【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策広島県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 中村 豊明
2024年12月5日
1.はじめに
日本銀行の中村でございます。本日は、広島県の行政および金融・経済界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜り、誠にありがとうございます。皆様には、日頃から広島支店の円滑な業務運営に当たり、多大なご支援を賜り厚く御礼申し上げます。
本日は、内外の金融経済情勢や持続的な2%の「物価安定の目標」達成に向けた日本銀行の金融政策、さらに日本の経済成長についての私の思い等をお話しさせて頂き、広島県経済の現状と期待される取り組みに触れさせて頂いた後、皆様から率直なお話を承りたく存じます。皆様との懇談を通じて、地域経済の現状や課題に対する理解を深め、頂いたご意見を日本銀行の業務や政策判断に活かしてまいりたいと存じます。
2.内外経済情勢
海外経済は、総じてみれば緩やかに成長していますが、欧州・中国経済の回復の遅れや、ウクライナや中東情勢の長期化等、不確実性の高い状況が続いています(図表1)。米国経済は、累次の利上げの影響を受けつつも、個人消費を中心に底堅く推移し、ソフトランディング期待が高まっています。もっとも、求人件数や消費者信頼感指数の低下傾向、クレジットカード延滞率の大幅上昇等、一部に景気減速の兆候もみられます。また、今後の景気展開や政策運営などを受けて、インフレが再燃するリスクにも、注意が必要です。欧州経済は、累次の利上げ等の影響が続くもとで、緩やかな減速が続いています。産業競争力の低下や賃金抑制圧力の増大が窺われるドイツ経済の低迷に加え、慢性的な雇用問題も抱えており、景気回復の遅れが懸念されます。また、中国経済は、長引く不動産市場の低迷、価格競争の激化、若年層の高失業率、先行きの賃金や老後の不安等が、家計の節約志向を強めており、回復ペースが鈍化しています。財政支出拡大や金融緩和により経済の底割れは回避されると思いますが、不動産市場や労働市場における調整圧力が続く中、供給能力の向上に伴う価格競争の激化や貿易摩擦の拡大により、先行きの成長率の低下が懸念されます。
日本経済は、一部に弱めの動きもみられますが、緩やかに回復しています。企業部門では、財輸出は横ばい圏内の動きとなっているほか、サービス輸出は、入国者数の増加等によるインバウンド需要の増加を受けて、過去最高を更新する勢いで増加を続けています。鉱工業生産は、横ばい圏内の動きとなっています。企業業績は改善傾向にあり、設備投資も省力化やDX・GX等の投資ニーズが強まり、緩やかに増加しています。もっとも、需要が供給を下回る状況が続くもとでは、設備投資計画が先送りされる可能性もあり、今後の動向に注意が必要です。家計部門の所得環境は、足もとまで前年比+2%台後半の賃金上昇が続くなど、緩やかに改善しています。もっとも、成長志向の大・中堅・一部の中小企業と「稼ぐ力」の回復が遅れている過半の中小企業との間で、「前向きな賃上げ」と「防衛的な賃上げ」の二極化が窺われ、今後の動向を注視しています。また、個人消費は、物価上昇や節約志向の影響等により、力強さに欠けています。物価面では、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、既往の輸入物価上昇を起点とする価格転嫁の影響が減衰してきているものの、賃金上昇等を受けたサービス価格の緩やかな上昇が続くもとで、足もとは2%台前半となっています。
日本経済の先行きを展望しますと、10月公表の展望レポートでは、海外経済が緩やかな成長を続けるもとで、緩和的な金融環境などを背景に、所得から支出への前向きの循環メカニズムが徐々に強まり、潜在成長率を上回る成長を続けると予想しています(図表2)。もっとも、私自身は、賃上げの持続性にまだ自信を持てておらず、個人消費の節約志向の強まりや設備投資計画が先送りされる可能性、中国を始めとする海外経済の下振れに伴う競争の激化等も織り込み、経済は政策委員見通しの中央値より低い伸び率を想定しています。また、消費者物価(除く生鮮食品)前年比の政策委員見通しの中央値は、2024年度に2%台半ばとなったあと、2025年度および2026年度は、概ね2%程度で推移すると予想していますが、私自身は、2025年度以降は2%に届かない可能性があると考えています。
