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【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策長崎県金融経済懇談会における挨拶要旨

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日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2024年10月3日

1.はじめに

日本銀行の野口です。本日は、県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行長崎支店の業務運営に日頃より多大なご協力をいただいており、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

本日はまず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しし、その後に、2%の「物価安定の目標」を達成して賃金と物価の好循環を実現することの意義について、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。

2.経済・物価情勢

(1)内外経済情勢

わが国経済は今、コロナ禍以降に始まった世界的インフレを契機として、1990年代末から続いてきたデフレあるいは低インフレからの転換が順調に進展し、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に達成されるに至るのかどうかという意味で、きわめて重大な転換点にさしかかっています。それは、今後の内外経済情勢、およびその背後にある政策動向に依存しています。

海外の多くの国・地域では今、経済の脱コロナ禍に伴って生じていた高インフレが収束しつつある中で、政策的には経済成長の維持に重点を移す動きが強まりつつあります。米欧の主要中央銀行はこれまで、インフレ抑制のために高めの政策金利を継続してきました。この持続的金融引き締めによって経済に減速傾向が現れ始めたことから、各中央銀行は今、政策金利を徐々に引き下げ始めています。とはいえ、不動産部門の調整に苦しむ中国を除けば、多くの国・地域における経済減速度合いはきわめてマイルドであり、失業率の大きな上昇を伴わずに高インフレが収束しつつあるという意味で、きわめてソフト・ランディングな形でのインフレ抑制が達成されつつあります(図表1)。

米国では、8月初頭に発表された7月雇用統計が市場の事前予想を下回ったことから、景気悪化懸念が急激に強まり、直後には突発的なドル安と株安が生じました。しかし、その後は米国経済の底堅さを示す指標が相次いだこともあり、市場の混乱は一時的なものに終わっています。こうした一時的あるいは局所的な混乱はあっても、世界経済は、総じてみれば緩やかに成長しており、来年以降も、物価の落ち着きと金利の低下に支えられつつ、潜在的な成長経路に沿った動きを続けると思われます(図表2)。

わが国経済をみると、GDPの前期比上昇率(年率換算)は、2023年7-9月期は4.3%減、同10-12月期は0.2%増、そして2024年1-3月期には2.4%減と、やや足踏み的状況が続いていましたが、2024年4-6月期には2.9%増となり、緩やかな上昇基調に転じたように見えます(図表3)。とりわけ、2023年4-6月期以来マイナスが続いていた個人消費がやや高めのプラスとなった点は、前期からの反動という面も大きいとはいえ、実質賃金低下による実質消費の押し下げがようやく和らぎつつある可能性を示唆しています。実質賃金上昇率は足元ではプラス方向に向かいつつあることから(図表4)、個人的には、今後は個人消費も拡大基調がより明確になるのではないかと考えています。

(2)物価情勢

次に国内の物価情勢です。日本ではコロナ禍以降、世界的インフレの影響を受けた輸入財価格の上昇によって、典型的なコストプッシュ型インフレが生じていました。そのことはとりわけ、消費者物価へのエネルギー価格さらには食料品価格の高い上昇寄与として現れていました。しかし、世界的インフレの収束に伴って輸入財の価格上昇が緩やかになり、エネルギーや食料品の価格上昇も落ち着き始めたことで、足元の消費者物価上昇率は「除く生鮮食品」で2%台後半、「除く生鮮食品・エネルギー」で2%前後となっています(図表5)。

このように輸入物価上昇の影響が縮小しつつある中で着実に上昇基調を高めてきたのが、サービス価格です。これは、日本のサービス価格が1990年代以降、低下はしても上昇はほとんどしてこなかったという事実を踏まえると、きわめて画期的です。日本でこれまでサービス価格が上昇しなかったのは、端的にいえば、そのコストの大宗を占める賃金がその間に上昇してこなかったためです。近年のサービス価格の上昇には、輸入食材価格上昇を背景とした外食価格上昇などの寄与が大きいものの、30数年ぶりに生じた賃金上昇も徐々に反映されつつあります1。賃金の価格転嫁が消費者向けサービスよりも容易とされている企業向けサービス価格の最近の動向には、そうした傾向がより明確に見て取れます(図表6)。これは、輸入物価上昇の価格転嫁という物価上昇の「第一の力」が、賃金上昇を背景とした物価上昇という「第二の力」に徐々に置き換わりつつある実態を示唆しています(図表7)。

