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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策滋賀県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2024年2月29日

1.はじめに

日本銀行の高田でございます。はじめに、能登半島地震でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。本日、滋賀県の行政、財界、金融界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜りましたこと、大変光栄に思っております。皆様には、日頃から日本銀行京都支店の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますこと、厚く御礼申し上げます。本日は、わが国の経済・物価情勢や日本銀行の金融政策運営、「金融政策の多角的レビュー」についてお話しします。その後、滋賀県経済の動向や日本銀行の業務・政策運営、環境変化が及ぼした企業や家計の行動変化などに対するご意見をお聞かせ頂ければと存じます。

2.経済・物価情勢

(1)経済・物価の現状

経済・物価の現状です。海外経済は、回復ペースが鈍化しています。図表1はIMFが本年1月に改訂した世界経済見通しです。これを主要国・地域別に敷衍しますと、米国経済は、大幅な利上げの影響を受けつつも、個人消費を中心に底堅く推移しており、先行きも継続するとみられます。欧州経済は、利上げ等の影響が続くもとで、緩やかな減速が続いていますが、先行きは、減速傾向が続いたあと、徐々に持ち直していくとみられます。中国経済は、外需の減速や不動産市場の調整の影響などから、きわめて不確実性が高い状況にあります。

わが国経済は、緩やかに回復しています。図表2で実質GDPをみると、物価上昇や天候の影響が一部みられる個人消費の減少などから、直近10から12月期は、年率-0.4%の減少となっています。ただし、図表3のとおり、わが国の実質GDPは、ペントアップ需要の顕在化などに支えられ、コロナ禍前である2019年の水準を上回った水準にあります。需給ギャップは、改善傾向をたどっています(図表4)。

物価面では、消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、既往の輸入物価上昇を起点とする価格転嫁の影響が減衰しつつも残るもとで、サービス価格の緩やかな上昇も受けて、足もとは2%程度となっています(図表5)。

(2)経済・物価の先行き

ここで、わが国の経済・物価の先行きに対する日本銀行政策委員の中心的な見方をご説明します。わが国経済は、当面は、海外経済の回復ペース鈍化による下押し圧力を受けるものの、ペントアップ需要の顕在化に加え、緩和的な金融環境や政府の経済対策の効果などにも支えられ、緩やかな回復を続けると予想されます。図表6は、本年1月に公表した展望レポートにおける経済・物価見通しですが、実質GDP成長率は、政策委員見通しの中央値で2023年度+1.8%、2024年度+1.2%、2025年度+1.0%と予想しています。

消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、政策委員見通しの中央値では、2023年度+2.8%、2024年度+2.4%、2025年度+1.8%と予想しています。昨年10月時点の見通しと比べ、2024年度は原油価格下落などから下振れています。

(3)先行きのリスク要因

こうした先行きの経済見通しに対するリスク要因としては、海外の経済・物価情勢が挙げられます。1970年代の変動相場制への移行後、先進国の金融政策スタンスとそれに対応する景気サイクルは、概ね連動していましたが、感染症の展開や金融政策面の対応の違いもあり、足もと、内外の景気サイクルは大きく異なります。米欧では、一部で先行きの利下げを示唆する動きも窺われますが、なお引き締め的な金融政策運営が続いています。わが国経済は、大規模な金融緩和や政府の経済対策の効果もあり、先行きも緩やかな回復を続けるとみられますが、これまでの米欧での利上げが急速であっただけに、その影響がラグを伴いつつ海外の実体経済面・金融面に及ぶ場合、わが国経済を下押しする力が強まるリスクがあります。このほか、ウクライナや中東等を巡る地政学的リスクが資源・穀物価格、世界経済や国際金融市場に及ぼす影響についても注視が必要です。

3.最近の金融政策運営

次に、金融政策運営に対する考えをお話ししたいと思います。

現在、日本銀行は、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」という枠組みで、2%の「物価安定の目標」の達成に向けて金融政策を運営しています。「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を続けるにあたっては、常にその効果と副作用を検証しつつ政策運営を行ってきました。その過程で、市場機能の低下などに対し、現行の枠組みによる大規模な金融緩和の持続性を高めるため、一昨年来、イールドカーブ・コントロールの運用の見直しを行ってきています。物価や予想物価上昇率の上振れ方向の動きが続く場合、長期金利の上限を厳格に抑えると債券市場の機能やその他の金融市場におけるボラティリティに影響が生じるおそれがありましたが、最近の見直しは、そうした副作用を和らげることを意図したものです。なお、低金利環境が維持されるなか、図表7のとおり、一連の見直しの実施後も、短期・長期の実質金利は低水準で推移しており、緩和的な金融環境は継続しています。

