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【講演】 わが国における過去25年間の物価変動 日本銀行金融研究所主催2024年国際コンファランスにおける基調講演の邦訳

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日本銀行副総裁 内田 眞一
2024年5月27日

1.はじめに

日本銀行金融研究所主催の国際コンファランスにご参加いただいた皆様に、心より御礼を申し上げます。植田総裁による開会挨拶でも触れましたとおり、日本銀行は、過去25年間の金融政策運営についての「多角的レビュー」を実施しているところです。この間の金融政策運営は、端的に言えば、「しつこいデフレとの闘い」であり、「ゼロ金利制約との闘い」でした。

最初に、この期間中のインフレ率の推移を概観します(図表1)。わが国のデフレは1990年代末に始まり、15年間にわたって続きました。この間の平均値をとると、前年比-0.3%程度でした。マイルドな、しかし、しつこいデフレだったということです。

こうした事態に対処するため、日本銀行は、2013年に2%の「物価安定の目標」と量的・質的金融緩和(QQE)政策を導入し、2016年にはマイナス金利政策およびイールドカーブ・コントロール(YCC)を導入しました。その結果、デフレではない状態を実現することはできましたが、インフレ率の平均値は前年比0.5%と、目標の2%に満たないものでした。最近では、世界的なインフレを契機に、わが国のインフレ率は3%程度に上昇しました。

大きな論点は、現在の物価を巡る動向の変化が、不可逆的なデフレからの構造変化を意味するのか、あるいは、単に世界的なインフレによってもたらされた一時的な現象にすぎないのか、ということです。本講演では、この重要な問いに対し、私なりにお答えしてみようと思います。このことは、日本銀行の金融政策運営の先行きのみならず、日本経済の将来にとっても示唆を与えるものであると考えます。

2.日本のデフレの原因

資産バブルの崩壊と慢性的な需要不足

そのためには、まず、1990年代にまでさかのぼって、日本のデフレの原因を探ってみる必要があります。デフレが生じた背景として、実体経済面では、日本経済が、「成長トレンドの低下」と「慢性的な需要不足」という2つの事象を経験した点が挙げられます(図表2)。

そうなった原因は複合的なものですが、最も重要な要因は、1990年代初頭の資産バブルの崩壊だと考えられます。バブル崩壊後、金融システムの混乱や、企業部門における痛みを伴うバランス・シート調整のプロセスが生じました。企業は、過剰設備、過剰雇用、過剰債務への対応を余儀なくされました。こうしたもとで、企業は、次第にリスクテイクに慎重になり、新興国の台頭に伴うグローバル化の潮流に対応して、自らの事業展開を迅速に変化させることができませんでした。貯蓄投資バランスをみると、企業部門はこの頃から貯蓄超過に転じました(図表3左パネル)。また、企業は限られた資金の大半を海外投資に振り向けました(図表3中央パネル)。この結果、国内資本ストックの蓄積および労働生産性の上昇率が低下し、潜在成長率が下がりました(図表3右パネル)。

こうした中、自然利子率(r*)は、他国対比で、より早くかつより大きく低下しました。よく知られているとおり、r*を計測することは容易ではなく、足元の推計値も、モデルによって、-1.0%から+0.5%の範囲でばらついています(図表4)。ただ、いずれにしても、わが国のr*は低く、かつ、趨勢的に低下してきたことは確かです。そうでなければ、この20~30年間に起きた事象を説明することはできません。

人口減少・高齢化と自然利子率の低下

バブル崩壊に加え、人口減少・高齢化もr*の低下に影響した可能性があります。人口動態がr*に及ぼす影響は理論的にも単純ではありません。r*は、一人当たりGDP成長率に関連付けられることが多いですが、労働投入の変化と経済規模の変化が同じペースであれば、人口減少がr*を低下させるわけでは必ずしもないはずです。もっとも、従属人口比率が上昇すれば、一人当たりGDP成長率は低下することになります(図表5)。

この従属人口比率の問題に対する解決策は明らかで、長く働けるようにすることです。この点、シニア層は昔よりもはるかに健康であるわけですが、2010年代に入るまで、このことは一般的にならず、シニア層の労働参加率は、2012年頃になって、ようやく上昇し始めました(図表6)。その時期、QQEやその他の政策による積極的な経済刺激のもとで、わが国は、バブル崩壊後初めて、人手不足を経験するに至りました。つまり、それ以前は、企業がシニア層の労働力に頼る必要が必ずしもなかったということです。