3.経済の成長軌道への回復状況に応じた金融政策運営
わが国の金融政策は、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を通じて国民経済の健全な発展に資することを目的としています。米国の金融政策や海外経済の動向、為替の動向等は、日本の経済・物価に影響を与えますので考慮する必要がありますが、私は、人口動態や産業構造の変化によって低収益化した経済の回復状況に応じて、中長期的な視点でわが国のファンダメンタルズの向上に資することが、金融政策運営にとって大変重要と考えています。こうした観点から、やや長い目でみた日本の産業構造の変化等について、私の経験も踏まえて整理してみましたので、以下お話しさせて頂きます。
(1)日本の産業構造の変化と経済の回復状況
昭和の高度経済成長時代には、為替円安環境のもとで、高性能・高品質・低価格を大量生産・垂直統合モデルによって実現した輸出産業が急速に成長し、家計所得も高い伸びを続けました。一方、生産効率の向上を追求する中で、終身雇用・年功序列システムが形成されました。その後、日米貿易摩擦が起き、プラザ合意を契機に急速な円高が始まり、大企業を中心に海外拠点展開が活発化していきました。
平成の時代においては、為替円高のもとでも、バブル景気に支えられ輸出産業の低迷がカバーされたように思われましたが、IT技術の進展とともにデジタル化とグローバル化が進み、水平分業モデルの優位性が高まる中、1992年まで1位だった日本企業のグローバル競争力1は、「事業構造(ポートフォリオ)改革」が遅れ徐々に低下しました(図表3)。バブル崩壊・金融システム危機の発生等もあって、企業業績が悪化する中、生産性の高い大企業は、コスト削減と成長を求めて海外投資を積極化し、中国・東南アジア等へサプライチェーンを移す一方、国内では工場閉鎖・規模縮小・投資抑制・希望退職・賃下げ等の「コスト構造改革」を実行しました。中小企業にも、受注減少、価格競争激化、コスト削減、投資抑制の動きが波及し、少子高齢化・人口減少下にも拘らず人手不足感が表面化しませんでした(図表4)。「賃金よりも雇用」が優先され、付加価値創出力を強化する「事業構造(ポートフォリオ)改革」が進まず、価格競争激化により国内産業の低成長・低収益化が進み、賃金も物価も上がりにくいデフレ経済に陥りました。30年に亘るデフレマインドとコストカットの縮み志向により需給ギャップがマイナスとなる悪循環が続き、国内では企業の賃金・価格設定行動が慎重化し、設備投資やデジタル化が遅れ、節約志向も定着したように思います。貿易収支の推移をみますと、工業製品の輸出減少と鉱物性燃料等の輸入増加により交易条件が悪化するなど、低収益化が進んだ姿となっています(図表5)。また、日本の賃金水準は大企業でもG7やアジアの主要国と比較して低く(図表6)、個人消費は力強さに欠けていますが、大胆な金融緩和と機動的な財政政策等により、デフレではない経済状態になりました。
さらにコロナ禍以降の世界的なインフレの高進や為替円安により、日本でも輸入物価を起点としたインフレが生じました。これまで取り組んできた大企業を中心とした「事業構造(ポートフォリオ)改革」による「稼ぐ力」の強化が奏功して、33年ぶりの高い賃上げ率、バブル期を超えた株価、100兆円を超えた設備投資など、前向きな事業活動により、物価上昇に負けない「賃上げと投資がけん引する成長型経済」への大きな変革の芽が生まれ、停滞していた規制改革も進むようになりました。もっとも、足もとの実質GDPは、前期比増加と減少を行き来しており、まだ安定的な成長軌道に乗っているとはいえません。
- IMDによる「世界競争力年鑑」では、日本の国際競争力は1992年まで1位であったが、現在は38位と低迷している。
(2)経済の回復状況に応じた金融政策運営