粘り強く金融緩和を続けるなか、私自身としては、現在の日本経済について、不確実性はあるものの、2%の「物価安定の目標」実現が漸く見通せる状況になってきたと捉えています。すなわち、次の三つの段階を経て、企業の賃金・価格設定行動に変化が生じ、企業収益の改善と物価上昇に対応した持続的な賃金上昇による好循環や、根強く定着する賃金や物価は上がらないものと考える規範(ノルム)が漸く転換する変曲点を迎えていると考えています。

具体的には、図表8のように、第一段階では、2022年後半に海外発の原材料高のコストプッシュ――1つ目の「ビッグ・プッシュ」――で、財価格への転嫁が進みました。さらに、第二段階として、昨春の労使交渉における賃金上昇のコスト増加分――2つ目の「ビッグ・プッシュ」――の一部を、サービスを含む価格に転嫁する動きが生じています。各品目の物価上昇率の分布をみると、最近では分布が右側にシフトし、ゼロ%近傍の「山」もひと頃に比べると低下しています(図表9)。昨春の労使交渉での賃上げ率は3.6%と、1990年代前半以来の水準となりました(図表10)。サービス価格も緩やかに上昇しており、消費者物価上昇率に占めるサービスの寄与度は、米欧と比較して依然として小さいものの、その比率(エネルギーと食料を除くベース)は着実に上昇し、既に過半に達しています。賃金変動はそれ自体に高い慣性(粘着的<sticky>)がみられ、その上昇は持続的に物価を押し上げやすいという特徴があります1。なかでもベアの増額は一時的所得増と比べ「恒常所得」と捉えられ、消費の押し上げ効果が大きいという特徴があります。現在、労使交渉が続いていますが、今春の賃金改定については、昨年以上の賃上げ方針を示す企業が多数みられるなど、賃上げ機運が高まっています。昨春に続いて高めの賃上げ率が実現すれば、継続的な所得増加期待も高まりやすいと考えられます。こうしたもとで、第三段階・最終段階として、予想物価上昇率は底上げされてきています(図表11)。バブル崩壊以降のデフレ期に下方シフトしたフィリップスカーブが、長年の金融緩和も相まって、上方シフトし、第三段階の実現として持続的な物価上昇の実現に繋がり始めたと解釈できると思います(図表12)。

このように、三つの段階を経ることで、「物価安定の目標」実現が漸く見通せる状況になってきました。コストプッシュ要因による価格転嫁の動きが和らいでいくもとでの企業の賃金・価格設定行動や、先ほど申し上げた海外経済にかかる不確実性などには引き続き留意する必要はありますが、緩和効果と副作用のバランスも念頭に置きながら、今日のきわめて強い金融緩和からのギアシフト、例えば、イールドカーブ・コントロールの枠組みの解除、マイナス金利の解除、オーバーシュート型コミットメントの在り方など、出口への対応も含め機動的かつ柔軟な対応に向けた検討も必要と考えています。

  1. 以下では、賃金上昇率がある一定の閾値を超えると企業のコスト上昇による消費者物価上昇率の影響度合い(パススルー)が大きくなる点や、閾値を上回った場合の大きいパススルーが賃金上昇の場合は持続的な傾向がある点を実証的に確認しています。
    佐々木貴俊、山本弘樹、中島上智(2023)「消費者物価への非線形なコストパススルー:閾値モデルによるアプローチ」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-5

4.「金融政策の多角的レビュー」についての私見

最近の政策運営と、その背景にある私の考えをご説明しましたが、こうした状況に至るまでに長期にわたる時間を要したと言えます。以下、その背景として、1990年代以降の様々な環境変化が企業や家計の行動や賃金・物価形成メカニズムに及ぼした影響について、歴史的視点から私見を述べたいと思います。その際には、日本銀行で作業を進めている「金融政策の多角的レビュー」も踏まえつつお話ししたいと思います。

バブル崩壊後の企業行動の変化とノルムの定着

わが国の経済成長率の推移をみると、1980年代までは、わが国は高度経済成長の残り火もあり高成長が続きましたが、1990年代以降、バブル崩壊とともに一転し低成長が続きました(図表13)。2000年代は、国内での金融危機やグローバル金融危機が深刻化した影響もあって、成長率は一段と落ち込みました。2010年代以降は水準をやや回復しましたが、依然、過去の成長率とは差があります。

