【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営静岡県金融経済懇談会における挨拶
日本銀行副総裁 内田 眞一
2025年3月5日
1.はじめに
日本銀行の内田でございます。本日は、静岡県の各界を代表する皆様とお話しする機会を賜り、誠にありがとうございます。皆様には、日頃から、静岡支店の業務運営に多大なご協力を頂いております。この場をお借りしまして、改めて厚く御礼を申し上げます。意見交換に先立ちまして、まず私から、わが国の経済・物価情勢と日本銀行の金融政策運営について、ご説明したいと思います。
2.経済・物価情勢
経済・物価の現状
はじめに、経済・物価情勢です。図表1をご覧ください。わが国経済は、一部に弱めの動きもみられますが、緩やかに回復しています。先行きも、潜在成長率を上回る成長が続くと予想しています。
図表2をご覧ください。企業収益は改善傾向にあり、そのもとで、短観の設備投資計画は前年比+10%台の増加となっています。人手不足で工事が先送りになる事例もみられますが、その分、設備投資の増加が長続きするとも言えます。
図表3をご覧ください。個人消費は緩やかな増加基調にあります。この背景には、ベースアップと賞与の増加から、雇用者所得が伸び率を高めていることがあります。本年の春季労使交渉は、現在進行中ですが、これまでに得られたヒアリング情報や各種アンケート等によりますと、昨年に続き、しっかりとした賃上げが実現する可能性が高いと判断しています。このことは、個人消費を支えると考えられます。
図表4をご覧ください。生鮮食品を除く消費者物価の前年比は、既往の輸入物価上昇を起点とした価格転嫁圧力が減衰する中で、プラス幅を縮小してきましたが、足もとは米価格の上昇などから再び伸び率を高めています。先行きは、賃金上昇を受けて人件費等を価格に転嫁する動きが続く一方、コストプッシュ要因の減衰が続くことから、2024年度は2%台後半、2025年度は2%台半ば、2026年度は2%程度と、2%に向かって収束していく姿を予想しています。
物価・賃金・個人消費の関係
図表5をご覧ください。経済・物価の先行きを予測するうえで、内需面の最大のポイントは、ともに上昇している賃金と物価の関係、そして、その個人消費への影響です。消費者物価の前年比は、2022年4月に2%を上回って以来、3年近くにわたって2%以上で推移しています。年度ベースでこの3年分を単純に足し算しますと、8.4%になります。これに対して、名目賃金は、一般労働者(正社員)のボーナスを含むベースで、8.3%になります。今年度の高い賃上げでようやく追いついた形ですが、本来、生産性上昇分だけ賃金の方が上回る必要がありますので、今春のさらなる賃上げを期待したいと思います。
この間、もう少しミクロレベルに立ち入ってみると、企業部門の中でも、大企業と中小零細企業など、個々の状況には差異があります。同じ表の3行目と4行目、パートの時給や最低賃金の伸び率は、2行目の数字を上回っています。中小零細企業は、これらの労働市場に直面していますので、高めの賃上げを行わないと人を採れません。家計部門でも、例えば、初任給や若い世代の賃金は高い上昇率になっている一方で、中高年の給与はそこまで上がっていません。また、高齢者は、年金などフローの収入としては、賃上げの恩恵を相対的に受けにくい構造にあります。
図表6をご覧ください。わが国の場合、資産をお持ちなのも主として高齢層なので、ひとくくりに語ることは難しいのですが、クレジットカードのデータからは、高い年齢層ほど支出行動が抑えられていることが窺えます。こうした層の消費者を顧客基盤としている企業からは、販売面の厳しさから人件費の価格転嫁は難しいという声が聞かれます。「価格転嫁」というと、製造業のサプライチェーンをイメージしがちですが、中小零細企業の多くはB to Cの業種です。これらの業種では、高い賃金を払わないと人が確保できない一方で、販売環境は芳しくないという企業が多くあります。
このように、家計部門・企業部門双方に存在する差異は、しばしば「二極化」という言葉で表現されます。こうした局面では、マクロでは捉え切れない各地の経済の実態把握がとりわけ重要だと思っています。本支店が皆様からいただくミクロの情報は、かけがえのない、貴重なものです。引き続きのご協力を切にお願い申し上げます。
