【講演】 2%物価目標の実現とわが国経済 日本経済団体連合会審議員会における講演
日本銀行総裁 植田 和男
2024年12月25日
1.はじめに
日本銀行の植田でございます。本日は、わが国の経済界を代表する皆様の前でお話しする機会を賜り、誠に光栄に存じます。
昨年のこの場では、「日本銀行が目指している2%の「物価安定の目標」が持続的・安定的に実現していく確度が少しずつ高まっている」とお話ししました。その後、企業経営者の皆様方の決断もあり、2024年の春季労使交渉では大幅な賃上げが実現しました。賃上げを受けて、実質賃金は改善傾向に向かい、弱めの動きがみられていた個人消費にも改善の兆しがみられます。物価面では、輸入原材料コストに起因する上昇圧力が徐々に減衰する一方、賃金の上昇を反映する形で幅広い財・サービスで緩やかに価格が上昇するようになってきました。日本銀行では、こうした動きなどを踏まえ、本年3月にマイナス金利政策やイールドカーブ・コントロールなどの大規模な金融緩和の枠組みを見直し、更に7月には、国債買入れの減額計画を決定するとともに、短期金利の誘導目標の水準を0.25%程度に引き上げました。2024年は、賃金と物価の好循環が徐々に強まり、「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて、着実な前進が続いた1年であったと評価しています。
2025年は、どのような1年になるのでしょうか。日本銀行としては、好循環が一段と強まり、賃金の上昇を伴う形での2%の持続的・安定的な物価上昇の姿に更に近づくと予想しています。経済・物価見通しを巡る不確実性が大きいことを意識しておく必要はありますが、現在は、2%目標が実現する経済がどのようなものになるのか、改めて考えるのにふさわしい時期だと思います。こうした問題意識から、本日は、過去を振り返った後、新しい世界が企業の皆様方にとってどのようなものになるのか、その実現に向けて日本銀行がどのように金融政策を運営していく方針なのか、お話しします。
2.デフレ・低インフレ下におけるわが国経済と企業行動
最初に、過去のデフレ・低インフレ下の経済について振り返ります。日本銀行は、昨年4月に金融政策の「多角的レビュー」というプロジェクトを開始しました。これは、1990年代後半以降、長きにわたって物価が上がりにくい状況が続いたのはなぜか、この間の金融緩和がわが国経済にどのような影響を及ぼしてきたのか、といった問題意識に様々な角度から迫り、将来の政策運営に資することを目的としたプロジェクトです。1年半程度の時間をかけて、内部での分析やアンケート調査の実施、有識者の方々との意見交換等を進め、先週、その成果を公表しました。
わが国で物価が上がりにくい状況が長期化したのはなぜでしょうか。レビューでは、その要因を大きく3点に整理しています。
第1は、需要サイドの要因です。1990年代初頭のバブル崩壊後、図表1のように成長期待が低下するもと、資産価格の大幅下落とも相まって、企業行動は慎重化せざるを得なくなりました。その後、1990年代後半に金融危機が深刻化したことや、人口減少により国内市場の成長が鈍化したことも、企業行動の慎重化に拍車をかけました。こうした中、日本銀行が短期金利をゼロ%まで引き下げても十分に経済を刺激することが難しくなり、需要不足が慢性化することとなりました。
第2は、供給サイドの要因です。新興国からの安値輸入品の増加やIT関連の技術革新に加え、2010年代前半にかけては、為替円高が進んだことも、物価を下押ししました。
第3の要因は、需要・供給の両面から物価下押し圧力が継続的に働くもとで、賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方が社会に定着したことです。顧客は値上げに対して敏感に反応するようになり、企業は値上げに慎重になりました。図表2をご覧ください。企業の価格支配力が低下し、コスト上昇の販売価格への上乗せが難しくなったことは、価格マークアップ率の低下に表れています。また、厳しいマクロ経済環境下、企業は、労働コストの削減を含む事業再構築を進めましたが、その調整過程においては、賃金を抑制してでも、雇用の安定を確保することが重視されました。このことは、失業の急増を避ける効果を持ちましたが、同じく図表2でお示しているように、賃金の抑制傾向が強まる一因になったと考えられます。
