【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策宮城県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2025年2月19日
1.はじめに
日本銀行の高田でございます。本日は、宮城県の行政、財界、金融界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜りましたこと、誠にありがとうございます。皆様には、日頃から日本銀行仙台支店の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますこと、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。
本日は、わが国の経済・物価情勢や金融政策運営などについてお話しします。その後、宮城県経済の動向や日本銀行の業務・政策運営に対するご意見などをお聞かせ頂ければと存じます。
2.経済・物価情勢
経済・物価情勢です。海外経済は、総じてみれば緩やかに成長しています(図表1)。昨年夏頃に景気減速懸念が生じた米国経済は、その後、個人消費を中心に堅調に成長しており、今年1月に改訂されたIMFの世界経済見通しでは、2025年の成長率が2.7%に上方修正されています。最近の経済指標からは堅調な米国経済の姿、特に景気減速懸念の契機となった雇用の底入れの可能性が示唆されます。Fedは、昨年後半3回連続の利下げを行ってきましたが、今年1月のFOMCでは政策金利を据え置きました(図表2)。昨年12月のFOMCにおける経済・物価見通しでは利下げ見通しが示されていますが、市場参加者の一部からは、米国経済の堅調さや米国新政権を巡る思惑もあって、利下げ休止を見込む声も聞かれるところです。こうした経済の底堅さを踏まえると、新政権下における政策運営を巡る不確実性には依然留意が必要ですが、私としては、ソフトランディングよりむしろ早期の再加速――言わば「タッチ・アンド・ゴー」――の可能性が高まっていると捉えています。そもそも、米国では2%程度とされる潜在成長率を上回る3%に近い成長が4年続き、2025年も高めの成長率が見込まれるなか、むしろ米国の雇用や物価動向が一段と上振れる可能性やその国際金融市場への影響も念頭に置く必要があります。
わが国経済は、一部に弱めの動きもみられますが、緩やかに回復しています(図表3)。先行きも、海外経済が緩やかな成長を続けるもと、緩和的な金融環境などを背景に、所得から支出への前向きの循環メカニズムが徐々に強まることから、潜在成長率を上回る成長を続けるとみています。さらに、米国中心に海外経済が上振れた場合には、回復のモメンタムが強まる可能性もあると考えています。
企業部門では、12月短観においても高めの設備投資計画が示されており、労働の供給制約によって進捗が遅延している可能性はありますが、積極的な設備投資スタンスは継続しています(図表4)。個人消費をみると、物価上昇の影響などがみられるものの、緩やかな増加基調にあります。物価上昇が賃金上昇に先行してきましたが、足もとでは、昨年の春季労使交渉を受けた名目賃金のはっきりとした上昇を背景に、実質賃金のプラス転化に向けた動きが生じています(図表5)。ただし、水準の観点から振り返ると、コロナ禍前対比の物価上昇に賃上げはなお追いついていません。先行き、政府によるガソリン代等の負担軽減策が縮小しつつも継続されることなどによる物価上昇の落ち着きに加え、賃金上昇率の高まりを背景に、こうした物価と賃金のギャップが縮小することで、個人消費も緩やかな増加を続けると考えています。
物価面では、消費者物価(除く生鮮食品)前年比は、2024年度に2%台後半、2025年度が2%台半ばとなったあと、2026年度は概ね2%程度で推移し、見通し期間後半には「物価安定の目標」と概ね整合的な水準で推移すると想定しています(前掲図表3)。物価の基調をみるうえで、様々な主体の中長期的な予想物価上昇率をみると、着実に底上げされています(図表6)。また、企業の賃金・価格設定行動には積極的な動きがみられており、人手不足を背景とした供給制約――言わば「人手不足経済」への転換――のもと、人件費や物流費等の持続的なコスト上昇を価格転嫁する動きが拡がっている点に注目しています(図表7)。最近では、サービス価格が、4月・10月以外の月でも上方改定される頻度が高くなっており、価格引き上げが定着したとの捉え方もできると思います。