【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策熊本県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 安達 誠司
2024年5月29日
1.はじめに
日本銀行の安達でございます。この度は、熊本県の行政、財界、金融界を代表される皆様とお話をさせて頂く貴重な機会を賜り、誠にありがとうございます。また、皆様には、日頃から私どもの熊本支店の様々な業務運営にご協力頂いておりますことを、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。
本日は、わが国の経済・物価情勢と日本銀行の金融政策運営につきまして、私の考えを交えつつお話しします。その後、皆様方から、熊本県経済の動向や日本銀行の業務・金融政策に対する率直なご意見をお聞かせ頂ければと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
2.足もとの円安と金融政策
通常であれば、金融経済懇談会でのご挨拶の冒頭では、経済・物価情勢についてお話しさせて頂くところですが、このところ為替が1ドル=160円を窺う展開となるなど、円安が進展するもとにおいて、為替変動への対応について日本銀行に様々なご意見を頂戴する機会が増えているという状況を鑑み、今回は為替変動に対する日本銀行の対応について、私見を交えつつお話しさせて頂きたいと存じます。
まず、大原則としてですが、金融政策の目的は、あくまでも「物価の安定」です。金融政策の自立性、自由な資本移動、為替レートの安定を3つ同時に達成することはできないという「国際金融のトリレンマ」をベースとした考え方を踏まえると、短期的な為替レートの変動を金融政策によってある一定の水準で固定しようとした際には、その代償として、その後の金融政策運営に大きな制約がかかってしまうことになります。
これを足もとの実態に当てはめて考えてみます。現在のように、変動幅が非常に大きな為替レートを安定させるために、金融政策を頻繁に変更すると、金利の変動幅も大きくなることが想定されます。金利があまりにも大きく変動することになれば、先行きの金利の予想が困難となり、家計の住宅投資や企業の設備投資などの資金調達に支障をきたします。資金調達が困難になれば、当然のことながら経済活動にも悪影響を及ぼします。このように、短期的な為替変動への対応を金融政策で行うと「物価の安定」に影響が出てしまうと考えます。
それでは、為替変動に対して金融政策で対応すべき時はどのような場合であるかを考えてみたいと思います。現在、日本銀行は、2%の「物価安定の目標」のもとで、その持続的・安定的な実現を目指しています。そのため、過度な円安の状況が長期化して物価の動きに影響が生じることで、「物価安定の目標」の実現に影響を与えると予想される場合には、金融政策による対応も選択肢の一つになると思います。ここで具体的にイメージをして頂くために、為替変動がどのように物価へ影響を与えるかについてお話しします。為替変動は、円建ての輸入物価に直接的に影響を与え得る要因です。輸入物価は、財価格へタイムラグを伴って連動する傾向があり、この輸入物価の変動は、生産者物価における需要段階別の川上から川下へ波及し、最終的には消費者物価へと波及していくと想定されます(図表1)。ただし、この波及の程度やタイムラグは、それぞれの需要段階に位置する企業の価格転嫁スタンスに依存するため、一定ではない可能性に注意が必要です。なお、このような経路で今年度の消費者物価を押し上げた場合には、来年の春季労使交渉に影響を及ぼす要因にもなり得ます。
また、企業のインフレ予想への影響も重要です。特に、3年から5年程度の中長期での企業の将来の物価予測は、企業の価格設定スタンスに大きな影響を与えます。そこで、日銀短観で企業の物価見通しを確認すると、2022年頃から中長期の予想インフレ率は2%程度で落ち着いています(図表2)。これは、日本銀行が掲げる「物価安定の目標」の実現見通しが高まってきた証左であると考えています。為替変動によってこの予想インフレ率が大きく変動することになれば、金融政策による対応も考慮する可能性が出てきます。
3.経済・物価情勢
(1)経済情勢