これらの要因が相まって低成長とデフレ・低インフレが長期化したことは、企業行動に大きな影響を及ぼしました。企業は、経営戦略において、財務の健全化やコストカットを優先するようになりました。海外生産シフトも進み、国内での前向きの投資が抑制されるもと、図表3にありますように、企業部門は恒常的に投資がキャッシュフローを下回る貯蓄超過主体となりました。企業がコストカットを通じて効率性を高めたことで、わが国経済は、米国ほどではないにせよ、多くの期間において他の先進国と比べ遜色のない労働生産性の上昇率を確保することはできました。このことは、この間の企業の並々ならぬご努力の結果ではありますが、研究開発や前向きの投資が抑制されたことが、長い目でみたわが国の成長力に影響を及ぼした面があることは否定できません。
コストカットが優先され、前向きな行動が抑制されるようになった影響は、グローバルな貿易構造の中でみたわが国の立ち位置の変化としても確認できます。このことを典型的に表しているのが、図表4の経常収支の構成の変化と交易条件の悪化です。経常収支の内訳をみますと、海外生産シフトの進展等もあって、近年では貿易収支はゼロ近傍ないし赤字となり、海外子会社等からの投資収益が含まれる所得収支が全体の黒字をけん引する形に変化しました。
右図の交易条件も、悪化傾向を辿っています。交易条件とは輸出物価と輸入物価の比率であり、その悪化とは、より高い価格で輸入し、より安い価格で輸出することを通じて、貿易活動に伴い所得が海外に流出することを意味します。交易条件は、輸出・輸入の両面に影響する為替変動の影響はあまり受けません。重要なのは外貨ベースでの価格であり、1990年代以降の交易条件の悪化の主因は、ドルベースでみた資源価格上昇に伴う輸入物価上昇です。資源輸入国であるわが国にとってやむをえない面はありますが、資源価格上昇の背景には、新興国経済の拡大があったことを念頭に置いておく必要もあります。国内で魅力ある商品を開発するなどして、その恩恵を十分に取り込めていたならば、輸出価格を引き上げたり、輸出数量を増やしたりすることで、輸入物価上昇の影響をある程度相殺することができたはずです。この間に実際に起きたのは、世界貿易に占めるシェアの低下と、コストカットによる輸出価格の低下でした。
交易条件の悪化による所得流出は、家計が成長を実感できない状況が続く一因となりました。図表5をご覧ください。家計の実質賃金は、労働生産性対比で見劣りする状況が続いてきましたが、これには労働分配率の低下に加え、交易条件の悪化による所得流出が影響しています。企業がコストカットで労働生産性を高めても、家計はエネルギー価格等の上昇でその恩恵を受けられなかったということです。実質賃金・所得の伸び悩みから個人消費の伸びは緩やかにとどまり、内需の低迷は、企業の投資行動を一層抑制することになりました。
3.2%目標の実現とわが国経済
経済・物価情勢の変化
ここで、話を現在に戻します。わが国の経済・物価情勢は、大きく変化しました。
2013年以降の日本銀行による大規模な金融緩和は、短期のみならず長期の金利も大きく押し下げ、経済を刺激することに成功しました。政府の財政政策、海外経済の好転などの外部環境の変化とも相まって、慢性的な需要不足は解消に向かいました。この結果、2010年代半ばには、デフレではない状態が実現しましたが、その後も、しばらくは物価上昇率が2%を下回る状況が続きました。この背景としては、(1)景気が改善し労働需要が高まるもとで、これまで就業していなかった女性や高齢者の労働参加により、賃金上昇圧力が相対的に抑制されたことに加え、(2)社会に根付いた賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方の転換に時間を要したことが挙げられます。
もっとも、こうした女性や高齢者の労働参加の高まりが今後も続くことは、見込みにくくなっています。図表6をご覧ください。人口動態の変化を受けて、追加的な労働供給の余地は縮小してきており、人手不足感は構造的に強まりやすくなっています。コロナ禍前から人手不足感は徐々に強まっていましたが、最近では、ベビーブーマー世代の労働市場からの退出等が進むもとで、一層明確になっています。
労働市場の引き締まりが底流として進むもとで、コロナ禍後の輸入物価の大幅上昇は、賃金・物価が上がりにくいとの慣行や考え方が大きく変化するきっかけとなりました。企業の賃金・価格設定行動の変化は、本年初に「多角的レビュー」の一環として実施したアンケート調査からも確認できます。図表7をご覧いただきますと、最近では、8割以上の先がコストの価格転嫁の難しさが緩和した、9割程度の先が賃上げを積極化した、と指摘しています。最近では、賃金の上昇を反映する形で幅広い財・サービスで緩やかに価格が上昇するようになってきており、日本銀行としては、2%目標の持続的・安定的な実現が見通せる状況となっていると判断しています。
2%目標の実現と景気安定化
それでは、2%目標の実現によって、わが国経済はどのように変化することが期待できるのでしょうか。