ご存じのとおり、日本は高齢化が最も進んだ国の1つです。2019年に日本がG20の議長国を務めた際にも、「高齢化」は優先的な検討事項の1つでした。出席者たちが様々な角度から議論してたどり着いたのは、当然とも言える結論ですが、高齢化の影響は複雑だ、ということでした。シニア層がライフサイクルに応じて貯蓄を取り崩すのであれば、r*は上昇するはずですが、一方で、人々がいわゆる長生きのリスクを強く意識する場合には、若いうちからより貯蓄し、老後も取崩しペースを抑えることになります。私は、人口減少・高齢化自体が問題であると言いたいわけではありません。むしろ、人口減少・高齢化に起因する問題に対して、社会がうまく対応できなかった、あるいは、対応が緩慢であったようにうかがえる、ということです。

わが国では、人口問題はネガティブな意味合いで議論されることが多いように思います。企業は、需要サイドに注目して、国内市場の縮小を心配する傾向が強かったですが、一方で、人口減少は労働力の減少も意味します。もっとも、こうした労働供給サイドの含意は、デフレ期には、あまり意識されてきませんでした。これは、企業にとっては、ある意味当然のことで、自社の雇用を過剰だと考えていたからです(図表7青地部分)。この点については、後ほど触れたいと思いますが、ここでは、労働市場が鍵であるとだけ、申し上げておきます。

インフレ率と予想インフレ率の低下

それでは、話題を物価動向に移しましょう。実績のインフレ率と予想インフレ率をみると、ともに1990年代に低下し、2000年代には低水準で推移したあと、2013年入り後に幾分上昇しました(図表8)。

わが国のインフレ予想には2つの特徴があります。第1は、実体経済の成長トレンドや予想成長率と、高い正の相関を持っているという点です(図表9)。第2は、中長期のインフレ予想の形成が、フォワード・ルッキングというよりは、適合的である点です(図表10)。もちろん、こうした傾向は、中央銀行の政策担当者にとっては、好ましいことではありません。インフレ予想がアンカーされておらず、実体経済や実績のインフレ率の動向を映じて変動することを意味するからです。

端的に言えば、この間に生じたことは、以下のとおりです(図表11)。1990年代から2000年代にかけて、インフレ率は、慢性的な需要不足によって、低下しました。成長トレンドとr*が低下する中、その多くが伝統的政策手段であった、当時の日本銀行の金融政策は、ゼロ金利制約のもとで、需要を十分に刺激することができませんでした。需要低迷が長引くもとで、インフレ率には上昇圧力がかからず、日本銀行がインフレ率を押し上げることができないとの見方のもと、予想インフレ率は低いままで推移しました。要すれば、ゼロ金利制約に直面するもとで、日本銀行の金融政策は、実績インフレ率や予想インフレ率を押し上げる十分な力を発揮できなかったと言えます。もっとも、当時の政策対応は、流動性を潤沢に供給することで、金融システムを守ることに貢献した、という点は付言しておきたいと思います。

2013年以降は、QQEやYCCの導入によって、日本銀行は、ゼロ金利制約を一定程度は克服しました。実質金利はマイナス圏で推移し、r*が低い水準であったことを踏まえても、金融政策は極めて緩和的な状態にありました(図表12)。もっとも、経済に十分な刺激を与え、経済全体の姿を変えるには、さらに10年以上の年月を要しました。

3.デフレ的なノルム

デフレ的なノルムの発生

ここまで、私は、政策担当者の一人としての視点から、日本経済がデフレに陥り、そこから抜け出せなかったメカニズムを説明しました。これが、日本に起きたことの主たる部分だと思っていますが、皆様の学術的な観点からは、特に興味を引く話ではないかもしれません。結局は、ゼロ金利制約下で生じる標準的な話です。