経済情勢の現状
続いて、今後の為替レートの動きをみる上での「ファンダメンタルズ」要因とも言える経済情勢についてお話しします。
わが国の経済ですが、一部に弱めの動きもみられますが緩やかに回復しているとみています(図表3)。足もとでは、一部自動車メーカーの生産・出荷停止の影響が、わが国経済を下押ししていますが、あくまでも一時的な要因であると考えています。この一時的な下押し要因を除けば、現状は緩やかに回復していると考えています。以下、この一時的な下押し要因を除くベースで、経済情勢について仔細にみて参りたいと思います。
まず、個人消費は、最近の物価高の影響から、食料品や日用品等に代表される非耐久財を中心にいくつかの品目でPB商品等の廉価品へのシフトがみられるなど、節約志向の高まりが観察されますが、各種の統計や高頻度データなどを窺うと、サービス消費を中心に全体的には底堅く推移しています(図表4、5)。また、富裕層や外国人観光客による高額商品の購買意欲も高いとの声も聞かれています。
次に輸出ですが、景気低迷から力強さを欠く中国や欧州向けに加えて、底打ちはしたものの、反発力に欠けるIT需要からNIEs・ASEAN向けも今一つ弱めな状況にあります。一方で、自動車を中心に米国向けが堅調に推移してきたこともあり、俯瞰すれば、輸出は横ばい圏内で推移しています(図表6)。
そして、設備投資についてですが、ここ数年はDX(デジタル・トランスフォーメーション)やGX(グリーン・トランスフォーメーション)に対する需要の高まりに加えて、都市の再開発や物流拠点の整備といった建設投資の需要も高まっています。そのため、日銀短観の設備投資計画では、非常に高い伸びを維持しています。しかし、その実績を日銀短観の堅調な計画と対比すると、物足りない状況が続いています(図表7、8)。この背景としては、海外経済の不透明感から外需の先行きが見通し難いほか、実際に建設や設置を行うための人材の不足から、設備投資が後ずれしているためだと考えられます。もっとも、設備投資が後ずれをしながらも計画自体は堅調を維持しているので、企業の設備投資意欲は依然として強いと思われます。なお、この設備投資の動向ですが、物価安定の目標を達成するための鍵を握る極めて重要なファクターだと考えています。
以上のように、わが国経済の現状は、決して低迷しているわけではないですが、様々な不確実性が払拭できないもとで、好調であるとまではいえない状況です。
経済情勢の先行き
次に、経済情勢の先行きに焦点を当ててみますと、わが国の景気の好転を期待できる動きが散見され始めたと考えています。
まず、個人消費についてですが、本年の春季労使交渉が前年をはるかに上回る回答結果であったことから、個別企業毎にばらつきはあるものの、総じてみれば可処分所得の増加が見込まれる状況です。また、ストックとしての貯蓄である個人金融資産は、内外株価の上昇などによってその残高を大きく増加させています(図表9左図)。さらには、2年連続で大幅な賃上げが実現する見通しであることから、先行きも賃金が上昇していくという家計の恒常所得の増加期待が高まっている可能性もあります(図表9右図)。これらの要因が、現時点で既に消費者センチメントを押し上げていることなどを勘案すると、個人消費は先行き堅調に推移することが見込まれます。
そして、輸出および設備投資ですが、足もとの状況から増加していくことが予想されます。この背景としては、海外経済が底打ちして回復する兆しがみえつつあることが挙げられます。米国経済では、個人消費を中心に堅調を維持していることに加えて、中国経済においても、不動産市場の調整や地方経済等の構造問題の解決にはなお時間を要するものの、政府の経済対策により、減速局面を徐々に脱していく可能性が高い点が指摘できます。欧州経済も景気底打ちの兆しがみられます。また、設備投資についてですが、今年度の賃上げによって賃金と物価の好循環が上手く回り始めれば、経済の成長期待が上方修正されることで、必要な資本ストックの拡大が設備投資の増加要因にもなることが考えられます。
(2)物価情勢
わが国の物価の現状