コロナ禍からの回復局面で人手不足が深刻化し、雇用の流動化や賃金上昇が進み始めましたが、少子高齢化・人口減少による需要低迷と供給制約、低収益化した産業構造等の構造的問題があり、中小企業中心に投資回復が遅れているため、私としては、まだ賃上げの持続性に自信を持てていません。2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な達成のためには、企業の「稼ぐ力」の向上による経済の成長軌道回帰への期待に自信が持てる経済構造への変革が必要ですが、これには相応の時間が掛かると思います。しかし、既に物価上昇に負けない「賃上げと投資がけん引する成長型経済」への大きな変革の芽が出ていますので、これが枯れずに順調に育つように、多くのデータを確認し、経済の回復状況に応じて金融緩和度合いを慎重に調節していくことが重要な局面だと考えています。
具体的には、多くのデータやヒアリング情報により、(1)回復が遅れている中小企業の「稼ぐ力」の水準がコロナ禍前を上回っているか、(2)価格転嫁率が改善しているか、(3)設備投資や賃金・賞与の増加に進展がみられるか、(4)「前向きな賃上げ」を行う中小企業が増加しているか、(5)家計の節約志向が改善しているか、(6)輸出競争力が向上しているか等を含め、経済の回復状況を丁寧に確認していきたいと考えています。これらについては、日本が抱える構造的問題と併せて、後ほど説明します。
4.構造的問題を克服する持続的経済成長に向けて
ここからは、構造的問題を抱える日本経済が、持続的に成長していくために必要な「企業・雇用・家計のダイナミズム」について、中長期的な視点から私見をお話ししたいと思います。
(1)日本企業の「稼ぐ力」「賃上げ余力」の向上
ここまでお話ししてきましたように、日本では「賃金よりも雇用」が優先されてきたため、事業の新陳代謝が進まず、生産性向上が遅れ、賃金が低迷してきました。リーマン・ショックを経て、多くの大企業は「コスト構造改革」から「事業構造(ポートフォリオ)改革」に経営の柱をシフトし、「稼ぐ力」を強化してきました。生産性を高めた大・中堅企業は、人財2獲得のため、既存社員より高い賃金でキャリア採用を強化し、労働市場ではその市場価格が形成され、このギャップを埋めるために、高い賃上げ率を続けると考えています。
大企業の人手不足は、中小企業から大企業への労働移動を促し、「雇用のダイナミズム」を生んでいます(図表7)。名目賃金上昇率の構成要素である「物価上昇率(生活水準の維持)」、「労働生産性上昇率(生産性向上の成果)」、「労働分配率(賃上げ余力)」の変化をみましても、何れも改善の兆しが窺われます(図表8)。もっとも、大企業の改革成果の中小・中堅企業への波及は、まだ弱いと考えています。2023年度法人年報の一人当たり営業利益は、中堅企業は大企業の4割、中小企業(除く零細)は1割と低く、一人当たり人件費は中堅企業が大企業の7割、中小企業(除く零細)が5割です。また、一人当たりの営業利益、設備投資、人件費を企業規模別にみますと、大・中堅企業では、「稼ぐ力」を示す一人当たり営業利益が、コロナ禍前の2018年度から大きく伸びており、設備投資によって生産性向上を伴った「前向きな賃上げ」を実施している様子が窺われます(図表9)。一方、中小企業(除く零細)では、「稼ぐ力」はコロナ禍からの回復途上で、依然、コロナ禍前の水準を下回っており、設備投資にも様子見姿勢が窺われ、生産性向上を伴わない人財係留目的の「防衛的な賃上げ」が多いように思われます。こうした傾向は、2024年7-9月の法人季報でも変わっていません。本年10月の支店長会議でも、中小企業については、人財係留目的の「防衛的な賃上げ」が多く聞かれました。
「価格交渉促進月間フォローアップ調査」によると、2024年3月調査では中小企業において価格交渉が行われた割合は59%と前回対比微増に止まり、価格転嫁率も46%と前回から大きな変化はなく、労務費の転嫁率も40%で価格転嫁も二極化が進んでいる様子が窺われます。仮に、中小企業の「稼ぐ力」の回復が進まず、大幅な賃上げを続けた場合、計算上は数年で赤字化するため、「賃上げ余力」の不足が窺われます。日本商工会議所の6月調査でも、「前向きな賃上げ」を実施した中小企業は30%、「防衛的な賃上げ」が44%、「未定・賃上げ予定なし」が26%と、持続的・構造的な賃上げにはなお距離がある状態です。