しかし、日本のデフレの全体像を説明するうえでは、別の話を付け加える必要があります。それは日本だけが経験した現象であり、マイルドでしつこいデフレが、「現在の物価と賃金は将来も変わらない」という、ある種の社会的なノルム(social norm)を生み出したということです。ここで、私が「社会的(social)」という言葉を使うのは、それが単なる経済的な現象にとどまらないからです。

消費者物価指数(CPI)の品目別価格上昇率の分布をみますと(図表13)、日本では、多くの品目がゼロ%のところに集中しています。一方、米国をみると、ピークは2%付近にあり、その分布は、日本に比べてばらつきが大きくなっています。なお、このグラフは、感染症拡大とその後の世界的なインフレが生じる前のものです。企業の間では、「物価と賃金が変わらない(no change in prices and wages)」ことを前提とした価格設定行動が広がり、ある種のノルムとなりました。企業は、顧客を失うことを恐れ、価格を据え置くことになりました。

では、なぜこのようなノルムが生まれたのでしょうか。この点も、契機は、慢性的な需要不足でした。需要不足に直面した場合の企業の対応は、教科書的に言えば、将来の回復を期すため、価格を下げ、生産量を削減し、従業員を減らす、ということになるでしょう。しかし、日本では、そうなりませんでした。社会には、できる限り雇用を維持すべきだという強いコンセンサスがありました。企業は雇用を守り、政府も様々な補助金や一時休業制度、公的金融などで企業を支援しました。結果として、失業率は、ピーク時でも大きくは上がらず、企業の倒産件数も限定的でした(図表14)。

価格面をみると、企業にとっては、競合他社が残り、絶えず厳しい競争に晒され続けることになりました。賃金面をみると、雇用の安定と引き換えに賃金は削減されました(図表15)。また、企業は、退職者をパートタイム労働者で補おうとするようになりました。こうして、価格マークアップが大きく低下し、一方で、賃金マークダウンが上昇することになりました(図表16)。

このほど日本銀行が実施した企業向け大規模アンケートでは、多数の回答企業が、厳しい競争環境のもとで、顧客へのコスト転嫁を控えたと回答しています(図表17左パネル)。そのかわり、人件費を抑制したり、調達先に値下げを依頼することによって、コスト削減を図る、あるいは、単に利潤の減少を受け入れるなどの対応がとられました(図表17右パネル)。

また、こうしたデフレ的なノルムのもとでは、高品質の製品・サービスを生み出して値上げする方向に舵を切ることは難しかった、とも答えています。実際、回答企業の70%以上が、将来の姿として、マイルドな物価上昇と賃金上昇を伴う状態のほうが、インフレ率がゼロ%である状態よりも望ましいとしています(図表18左パネル)。コスト転嫁が可能になり、事業展開しやすいという理由です。さらに、そうした状況になれば、コスト削減よりもむしろ投資を増やし、賃金も上げられる、と述べています(図表18右パネル)。

これらの結果は、よく知られたいくつかの事実とも符合します。過去25年間、日本企業は、新たな製品・サービスの創出に向けたプロダクト・イノベーションよりも、コスト・カットのためのプロセス・イノベーションを進めてきました。このことは、企業の価格マークアップの低下と、原因でもあり結果でもあるという意味で、関係しています。研究開発投資を十分行えず、結果として、製品・サービスを十分に差別化できなかった面があるということです。

こうしたデフレあるいはデフレ的なマインドセットが、当時の景気低迷の根本的な原因である、とよく言われます。もっとも、この点について、皆様からは、原因と結果を混同しているとの反論がありうると思います。また、相対価格と一般物価を混同しているというご指摘もあるかもしれません。もちろん、理論的には、全体的なインフレ率がゼロ%であっても、個別の製品の相対価格の変化は起きえます。すなわち、企業は、全体的なインフレ率にかかわらず、個別製品・サービスの相対価格を上げられるはずだということです。基本的には、私もそのように考えます。こうしたノルムが、経済にマイナスの影響を及ぼしてきたかどうか、また、そうだとして、いかなる経路で作用してきたのか、説明することは簡単ではありません。

メニュー・コスト

ノルムについて理論的に説明するとすれば、名目賃金の硬直性やメニュー・コストなどがその候補として考えられます。ここでは、メニュー・コストについて、少しお話したいと思います。というのも、それはこの期間に起こった重要な出来事のいくつかをうまく描写しているように思うからです。