3.日本銀行の金融政策運営
最近の金融政策運営
続いて、金融政策運営についてお話しします。図表7をご覧ください。日本銀行は、1月の金融政策決定会合において、短期の政策金利を0.25%引き上げ、0.5%程度としました。
先ほど申し上げたとおり、消費者物価の前年比は、3年近くにわたって、2%以上で推移しています。こうした中で、0.25%程度という金利は非常に低く、物価上昇率を勘案した実質金利は大幅なマイナスになっています。0.5%程度に引き上げた後でも、金融環境は緩和的であり、経済をしっかりと支えています。日本経済が緩やかとはいえ回復し、賃金上昇を伴う形で、基調的な物価上昇率が高まってきているのであれば、緩和の範囲内で、その程度を少しずつ、調整していくことが、長い目で見た経済と物価の安定につながります。前半でご説明した経済・物価の状況は、概ね私どもが見ていた姿に沿ったものですので、ここで調整したということです。
これが利上げの主たる理由ですが、今回このタイミングで利上げするにあたって、重要なチェックポイントとなったのは、海外経済、なかんずく米国経済の動向でした。昨年7月、日本銀行が2回目の利上げを行った直後に公表された米国の雇用統計は、市場の予想を下回り、米国経済の減速懸念が高まりました。各国の株価が大きく下落し、為替市場ではドルが下落しました。円・ドル相場は、それ以前に円安が進んでいたこともあって変動幅が大きく、株価の下落も他国よりも大きなものとなりました。
私は、同じ週の金融経済懇談会で、「市場が不安定な状況で、(さらなる)利上げをすることはない」こと、「米国経済はソフトランディングする可能性が高く、市場の反応は単月の指標に対するものとしては大きすぎる」ことを述べました。その後の雇用統計は比較的良いものが多く、現在では、当時の雇用データはノイズであったことが市場のコンセンサスになっています。
図表8をご覧ください。もともと、当時から、米国経済について、雇用の弱さと個人消費を中心としたGDP統計の強さがパラドックスと言われていました。それを整合的に説明しようとすれば、「雇用や所得は弱いのに貯蓄を取り崩して消費しているので、いずれ息切れしてGDP成長率は減速する」ということになります。実際、当時の予測は、左のグラフの赤い点線のようになっていました。しかし、その後の雇用データに加え、中央のグラフにありますとおり、GDPに関するデータもリバイスされ、貯蓄率は下がっていないことが判明しました。この間、右グラフのとおり、インフレ率は、秋以降、若干足踏みしていますが、2から3%の領域まで下がってきています。米国経済は、バランスの良い状態にあると言って良いと思います。
先行きについては、新政権の政策など、経済・物価双方に影響しうる事象があります。地政学的な緊張も高い状況が続いています。こうした要因の帰趨やこれらを巡る予想は、米国に限らず各国の企業・家計のコンフィデンスや国際金融資本市場の動向などに影響します。世界経済についての不確実性は高く、引き続き十分注視していきます。
利上げに対する2つの方向からの疑問
これまで日本銀行は、昨年3月に大規模緩和を終了し、その後、7月と今年1月に利上げを行いました。こうした政策運営に対しては、正反対の2つの方向から疑問が呈されることがあります。ひとつは、「3年近くにわたって2%以上の物価上昇が続いているのに、なぜ0.5%程度の低金利を続けるのか」というものです。これに対しては、(1)現在の物価上昇にはまだグローバルなインフレによるコストプッシュの影響が残っていて、それはいずれ減衰していく、(2)賃金上昇を伴う形で物価が上昇するという「基調的な物価上昇率」はまだ2%に至っていない、ということです。図表9をご覧ください。左端のグラフにありますとおり、消費者物価は2%を上回って推移していますが、その右の3つのグラフにありますとおり、基調的な物価上昇率はなお2%を下回っています。こうした状況で金融面から引き締めてしまうと、景気を抑制して賃金も上がらなくなってしまいます。物価もいずれ2%より低くなります。