成長率の低下には、人口動態など様々な要因が影響していますが、バブル崩壊以降に直面した環境変化に対応した企業や家計の行動変化が大きいと考えています。具体的には、図表14に示されるような、大幅な資産デフレ環境のなかでバランスシート上の資産圧縮と投資抑制を通じた「持たない経営」の広がりと、損益計算書上における海外との競合環境を背景とする「リストラ経営」の拡大が指摘できます。本来、「リストラ(リストラクチャリング)」は業務の再編を意味する用語ですが、日本では経費削減、縮小均衡を意味するバイアスが過度にかかってしまったと思います。いずれも、個々の企業の立場からみれば環境変化を踏まえた合理的な対応ではありましたが、結果としてマクロ的には、「合成の誤謬」で縮小均衡に陥ることになりました。この間、家計では、デフレ環境のもと資産を現預金で保有することが合理的でした。今日、わが国家計の金融資産は2,100兆円を超える水準にありますが、米欧とは異なり、現預金が過半を占めるなど、現預金に対する選好を強め、リスク資産の保有を回避したことも、資産デフレを通じ、リスクマネーに資金が集まらないといったマクロでは縮小均衡に繋がる影響をもたらしました。

こうした企業の「持たない経営」「リストラ経営」は、設備投資圧縮に止まらず、人的投資の抑制も相まって、わが国の潜在成長率を低下させてきたと考えられます(図表15)。ここで、潜在成長率に関連して自然利子率の動向も紹介したいと思います。自然利子率は、「経済・物価に対して引き締め的にも緩和的にも作用しない中立的な実質金利の水準」を指します。バブル崩壊以降の潜在成長率の低下などを映じ、推計された自然利子率も――幅を持ってみる必要はありますが――長期的にみて低下傾向にあります。金融緩和の基本メカニズムは、実質金利を自然利子率より低位にすることですが、名目短期金利の実効下限制約(ゼロ金利制約)に直面し、実質金利低下を企図すべく日本銀行は伝統的な金融政策を超えて各種の非伝統的な金融政策を実施してきました。具体的には、時間軸政策を含むフォワードガイダンス、マイナス金利政策、イールドカーブ全体に働きかけるイールドカーブ・コントロールなどが挙げられ、日本は世界的にも金融政策の歴史的なフロントランナーともいえます。

ここからは、企業の「持たない経営」、家計の現預金保有に繋がった資産デフレについて、改めて歴史的観点から確認したいと思います。1980年代、ピーク時には世界の株式市場の時価総額の半分近くをわが国が占めましたが、図表16で示されるように1990年代以降、海外は米国を始め右肩上がりの拡大が続くなか、日本は長年の間、世界の成長とは隔絶された停滞が続きました。バブル崩壊後にわが国が直面した危機の本質は、一般物価の下落よりも、資産価格の下落(資産デフレ)にありました。日本の地価は、大都市ではピークから約7から8割程度下落し、金融システムに深刻なダメージを与えました。他方、企業の「持たない経営」の広がりを背景に、投資の抑制や有利子負債削減が進みました。その結果、図表17のとおり、本邦企業の自己資本比率は上昇を続け、同時に、予備的動機により現預金を蓄積する傾向が強まりました。

続いて、企業の「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境について、振り返りたいと思います。1989年のベルリンの壁崩壊以降、世界経済のグローバル化が進行しました。同時に、1980年代にかけて、わが国の経済的な存在感拡大から通商摩擦が高まるとともに、1990年代以降、為替市場では急速な円高が進行しました(図表18)。こうした通商摩擦が先鋭化した環境下、本邦企業は、半導体産業では生産シェア抑制を余儀なくされたほか、自動車など幅広い業種で海外への生産拠点のシフトが求められました。また、円高環境でも輸出価格を据え置いて国際競争力を維持し、同時に、輸入品の価格下落――価格破壊とも評されました――に対処し、国内では、リストラに向けた経営やマージンを圧縮しつつ従業員の賃金を上げない対応が定着しました。この点、図表19のとおり、デフレ期と評される1990年代後半以降、長年にわたり給与増加が物価上昇率を下回って推移しました。企業としては、賃上げや販売価格への転嫁を行えば競争力を失うとの意識のもと、賃上げや値上げを抑制していたと考えられます。賃金や販売価格を据え置く行動原理が当然であると受け止められるようになると、企業は、原材料価格が上昇しても販売価格にコストを転嫁せず、コスト削減によって吸収することが習慣化されるようになりました。賃金も価格も据え置くことが当たり前だとノルムとして定着した状況です。実際、最近の研究では、図表20のように、バブル崩壊以降20年近くにわたり、企業の価格支配力などが反映される価格マークアップの縮小傾向のもと、労働市場における企業の賃金交渉力などが反映される賃金マークダウンによる賃金抑制傾向を強める、言わば「消耗戦」で収益を確保してきたことが示されます2。縮小均衡による長年にわたるデフレ圧力の証左とも言えるかと思います。