次に、わが国の物価情勢についてお話しします。まず、消費者物価は、現在、上昇率を低下させており、減速局面にあるといえます(図表10)。この動向を仔細にみるために、消費者物価を品目の価格の改定頻度に着目して、価格の改定頻度が比較的低い項目でみた物価である「粘着的な(sticky)消費者物価」1と、価格の改定頻度が比較的高い項目でみた物価である「伸縮的な(flexible)消費者物価」2に分けた切り口でみたいと思います。なお、「粘着的な消費者物価」は、中長期的なインフレ予想や賃金動向に影響を受けることが考えられる一方で、「伸縮的な消費者物価」は、商品市況等を映じた原材料価格の影響を受けやすい傾向があります。
「粘着的な消費者物価」の動向をみますと、賃金上昇等を受けた影響から緩やかな上昇が続いていると思われます。もっとも、「伸縮的な消費者物価」においては、輸入物価上昇を起点とする価格転嫁の影響が減衰するもとで、プラス幅を縮小していると考えられます。現状は、この「伸縮的な消費者物価」が、消費者物価の動向により大きな影響を与えていることから、減速局面にあると判断しているわけです。
- 「粘着的な消費者物価」は、価格改定頻度が比較的低い項目でみた物価を指していることから、サービス価格が多く含まれている。
- 「伸縮的な消費者物価」は、価格改定頻度が比較的高い項目でみた物価を指していることから、財価格が多く含まれている。
わが国の物価の先行き
そして、消費者物価の先行きですが、こちらも「粘着的な消費者物価」と「伸縮的な消費者物価」に分けて考えたいと思います。
先に、「伸縮的な消費者物価」についてみていきます。円ベースでの輸入物価の動向をみますと、コロナ禍での国際商品市況の高騰や、グローバルなサプライチェーンの混乱の影響等から急騰していたものの、2022年9月にピーク水準をつけて以降は下落基調になっていました。もっとも、その後は、水準的には2023年7月に底打ちをしており、前年比伸び率では、本年2月にプラスに転じました(図表11)。「伸縮的な消費者物価」は輸入物価から6から9ヶ月程度のタイムラグをもって動いていると考えられることから、本年の夏から秋頃にかけて底打ちをして、反転する可能性があります。
次に、「粘着的な消費者物価」ですが、本年の春季労使交渉の結果を受けて、上昇幅を拡大していく可能性が高まっています。具体的には、この春季労使交渉の結果が賃金に反映されるまでには今後、数ヶ月の時間がかかると考えられます。そして、この賃金上昇が物価へ反映されるのは、さらにその後であることを想定すると、「伸縮的な消費者物価」と同様に本年の夏から秋頃にかけて上昇機運が高まる可能性があると推察されます。また、今後の賃金動向ですが、今年度に高い賃上げが実現したからといって、人口減少や少子高齢化に伴う構造的な人手不足が解消するとは考え難いことや、労働供給を支えてきた高齢者や女性の非労働力人口が歴史的な低水準であることを踏まえると、引き続き人手不足感が強まっていくリスクが懸念されます。そのため、企業にとっては、労働力を確保するために、ある程度の賃上げを持続的に実施していかざるを得ない環境が続くということが現時点でのメインシナリオになると想定されます。この点からも「粘着的な消費者物価」が着実に上昇していく可能性が高いと考えています。
以上のことから、消費者物価は、現状は減速局面にありますが、輸入物価や企業物価、そして賃金動向から予想する限りにおいては、本年の夏から秋頃にかけて、再び上昇に転じていく可能性があると考えています。
(3)経済・物価情勢における上下双方向のリスク
ここまでにお話しした経済や物価に関する私の先行き見通しは、楽観的であるように感じられたかもしれません。もっとも、この先行き見通しを考える上では、不確実性が上下双方向にある点に留意が必要です。なお、この上下双方向にある不確実性は、短期的でみても中長期でみても存在します。
まず、短期的な観点ですが、こちらは先ほど述べましたように円安が加速、もしくは長期化することで、想定しているよりも早いタイミングで消費者物価の上昇率が反転する可能性がある点です。また、その時点において、先行き「持続的・安定的な物価上昇」が2%を上回る可能性がより強まっている場合には、利上げを行うことで金融緩和度合いを調整するペースを早める必要性があるかもしれません。その一方で、利上げを行うペースを過度に早めると、わが国経済を腰折れさせるリスクも生じます。さらに、万が一ですが、グローバル金融市場で予期せぬショックが発生した場合には、「持続的・安定的な物価上昇」の前提条件が崩れかねません。