日本では、価格改定の頻度が1990年代にサービス部門を中心に低下しました(図表19)。値上げ頻度、すなわち、価格が上昇した品目の割合(青線)は、基調的なインフレ率の低下とともに低下しました。こうした値上げ頻度の低下自体は、極めて自然なものですが、その低下幅が大きかったことは注目すべき点です。同時に、値下げ頻度、すなわち、価格が下落した品目の割合(緑線)は、基調的なインフレ率が低下してもわずかしか上昇しませんでした。値上げ頻度の顕著な低下と値下げ頻度のわずかな上昇を合わせて考えると、企業が価格改定をためらっていたこと、すなわち、メニュー・コストの増加が示唆されます。この点、前述の企業向け大規模アンケートでは、企業は、コストの価格への転嫁を手控える理由として、他の理由に交じって、「値上げによるイメージの悪化懸念」を挙げています(再掲図表17)。私が、「経済的」な現象を説明するのに、あえて「社会的」ノルムという言葉を使ったのは、こうしたことがあるからです。

メニュー・コストの増加は、物価変動の小ささと相まって、価格の調整のペースを鈍化させることになりました。これは、政策担当者からみると、この状況から抜け出すために、一段の取組みが必要になることを意味します。「物価と賃金が変わらない」というノルムは、あたかも、インフレ予想がゼロ%でアンカーされているかのように働きました。実際、前述のCPIの品目別価格上昇率の分布が示す通り、米国の2%でのピークに比べて、日本のゼロ%でのピークはとても高いものになっており、ゼロ%へ引き寄せる重力は2%のアンカーよりも強いと考えられます。

4.デフレ的な状況からの脱出

こうした状況から抜け出すためには、2つのことが必要でした。第1に、デフレのそもそもの原因、すなわち、需要不足とその結果として生じた過剰な労働供給という問題を解決しなければなりません。第2に、メニュー・コストの閾値を超えること、より根本的には、デフレ的なノルムを克服しなければなりません。

前者に関しては、QQEやその他の緩和的な金融政策手段が、政府による様々な施策と相まって、経済に強力な刺激効果をもたらし、女性やシニア層を中心に500万人以上の新規雇用を創出しました(図表20)。これらは、基本的には、高圧経済の戦略です。

図表21が示す通り、QQEの時期の労働市場では、雇用者報酬の前年比が概ね2~3%で安定的に推移していました。その内訳をみると、感染症拡大前までは、雇用者数の伸び(青棒グラフ)がけん引するかたちでしたが、その後は、女性やシニア層による追加的な労働供給の余地が限られるもとで、賃金の上昇(白棒グラフ)がけん引するかたちに変わりました。このように、感染症拡大以降、労働市場の構造は変化したと考えられ、この先も賃金は上昇していくとみています。

また、このことは、裏を返せば、2013年にQQEを始めたときには、日本経済にはまだ大きなスラックが残っていたことを意味します。その当時は、女性やシニア層からこれほどの規模の追加的な労働力が供給されることは、予想されていませんでした。もちろん、この事実は、わが国の人口動態についての課題に対処するうえでは、好ましいことです。また、別のタイプのスラック、いわば隠れたスラックとして、顧客に対する過剰なサービスを、企業が無償で提供していたということも挙げられます。これは、個々の企業に雇用面の余剰があってこそ可能になったことです。日本銀行は、10年間にわたって経済に高圧をかけ、ようやくこうしたスラックはなくなっていきました。

もうひとつのやるべきことは、メニュー・コストの閾値を超えること、あるいはデフレ的なノルムを克服することです。この点について、まずわかっていることは、近年の世界的なインフレを契機として、メニュー・コストが通常の水準に戻ったように窺われる、ということです。実際、価格改定頻度は、1990年代初頭の水準まで戻っています(再掲図表19)。CPIの品目別価格上昇率の分布も、形状が大きく変わりました(図表22)。分布のばらつきは大きくなっており、分布のピークも低くなっています。この点は、最近の状況を考えると驚きではないですが、問題はこれが、近年の世界的なインフレゆえの一時的なものなのか、不可逆的な構造変化によるものなのか、ということです。のちほど、デフレ的なノルムという根本的な論点に焦点を当てて、この問いについて改めて議論します。