2%目標が実現した経済では、金融政策による景気の安定化がより達成されやすくなり、企業や家計の経済活動をサポートすることになります。金融政策は、主として実質金利の変化を介して経済活動に影響します。実質金利とは、名目金利から物価上昇率の先行きに対する見方、つまり予想物価上昇率を差し引いたものです。予想物価上昇率が2%のときは、名目の短期金利を引き下げることで、短期の実質金利はマイナス圏を含めて引き下げることができますので、需要を刺激しやすくなります。
デフレ・低インフレ下では、わが国経済は、短期金利の操作によって、この実質金利を十分に引き下げることができないというゼロ金利制約に直面しました。こうしたもとで、日本銀行は、大規模な国債買入れで長期金利を押し下げる、短期金利を小幅のマイナスとする、といった非伝統的な金融政策手段を総動員することで、長期を含めた実質金利を更に押し下げ、経済を刺激してきました。「多角的レビュー」で実施した各種の定量分析によると、これらは経済・物価を一定程度押し上げたと評価できます。ただし、非伝統的な金融政策手段の波及経路や効果は不確実であるほか、これらの政策を長期間続けることで、金融市場等に副作用をもたらしうることには留意が必要です。大規模な金融緩和は、現時点においては、全体としてみれば、わが国経済に対してプラスの影響をもたらしたと考えていますが、今後、新たな副作用が顕在化し、マイナスの影響が大きくなる可能性も否定はできません。
こうした点は、非伝統的な金融政策手段は、短期金利操作の完全な代替手段にはなりえず、可能な限りゼロ金利制約に直面しないように金融政策を運営していくことが望ましいことを示しています。物価上昇率が安定して2%程度で推移すれば、経済・物価に下押し圧力が働いた際、短期金利を引き下げるだけで、短期の実質金利をはっきりとしたマイナス圏まで機動的に引き下げることが可能となります。このことで景気の安定化が期待できるようになれば、企業の皆様方も、よりリスクを取って、思い切った経営戦略を取りやすくなるはずです。
2%目標の実現と企業行動
ここまで、2%目標が実現するもとでは、金融政策により景気を安定化する余地が広がることをお話ししてきました。これだけでも、経済にとって大きなメリットですが、私としては、2%目標の実現は、企業経営やイノベーションという観点からも、プラス効果があるのではないか、と期待しています。
改めて言うまでもありませんが、賃金・物価が「動かない世界」と「ともに緩やかに上昇する世界」では、企業の皆様方が直面する環境は大きく変化します。図表8をご覧下さい。2000年からコロナ禍前の2019年までの20年間で、わが国の名目GDPの水準は4%しか上昇しませんでした。これに対して、過去3年間の名目GDP成長率は平均して年率3%程度です。この成長率が20年継続すれば、名目GDPの水準は80%上昇することになります。
先ほども紹介した企業アンケートは、こうした環境変化が企業行動に影響を及ぼしうることを示唆しています。図表9をご覧ください。企業の方々のご意見を伺いますと、賃金と物価が「ともに緩やかに上昇する状態」は、「ともにほとんど変動しない状態」よりも、事業活動上好ましいとの回答が圧倒的に多く、賃金・物価が上昇する環境は、企業行動を前向きに変化させうることが強く示唆されます。賃金・物価の緩やかな上昇が好ましい理由としては、「価格転嫁が容易になる」といった指摘に加えて、「コストカットが不要になるため、前向きな投資を行いやすい」との回答も多くみられました。賃金や物価が緩やかに上昇するもとで、企業がより前向きな行動を取りやすくなるのならば、わが国の長い目でみた成長という面でも大きなプラスです。
物価が緩やかに上昇するもとでは、名目金利の水準によって、保有する現預金の実質価値が目減りしやすくなる点にも留意が必要です。デフレ下では、現預金の実質価値が増加する傾向があるため、中小企業を中心に、投資を先送りし将来の不確実性に備えて現預金を積み上げるという財務戦略がみられました。今では、こうした戦略のコストは大きくなっているはずです。実質金利がマイナスであり、現預金の実質価値が目減りしていることは、家計にも影響を及ぼすと想定されます。支出行動に影響を及ぼす可能性があるほか、新NISAの導入といった近年進んでいる制度面の取り組みとも相まって、今後、これまで現預金が中心であった家計の資産選択が変化していくことも考えられます。