こうしたもとで国内のインフレ圧力を示すGDPデフレーターをみると、価格転嫁が進展した2023年はユニット・プロフィット(UP)等が伸びの中心でしたが、2024年は賃金上昇を背景に、ユニット・レーバー・コスト(ULC)の寄与が高まっています。支店長会議を通じたヒアリング情報や報道等における前向きな企業の声の拡がりなどを踏まえると、私としては、2025年の春季労使交渉におけるベアも昨年に続くしっかりとした水準を期待しています。今年のベアを受けて、先行きも、賃金と物価の好循環が強まり――言わば、国内要因によるインフレ圧力で――、UPとULCがバランスよく伸び、長年、安定的な達成を果たせなかった「物価安定の目標」の実現に近づいていくと考えています。
海外要因の観点で、輸入物価上昇率をみると、足もとは落ち着いており、2022年以降のように急な価格転嫁をもたらす大きさではありません。ただし、高めの物価上昇率が3年続くなか、賃金や物価は上がらないものと考える規範(ノルム)の転換が進んでいることもあり、従前より価格転嫁が進みやすい状況です。
先に述べた米国経済の上振れを念頭に置くと、それに伴う米国金利上昇・為替円安進展といった市場変動を背景に、今年の大幅なベアの実現も加わって物価が上振れるリスクに留意する必要があると考えています。特に、米新政権発足後、まだ日が浅い中、政策への期待で市場が大きく変動する可能性も注視しておきたいと思っています。
近年の企業の賃金・物価設定行動の変化を振り返れば、第一段階として、2022年は海外発の原材料価格上昇――1つ目のビッグ・プッシュ――が起点となり、第二段階として、2023年以降、今年にかけての春季労使交渉での高めの賃上げが2つ目のビッグ・プッシュとなりました(図表8)。さらに、第三段階として、特に2025年度以降は、しっかりとしたベアを背景とした国内要因によるインフレ圧力の発生を通じ、予想物価上昇率の底上げも加わって「物価安定の目標」実現に向けた動きが期待されます。
3.最近の金融政策運営
次に、金融政策運営に対する考えをお話しします。2024年は大きな転換の年になりました。日本銀行は、昨年3月に、マイナス金利政策やイールドカーブ・コントロール(YCC)などの大規模な金融緩和の枠組みを見直し、さらに7月には、国債買入れの減額計画を決定するとともに、短期金利の誘導目標の水準を0.25%程度に引き上げました。
本年1月には、わが国の経済・物価は、これまで示してきた見通しに概ね沿って推移し、先行き見通しが実現していく確度が高まってきているため、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、金融緩和度合いを調整することが適切と判断し、短期金利の誘導目標の水準を0.5%程度に引き上げました(図表9)。ただし、政策金利変更後も、実質金利は大幅なマイナスが続き、緩和的な金融環境が維持されることは変わりません(図表10)。
私は、これまでもお伝えしてきたとおり、物価が概ね見通しに沿って推移するもとで、堅調な設備投資や賃上げ、価格転嫁の継続など「前向きな企業行動」の持続性が確認されていけば、その都度、もう一段のギアシフト――金融緩和度合いの更なる調整――を進めることが必要だと考えてきました。この点では、積極的な設備投資スタンスや価格転嫁・賃上げの拡がりなどの状況は、昨年来続いてきたとも考えられます。他方、同時に、1970年代の変動相場制への移行後、先進国の金融政策スタンスとそれに対応する景気サイクルが概ね連動していたなか、内外の異なる景気サイクルを背景とする金融政策のスタンスの違いで、為替を中心とする金融市場に大きな変動が及ぶリスクも重視してきました。実際、今次局面を除いた日本銀行の1970年代以降の過去5回の利上げ局面を振り返ると、米国の利下げ後に、日本も利下げに転じていました。もっとも、今次局面では、日米の金融機関や企業、家計のバランスシート調整圧力は生じていないほか、1月にかけて米国経済の堅調さが改めて確認され、日米の金融政策スタンスの違いも縮小したといえます。私としては、こうした状況を踏まえ、市場の大きな変動リスクが後退した、すなわち、日本銀行の政策の自由度が増したと捉えています。