逆方向の批判は、「景気回復の足取りが弱いのに、なぜ利上げをするのか」というものです。これに対しては、まず、0.5%程度という金利は、十分緩和的であり、経済をしっかり支えている、ということです。また、現状程度の成長率で激しい人手不足が起こり、(基調的な物価上昇率は2%に達していないにしても)物価や賃金が上がってきているということは、わが国の経済の実力がそれよりも低い、ということを意味します。日本銀行のスタッフの推計では、潜在成長率は0%台の半ばです。より高い成長を求めるのであれば、生産性の向上など実力そのものを高める方策が必要です。
図表10をご覧ください。この点、潜在成長率の頭を押さえているのは、人員面の制約と思われます。通常、企業は、人手が足りないときには、機械やソフトウェアで代替しようとするのですが、上の2つのグラフを見ていただきますと、最近は人手不足がどんどん厳しくなる一方で、設備の過不足感はほぼトントンという状況が続いています。これは過去にあまり見られなかった現象で、特に非製造業で顕著になっています。そこで、業種ごとに労働と資本がどの程度代替できているかを検証したところ、図表の下のグラフのようになりました。右端の宿泊・飲食など、非製造業の一部では代替がほとんど働かず、人手不足がそのまま生産(すなわちサービス提供)の限界を画しています。実際、全国のホテル・旅館から、「従業員を確保できないので、客室は余っているが、予約を断っている」という声が聞かれます。グラフの右側の業種は、もともと労働集約的であることに加えて、規模が小さい企業が多く、省力化投資のメリットを受けにくい面があります。機械化しても従業員一人分にならないということです。この代替性の問題をどうクリアしていくのか、例えば共同でソフトウェアを導入するとか、事業規模の集約を図るとか、単に「省力化投資を促す」というだけではない工夫が必要なように思います。企業の皆様がよくご存じのとおり、生産性を高めるというのは地道な作業です。現場レベルのミクロの取り組みに役立つような方策を具体的に考える必要があると思います。
物価見通しと利上げのパス
図表11をご覧ください。先行きの金融政策運営については、「展望レポート」で示している経済・物価の見通しが実現していくとすれば、それに応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく方針です。この点、私どもの見通しのポイントは、「2%の物価安定目標を実現できる」と予想していることです。すなわち、消費者物価の上昇率は、コストプッシュの影響が減衰していく中で、2%に向かって低下していく一方で、基調的な物価上昇率は、賃金の上昇を伴う形で、2%に向かって上昇していくとみています。この結果、見通し期間の後半には(来年度後半から2026年度中の1年半の間のどこかで)、現実の物価と基調的な物価がともに2%程度になる、と考えています。
その時点の政策金利は、景気や物価に中立的な金利水準に近付いていると考えられ、その水準は理論的には「2%+自然利子率」とされています。ただし、自然利子率は、概念としては、金融緩和と引き締めを分ける重要な基準ですが、推計方法によって、最小で-1%程度、最大で+0.5%程度と様々な結果がでてきますし、それぞれの推計値にさらに推計誤差がありますので、幅が広すぎて、実際の政策運営には使えません。実務上は、実際に金利を上げていく過程で、経済や物価の反応を点検しながら確認していくものであり、現時点では我々も確かなことはわかりません。想定される程度のペースの利上げであれば、経済の反応を確認しながら進めていけるだろうとは思っています。
市場の見方と金利形成
図表12をご覧ください。金融市場における政策金利のパスの予測です。繰り返しになりますが、この利上げのプロセスには「展望レポートの経済・物価の見通しが実現していくとすれば」という条件が付いています。市場参加者が、この前提条件と異なる経済・物価の見通しを持つことは自由ですし、自然利子率についても様々な見方があるでしょうから、それらをもとに、金利のパスや到達点を予想しているということになります。市場が、日本銀行の政策運営の考え方(「政策反応関数」と言います)を正確に理解したうえで、これに、独自の経済・物価予測を代入して、金利等を形成することは、健全な市場の機能です。日本銀行が、代入した「答え」だけを伝えることは、市場の貴重な情報創造機能を消してしまう恐れがあります。