  1. この点の詳細は、以下を参照して下さい。尾崎達哉・八木智之・吉井彬人(2024)「消費者物価における最近の企業のサービス価格設定行動」(日銀レビュー、2024-J-11)

3.金融政策

(1)大規模金融緩和政策の転換とその意義

次に金融政策についてです。日本経済は1990年代末以降、物価と名目賃金が低下し続ける中で成長と雇用の低迷が続く、のちに日本病と呼ばれるような経済状況に陥りました。この長期デフレを克服し、2%の「物価安定の目標」を実現するために、日本銀行は2013年4月から、大規模金融緩和政策としての「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後は、経済・物価情勢に応じた金融緩和強化のために、2016年1月には「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を、同年9月には「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入しました。その結果、コロナ禍以前には、需給ギャップのプラス幅は拡大し、雇用状況も大きく改善しました(図表8)。また消費者物価上昇率も、2%目標には届かないまでも、少なくともそれ以前のようにマイナスが続くことはなくなりました。

日本銀行は本年3月の政策決定会合において、2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況に至ったと判断して、これら非伝統的な金融緩和政策を停止し、短期市場金利の操作を通じて金融緩和の度合いを調整する伝統的な政策枠組みに移行しました(図表9)。それは第一に、コロナ禍後に生じた世界的インフレの影響により、日本の物価上昇率も2%を上回る状態が続き、それが物価の基調をも引き上げ始めたからです。そして第二に、コロナ禍からの経済回復の中で、それ以前から顕在化していた労働需給の逼迫がより強まり、名目賃金の明確な上昇が生じ始めたからです。これは、日本経済が、ほぼゼロの物価および賃金上昇率が常態化していた、後述する「ゼロノルム経済」からようやく離脱しつつあることを意味します。

日本銀行は今後、消費者物価の上昇率が賃金上昇を伴いながら2%近傍で安定しつつあることを慎重に見極めながら、現状の金融緩和を徐々に調整していくことになります。その第一義的な目的は、2%程度の物価上昇が安定的に実現されているような潜在的成長経路に、可能な限り円滑な軌道を通じて到達することです。3月の決定は、その緩和調整の役割は、もっぱら政策金利としての短期市場金利が担うことを意味しています。

大規模金融緩和の転換には、もう一つ副次的な効果があります。それは、その政策によって大きな制約を受けていた金融市場の自由度を、市場の混乱を招かない形で回復させることです。日本銀行はこれまで、量的・質的金融緩和、マイナス金利、長短金利操作といった政策によって、国債市場への関与を強めてきました。それは、本来の政策金利である短期市場金利がほぼその下限に達する中で、金融環境に影響を及ぼす経路を主として長期金利に求めてきたためです。その結果、日本銀行はそのバランスシートの資産側に多額の国債を抱え持つことになりました。3月の政策転換以降、長期金利およびイールドカーブの形成は、もっぱら市場に委ねられています。したがって日本銀行としては、その市場の国債取引が多くの参加者によって十分な厚みをもって行われていくように、国債買入れを徐々にではあれ減らしていく必要があります。

重要なことは、こうして行われる国債買入れの減額は、あくまでも市場の厚みの回復が目的であり、バランスシート縮小それ自体のためでも、金融緩和調整のためでもない、という点です。まず、短期市場金利がもっぱら金融調節運営を通じて誘導・維持されていた世界金融危機以前の「希少な準備預金」の時代とは異なり、現在は短期金利が中央銀行当座預金への付利を通じてコントロールされており、政策運営は基本的にバランスシートからは独立しています。また、仮に国債買入れ減額の多寡によってある程度の金融引き締めや緩和効果が生じたとしても、その影響は最終的には短期市場金利の調整によって吸収されます。つまり、この政策手段の観点からは、大規模金融緩和からの出口は既に終了しているといえるのです。

