をなかなか上げられない実情を踏まえると、戦略の中心はコストカットにならざるを得なかった、ということではないかと思います。

もちろん、コストカットも、プライシングも、より付加価値の高い領域を目指すことも、より低コストで作れる商品で勝負することも、いずれも大切な戦略ですが、価格設定をめぐる制約から必要以上に各企業のプロダクト・ポートフォリオに一方向のバイアスがかかってしまうとすれば、国全体としての産業構造の高度化には必ずしもプラスに働かないのではないか、という気もいたします。

他方、価格は上げられない、という前提が変わり、多様な価格戦略を試みやすい環境になると、新たな高付加価値製品の開発など、創意工夫を凝らす余地が広がっていくのではないか、ひいては企業の生産性上昇につながるきっかけにもなるのではないか、先ほど申し上げた第4段階が進みやすくなるのではないか、と考えます。

  1. 2「1990年代後半の米国の物価安定には、企業の価格決定力の低下が寄与した」との見解に対し、スタンフォード大学のテイラー教授(政策金利の水準に関する「テイラー・ルール」で知られる)は、「むしろ低インフレが企業の価格決定力を低下させたのではないか」と論じたことがあります。John B. Taylor, "Low Inflation, Pass-Through, and the Pricing Power of Firms," European Economic Review 44 (2000) 1389-1408.
  2. 3佐々木貴俊、山本弘樹、中島上智「消費者物価への非線形なコストパススルー:閾値モデルによるアプローチ」日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、2023年5月

3.日本銀行の金融政策運営

粘り強い緩和の継続

では、こうした姿に向けて、金融政策をどのように運営していくかですが、日本銀行としては、経済活動を支え、賃金が上昇しやすい環境を整えるべく、大規模な金融緩和を粘り強く続けてまいりました。現在の金融緩和の枠組みでは、短期金利を-0.1%、長期金利をゼロ%程度とする「長短金利操作(イールドカーブ・コントロール)」が中心的な役割を果たしています。

このうち、長期金利の操作については、効果も強力な反面、副作用も大きくなりうることから、昨年12月、本年7月、10月と一定の柔軟化を行っており、現在では長期金利の上限は1.0%を目途としています(図表7)。こうした工夫を行いながら、賃上げを伴う形で「物価安定の目標」を持続的・安定的に実現できると見通せるようになるまで、粘り強く緩和を継続していく考えです。

将来出口を迎えた場合に何が起こるのか

では、仮にいよいよ賃金と物価の好循環が強まり、「物価安定の目標」も持続的・安定的に達成できる、と見通せるようになったら、何が起こるのでしょうか。よく聞かれるのは、そこで却って色々な問題が起こるのではないか、という疑問です。

すなわち、「出口を迎えられるような経済状況になること自体は、長年目指してきたことであり、全体としては良い変化といえるとしても、そうなれば、これまでの大規模な金融緩和を徐々に修正していくことになるだろう。その際に生じるのは、金融政策の変更で通常想定されるような消費や投資への影響だけなのか。徹底した金融緩和をきわめて長期間続けてきただけに、国民生活や企業経営、金融機関に追加的なストレスをかけてしまうのではないか」という疑問です。

仮に出口を迎えると、家計や企業や金融機関には何が起きるのでしょうか。これは、様々な角度から考えてみる必要のある問題です。また、出口の具体的な状況や政策修正の姿にも大きく左右されますので、簡単には論じられないわけですが、本日は、一つの視点として、過去、金利のある世界から金利のない世界に移る過程で各主体の金利収支に何が起きたかを見てみたいと思います。そもそも昔のような金利の水準に戻るとは限らないわけですし、また、逆の過程で逆のことが起こるとももちろん限りませんが、参考にはなるのではないかと思います。

今年の経済財政白書には、これまでの金利変化が各経済主体にとっての受取利子率、支払利子率、そして金利収支にどのような影響を与えてきたかの分析があります(図表8)。金利収支は、それぞれの主体の運用資産額に受取利子率をかけたものと、借入金等の残高に支払利子率を掛けたものの差になります。