日本銀行は、昨年4月の展望レポート以降、一貫して同じ「政策反応関数」を示してきました。そのもとで、市場の経済・物価に関する見方が変化すれば(代入する数値が変化すれば)、金利は変動することになります。ただ、通常、経済・物価観といったものは連続的に変化するものですから、金利はそれを反映して安定的に推移することが期待されます。
また、長期金利は、このような政策金利のパスの予測に、満期に応じたタームプレミアムを加えて形成されます。日本銀行の国債買入れは、主として保有する残高に基づく効果(ストック効果)を通じて、このタームプレミアムを抑制しています。国債買入れについては、昨年7月に公表した減額計画に沿って段階的に減額していますが、残高ベースの減少はわずかですので、引き続き大きな緩和効果を有していると考えられます。この減額計画では、(1)長期金利は金融市場において自由に形成されることが基本であり、経済・物価情勢に対する市場の見方や海外金利の動向などを反映して、ある程度変動することを想定している、(2)ただし、通常の市場の動きと異なるような形で、長期金利が急激に上昇するといった例外的な状況においては、安定的な金利形成を促す観点から、機動的に、国債買入れの増額、指値オペ、共通担保資金供給オペなどを実施する、という考え方を示しました。こうした考え方は、当然のことながら、現在でも有効です。
このように、日本銀行の短期政策金利の運営および国債買入れについての考え方に変化はありません。引き続き、大規模緩和からの移行において、金利が安定的に形成されるよう、適切なコミュニケーションとオペレーションを行ってまいります。
4.金融政策の多角的レビュー
図表13をご覧ください。昨年12月、日本銀行は、デフレ期以降25年間の日本経済と金融政策について検証した「金融政策の多角的レビュー」を公表しました。1年8か月にわたるレビュー作業の過程では、当地の企業の皆様をはじめ、多くの企業や金融機関・市場関係者の方々、経済学界の先生方にご協力、ご意見を頂戴しました。この場をお借りして改めてお礼申し上げます。本日は時間の制約もありますので、レビューの内容をご紹介する代わりに、私の個人的な経験も交えながら、この25年間を振り返ってみたいと思います。
2010年代初頭までの金融政策
図表14をご覧ください。まず、前半の15年間、2010年代初頭までの金融緩和は、名目金利がゼロ%より大きく引き下げられない、という制約のもとで、実質金利を十分下げられず、必要な緩和効果を得られませんでした。ただ、当時の最大の課題は金融システム問題でしたので、流動性の供給により金融システムの崩壊を防いだ効果は、一般に理解されている以上に重要であったと思います。私は、2000年代の初め、考査局の銀行グループという部署で、金融機関のモニタリングとLLR貸出の実務を担っていました。当時の金融機関は、不良債権処理の真っただ中で、自己資本面の制約を意識した業務運営を行っていたことは否定できません。金融政策の波及経路の重要な部分が十全ではなく、緩和効果が十分には伝わらなかったという実感があります。また、現場で日々の資金繰りを見ていた立場からは、「量的緩和期で良かった」というのが偽らざる印象です。実際、金融機関によっては、個別の大口定期預金の期落まで計算して、詳細に資金繰りを把握・モニタリングするなど、現場の緊張感は相当のものでした。「量的緩和政策」のもと、非常に潤沢な流動性を市場に供給していたことで、資金繰りによる突然の破綻を起こすことなく、金融システム問題の処理を進めることができたと思います。
なお、この段階までの金融緩和は、非伝統的な金融政策といっても、フォワード・ガイダンスが中心で、マイナス金利や国債買入れによる長期金利の押し下げには踏み込んでいません。量的緩和の初期には、長期国債の買入れを幾分増やしましたが、これは操作目標としていた当座預金残高を増やすための手段としてであって、金利押し下げ効果を狙ったものではありませんでした。当時も各国の中央銀行は、長期国債を買っていましたが、後述する市場機能への影響や財政とのデリケートな問題を惹起しないように、金利操作には使わないというのが常識でした。中央銀行界には、この点を自主規制的に宣言した「成長通貨ルール」というのが古くから存在しましたし、量的緩和導入に際しては、このルールを一部改変する形で「銀行券ルール」という新たな基準を作りました。長期国債買入れを増やすのなら、何かしらの歯止めはいるのではないか、という感覚がありました。