  1. 2青木浩介、高富康介、法眼吉彦(2023)「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-4を参照。

ノルムの根強さ――トラウマの視点から――

このように、わが国企業にとって、バブル崩壊後の環境変化は、大きな痛みを伴ったトラウマのような経験であり、その対応に向けた「持たない経営」と「リストラ経営」は縮小均衡に繋がり、四半世紀近くにわたって賃金・物価は上がらないと考えるノルムの定着に繋がりました。わが国の物価上昇率に関する予想形成は、過去の経緯に影響を受ける「適合的」な側面が強いことが実証研究で示されていますが、こうした負の経験が大きく影響していたと考えられます3

ここで、ノルムの根強さをみる観点で、負の経験について1つの試算を紹介します。図表21では、多くの人が就業すると考えられる22歳から、毎月一定金額を日経平均株価に投資したと仮定した場合の累積リターンがマイナスの期間を世代別に示しています。過去10年余り株価上昇が続いたことから、20歳代や30歳代の世代は、マイナスを殆ど経験していません。一方、40歳代・50歳代の世代は、バブル崩壊後の長期間の株価低迷から、就業してから半分近くの期間でマイナスを経験してきたことが確認できます。以上は、一例としての株価による試算ではありますが、現在、企業等の組織で中核を占める40歳代・50歳代の世代を中心に、長期にわたる負の経験、トラウマのような経験があったことが、先にお話しした慎重化した企業行動や家計行動の根強さの一因になっていると考えられます。こうした企業行動等の転換には、1つの世代を形成する10年単位(decade)と、予想以上に時間を要する可能性も示唆されます。同様に、予想物価上昇率の「適合的」な期待形成においても、ノルムが定着した期間が長いだけに、その慎重化した状況からの転換、上昇には当初の想定をはるかに超える時間を要するという解釈もできると思います。また、先行きの期待形成への意識が世代間で大きく異なる可能性も示唆されます。

  1. 3大きなショックが経済に与える影響は、経済学では「傷跡効果」(scarring effect)と呼ばれることもあります。

2010年代以降の環境変化と最近の注目点

もっとも、バブル崩壊後の企業行動や家計行動の背景にあった要因は、既に大きく転換しています。まず、2010年代入り後、株式や不動産市場を中心に資産価格は安定的に上昇するなど、「持たない経営」に繋がった資産デフレはこの10年間で大きく改善しています。足もと、株式市場は日経平均株価でみて最高値圏の水準に戻っています。「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境についても、「六重苦」4と言われた環境から、為替円安が進展し、当時の通商摩擦の状況から様変わりし、今日では経済安全保障の観点を含む環境の変化から、熊本や北海道で半導体の国内生産を強化するなど歴史的な転換もみられています。

2021年3月の「より効果的で持続的な金融緩和を実施していくための点検」では、金利低下が需給ギャップを改善させる効果の波及経路として、資金調達コストの低下を通じた経路に加え、金融資本市場(株価・為替)を通じた経路も大きな影響を与えていたことが示されています(図表22)。この結果からは、日本銀行の金融緩和が、バブル崩壊後の企業行動の変化を招いた要因である資産デフレや円高も含めた「六重苦」からの転換に貢献した可能性が示唆されます。日本銀行が長年にわたって粘り強い緩和姿勢を続けてきたのは、ノルムの転換に時間を要したことも一因と考えられますが、同時に、粘り強い緩和を継続することで資産価格を通じた金融市場の安定に寄与してきた面もあると思います。