先行きについても、緩和的な金融環境のもと、引き続き、「前向きな企業行動」の持続性が確認され、見通しが実現していけば、一段のギアシフトを進める局面だと考えています。その際には、価格転嫁や賃上げが中小・地方企業に拡がるかといった視点も重要です。他方、賃金と物価の好循環が強まるなか、特に新年度に向けて国内要因によるインフレ圧力もあるもと、米国経済が再び回復に向かう確度の高まりによって為替を中心とする市場変動を背景に、物価が上振れる可能性もあるほか、不動産も含む資産価格の上昇で投資家の期待も高まっているといえます。こうした観点から、私としては、既に前向きな企業行動が生じてきたという点で、2%の「物価安定の目標」に近づいているとの認識のなか、過度な緩和継続期待が醸成され、物価上振れリスクや金融の過熱リスクが顕在化しないよう、1月に実施した追加利上げ以降も、ギアシフトを段階的に行っていくという視点も重要だと考えています。
ただし、米国経済にかかる不確実性はなお残存しているほか、中立金利の把握が困難なもとでは、政策金利引き上げの経済・物価・金融情勢への影響を検証しながら対応するといった慎重さが求められると思います。特に、日本では1990年代以降、低水準の政策金利が続き、米欧のように政策金利の変動がみられなかった点でも中立金利の推定は困難です。また、こうした制約のもとで、中央銀行が一定の中立金利の水準を示すことは、市場でフォワード・ガイダンスのように捉えられる可能性もあり、政策の柔軟性の観点からも課題があると思います。
4.「金融政策の多角的レビュー」も踏まえたバブル崩壊後の振り返り
昨年は、(1)約35年振りの株価の史上最高値更新や、(2)33年振りの5%を上回る賃上げ実現など、30数年振りの現象が話題となりました。私としては、バブル崩壊以降の歴史的な転換点を迎えていると考えており、大規模な金融緩和からの転換も、この延長線上にあると捉えています。
こうした歴史的転換にいたるまでには予想以上に長期にわたる時間を要しました。昨年12月、日本銀行は、1年半程度の期間をかけて実施してきた「金融政策の多角的レビュー」の結果を取り纏め、公表しました。その中では、緩やかなデフレが長期にわたり継続した主因として、自然利子率が低下するもとで需要不足が慢性化したことや、賃金・物価が上がり難いことを前提とした慣行や考え方の定着が指摘されています(図表11)。以下、バブル崩壊後からの転換を振り返り、多角的レビューの意義――世界の金融史の観点から2つあると考えています――や残る課題などに分けて、私見を述べたいと思います。
意義(1):世界でも未曽有の状況
第1の意義は、マクロ環境などが戦後先進国では未曽有であったといえることです。すなわち、資産デフレと為替円高も含めた外需に依存しにくい環境が長く続いた極めてまれな環境を分析対象としている点です。この点に関し、なぜこうした状況に陥ったかを歴史的な観点から振り返りたいと思います。
わが国経済は、1990年代以降、バブル崩壊とともに低成長が続きました。成長率の低下には、人口動態など様々な要因が影響していますが、バブル崩壊以降に直面した環境変化に対応した企業の行動変化が大きいと考えています。具体的には、図表12に示されるような、大幅な資産デフレ環境のなかでバランスシート上の資産圧縮と投資抑制を通じた「持たない経営」の拡がりと、損益計算書上における海外との競合環境を背景とする「リストラ経営」の拡大が指摘できます。個々の企業の立場からみれば、以上の対応は置かれた環境変化を踏まえた合理的な対応ではありましたが、マクロ的には、「合成の誤謬」で縮小均衡に陥りました。企業の「持たない経営」、「リストラ経営」は、設備投資圧縮に止まらず、人的投資の抑制も相まって、わが国の潜在成長率を低下させたと考えられます(図表13)。このことは、企業の資金需要が長期にわたって低迷したことに加え、グローバル化の進展や人口動態の変化などと相まって、自然利子率を押し下げる方向に作用しました。
未曽有といえるのが資産デフレです。1980年代、ピーク時には世界の株式市場の時価総額の半分近くをわが国が占めましたが、1990年代以降、株価は大きく下落したほか、不動産価格も低迷しました(図表14)。国富でみたその大きさは、バブル期ピークとボトムの比較で約900兆円とGDPの倍近い規模であり、第二次世界大戦時の国富の消失と比べても、バブル崩壊のインパクトの大きさが窺われます1。こうしたなか、実質自己資本が大幅に低下することで投資の抑制や有利子負債削減が進みました。また、バブル崩壊後の金融システムの問題に伴う資金調達への不安が、現預金を積み上げる企業行動にも繋がりました。さらに、バブル崩壊後の1990年代後半以降、幾度か、企業は金融機関の貸出態度の厳格化を感じ、流動性への不安を高めたことが企業経営者への傷跡効果をもたらしたと考えられます。こうした金融面の変化が実体経済に相乗的に及ぼす影響をファイナンシャル・アクセラレーター効果といいますが、バブル崩壊後の日本経済にも深刻な負の影響が出ていたとの指摘もみられます2。