賃上げ原資の観点からは、経済成長や企業業績の改善が重要です。報道ベースでは、上場企業の上期の当期損益は、金融・海運中心に非製造業が伸び4年連続増益となりましたが、中国を始めとする海外経済の減速・価格競争激化等を背景として、自動車・鉄鋼中心に製造業は4年ぶりに減益となりました。また、貿易赤字も10月で4か月連続となる等、7-9月の名目GDPは前期比+0.5%と低い伸びにとどまりました。しかし、多くの上場企業はコア事業の「稼ぐ力」を強化する「事業構造(ポートフォリオ)改革」を実行してきていますので、この進展を注視しており、その効果の中小企業への波及も期待しています。
こうして成長志向の大・中堅・中小企業中心に緩やかですが経済は成長軌道に向かうと期待され、この場合、金融政策も徐々に調整されていきます。こうした動きに対応して、成長志向の事業展開に必要な経営リソースを強化するために、中小企業自身も、自前主義から脱却し、「もう一回り大きくなる構造改革」を急ぐ必要があります。こうした観点から、「稼ぐ力」の向上に繋がる設備投資動向や、輸出動向、M&Aや第三者事業承継の動向にも注目しています(図表10)。
- 2「人財」は、人が会社経営にとって財産(human capital)である旨を表す造語。
(2)産業の高収益化に向けた「企業と雇用のダイナミズム」の向上
イノベーション創出力を高めて産業構造の高収益化を進め、輸出競争力も向上すれば、海外市場の成長をより多く取り込むことが可能となり、持続的な国内設備投資ニーズが生まれ、産業集積が進み、中小・中堅企業への波及の広がりも期待できます。先ほどお話ししたように低下してきた国際競争力の強化に重要な研究開発費は、2022年で米国は9,232億ドル、中国も8,118億ドルと経済成長とともに増加しているのに対し、日本は経済成長の停滞に伴い2,007億ドルと低迷しています。これは、先ほど説明したような歴史的な経緯から、日本では、先進国に求められるイノベーションが停滞し、新興国との価格競争・コスト削減に追われてきたことが一因と考えています。ソフトウェア投資も、米国は1990年以降11倍に拡大しましたが、日本はそれほど伸びておらず、乖離幅が広がっています(図表11)。業績拡大とともに、将来の成長を加速させる研究開発投資・人的投資やデジタル化投資を積極化し、イノベーション創出による価値提供の拡大を図ることは、先進国のリーダーシップを発揮するうえで重要です。現在推進されている先端産業育成・強化や人財能力開発強化等の投資拡大を続けることにより、産業構造改革が進むだろうと期待しています。
また、世界で稼ぐマインドを持った中堅・中小企業やスタートアップの育成支援も重要です。多くの大企業は、急速な成長を遂げたユニコーン企業でした。2011年から2021年の間に、欧米では大企業に成長した中堅企業の割合が3割あるのに対し、日本では1割しかなく、国内の経済と投資を支える存在の中堅・中小企業の成長力が低下しています。一人当たり営業利益は、1990年代に対し大企業は2.4倍に増加し中堅企業も1.9倍に増加していますが、中小企業は横ばいです(図表9<再掲>)。労働者不足の深刻化も、重大な供給制約になっており、設備投資の先送りによる生産性向上の遅れがサプライチェーンの海外シフトに繋がる懸念もありますので、政府施策でもある「大企業を目指す中堅企業と年商100億円を目指す中小企業」の成長に期待しています。
また、一人当たり人件費は、1990年代に対し大企業は1.1倍、中堅・中小企業は横ばいです(図表9<再掲>)。賃金は従業員の価値を表していますので、企業は「稼ぐ力」を向上させ、「前向きな賃上げ」を行い、従業員の価値を高める努力を不断に続ける必要があります。従業員の価値を高めるために、リスキリング等能力開発投資が重要ですが、自社で叶わない場合は、その事業のベストオーナー3に経営を託すことも選択肢の一つです。また従業員も、自身の価値を向上させる努力を行うとともに、自社で叶わなければ転職を選択肢と考える時代になっています。従って、成長志向の中小・中堅企業が如何に「もう一回り大きくなる構造改革」を実行するかが、持続的な賃上げに必要と考えています。
そして、中小企業から中堅企業へ、中堅企業から大企業への成長による既存企業の成長と、新たな技術で新市場を創出するスタートアップのユニコーンへの飛躍によって、成長志向の企業が「憧れ」の存在となり、資金や人財が集まることで成長スパイラルが創出され、賃金水準の上昇が続く「企業と雇用のダイナミズム」が強まると考えています(図表12)。これにより、「成長と分配の好循環」が期待されます。