この短期的な上下双方向のリスクを考える際には、米国におけるインフレの動向にも注視する必要があります。インフレの鎮静化に予想以上の時間を要してしまう場合には、なかなか利下げが実現しないことで、米国金利も高止まってしまいます。そして、このような状況下でも、米国経済が現状の堅調な姿を維持し続ければ、円安の長期化といったリスクをもたらす可能性があります。一方で、米国金利が高い状態が続くことで、例えば、米国の不動産市場の調整色の強まりが顕在化し、金融システム不安や株価の調整等が生じる場合には、リスクオフといった局面に移行するかもしれません。いずれにせよ、米国経済の動向には留意が必要であり、今後も注意深くみていきたいと思います。
次に、中長期的な観点ですが、ウクライナや中東情勢等の地政学的リスクの顕在化に伴う国際商品市況や、国際的な物流システムの混乱が挙げられます。また、これに加えて、経済安全保障への対応の強化による国際経済の分断化リスクのほか、米国の財政面でのリスクも考えられます。後ほど述べますが、日本銀行の金融政策の目標である「持続的・安定的な物価上昇」の達成には相応の期間を要するものと私は見込んでいますが、この期間中に中長期的なリスクが顕現化した際には、金融政策の目標の達成時期の変更を要する可能性があります。
以上のように、経済・物価情勢における上下双方向の不確実性に関するお話をしましたが、これらを事前に予測することは極めて困難です。そのため、内外経済や金融市場等の環境変化を注視することが重要だと考えます。
4.金融政策運営
金融政策の枠組みの変更
これまでお話しした経済・物価情勢などを踏まえた上で、日本銀行の金融政策運営に関して、私の考えも交えながらお話ししたいと思います。
まず、日本銀行の足もとにおける金融政策運営についてです。日本銀行では本年3月の金融政策決定会合で、2%の物価安定の目標が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況に至ったと判断したことから、金融政策の枠組みの見直しを行いました(図表12)。具体的には、イールドカーブ・コントロールの運用およびマイナス金利政策といった大規模な金融緩和は役割を果たしたことから撤廃し、短期金利の操作を主たる政策手段として、引き続き、2%の「物価安定の目標」のもとで、その持続的・安定的な実現に向けて、経済・物価・金融情勢に応じて適切に金融政策を運営することとしました。また、マネタリーベースの残高に関するオーバーシュート型コミットメントにつきましても、その要件を充足したものと判断しました。なお、以上のような政策変更は金融引き締めへの転換ではありません。すなわち、現時点の経済・物価見通しを前提にしますと、当面、緩和的な金融環境が継続すると考えています。
今から振り返ると、この政策変更後においても市場に大きな混乱が生じなかったことから、おおむね円滑に政策変更が行えたと考えていますが、政策変更の当初には、本年4月に公表される各種経済指標の結果等を確認してからでも良かったのではないかといったお声も頂きました。私は、この会合で政策変更に賛成しましたが、賛成した理由についてお話ししたいと思います。
まず、1つ目の理由ですが、政策変更を行う条件が既に整っていたことが挙げられます。この条件はいくつかありますが、例えば、消費者物価指数を構成する品目別の価格の前年比上昇率の分布をみますと、2000年や2006年の過去の政策変更局面とは明らかに分布の形状が異なっていた点が指摘できます(図表13)。具体的には、2000年および2006年には、前年比上昇率がマイナスである品目の割合が高い状況を示す左側に厚い分布の形状のもとで、政策変更が行われました。この分布の形状を踏まえると、デフレーションによる圧力が相当程度残存している状況のもとで政策変更を行った可能性を示唆しています。一方、本年3月の政策変更時の消費者物価の品目別の分布は、前年比上昇率がプラスである品目の割合が圧倒的に高い状況を示す右側に厚い分布の形状でした。このことは、現在の消費者物価の上昇が、特定の品目による限定的な上昇によってもたらされているのではなく、多くの品目が揃って上昇していることを意味します。