外需に依存できない環境、「リストラ経営」に繋がった海外との競合環境も未曽有であったといえます。第二次世界大戦後、日本は長らく、西側陣営の工場として世界貿易の追い風を享受しました。もっとも、1989年のベルリンの壁崩壊以降は、地政学的環境に転換が生じ、わが国の経済的な脅威論拡大から米国との通商摩擦が高まるとともに、1990年代以降、為替市場では急速な円高が進行しました(図表15)。こうしたもと、本邦企業は、半導体産業では生産シェア抑制を余儀なくされたほか、自動車など幅広い業種で海外への生産拠点のシフトが求められ、国内の産業空洞化に繋がりました。また、円高環境でも輸出価格を据え置いて価格競争力を維持し、国内では、リストラに向けた経営やマージンを圧縮しつつ従業員の賃金を上げない対応が定着し、原材料価格が上昇しても販売価格に転嫁せず、コスト削減によって吸収することがノルムとして習慣化されました。
資産デフレに陥った歴史的な事例として、1930年代の大恐慌時の欧米や1990年代初の北欧が挙げられます。これらの国々では、通貨安による外需拡大が経済の回復に寄与したと指摘されています。例えば、大恐慌時には金本位制離脱を含めた通貨下落が、1990年代初の北欧では通貨下落に加えてドイツ統合に伴う需要増加が、外需の拡大に繋がりました。こうした例を踏まえると、1990年代以降の日本において、自国通貨上昇と外需への依存が閉ざされたことが、回復の大きな制約になったと捉えています。こうした未曽有ともいえる環境が、賃金も価格も据え置くのが当たり前というノルムの定着に繋がったと考えられます。
- 経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」に基づく国富の被害額(643億円)を、1944年度の国民総生産と比較すると、86%となる。
- ファイナンシャル・アクセラレーターの波及メカニズムについては、以下を参照。
福永一郎(2006)「資本市場の不完全性下の金融政策」、日銀レビュー、2006-J-13
意義(2):世界初の金融政策手段の導入
第2の意義は、日本銀行が世界初として採用してきた各種の非伝統的金融政策手段を分析対象としていることです(図表16)。日本銀行の金融政策の変遷を辿ると、既に述べたように未曽有ともいえる環境であったこともあり、ゼロ金利政策、量的緩和政策、YCCなど、いずれも世界初の試みであった対応がとられてきたと考えています(図表17)。
多角的レビューでは、こうした非伝統的金融政策のうち、大規模な金融緩和の効果と副作用について、「金融市場や金融機関収益などでの一定の副作用はあったものの、現時点においては、全体としてみれば、わが国経済に対してプラスの影響をもたらしたと考えられる」、同時に、「今後、非伝統的な金融政策手段を用いる必要が生じた場合には、その時点の経済・物価・金融情勢の下で、非伝統的な手段がもたらすベネフィットとコストを比較衡量することが重要」と評価しています。また、大規模な金融緩和において、期待への働きかけを通じた予想物価上昇率の引き上げを起点として想定していましたが、「一定の効果を及ぼしたとみられるものの、わが国の予想物価上昇率は、適合的な期待形成の影響が大きい傾向にあり、過去の経験などにも強く影響を受けて形成されてきたこと」、「賃金・物価が上がりにくいことを前提とした慣行や考え方の転換は容易ではなく、期待への働きかけだけで物価上昇率を2%にアンカーするほどの有効性はなかった」と総括されています。
こうした多角的レビューの分析結果については、日本以外の国――例えば、今日、不動産価格の下落という点で共通点のある中国――にとってもインプリケーションがあるように思われます。多角的レビューに関連した一連の公表物がグローバルにも広く活用されていくことを期待したいと思います。
マクロ環境の改善
未曽有ともいえる資産デフレや極端な円高については、2012年頃に転機を迎えました(前掲図表14)。一方で、過去から続いてきたノルムの転換には長い時間を要しました。こうした転換には予想を超える時間が必要な可能性について、講演の機会でも予てお話しさせて頂いてきましたが、バブル崩壊後に定着したノルムの根強さをみる観点で、負の経験、傷跡効果の一例として1つの試算を改めて紹介します。