10年にわたる資産デフレや海外との競争環境の改善は、前掲図表21でもみたように、バブル崩壊後の負の経験や縮小均衡を経験していない新たな若い世代の出現にも繋がっています。こうした若い世代はグローバルにも「z世代」と称されることもありますが、先述の過去のトラウマに囚われない世代が徐々にわが国の経済活動において存在感を高めてきたことは、これまで浸透してきた行動原理、ノルム等からの変化が生じている背景の1つと考えられます。10年以上が経過し、新たな世代の台頭で、漸く縮小均衡を脱する変化の兆しが生じてきたと考えることもできます。

足もとでは、「持たない経営」や「リストラ経営」に代表されるバブル崩壊後続いた企業行動の転換が始まり、賃金や販売価格を据え置く行動原理が当然であるという企業の考え方にも変化が生じています。先ほど紹介した1990年代前半以来の高水準の賃金上昇は、バブル崩壊以降続いた、価格マークアップが縮小すると同時に、賃金を引き下げることによる「消耗戦」とも言える状況に変化が生じていることの現れだと思います。こうした変化を受け、賃金も物価も動かないことを前提にしていた状況――慢性デフレのサイクル――から、賃金・物価とも上がるサイクルに入ってきたと考えています(図表23)。そうしたもと、より柔軟な賃金・価格設定や商品戦略を取るうえで、生産性改善や人的資本も含めた投資が行われる前向きな循環が動き出したと捉えています。依然、中小企業への価格転嫁の波及は課題を残していますが、最近では、価格転嫁を起点に、中小企業も含めて一部にこうした動きに踏み出す事例も生じています。また、人手不足や賃金上昇も生じたなか、一部に事業継続を断念する企業が生じる面はありますが、事業承継やM&Aも含め、一定のイノベーションを促す力が働き出したと考えることも可能です5。こうした循環が生じ始めた背景には、金融緩和が継続したもとで、長年にわたる企業の有利子負債削減などから財務内容が改善してきたこと――すなわち、変化に向けた「下地」――もあるとみています。企業部門では、マクロでみて受取利息が支払利息を上回るほどに利払負担が低下しており、財務内容の改善度合いの大きさがみてとれます(図表24)。ちなみに、このことは、企業部門が、金融政策の出口における金利上昇に対し、マクロでみて従前と比べて耐性をもった状況であることを示唆します。

加えて、社会の構造面から、DX化に向けた動きや脱炭素に向けた世界的な取り組みなど、新たな社会への転換に向けた投資意欲が高まっており、投資抑制姿勢からの変化に繋がるため、注目しています。労働市場にも新たな働き方の導入を含めた様々な動きが生じています。これらは資本蓄積、労働市場の流動化や生産性の向上などを通じて、わが国の潜在成長率を引き上げる可能性もあります。

なお、最近の大きな変化は、名目GDPが596兆円と、2015年の政府目標であった600兆円に接近するなど、その伸びが高まっていることです。売上、利益、給与など、企業活動は名目値であるだけに、名目ベースで経済活動が拡大していることにも注目しています(図表25)。

  1. 4東日本大震災後から2012年頃まで、企業が直面した「六重苦」として、円高、経済連携協定の遅れ、法人税率の高さ、労働市場の硬直性、環境規制、電力コスト高が指摘されましたが、そうした状況は全体として改善しています。詳細は、「令和3年度 年次経済財政報告―レジリエントな日本経済へ:強さと柔軟性を持つ経済社会に向けた変革の加速―」や「平成29年度 年次経済財政報告―技術革新と働き方改革がもたらす新たな成長―」を参照。
  2. 5「令和5年度 年次経済財政報告―動き始めた物価と賃金―」では、「経済産業省企業活動基本調査」の調査票情報を活用して、研究開発や人的資本など、無形資産への投資はマークアップ率とプラスの関係性があることを確認している。

バブル崩壊後のバランスシート調整と中央銀行の財務

改めてバブル崩壊以降を振り返ると、前掲図表14で示した企業による資産・負債の圧縮――バランスシート調整――は、不良債権処理を進める過程で金融機関が損失を負担し、公的資金注入に繋がりました。加えて、経済全体の低迷を受け、財政支出が拡大傾向をたどり、政府債務の増加にも繋がりました。同時に、日本銀行では、「物価の安定」が課題となるなかで、非伝統的金融政策を実施してきました。言わば、資産デフレを起点とした日本全体のバランスシート調整と表現できるかと思います。そうしたプロセスのもと、日本銀行が、国債の半分近くを保有し、市場の金利リスク量の多くを抱える状況でもあり、日本銀行の財務に関する疑問や懸念もしばしば寄せられます。以下では、中央銀行の財務について、金融政策の引き締め局面の状況を中心にお話ししたいと思います6