(2)長期国債の買入れ減額とその基本的な考え方

日本銀行は7月の政策決定会合で、市場参加者との意見交換も踏まえ、2026年3月までの長期国債買入れ減額計画を決定しました(図表10)。その基本理念は、「予見可能性と柔軟性の両立」にあります。この予見可能性は、「月間の長期国債の買入れ予定額を原則として毎四半期4千億円程度ずつ減額する」という計画そのものに具現化されています。これは、長期金利の形成が市場に委ねられた以上、今後は政策的な意図による国債買入れの増減は生じないことを意味します。他方で、市場急変時には買入れ額を機動的に変更するといった部分では、その計画には一定の柔軟性も担保されています。それは、市場の回復が重要とはいっても、それがむしろ市場の攪乱を助長あるいは放置する結果になっては無意味だからです。

今回の計画のもう一つの注意点は、その暫定性にあります。それは、わが国における中央銀行バランスシートの最適な規模を現時点で確定することが困難なためです。その規模がどの程度であれ、わが国の場合には、2026年3月までにそこに到達する可能性はほぼありません。そのため、今回の計画は必然的に、それ以降の延長を視野に入れた暫定的なのものとなります。上述のように、「潤沢な準備預金」を前提とした現在の政策レジームでは、仮に日本銀行のバランスシートが現状のままであったとしても、政策運営には何ら制約や障害は生じません。したがって、バランスシートの縮小は十分な時間をかけて慎重に進めていくことが可能であり、それが市場の安定にとっても望ましいといえます。

(3)政策金利調整とその運営における課題

日本銀行はまた、7月の政策決定会合で、政策金利を0.15%程度引き上げ、「無担保コールレート(オーバーナイト物)を0.25%程度で推移するよう促す」ことを決定しました。なお、後述の理由から、私自身はこの決定に反対しました。

この決定の後に、市場では円高と株安が進行し、その直後に明らかになった米国の雇用状況悪化によって、その動きはさらに加速しました(図表11)。結果としてみると、この7月の政策金利引き上げは、1987年10月に起きたブラックマンデーの再来を思わせる急激な株価下落の要因のひとつとなりました。この市場攪乱の原因については既にさまざまな議論がありますが、私自身は、問題の根底には「経済の現状に関する日銀自身の見方」と「その日銀の見方についての市場の認識」との間の齟齬があったのではないかと考えています。

この7月の政策決定は、私を含む少数の異論はあったものの、日本銀行のこの時点のおよそのコンセンサスが、「経済・物価はこれまで日本銀行が示してきた見通しどおり展開しており、輸入物価が上昇するなかでの物価の上方リスクも考慮すると若干の緩和縮小が適切」というものであったことを意味しています。ちなみに私自身は、「賃金上昇の浸透による経済状況の改善をデータに基づいてより慎重に見極める必要がある」という観点から、この利上げには反対しました。それは私が、物価の基調はまだ2%に届かず、インフレ期待も2%にアンカーされていない以上、日本経済は依然として下方リスクにより脆弱であると考えていたためです。私は他方で、状況は着実に進展しているため、今後のデータ次第では遠からず政策金利の調整が必要になる可能性はあるとも考えていました。

その後の市場の混乱は、この日本銀行のコンセンサスが市場には必ずしも十分に浸透してはいなかったことを示唆しています。市場はおそらく、「日銀は景況をかなり弱めに見ている」と考え、したがって利上げのペースもきわめて慎重なものになると考えていたはずです。日本銀行の7月会合での決定とそこでの見通しの提示が市場に材料視されたのは、それがこの「日銀の見方についての市場の認識」とは大きく食い違っていたためと理解されます。

この経験からは、主に二つの課題が浮かび上がってきます。その第一は、政策運営に際しては、市場の側が「政策の背後にある日銀の考え方」をどう捉えているのか十分に把握しておくことが必要という点です。第二は、経済状況の進展などによって日本銀行のコンセンサスに変化が生じ、市場が把握するそれとの間に大きな齟齬が生じる可能性がある場合には、そのギャップを埋めるべく、日本銀行の側から可能な限り丁寧なコミュニケーションを行う必要があるという点です。今後の政策変更が市場の無用な混乱に結びつかないようにするためには、そのようなコミュニケーション上の努力が必要不可欠と考えます。