図表18では、多くの人が就業すると考えられる22歳から、毎月一定金額を日経平均株価に投資したと仮定した場合の累積リターンを年齢別に示しています。過去10年余り株価上昇が続いたことから、20歳代や30歳代の世代は、マイナスを殆ど経験していない一方、40歳代・50歳代の世代は、バブル崩壊後の長期間の株価低迷から、就業してから半分近くの期間でマイナスを経験してきたことが確認できます。一例としての株価による試算ですが、現在、企業等の組織で中核を占める40歳代・50歳代の世代を中心に、長期にわたる負の経験、トラウマのような経験があったことが、その後、慎重化した企業行動の根強さの一因になっていると考えられます。加えて、こうしたノルムと化した根強い企業行動等の転換には、1つの世代を形成する10年単位(decade)と、予想以上に時間を要する可能性も示唆されます。予想物価上昇率の「適合的」な期待形成においても、ノルムが定着した期間が長いだけに、その慎重化した状況からの転換、上昇には当初の想定をはるかに超える時間を要したとの解釈もできます。
この点、多角的レビューにおいても、金利低下が需給ギャップを改善させる効果の波及経路として、資金調達コストの低下を通じた経路に加え、金融資本市場(株価・為替)を通じた経路も大きな影響を与えていたことが示されています(図表19)。この結果から、日本銀行の金融緩和が、バブル崩壊後の企業行動の変化を招いた要因である資産デフレや円高も含めたいわゆる「六重苦」からの転換に貢献した可能性が示唆されます。私としては、ノルムの転換には1つの世代を形成する10年単位の時間が必要な可能性を踏まえると、日本銀行が長年にわたって粘り強い緩和姿勢を続け、資産価格の改善や極端な円高からの反転を支えたことが、バブル崩壊からの歴史的な変化となるノルム転換の変曲点を迎える「下地」となったと捉えています。こうした「下地」のもと、前掲図表8のように、2022年以降、海外発の輸入物価上昇に起因したビッグ・プッシュもあり、2024年に漸く歴史的な30数年振りの転換という象徴的変化が生じ、今に至っていると考えられます。
前掲図表12に沿って改めてみると、株式や不動産市場を中心に資産価格が上昇したなど、バランスシート面で「持たない経営」に繋がった資産デフレは大きく改善しています。また、「リストラ経営」についても、2010年代以降、損益計算書の面で海外との競合激化に繋がった為替の過度な円高進行が解消したほか、1990年前後とは大きく異なるわが国の地政学的な立場の変化から、熊本や北海道で半導体の国内生産が強化されるなど、経済安全保障の観点から日本に生産拠点が回帰する歴史的な動きも生じています。以上、マクロ面からは未曽有ともいえる環境からの歴史的にも大きな転換が窺われます。
ミクロ面の残る課題
こうした転換のもとで、残された課題について考えたいと思います。前段でも、一段のギアシフトには「前向きな企業行動」の持続性をポイントに挙げましたが、バブル崩壊後の企業行動が「持たない経営」と「リストラ経営」に代表されるだけに、課題についても、こうした観点からの確認が必要だと思います。
「持たない経営」の観点では、先行きの堅調な設備投資が挙げられますが、積極的な設備投資スタンスは継続しています。また、「リストラ経営」の観点では、賃金や販売価格の引き上げ、マージンの確保などが挙げられます。この点、経営者は人的資本投資・賃金引き上げへの社会的要請の高まりを意識し、賃金や販売価格を据え置く行動原理が当然であるという考え方にも変化が生じています。企業からは、物価と賃金の緩やかな上昇が事業活動上好ましいとの声が7割を占めています(図表20)。中小企業や地域も含め、足もと増加が続く事業承継やM&Aなど、一定のイノベーションを促す力が働き出し、販売価格引き上げに向けた動きがみられ始めたと考えることも可能です。同様に家計においても、物価と収入がともに緩やかに上昇する状態は、物価と収入がともにほとんど変動しない状態より好ましいとの声が多くなっています。前掲図表18でもみたように、バブル崩壊後の負の経験や縮小均衡を経験していない新たな世代の台頭は、これまで浸透してきた行動原理、ノルム等からの転換に繋がり得ると思います。