図表15をご覧ください。この常識が大きく変化したのは2008年のグローバル金融危機の後です。グローバルな金融資本市場が不安定な動きを続け、成長率やインフレ率が低下する中、各国の中央銀行は強力な金融緩和策の導入を迫られました。各国で相次いで非伝統的な金融政策が採られていったことは、ある意味必然的な帰結と言えます。世界の金融市場がつながっている以上、当然のことながら、各国の金融政策の効果は、他国との相対的な関係にも左右されるからです。非伝統的な金融政策の功罪を論じるうえでは、こうした当時の世界の現実を踏まえる必要がありますし、最終的には、「中央銀行界全体としてどう総括するか」という問題であると、私は思っています。
2013年以降の大規模な金融緩和
こうした中で、日本銀行は2013年以降、量的・質的金融緩和、マイナス金利政策、イールドカーブ・コントロールと、大規模な金融緩和に踏み込むことになります。これら一連の政策は実質金利の低下という金融政策の中核的なメカニズムを通じて、経済・物価を刺激しました。ひとつ前の図表14に戻っていただきますと、青い線の実質金利は、シャドーがかかっていない部分で、大きなマイナスになっています。
図表16をご覧ください。この金利低下の効果をあまり評価しない識者もおられますが、これには、緩和効果の波及が主として市場を通じるものだったことも影響しているように思います。もともと、「金利がほぼゼロのもとでは、金利を下げても企業が投資をしたいと思うわけではない」というのはそのとおりで、貸出ルートを通じた政策効果の波及は、全体の3割に過ぎません。5割強が、株価や為替など金融資本市場経由でした。
逆に、大規模緩和の効果を高く評価する意見では、それ以前の日本経済が過度の円高や株価の低迷などにあえいでおり、大規模緩和の導入でこれらが解消されたことを重視します。ただ、そうした市場動向の背景には、世界経済の回復という外部要因もありましたので、一部割り引く必要があります。いずれにしても、大規模緩和による実質金利の低下は、主として金融資本市場ルートを通じて、経済・物価を刺激した、ということは言えると思います。
図表17をご覧ください。結果として、政府の諸施策と相まって500万人を超える雇用を生み、デフレの大もとにあった労働市場の緩み(スラック)を解消しました。私は、デフレ経済の本質は「余剰人員を抱えたワークシェアリング経済」だと思っています。振り返れば1990年代以降、バブル経済の崩壊、グローバル化や少子高齢化への適応の遅れから、成長率が低下し、慢性的に需要が不足しました。これに対する典型的な解決法は、「失業と倒産の一時的な増加を甘受して経済の早期回復を図る」ということで、例えば米国経済は、コロナ禍とその後にそうした過程を辿りました。これに対して、当時の日本の社会・経済の選択は、企業に雇用を保蔵させる一方で、様々な補助を行い、失業を低水準にとどめるという方向でした。その代償として、雇用と企業数が過剰な状況が長期間続き、賃金も製品価格も上げられませんでした。それが社会にとって「当たり前のこと」あるいは「しきたり」(ノルム)になり、それに反する行動は非難されることもありました1。
こうした固着した状況を解消するには、経済を強く刺激し、労働市場を人手不足の状態に持っていくしかない、というのが私たちの思いでした。大規模緩和の初期、2014年のクリスマスに、当時の黒田総裁は経団連で『2%への招待状』という講演を行いました。日本銀行にしては「攻めたタイトル」で、英文ではさらに"Welcome to the 2% Club"としてみました。その中で「デフレを脱却した後は、こうした人々(2%の実現を信じていない企業)も参入してきますので、例えば人手の確保の競争は激しくなるでしょう」「今の過渡期的な状況を利用するかどうかは、早い者勝ちの面があるということです」と主張しています。少し早すぎる招待状でしたが、10年を経て、今、この状況に近づいています。大きな構図として、大規模緩和の狙いは実現しつつあり、それは日本経済を活性化する方向に働いたと思います。