また、従業者の7割が働く中小企業の成長は、全国の賃金水準の向上や人口流出に悩む地方の魅力の創生、働き甲斐の向上に欠かせません。実態をよく知る地域金融機関が、中小企業基盤整備機構・INPIT4・大学研究所・コンサル等の支援組織と連携を強め、買収・合併・第三者事業承継や踏み込んだビジネスマッチング等の付加価値提供サービスを通じて、中小企業の「稼ぐ力」を強化する「もう一回り大きくなる構造改革」を後押しし、「企業のダイナミズム」を向上させる支援活動の強化を期待しています。
- 3「グループ・ガバナンス・システムに関する実務指針(グループガイドライン)」(経済産業省、2019年6月28日)でも、グループ全体の事業ポートフォリオの最適化(コア事業の見極めおよび強化、ノンコア事業の整理)においては、各事業の潜在力を発揮させる「ベストオーナー」が誰かという視点が重要であることが、指摘されている。
- 4工業所有権情報・研修館。産業財産権制度の利用者に対して、特許をはじめとした知的財産(知財)に関する様々な情報提供や支援業務等を行う機関。
(3)将来不安を軽減する「家計のダイナミズム」の向上
日本は、資源を輸入に依存せざるを得ない産業構造であり、サプライチェーンがグローバル化した現在、世界のインフレの影響を受けやすい経済構造になっています。33年ぶりの高い賃上げ率が反映され、一人当たり所定内給与は前年比+2%台後半で推移していますが(図表13)、この間、生産年齢人口は1割減少し、年金受給世代人口は2.4倍に増加しました。所得代替率が6割の年金受給世代が3割を占め、現役世代は社会負担が重いため、総じて家計の購買力は低迷し、節約志向になりやすい社会構造です。
低収益化した経済構造においては、成長志向の大・中堅・一部の中小企業が成長をリードし、多くの従業者が働く過半の中小企業にも「前向きな賃上げ」が広がることが、将来不安の払拭に必要です。しかし、現在の賃金水準は主要国の中でも低く、社会負担の増加や「年収の壁」等、時間当たり賃金の上昇が可処分所得の増加に繋がらないなどの構造的問題を抱える中で、雇用者報酬が家計の可処分所得の9割超を占める「一本足構造」となっています。雇用者報酬の占める割合が7割、配当利子所得が2割の米国の家計のように、「稼ぐ力」の多様化に向けた改善も将来不安の解消には必要です(図表14)。新NISAの開始を通じて、勤務先の業績だけでなく、投資によって上場企業の成長が家計の所得向上に繋がる所得構造の多様化も進み始めています(図表15)。持続的な賃上げ、転職による賃金上昇、「長期・積立・分散」投資等により「家計のダイナミズム」が向上し、家計の「稼ぐ力」の向上の動きが、今後、家計の消費行動の改善に繋がると期待しております(図表16)。
日本銀行と致しましても、今後も、企業の経営努力を後押しし、「企業・雇用・家計のダイナミズム」の向上とともに日本経済が成長軌道に乗るよう、金融政策を適切に運営して参ります。
5.おわりに ―― 広島県経済について ――
最後に、広島県経済について、触れておきたいと思います。
広島県の景気は、緩やかな回復基調にあります。企業活動についてみますと、生産は自動車が弱めの動きとなっている一方、電気機械が半導体を中心に増加しており、全体としては横ばい圏内の動きとなっています。もっとも、設備投資については、今年度も幅広い業種で生産能力増強や新規出店に向けた投資が計画されており、9月短観における今年度の設備投資計画は全産業で前年比+28%の増加となっています。こうしたもとで、雇用・所得環境は、今年の春季労使交渉における幅広い企業での賃上げ実現の影響から、緩やかに改善しており、政府支援策も加わり、個人消費は緩やかな回復基調にあります。景気の先行きについても、緩やかな回復基調が続くことが期待されますが、海外経済の動向が輸出産業などに与える影響について注意が必要です。
広島県は、戦後復興の中で成長を遂げた輸送用機械を始め、鉄鋼などの「重厚長大型」産業から最先端の電子部品産業、日本酒に代表される食料品製造業まで、バラエティに富んだ製造業が集積しています。もっとも、中長期的な視点でみますと、人口動態や産業構造の変化など、企業を取り巻く環境が大きく変化している中で、今後とも、業種の多様性という強みを活かした、地域全体としての不断のイノベーション創出への取り組みが期待されます。