このように、緩やかな物価上昇が定着するもとでは、企業も、家計も、行動変化が求められます。新しい環境のもとで、中長期的にみて経済の成長力を高めていく主役は、企業の皆様方です。研究開発など前向きな投資を行いやすくなれば、イノベーションを生み出す余地は拡大します。イノベーションは、製造業に限った話でありません。構造的に人手不足が強まることが予測されるもと、業種を問わず、AI等も活用して省力化を進めていく余地は大きいように思われます。国内の観光資源等の価値を見直し、インバウンド消費といった形で、適切な価格でサービスを提供していく余地もなお大きいかもしれません。
日本銀行としましては、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を通じて、金融政策面から、企業の皆様の前向きな行動をしっかりとサポートしていく所存です。
4.2%目標の実現と金融政策
続いて、本日の最後の話題として、今後の金融政策運営に関連して、2点ポイントを申し上げます。
第1のポイントは、日本銀行は、2%目標の持続的・安定的な実現に向けた移行期にあたる現時点においては、景気・物価に中立的となる中立金利よりも政策金利を低くすることにより緩和的な金融環境を維持し、経済をしっかりとサポートしていく、ということです。デフレ・低インフレ環境に逆戻りすることは、避けなければなりません。
日本銀行は、本年3月に大規模な金融緩和の枠組みを見直し、7月には政策金利の引き上げを決定しました。この結果、名目でみた短期金利は、小幅のマイナスから0.25%程度まで上昇しています。もっとも、図表10のとおり、金融緩和の起点となる実質金利はマイナス圏で推移しています。特に短期の実質金利は、大規模な金融緩和を行ってきた2013年以降のほとんどの局面よりもかなり低く、緩和度合いが強まっている状況です。これは予想物価上昇率の高まりによるものであり、先ほど申し上げた「2%目標の実現により、金融政策で経済を刺激する余地が拡大する」というメリットが既に一部顕在化していることを示しています。
第2のポイントは、経済・物価情勢の改善が続いていくのであれば、それに応じて、政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことが必要になる、ということです。経済・物価情勢が改善するもとでも、現在のような低金利を維持し続ければ、金融緩和の度合いが過大なものとなる可能性があります。そうした政策運営のもとでは、物価上昇率が2%目標を上回って加速し、後になって、急速な金利の引き上げを迫られるリスクが高まらざるをえません。物価の加速や金利の急速な上昇は、企業の前向きな動きを支え、息の長い成長を実現していくうえでもマイナスです。
こうした緩和度合いの調整のタイミングやペースは、今後の経済・物価・金融情勢次第です。国内外の様々なリスク要因を十分注視したうえで、わが国の経済・物価の見通しやリスク、見通しが実現する確度に及ぼす影響を見極めていく必要があると考えています。
米国をはじめとする海外経済の先行き、特に米国の次期政権の経済政策を巡る不確実性は大きい状況です。米国の政策運営は、米国の経済や物価だけでなく、世界経済や国際金融資本市場にも、大きな影響を及ぼしうるものです。そうした観点から、わが国の経済・物価への影響も、よく見ていく必要があります。国内経済に目を転じますと、目先の大きなポイントは、春季労使交渉に向けた動きです。経団連の十倉会長は、先日の記者会見で春季労使交渉に関して「2023年は賃金引上げの力強いモメンタムの「起点」の年、そして2024年はそれが大きく「加速」した年となった。2025年はこの流れを「定着」させ、構造的な賃金引上げを実現したい」と指摘されています。私も同感です。重要なことは、2%の物価上昇と整合的な賃上げを当たり前のこととして社会に「定着」させていくことです。大企業を中心に、企業収益は高水準となっています。これらが中小企業へ、更には家計へとしっかりと分配されていくことは、好循環の持続のため、不可欠です。中小企業の賃上げに向けた動きについては、私どもの本支店ネットワークも活用しながら確認していきたいと考えています。
現在、私どもはこうした要因もにらみつつ、足もとまでに発表されたデータ・その他の情報を精緻に分析し、2025年以降の日本経済・物価見通しを作成するという作業を続けています。その結果は、来年1月後半公表の「展望レポート」にまとめますので、ご覧いただければ幸いです。
冒頭に申し上げたとおり、「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて、2024年は、着実な前進が続いた1年間でした。2025年も好循環が継続し、2%目標が持続的・安定的に実現していくことを強く期待して、本日の講演を締めくくりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。