- これらの点は、内田眞一『わが国における過去25年間の物価変動』(日本銀行金融研究所主催2024年国際コンファランス)で詳しく分析しています。
大規模な金融緩和の効果と副作用
図表18をご覧ください。とはいえ、何事もフリーランチはなく、副作用はありました。現時点までの比較では、効果の方が上回っていると思いますが、今後副作用が表れてくる恐れはありますので、その留保付きの評価になると思います。
いくつかある副作用のうち「金融市場の歪み」と「金融機関収益への影響」は、効果と表裏不可分のものですので、常に意識し、バランスを取りながら、緩和を進めていました。一方で、これらとはやや性質が異なる副作用として、「低金利と生産性の関係」と「財政との関係」があります。
まず前者について、「低金利がいわゆるゾンビ企業を温存させ、長期的な生産性を押し下げたのではないか」という見方があります。この点は学界でも両論があり、レビューでも結論を出していません。私は、就職氷河期世代のことも考えると、金融緩和によるハイプレッシャー効果で、その後の世代の就職環境が好転したプラスの方が大きく、むしろ生産性を高める方向に作用したと思っています。デフレ期における企業による雇用保蔵は、既存の労働者を対象とするものでしたので、新規に労働市場に参入する人々に対しては、むしろ採用を抑制する方向に働きました。終身雇用的な色彩が強いわが国において、若い世代の就職とOJT(企業内トレーニング)の機会が狭まったことは、経済全体としてみても、生産性の低下につながる大きな要因であったと思います。また、仮に(私はそう思いませんが)低生産性企業の存続や新陳代謝の遅れによるマイナスの方が大きかったとしても、それは低金利に不可分のものというより、補助金などを含めて、社会・経済が選択した結果だと思います。繰り返しになりますが、日本の社会や経済が、失業というものに大きな抵抗があった以上、経済の新陳代謝を促す原動力(ドライビング・フォース)は、金利ではなく、人手不足しかなかった、というのが、私の見方です。
次に財政との関係については、レビューで「意見交換等では、大規模な金融緩和が財政規律の弛緩につながったとの指摘もみられた」「これまで一貫して説明してきたように・・・政府による財政資金の調達支援が目的の「財政ファイナンス」ではないことを明確に示していくことは・・・きわめて重要である」としか記述していないことに、不十分・物足りないというご指摘をいただいています。この問題は、様々な議論の立て方が可能で、短く語ることは誤解を生みかねないのですが、それを恐れずに言えば、私自身は、次のように整理しています。
まず、財政ファイナンスと財政モラルハザードの議論は、相互に関連はしていますが、別の問題です。財政ファイナンスかどうかは、識者の方もよく指摘するとおり、中央銀行が「そうした意図はない」と言うだけでは完結しません。緩和の全プロセスにおいて、経済・物価との関係で必要な金融政策を適切に行うこと、すなわち、財政状況への配慮によって本来必要な政策を曲げることはない、という「結果」が必要です。これまでのところ、日本銀行は、利上げや国債買入れの減額を含め必要な政策を行っています。今後も当然、経済との関係で適切な政策運営を実施していきます。そのうえで、最終的に「政府による財政資金の調達支援を目的とする金融政策(財政ファイナンス)はなかった」と納得していただくためには、出口プロセスの進展を待つ必要があると思っています。
次に財政モラルハザードの問題、すなわち「大規模緩和によって財政規律が弛緩したかどうか」は、「財政規律」というものをどう測るかに依存します。政府が支出をしやすくなったか、ということであれば、借入主体である政府部門が金利低下のメリットを受けたことは間違いありません。一方で、財政状況への影響ということであれば、大規模緩和を行わずに、経済がより低い軌道を辿った場合に比べて、むしろ好転した可能性が高いでしょう。この点も、いろいろな議論ができますが、私が申し上げたいのは、少し違った角度の議論です。すなわち、大規模緩和が経済・物価との関係で必要なものであった、という前提に立つ以上(この前提を疑うことはもちろん可能ですが、それは副作用論とは別の問題です)、それが財政規律を弛緩させる面があるのであれば、政府が対応しなければならない、ということです。そのことによって、政府・中央銀行が全体として、経済との関係で適切な政策ができることになるからです。財政を弛緩させたくないという理由で、経済にとって必要な政策を中央銀行が行わない、というのはどう考えても最適解ではありません。