このように前向きな変化は生じてきていますが、他方で、長年、縮小均衡が続いたことで企業と家計のマインドに依然慎重さが残存しています。こうしたもとで、ミクロの観点でみれば、設備投資になお慎重さが残る企業が残存し、企業収益の改善が価格転嫁や賃上げを通じて経済の川下である中小・地方企業まで浸透し難い、言わばノルムを背景とする課題を抱えた状況と捉えています。
こうしたなか、これまで毎年の春季労使交渉や価格転嫁に注目してきたのは、「物価安定の目標」実現に向けて、ミクロ的な課題への対応が進捗することが、賃金と物価の好循環に繋がるうえで重要と考えてきたためです。特に価格転嫁に関しては、歴史的にはインフレを抑制する観点から「所得政策」として政府主導で賃金抑制策を行うことがありましたが、現在は、その逆で、公正取引委員会や中小企業庁を始めとした価格転嫁促進策、政労使会議といった賃金引き上げ策――言わば「逆所得政策」――が行われています。その動向や影響についても注目していきたいと思います。この点、企業収益が極めて高い伸びを示す一方、賃金の伸びが抑制され、労働分配率が趨勢的に低下してきたことがこうした取り組みに繋がった面もあると考えられます(図表21)。
図表22の企業収益の拡大が経済全体へと巡る概念図をご覧ください。企業努力に加え、海外との競合の改善等を背景に、マクロの観点で企業収益は大きく拡大しました。一方、ミクロの面では企業収益の使途となる賃金や下請けへの価格転嫁は、賃金や物価は上がらないと考えるノルムのもとで限定され、多くが配当や海外投資に回ってしまい、国内での設備投資も限られてきました。こうした状況は各種の取り組み等で改善しつつあることで家計や中小・地方企業への均霑に繋がり、好循環が実現することへの期待が生じています。
こうした賃上げや価格転嫁といったミクロ面の課題是正への動きは「物価安定の目標」実現に向けて重要であるため、その状況を見極めつつ、政策運営を行っていきたいと考えています。なお、私としては、このように賃金や価格設定行動の変化に注目していることは、先述のように日本のマクロ環境が未曽有の厳しさに長期間置かれ、その結果、変化が生じないことがノルム化していたことが背景にあり、他の中央銀行と比較して日本銀行の現行の金融政策のひとつの特徴点とも捉えられるかと思っています。
金融仲介の変化とまとめ
最後に、多角的レビューで対象とした四半世紀、特に2010年代以降の量的・質的金融緩和下での副次的な効果として、金融仲介の分野で大きな構造変化が生じていることを指摘したいと思います。
多角的レビューでは、有識者の方から、伝統的な金融政策が想定する貸出増で経済・物価にプラスの影響を与える経路が弱かった一方、為替や株式市場という資本市場の経路が大きく影響した旨のコメントを頂戴しています。実際に、この25年間の銀行貸出の限定された伸びを牽引したのは、不動産と住宅ローンでした(図表23)3。一方、大規模緩和が金融資本市場の改善に寄与した部分もあって、投資運用会社(投資顧問業、投資信託)の運用資産は過去10年間で大幅に増加しています。2024年は資産運用元年と称されますが、実際に、その国内外への運用資産残高をみると、2024年中に1,000兆円に近接し、国内向けの銀行貸出市場を上回る規模となっています。このように、金融資本市場経由の重要性が拡大するもとで、中央銀行のモニタリングはどうあるべきか、こうした構造変化に応じて中央銀行が採るべき対応は何か、といった点が問われているかと思います。同時に、市場とのコミュニケーションの在り方にも課題を投げかけているのではないかと考えています。こうした観点での活用ができる点でも、多角的レビューの取り組みは意義があったのではないかと思います。
同様にこの25年間の変化を企業側からみても、企業金融を巡る大きな環境変化が窺われます。改めて前掲図表21をみると、企業収益は1990年代後半から直近2023年度で8倍以上に拡大し、80兆円程度と過去最大の水準となり、今年度も一層の拡大が期待されます。これだけの企業収益水準が続くことは2000年代に生じた経済回復局面とも異なる点であり、企業価値底上げの背景にもなっています。資金供給者への還元をみると、銀行等への支払利息は10兆円程度に止まる一方、株主への配当金は40兆円弱と、1990年代後半対比で8倍程度に拡大しています。バブル崩壊以降、企業は過剰であった有利子負債を削減――受取利息が支払利息を上回るような利払い負担の低下といった財務の改善(図表24)――してきました。その一方、資産デフレのなかで実質自己資本が毀損し、希少となった資本の供給者への配当を増やした面もあるほか、資本コストを意識した経営の浸透が現れているとみられます。なお、貯蓄・投資バランスからみると、戦後、資金不足主体の企業に対し、銀行貸出を中心に資金供給を行う商業銀行を核とした金融仲介構造でしたが、バブル崩壊以降、企業が資金余剰主体となるなかで、国内外のファンドも含めたリスクマネーの供給主体が重視され、デット・ガバナンスからエクイティ・ガバナンスが強まる局面となってきています。