家計についてみると、預金金利などがまず下がりましたが、住宅ローン金利なども後を追いかけて下がってきました。ただ、家計は全体としてみれば借入額よりも預金等の保有額の方が多いので、金利収支は金利のある時代に比べれば兆円単位で悪くなった、という姿です。逆に、これから金利のある時代に戻っていく場合には、貯蓄超過主体である家計部門は、総じてみれば収支が改善するのではないか、と見ることができそうです。もっともこれは預金金利が上がるスピードと住宅ローン金利が上がるスピードの違いにも左右されますし、個別の家計ごとに影響も異なってきます。

次に、企業セクターについてみると、これまで借金を減らして手元資金を積み上げてきたこともあり、企業セクター全体としては足もとの金利収支は黒字となっています。これから金利が上昇するとしても、金利収支への影響は、借入が多く手元資金が少なかった時代に想定されたであろうよりは限定的なものとなるかもしれません。もちろん借り入れの多い企業もあれば運用資産の多い企業もありますので、個別には影響は様々と思われます。

最後に、金融機関についてみると、金利低下局面の中で利鞘が縮小を続け、金利収支はピークの半分以下になってしまいました。金利が上がっていく局面では単純にこれが逆転して利鞘が拡大する、とはいえないでしょうし、保有している長期の債券などに含み損が出るのではないか、とか、一部の借り手は金利を払えなくなって貸し倒れが生じるのではないか、といったことも気になります。

ただ、金融機関にとっては、保有債券を入れ替えて運用利回りを高める道も開けるわけですし、出口局面では経済の改善に伴い企業の投資も活発化しているとすれば、貸出の需要も増え、預金と貸出の間での利鞘もとりやすくなるだろうと思われます。すなわち、短期的には一定のストレスもありうるが、低金利が続く環境に比べれば銀行経営はずっと成り立ちやすくなると思います。移行過程をうまくマネージできるよう、適切なリスク管理が必要ですが、金融システム全体としては移行過程のストレスを乗り切れるだけの頑健性を有している、という風に見ております4

なお、以上はいずれも名目金利だけに着目した議論ですが、出口の環境では予想物価上昇率も高くなっているとすれば、実質金利の上昇は名目金利の上昇よりも小さい可能性があり、この点を考慮すると家計や企業への影響はここで議論したものと異なってきうると考えられます。

いずれにせよ、金融政策の側でも、様々な経済主体の側でも、変化をうまく乗り切るために注意深く対応の工夫を行っていく必要があるわけですが、なかでも私どもの方で一番気を付けなければならないのは、賃金と物価の好循環の状況を良く見極めて、出口のタイミングや進め方を適切に判断することだろうと思います。そこを間違わなければ、賃金と物価の好循環が強まっていくこと自体のメリットは幅広い家計と企業に及ぶだろうと考えられますので、出口を良い結果につなげることは十分可能だろうと考えます。

  1. 4日本銀行「金融システムレポート」2023年10月号IV章3節。

4.おわりに

福沢先生は、西洋文明から隔絶された江戸時代に生まれて、西洋文明に対して一気に開かれた明治維新後の時代に生きることを、「一身にして二生を経るが如し」といいました。一つの体で二つの人生を生きた我々は、西洋文明自体についての知見は西洋の学者にはかなわないとしても、一つの文明の中だけにいる西洋の学者にはない独自の視点を持つことができる、それが今の日本の学者がラッキーな点なのだ、と論じました(「文明論之概略」)。

今日お見えのみなさまも、私の世代以上の方は、日本の産業が次々に世界市場を席巻し、世界の10大銀行のほとんど、世界最大と第3位の証券取引所が日本にあった時代、日本の経済規模が米国の7割を超えた時代に青年時代を過ごし、そのあと、色々なものの世界ランキングが落ち続けた時代、デフレの時代を生きてきたわけです。まさに「一身にして二生を経るが如し」です。しかも、今日申し上げたようなことがうまく進めば、これに加えて再逆転の第3フェーズまでを経験できるかもしれません。

冒頭申し上げましたように、日本銀行では、過去25年間の金融政策運営についての「多角的レビュー」を進めています(図表9)。これまでの金融政策が、わが国の経済・物価・金融にどのように作用してきたか、それをどう評価し、今後の政策に生かしていったら良いか。本日申し上げたような点を含め、幅広い問題について私どもなりに分析を進めるとともに、みなさまのご意見をお伺いしていきたいと考えています。

本日は、大分県のご様子を含め、色々お聞かせいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。