大規模な金融緩和のもと、中央銀行が国債等の買入れによってバランスシートを拡大すると、資産側では国債等、負債側では当座預金が両建てで増加します。買い入れる国債の利回りは、通常、付利金利を上回る――順イールド――ため、保有国債等の増加に応じて全体の収益が拡大することになります。一方、金融政策が引き締めに向い、バランスシートが縮小する出口局面では、金利操作のために当座預金に対する付利金利を引き上げることで、支払利息が増加し、中央銀行の収益は下押しされます。このように、出口局面入りの後、しばらくの間は収益が下押しされますが、その後、当座預金減少に伴う支払利息の減少に加え、保有国債が満期償還時に再投資され順次利回りの高いものに入れ替わり、受取利息が増加することが見込まれます。このため、長い目でみれば中央銀行の収益はいずれ回復することになります。また、保有国債に一時的に評価損が生じても、償却原価法で評価しているため、期間損益には直接影響しません。中央銀行は長い目でみて収益が確保される構造にあるほか、自ら支払決済手段を提供することができるので、一時的に赤字や債務超過になっても政策運営能力は損なわれません。ただし、いくら赤字や債務超過になってもいいということではなく、中央銀行の信認の低下に繋がることを回避すべく、財務の健全性に留意しつつ適切な政策運営に努める必要があると考えています。

このように、中央銀行の財務は民間の金融機関や事業法人とは大きく異なっています。先ほど、バブル崩壊後の日本全体のバランスシート調整とお話ししましたが、この間、日本銀行が「物価の安定」を実現するために実施してきた大規模な金融緩和は、結果として、中央銀行の財務特性を活かすことで、日本全体のバランスシート調整プロセスを支えた側面もあったように思います。

以上、バブル崩壊後の企業行動の変化とノルムの定着を中心にお話しさせて頂きました。10年以上が経過して漸く、バブル崩壊後の企業・家計の行動が前向きに変わりだす変曲点を迎え出したと考えられます。前段で、今日のきわめて強い金融緩和からのギアシフトを展望したのも、こうした転換を背景としたものです。この後、皆様から率直なご意見を賜れますと幸いです。

  1. 6日本銀行企画局(2023)「中央銀行の財務と金融政策運営」、日本銀行調査論文・多角的レビューシリーズを参照。

5.滋賀県経済について

最後に、滋賀県経済について、お話しさせて頂きます。

滋賀県は、琵琶湖を始めとする豊かな自然環境に恵まれた土地柄で、古くから交通の要衝として栄えてきました。その最大の特徴は、全国有数の内陸型工業県として製造業のウエイトが高い点にあります。京阪神・中部圏・北陸圏へのアクセスが良いという地の利を活かして、化学、はん用・生産用・業務用機械、電気機械など多様な業種の工場が集積しており、県内総生産に占める製造業のシェアは全国トップとなっています。また、京阪神通勤圏という交通利便性の高さもあって子育て世帯が継続的に流入しており、全国に比べて人口減少ペースが緩やかに止まるという特徴もみられます。

さらに、滋賀県は琵琶湖の水質汚染問題に長らく取り組んできたこともあり、積極的にSDGs(持続可能な開発目標)に取り組んでいることでも有名です。2017年に全国に先駆けてSDGsを県政に取り込むことを宣言されて以降、2019年には最上位計画である「滋賀県基本構想」にSDGsの観点を本格的に取り入れ、2021年には琵琶湖版のSDGsである「マザーレイクゴールズ」を策定するなど、官民一体となって環境保全と経済活動の両立を図る取り組みが進められています。

当地経済の先行きを展望すると、中長期的にグローバル需要の拡大が見込まれる半導体・EV関連分野への投資や、新名神高速道路の整備に伴い物流施設の建設などが予定されています。また、観光面では、コロナ禍からの早期回復を図る観点から新たな観光振興ビジョン「シガリズム」を策定されたもとで、自転車で琵琶湖を一周する「ビワイチ」をはじめ、体験・交流機会の提供強化などに努められており、インバウンドの回復とも相まってさらなる魅力向上・誘客促進が期待されます。

近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の精神を受け継ぐ当地の皆様のこうした取り組みが大きな成果となって、滋賀県経済がさらなる発展を遂げることを祈念いたしまして、結びの言葉とさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。