4.「ゼロノルム経済」からの離脱に向けて

(1)名目的低成長と物価・賃金のゼロノルム

日本経済は1990年代初頭のバブル崩壊以来、コロナ禍からの回復が始まった2021年頃まで、物価と賃金がほとんど上昇せず、名目GDPもほとんど伸びないような「名目的低成長」の状態にありました(図表12)。確かに、2013年春からの大規模金融緩和によって、完全失業率はコロナ前にはほぼ完全雇用に近いと思われる水準にまで低下しました。にもかかわらず、名目賃金はバブル期以前のような明確な上昇基調に戻ることはなく、物価も2%目標に届くことはありませんでした。それはおそらく、1990年代後半からの長期デフレを通じて、物価・賃金のゼロノルム、すなわち「物価も賃金も上がらないことを当然とする通念」が企業や家計に強く根付いてしまったためです。

物価・賃金のノルムとは、「物価や賃金がどう動くのかに関する、人々が暗黙に抱いている通念」を意味します。その概念は、1980年代初頭に米国の経済学者アーサー・オークンによって提起されました2。この提起の核心は、「物価や賃金の動向は、人々が抱く物価・賃金観に大きく左右される」という点にあります。この観点によれば、「日本の物価や賃金が上がらないのは、人々がそれを当然と考えているため」ということになります。これは、日本経済が2%の「物価安定の目標」の達成を通じて名目的低成長を克服するためには、何よりも物価・賃金のゼロノルムからの離脱が必要ということを示唆します。

  1. 2Arthur M. Okun (1981), Prices and Quantities: A Macroeconomic Analysis, The Brookings Institution.

(2)インフレ率と価格硬直性との関係

物価や名目賃金には本来、硬直性や粘着性と呼ばれる、上方にも下方にも動きにくい性質があります。他方で、市場における需要・供給要因の変化は、価格を絶えず変化させるように作用します。したがって、個々の財・サービスの価格が実際にどの程度の硬直性あるいは変化を示すのかは、この両者すなわち価格を固定化させる要因と変化させる要因との強弱関係に依存します。そしてこれは、「価格の硬直性は一般にインフレ率がより低い経済においてより強まる」ことを示唆します。というのは、より高いインフレ率とは、例えば人々の所得上昇といった、価格を上方に変化させる要因がより強いことを意味するからです。

このインフレ率と価格硬直性との関係は、消費者物価上昇率のトレンドが日本よりも高い他の先進国と比較すれば容易に確認できます。例えば日米間で価格変動率の品目別分布を比較してみると、コロナ禍以前(2019年9月)では、分布の「山」の位置だけではなく、そのばらつきも大きく異なっています(図表13)。すなわち、日本では変動率がゼロの位置に多くの品目が集中し、かつその集中度合いが高いのに対して、米国ではプラス2%前後の変動率に最も多くの品目が集中しつつも、その集中度合いは低く、全体として価格変動のばらつきが大きくなっています。

ここでさらに注目すべきは、コロナ禍以降(2023年12月)には日米両国ともにインフレの進行を反映して価格変動分布が右にシフトしていますが、日本では分布の形状自体もまた大きく変化しているという点です。すなわち、コロナ禍以前と比較して価格変動率ゼロ品目の集中度合いが大幅に低下する一方で、変動率2から4%の位置に新たな「山」が形成され始めています。これは、コロナ禍後の世界的なインフレ圧力が、日本のデフレ不況期を通じて強まっていた財・サービスの価格硬直性を弱めるように作用したことを示唆しています。実際、コロナ禍後の日本では、財とサービスともに価格変動率ゼロ品目の比率は低下し、価格改定頻度は増加しています(図表14)。これは、日本経済の根強いゼロノルムが、今まさに崩れ去ろうしている可能性を示しています。

この日本の経験が示すように、物価上昇率が平均的に低い経済では、財やサービスの価格硬直性がより強く顕在化します3。しかし、日本よりも基調的インフレ率が高いアメリカにおいてさえ価格変動率ゼロ品目の山は相応に高いという事実が示すように(図表13)、価格を固定化させる要因それ自体は、インフレ率のいかんにかかわらず普遍的に存在しています。そうした要因としては、価格改定におけるメニュー・コスト、また企業の価格設定における競合他社との戦略的補完性や顧客向け価格規範の遵守といったものが考えられます4。財やサービスの価格上昇とは、企業が価格を適切な水準にまで引き上げた場合に得られる利益が、これら価格引き上げの不利益を上回っていることを意味します。