次に、2つ目の理由についてです。今回の政策変更を行うに当たっての私の懸念は、今回の政策変更が、金融政策が不連続に引き締め方向へ転換したという「予想」を市場参加者等に台頭させてしまうことでした。もし、そうであった場合、まず金融市場にネガティブな反応が生じてしまい、それが実体経済へ波及し、景気が悪化することで再びデフレーションの圧力を強めてしまう可能性が高まります。このような状況に陥らないためには、政策変更を行っても、あくまで「物価の安定」という目標達成に向けた取り組みの一環であり、当面は緩和的な金融環境が続くという情報発信を適切に行い、市場参加者等の皆様にご理解頂くことが重要です。幸いにも、政策変更後において主な政策金利目標である短期金利は、極めて低水準を維持しており、各種ヒアリングなどの結果も踏まえると、市場参加者等の皆様におかれましては、今回の政策変更の意図を十分ご理解頂けたと考えています。
そして、3つ目の理由ですが、本年の春季労使交渉において、日本労働組合総連合会(連合)の第1回回答集計の結果(定昇込み賃上げ率)が、前年の結果をさらに上回る前年比+5.28%となり、大幅に増加したことです。私としては、政策変更を行うための1つのメルクマールとして、春季労使交渉(第1回回答集計)の結果が、「前年比+5%増以上を実現すること」を考えていました。これは、過去の結果を踏まえると、春季労使交渉で5%の賃上げが実現すれば、サービスを中心とした「粘着的な消費者物価」の上昇率も、日本銀行が目標とする「物価安定」の達成を見通すことができる水準に回帰していくことが見込まれると考えたためです。もっとも、本年1月時点では、このメルクマールを上回る結果を得ることができないだろうと考えていました。本年の春季労使交渉では、連合は5%以上の賃上げを目安とすることを方針として掲げていましたが、過去の経験則から、通常はその要求水準よりも低い数字となるケースが多いためです。そのため、本年4月以降に発表される他の経済指標等をみた上で、政策変更を行う時期については総合判断にならざるを得ないと思っていました。ところが、結果は前年比+5.28%という驚くべき数字でした。
この春季労使交渉の集計結果は、構成される企業のカバレッジ等の問題があるかもしれませんが、過去の結果を踏まえると、企業全体の賃金の動向を推測することが可能であるほか、第1回回答集計で高い数字が出るということは、多くの企業は賃金コストをカバーすることに十分な業績の将来見通しや生産性向上策等の構想を持っていると想定できます。このことから、本年4月以降に発表される経済指標等の結果も、ある程度は良好なものになることが予想できるため、それらの結果を待つ必要はないと考えました。
今後の金融政策運営方針
次に、今後の金融政策運営についてお話しします。
まず、日本銀行としては、今後も引き続き、金融政策の目標としては「持続的・安定的な物価上昇」の実現であり、この目標が達成されるまでは、現在の緩和的な金融環境を維持することが重要です。この背景としては、足もとにおいて「持続的・安定的な物価上昇」が実現する見通しの確度がかなり高まっていますが、まだ確信を持って実現できるといえる状況ではないため、達成できると確信する時が来るまでは、緩和的な金融環境を維持することが重要だと思われます。
この場合、金融政策が前のめりになりすぎることで、折角のわが国経済が回復する機運に水を差すといった「拙速な利上げ」は絶対に避けなければなりません。このため、基本的には実質金利がマイナスの状態を維持することが重要であると考えます。ただし、あまりにも下振れリスクに配慮しすぎると、物価上昇のペースが加速して、結果としてより急激な金融引き締めの実施を余儀なくされ、経済に悪影響を及ぼしかねない点にも注意が必要です。これは、「持続的・安定的な物価上昇」が実現するまで、政策金利を現状のゼロ近傍で固定化し、目標が実現した後に利上げを始めた場合に、急激な物価上昇を抑制するためにこの上昇率を大きく上回るペースでの利上げを余儀なくされて、経済へ悪影響を引き起こしかねないことを危惧しています。