以上から改めてバブル崩壊以降を振り返ると、資産デフレ、海外との競合環境といった歴史的にも未曽有の状況で実体経済が下押しされてきたもと、世界に先駆けて非伝統的金融政策を導入して対応してきたと整理できます。一方、最近では、企業収益も改善し、不動産や株式といった資産価格も底上げされたなか、長年、負の方向に作用してきたファイナンシャル・アクセラレーターが転換する新たな局面と解釈することも可能です。それであれば、長年続けてきた大幅な金融緩和度合いからのギアシフトを行っていくことも可能な状況にあると考えられます。賃上げや価格転嫁といったミクロ面の課題はなお残りますが、未曽有といえる状況から脱しただけに、非伝統的金融政策から平時の状況に戻る局面に漸く到達したとの認識を持ったうえで、今後の金融政策運営を行う必要があると考えています。
- 3 銀行における住宅ローンが大幅に増加した背景には、相応の貸出シェアを有していた住宅金融公庫の融資業務が2000年代において縮小されたことも影響している。
5.宮城県経済について
最後に、宮城県経済についてお話しさせて頂きます。宮城県は、東北地方唯一の政令指定都市でかつ一大商業地でもある「杜の都」仙台市、日本三景の松島や奥州三名湯の秋保温泉および鳴子温泉、樹氷やウィンタースポーツが有名な蔵王など、自然豊かで観光資源が豊富です。また、広大な自然を活かした農林水産業が盛んであることや、近年は半導体および自動車関連産業の集積が進み、製造業が活性化している点も特徴として挙げられます。
その一方、人口減少や少子高齢化に起因する人手不足や、気候変動問題への対応など、様々な課題にも直面しています。当県では、こうした課題への対応として、機械化投資や価格転嫁等を通じた労働生産性の向上、脱炭素投資の推進などの各種対応策が講じられているほか、地域経済を中長期的に発展させていく観点で、産学官金が連携した取り組みも進められています。
例えば、人手不足への対応では、女性や高齢者の労働市場参入が進んでいるほか、自治体と県内全ての金融機関が協定を結び、営業ノウハウやITなどの専門スキルを有する人材を、県内企業とマッチングさせる取り組みがみられています。また、近年集積が進んでいる半導体産業を担う人材の確保・育成に向けて、東北各地の関連企業や学術機関、金融機関等が連携して「東北半導体・エレクトロニクスデザインコンソーシアム(T-Seeds)」を設立し、オンライン・オフライン講座や企業視察ツアーなどの施策も行われています。
気候変動問題への対応では、宮城県全体で二酸化炭素排出量を2050年までに実質ゼロにするという「みやぎゼロカーボンチャレンジ2050戦略」のもと、太陽光やバイオマス、地熱などの再生可能エネルギーの普及や、工業団地におけるスマートコミュニティー化等が進められています。また、沿岸部においては、二酸化炭素を吸収する海藻の生育面積を拡大させて、ブルーカーボンを増やす取り組みも行われています。
地域経済の中長期的な発展という側面では、世界最先端の放射光施設である「NanoTerasu(ナノテラス)」が2024年4月に運用を開始し、食品や自動車産業など、幅広い分野における研究開発やイノベーションが加速している点にも注目しています。同施設が所在する東北大学は日本で初めて国際卓越研究大学に認定され、東北地域から世界をリードする研究成果が創出されることにも期待しています。
最後になりますが、東日本大震災という苦難に見舞われながらも着実に復興への歩みを進めるとともに、得られた教訓を「観光レジリエンスサミット」や復興ツーリズムによって国内だけでなく海外にも広く発信しておられる宮城県の皆様に、改めて敬意を表します。東北地域の中心地として高いリーダーシップを発揮し、宮城県経済が益々活性化していくことを心より祈念しまして、私からのご挨拶とさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。