この論点は、コロナ禍で各国共通の課題となり、私が出ていた国際会議でもたびたび議論になりました。「国債増発を伴う財政拡張」と「国債買入れを含む金融緩和」というポリシーミックスは、財政ファイナンス・財政規律の両面でデリケートな問題になりえます。当時のひとつの共通認識は、こうした大規模な政策協調を行うときには、それぞれの使命を全うする強い規律が求められる、ということだったように思います。この点、わが国では、コロナ禍よりかなり前の2013年1月、政府と日本銀行の共同声明において、盛り込まれていた考え方です。
大規模な金融緩和の出口
最後に副作用そのものではありませんが、非伝統的な政策手段を導入する際に考えるべきこととして、「出口」があります。解体のことを考えずに建物を設計する建築士はいません。大規模緩和の手段を設計する際には、当然出口のプロセスは念頭に置いて作りました。小さな一例ですが、イールドカーブ・コントロールの最後の局面で発動した長期固定金利での資金供給は、政策導入後の日銀ネットの更改時にシステム化していました。「本当に必要なのか」という議論になりましたが、「出口までのどこかの時点では必要になると思う」と言ってシステム部局に頼みました。日本銀行の政策遂行能力の多くは、本支店の現場力に支えられています。
出口プロセスはまだ始まったばかりですが、大きな山だと思っていた難所を2つ通過しました。2022年12月のイールドカーブ・コントロールの変動幅の1回目の拡大と、昨年3月の大規模緩和の終了です。もちろん無風ということでは全くなく、前者では、その後の数か月で一部の銘柄の国債を100%買うことになり、市場機能を大きく歪めました。
後者については、図表19をご覧ください。昨年3月の大規模緩和終了時は「緩和的な金融環境は継続していること」を説明したことで、市場の安心感が醸成されましたが、その「つけ」として、いわゆる円キャリーポジションが積み上がりました。このポジションが7月の利上げの際に巻き戻されたことは、為替・株価の大きな変動の一因となりました。
今後もオペレーション・コミュニケーションの両面で工夫とバランスが求められていくだろうと思います。そうした意味でも、大規模緩和の最終的な功罪は確定していません。換言すれば、今後の出口プロセスを上手く進めることで全体評価のプラスが大きくなるわけですから、しっかりと対応していきたいと考えています。
5.静岡県経済への期待
図表20をご覧ください。最後になりましたが、静岡県経済についてお話しさせていただきます。静岡県は、温暖な気候で豊かな観光・農林水産資源を有し、東京や名古屋へのアクセスも便利で、移住先としても人気です。静岡県では、そうした恵まれた環境に安住することなく、今日お話ししたいくつかの課題への対応を具体的に進めておられると感じます。
まず、現在の労働市場において、各企業や各地域は、若者をいかに惹きつけるか、競い合っています。静岡県では官民を挙げてスタートアップ支援に取り組み、若年層にとって魅力ある就業機会の創出を目指しています。静岡市で開催されているビジネスマッチングイベントでは、多くの県内企業と県外のスタートアップ企業とのつながりが生まれています。
また、人手不足への対応にはミクロレベルの工夫が大事だと申し上げましたが、自動運転トラックやバスの公道走行実験などは、その好例と言えましょう。
最後に、デフレ期には、リスクを取らないという選択肢がありましたが、「2%クラブ」のルールは、資本主義の原則通り「早い者勝ち」です。いち早くインドへの事業展開を進めた県西部の製造業など、当地には、「とにかくやってみよう」という意味の「やらまいか」の精神が脈々と流れています。新しいルールブックのもとで、静岡県経済がますます発展することを祈念しまして、私からの挨拶とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。