私は、例えばコロナ禍において物価は下振れリスクが高いと想定していたらむしろ上振れたといったように、予想が一方向に傾き過ぎるリスクには留意が必要であるというのが、コロナ禍以降の金融政策のあり方におけるインプリケーションだと考えており、下振れリスクと同時に上振れリスクにも配慮する必要があるというのが、金融政策のリスクマネジメントを考える上で重要な局面にきていると考えます。そのため、基調的な物価上昇率が2%に向けて高まるという状況が持続している限りにおいて、経済・物価・金融情勢に応じて、金融緩和度合いを段階的に調整することが大切ではないかと考えています。
また、イールドカーブ・コントロールがその歴史的使命を果たしたことから、今後は国債の買入れ額を将来どこかの時点で減額させることが考えられます。なお、現在は、3月に見直した国債買入れの枠組みのもとでの金融市場の状況を確認しているところであり、これまでと概ね同程度の金額で継続することとしています。そのうえで、将来、国債の買入れ額の減額が急激なペースで行われますと、長期金利等に不連続な変動をもたらしてしまい、これが金融政策自体の不連続な引き締め局面への移行と解釈されてしまった場合には、先ほど述べましたように、最終的には経済へ悪影響を及ぼしてしまう恐れがあります。そのため、国債買入れは、債券市場の需給や機能度、そして流動性の状況を総合的に勘案しつつ、段階的に減額していくことが望ましいと考えています。
5.おわりに ――熊本県経済について――
最後に、熊本県経済について、お話ししたいと思います。
熊本県経済は、1次産業、2次産業、3次産業のそれぞれに強みを持っている印象があります。すなわち、1次産業をみると、熊本県における2022年の農業産出額は全国5位と上位に位置しており、各地域の特性を活かして、野菜、果樹の施設園芸農業、稲作、畜産などが展開されています。一方、有明海、八代海、天草灘では、多種多様な漁業や養殖業が営まれています。2次産業では、半導体関連産業の集積が進んでいるほか、輸送用機械、はん用機械、食料品など、様々な工場が稼働しています。3次産業でも、自然と歴史豊かな観光資源、美味しい食事や県産酒の魅力などがあります。
こうした中、熊本県の景気は、回復しています。個人消費は、生活防衛的な動きが一部にみられる一方、「ハレの日」需要や高額品の売上が堅調など、全体としては、緩やかに回復しているほか、観光は、増加しています。企業部門をみると、設備投資は、はっきりと増加しているほか、生産は、一部に弱めの動きがみられるものの、高水準で推移しています。先行きは、半導体関連産業を中心に、設備投資の増加が続くと見込まれるほか、新たに建設された工場の生産活動が本格化する予定であり、企業部門が牽引する形で、景気は拡大方向に向かうことが期待されます。
もっとも、今後の熊本県経済を考える上では、こうした半導体関連産業を中心とした前向きな動きを、農業など他の産業の振興や環境保全を図りつつ、県全体にいかに広げていくかということが重要です。この点、先行きの半導体関連企業の進出を見据えて、県南地域において新たな県営工業団地や物流拠点を整備する動きがみられていることは、大きな意義を有していると考えられます。また、令和2年7月豪雨の被災地域では、途絶した鉄道の運行再開を含め、復旧・復興の途上にあると認識しています。関係者による創造的復興のさらなる推進が期待されます。さらに、交通インフラなど、移動しやすい環境を整えることも、熊本県経済にとって大切な取り組みであると認識しています。
このほか、熊本県にとどまらず、「シリコンアイランド」という枠組みで、九州全体で半導体研究・教育の体制やサプライチェーンを強化していくことも重要です。最近では、当地の半導体関連企業と県外大学による研究開発や人材育成に関する連携が進められているほか、九州・沖縄の地方銀行がサプライチェーン強靱化に向けた取り組み等に関する連携協定を締結する動きもみられています。今後、こうした産官学金での取り組みが進展し、熊本・九州だけでなく、わが国における半導体関連産業、ひいては日本経済の成長力底上げに繋がっていくことが望まれます。
本年7月3日に発行を開始する新しい千円券には、熊本県阿蘇郡小国町出身の北里柴三郎博士が肖像として採用されています。北里博士が近代日本医学の礎を築いたように、県内行政、財界、金融界の皆様におかれては、新たな時代ともいえる熊本県経済の礎を築くべく、日々奮闘されていることと思います。こうした皆様の取り組みが実を結び、熊本県経済が一層の発展を遂げられることを祈念しております。ご清聴ありがとうございました。