5.まとめと今後の展望

さて、結論を述べる前に、今日ここまでのお話をまとめておこうと思います(図表23)。まず、1990年代の資産バブルの崩壊後、金融システムの混乱と、企業部門の痛みを伴うバランスシート調整が生じました。こうしたもとで、企業部門だけでなく社会全体として、グローバル化の潮流への対応と人口減少・高齢化への対応が遅れることとなりました。

基調的な経済成長率は低下し、慢性的な需要不足、特に労働市場における需要不足が起こりました。r*も低下しました。物価面では、実績のインフレ率と予想インフレ率がともに低下したものの、ゼロ金利制約のもとで、日本銀行の金融政策には、それらを押し上げる十分な力がありませんでした。

こうした困難な状況に対し、社会には雇用を維持するというコンセンサスがありました。政府の支援のもとでの企業による雇用維持は、過剰な雇用や企業数が残ることと引き換えに、経済と社会の安定に貢献しました。価格マークアップが大きく低下し、賃金マークダウンが上昇しました。こうして、「物価と賃金は上がらない」という考え方は、一種のノルムとなりました。企業は、プロダクト・イノベーションよりもプロセス・イノベーションに傾斜するようになり、そのことがさらに価格マークアップと相互に影響を与え合いました。

日本銀行は、2013年以降、QQEやYCCなどの政策によって経済に高圧をかけ続け、政府の諸施策と相俟って、女性やシニア層を中心に数百万人の雇用を創出し、雇用環境を人手不足の方向へ徐々に変えていきました。そして、近年の世界的なインフレは、デフレ的なノルムに対する最後の一押しとして作用しました。以上がまとめです。

それでは、今日の基調講演の冒頭で、私自身が提起した問い、すなわち、わが国で現在みられている傾向は不可逆的なものなのか、にお答えしたいと思います。すでに述べたとおり、これまでの状況を変えるためには、2つのことが必要です。デフレのそもそもの原因を解消することと、デフレ的なノルムを克服すること、です。

1点目については、自信を持って「イエス」と答えられます。労働市場の環境が構造的かつ不可逆的に変わったためです。この先、女性やシニア層から多くの追加的な労働投入を期待することには無理があります。日本の女性の労働参加率は、米国の労働参加率を超えています。もっとも、正確に言えば、女性がフルタイムでより長い時間働けるようにすることや、企業が人手維持のため定年延長することなど、まだ労働供給の余地は残されています。これらの取組みは、適切かつ必要なものですが、今回お示しした大きな姿を変えるほどの規模で行うことは難しいと思います。

2点目の、デフレ的なノルムの克服については、答えはそこまで明白ではありません。世界的なインフレがもたらしたコスト・プッシュ圧力が減衰しても、企業は現在の価格設定行動を続けるでしょうか?その鍵は、やはり労働市場です。労働市場の構造変化が持続する限り、企業は、働く従業員を保持し、惹きつけるために、充分な利益と賃金を生み出すビジネス・モデルを構築しなければなりません。価格設定戦略においても、企業は、労働コストに変化があれば、需要への影響も考えながら、メニュー表を速やかに書き直す必要が生じます。

「社会的なノルム」は解消に向かっています。この動き、そして長らく待ちわびた構造変化をもたらしている主な推進力は、人手不足です。人手不足は、個々の企業の変革と経済全体のダイナミズムをもたらすでしょう。そして、人手不足による変革のプロセスは、失業の増加につながる可能性が相対的には低いことから、他のプロセスと比較して、より低いコストで移行が進むと考えられます。

この10年間、QQEやYCCおよびマイナス金利政策のもとでの経験を経て、日本銀行は、今年3月に、これらの一連の非伝統的な政策手段がその役割を果たしたと判断して、短期政策金利の操作を通じて2%の物価安定の目標を目指す伝統的な金融政策の枠組みに戻りました。このことは、ゼロ金利制約を克服したことを意味します。引き続き、インフレ予想を2%にアンカーしていくという大きな課題は残っていますが、デフレとゼロ金利制約との闘いの終焉は視野に入りました。

最後に、この言葉で締め括りたいと思います。「今回こそはこれまでと違う(This time is different)」。