  1. 3この点を日本のデフレ期に即して最初に指摘したのは、以下の論文です。渡辺努・渡辺広太(2016)「デフレ期における価格の硬直化:原因と含意」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.16-J-2)
  2. 4企業の価格設定行動にはしばしば価格引き上げを可能な限り避けようとする力が働くことは、古くから屈折需要曲線という概念によって説明されてきました。その背後には通常、戦略的補完性と呼ばれる競合他社への対抗戦略が存在すると考えられています。オークンはそれに対して、企業が価格引き上げを引き下げよりも強く忌避する理由を、それによって生じる顧客との信頼関係毀損への怖れに求めています。また根岸隆は、その需要屈折の原因を、顧客に対する情報伝達の非対称性に求めています。Okun 前掲書ch.4、根岸隆(1980)『ケインズ経済学のミクロ理論』日本経済新聞社、第5章。

(3)ゼロノルムからの離脱がなぜ必要か

デフレそして低インフレが続く中での停滞という経済状況は、これまでしばしば日本病と呼ばれてきました。低いインフレ基調の下で価格硬直性が強まり、それが「価格は上がらないのが当然」といったある種の規範になってしまった日本の経験は、まさにその「病」の本質を示しているのかもしれません。それは端的にいえば、価格が動かないゼロノルム経済では、価格の動きがそのインセンティブを通じて経済全体でのより適正な資源配分を実現させるという、価格の持つ本来的な役割が機能しにくくなるということです。

市場経済においては、生産性上昇によるコスト構造の変化が絶えず生じていますが、その影響は通常は価格の変化を通じて調整されていきます。例えば、技術改善によって省力化が進み、生産コストが低下した商品は、省力化が進みにくい商品に対して、価格が相対的に低下していきます。実際、多くの国では、サービスの価格上昇率は財のそれをほぼ常に上回っています(図表15)。それは、省力化がより進みにくいサービス分野に労働等の生産資源を引きつけるためには、その相対価格がより高まっていく必要があるためです。

ところが、デフレと低インフレが定着して以降の日本経済では、とりわけサービス分野で価格硬直性が強まっていたために(図表14)、こうした相対価格調整が十分に働きませんでした。それは、企業が価格の引き上げを極力忌避し、もっぱらマークダウンといわれるような「賃金などの可変的コストの抑制」によって収益を確保しようとしたためです5。その結果定着した経済のあり方は、その後は「コストカット型経済」とも呼ばれるようになりました。

日本経済でも2010年代後半になると、労働需給の逼迫が強まり、人手不足が喧伝されるようになっていきます。にもかかわらず、賃金は容易に上がらず、労働集約的なサービスの価格が十分に上昇することもありませんでした。それはおそらく、デフレと低インフレが続いた中で、物価も賃金も上がらないという通念が消費者や経営者の意識の中に強固にビルトインされてしまったためです。

この物価・賃金のゼロノルムはまた、日本経済のサプライサイドにも悪影響を与えたと考えられます。というのは、賃金上昇とは企業にとってはコストの上昇そのものですが、それは同時に省力化や生産性向上のための技術開発や設備投資を促す圧力ともなるからです。逆にいえば、賃金が抑制されれば生産性向上のインセンティブはそれだけ失われます。かつては技術大国と呼ばれていた日本の技術的低迷の一因は、あるいはそこにあったのかもしれません。

  1. 5この点については以下の論文を参照して下さい。青木浩介・高富康介・法眼吉彦(2023)「わが国企業の価格マークアップと賃金設定行動」(日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.23-J-4)

(4)新たな物価・賃金観の確立に向けて

以上のように、デフレと低インフレの中で日本経済に深く固着した物価・賃金のゼロノルムは、人々の実質所得が生産性上昇を背景として着実に上昇し続けるという、日本でも1980年代までは確かに続いていた成長の実現を妨げてきました。その状況の転換にはおそらく、家計や企業における、物価や賃金のあり方に関する新たなマインドセットの確立が必要です。