この点、広島県では、広島大学発のベンチャー企業が多く生まれています。加えて、2018年からは、スタートアップ企業の支援を通じて地域課題の解決等にチャレンジする「ひろしまサンドボックス」の取り組みが続いています。例えば、農地所有者と作り手をつなげる農地マッチングサービスの導入や、自律航行アシスト機能の観光用船舶への導入など、既に複数の実装事例がみられ、今後、地域が抱える課題の解決と企業の収益強化につながることを期待しております。また、2022年から始まった「ひろしまユニコーン105」プロジェクトでは、新事業や海外進出支援のほか資金調達に向けたサポート等を通じて、広島からユニコーンに匹敵する企業を10年間で10社創出することを目標とした取り組みが進められているほか、県立広島大学では、中小・中堅企業に焦点をあてたケーススタディ教材や授業科目の開発等を行う「SMOフロンティア研究所6」の開設などの取り組みもスタートしており、スタートアップ企業や中小・中堅企業の成長加速が大いに期待されるところです。なお、企業の新陳代謝には、設立だけでなく経営リソースを強化する統合・合併といった視点も重要です。この点、広島県では、広島県事業承継・引継ぎ支援センターにおける相談対応回数が全国1位と、事業承継に向けた支援体制の整備が進んでいるほか、県内企業からは「最近では異業種企業の買収等を通じた成長戦略型M&Aが増加している」といった声が聞かれており、前向きな企業の新陳代謝が進んでいくだろうと期待しております。
また、非製造業の成長には、宮島や平和記念公園、尾道など、豊富な観光資源を活かした交流人口や関係人口拡大に加え、投資拡大による「憧れ」の醸成が重要だと思います。この点、広島県では、広島の魅力を自発的に発信してもらえる仕組みとして「HITひろしま観光大使」制度7を導入し、積極的な情報発信が進められています。また、インバウンドの動向に目を向けると、2024年上半期における県内の外国人延べ宿泊者数8は、コロナ禍前の2019年と比較して+41%増加しています。さらなるインバウンド需要拡大に向けては、せとうちDMO9や他地域の観光関連団体等と連携した誘客促進に取り組まれているほか、民間のホテル建設プロジェクトも複数みられています。
広島県では、昨年の「G7広島サミット2023」の開催に続き、今年は日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞するなど、「国際平和拠点ひろしま」としての注目度も高まっています。コロナ禍で一時落ち込んだ観光客数は、足もと順調に回復傾向をたどっており、今年の上半期の総観光客数は前年比+10%増加しています10。今後も国内外から当地を訪れる人が益々増えることが期待されます。こうした中、経済の面でも、本日ご出席の皆様の取り組みが実を結び、県内企業の更なる飛躍と持続的な賃金上昇によって、広島県経済の成長が実現していきますよう祈念し、私からの挨拶とさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。
- 52022年に始まったプロジェクトで、広島から10年間でユニコーン企業に匹敵するような企業を10社創出することを目標として掲げ、資金調達機会の創出など各種のサポートメニューを整備している。広島県が目指すユニコーンは、一般的なユニコーンの定義である「創業10年以内」や「テック系」などにはこだわらず、時価総額10億ドル以上への急成長を志向する企業としている。
- 62024年7月開設。県立広島大学大学院経営管理研究科に設置された組織で、中小・中堅規模組織(SMO)に特化した教育を目的として、教育プログラムの開発や調査研究を行っている。
- 7年齢、性別、居住地問わず、広島が好きであれば誰でも「HITひろしま観光大使」として登録することができる制度で、各観光大使が広島の魅力を発信している。
- 8出所は観光庁「宿泊旅行統計調査」。
- 9「せとうちブランド」を確立し、持続可能な観光地経営を目指す組織として2016年に発足。マーケティングやプロモーションを策定実行する「一般社団法人せとうち観光推進機構」と、プロダクト開発を行う「株式会社瀬戸内ブランドコーポレーション」で構成される。
- 10出所は広島県観光連盟「広島県観光客・宿泊客モニタリング月報」。