日本ではデフレや低インフレが常態化したことで、物価も賃金も上がることはないという認識が拡がりました。このようなマインドセットが強まれば、消費者は値上げをより強く拒絶し、経営者は賃上げをより強く忌避するようになります。それは、その後の物価や賃金をさらに硬直的なものにします。まさしくこれがゼロノルムです。逆に、物価や賃金が実際に動き始め、人々のマインドセットがその状況に適応できるようになれば、経済の柔軟性はより高まり、適正な資源配分や生産性向上に向けた動きがより力強く拡大していきます。

世界的インフレの影響から、日本でも既に2年以上にわたって2%を越える消費者物価上昇が続いています。その中で、これまで30年近くほとんど上がることのなかった名目賃金も、明確な上昇軌道に乗り始めています。特別給与の増加による一時的な面があるとはいえ、この6月にはようやくプラスの実質賃金上昇が実現されました(図表4)。そうした中で、日本の企業経営者の意識も、「値上げができないから賃上げなど無理」というものから、「値上げや賃上げも必要な場合には行う」というものに変わりつつあり、経営者の側もその状況変化を肯定的に受け入れつつあるように見えます(図表16)。しかしながら、このインフレ下で続いていた実質消費の停滞が示唆しているように、消費者の側にはまだ、価格は上がらないのが当然という意識が根強く残っているようにも見えます。私自身は、そうした意識が薄らぎ、2%の「物価安定の目標」と整合的なマインドセットが社会全体で確立されるまでには、まだ相応の時間が必要と考えています。そして、それまでは何よりも、緩和的な金融環境を忍耐強く維持し続けることが重要と考えます。

5.おわりに ―― 長崎県経済について ――

最後に、長崎県経済について、支店からの報告も踏まえてお話しいたします。

長崎県経済は、緩やかに回復しています。個人消費は、物価上昇の影響が一部にみられるものの、雇用・所得環境の改善に支えられて緩やかに回復しています。また、基幹産業である観光も、回復が続いています。設備投資や住宅投資は、大規模な再開発プロジェクトや企業誘致の波及効果が一巡してはいますが、高水準を維持しています。

賃上げの動きは当地企業にも広がっており、連合長崎に加盟する労働組合の2024年の賃上げ率は、データのある2013年以降で最高の5.3%となっています。輸入物価の上昇から始まった企業の価格設定行動の変化は、景気の緩やかな回復と人手不足の強まりを受けて賃金にも波及しています。緩やかな経済の回復が続いていくためには、今後もこうした物価と賃金が循環的に上昇していくことが重要です。

この間、足元の人手不足の高まりは、かねてから指摘されてきた県外への労働人口の急速な流出と相まって、需要の取りこぼしにもつながっています。西九州新幹線の開業やJR長崎駅周辺の大規模再開発、感染症の影響緩和後の各種イベントの再開、クルーズ船の寄港回数の回復、豊かな農水産物、有形・無形の文化や美しい自然、異国情緒あふれる街並み、当地を舞台とした映画やテレビドラマ、アニメの放映効果などに後押しされて、当地は多くの観光客で賑わっていますが、人材不足から営業時間の制約が生じたり、企業が計画していた設備投資を実行できなかったりするケースも生じています。

こうした中で、当地企業は、限られた労働力で収益を確保するため、IT技術の活用やDXの推進等の省人化投資を行う一方で、行政もサポートしながら半導体関連企業の誘致や、当地で培われてきた造船技術を活用できる航空機関連産業、再生可能エネルギー関連産業といった、次の成長分野と見込まれる産業に人的リソースを振り向ける取り組みを行い、徐々に産業構造の転換を図っています。県内大学や高校も、情報技術系の学部新設やカリキュラムの充実により、これに対応する人材の育成に取り組んでいます。

日本の西端に位置する当地は、県内に色濃く残るキリスト教信仰や明治期の産業革命関連の世界文化遺産に見られるように、古くから海を介して諸外国の文明・文化をいち早く取り込んできました。日本経済が新たな局面に向かって動き出す中、当地で培われた環境変化への柔軟な適応力と、これを経済や文化的な発展に結びつける創造性を発揮して、当地経済がさらなる発展を遂げることを期待しています。

ご清聴、ありがとうございました。