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【講演】わが国の経済・物価情勢と金融政策西日本政経懇話会における講演

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日本銀行政策委員会審議委員 中村 豊明
2025年5月16日

1.はじめに

日本銀行の中村でございます。西日本政経懇話会でお話しする機会を頂き、誠にありがとうございます。

本日は、内外の金融経済情勢や持続的な2%の「物価安定の目標」達成に向けた日本銀行の金融政策、さらに日本経済に対する私の思い等をお話しさせて頂きます。

2.内外経済情勢

海外経済は、これまでのところ、総じてみれば緩やかに成長していますが、各国の通商政策等の影響を受けて一部に弱めの動きもみられます。米国の関税強化による貿易取引の減少懸念、これに伴うコストカット圧力や設備投資の様子見姿勢等が強まり、景気下押しリスクが増大し、不確実性が非常に高くなっています(図表1)。まず米国経済ですが、2025年1-3月の実質GDPは前期比年率マイナス0.3%と駆け込み輸入の影響もあってマイナス成長となりました。4月の消費者物価指数は前年比+2.3%とまだ関税引き上げの影響はみられていないものの、先行きのインフレ再燃懸念や長期金利の上昇、企業業績の悪化懸念や株価下落等により、企業マインドや消費者マインドに翳りがみられ、景気後退懸念も台頭しています。パウエルFRB議長も、関税引き上げのインフレ率への影響は、物価水準の一回限りのシフトを反映して、短期間で終わる可能性もあるが、より持続的になることもありえるとも発言しておられ、先行きの不確実性が高く、今後の動向を注視しています。ユーロ圏経済は、投資抑制、コスト高止まり等に伴い、産業競争力が低下しており、2025年1‐3月にドイツ・フランスが2四半期ぶりにプラス成長に回復しましたが、米国の関税引き上げ等により、景気低迷の持続が懸念されます。また、中国経済は、内需低迷、貿易摩擦激化による輸出減少等で、景気低迷の長期化が懸念されます。家計資産の大部分を占める住宅は価格の緩やかな低下が続いており、全国では5から6年分の販売在庫を抱え、回復には長い年月を要すると思われます。このため、地方政府の財政状態も改善せず、賃金の下押し圧力や高い若年失業率等、労働市場における課題は当面解消されず、個人消費に引き続き強い節約志向が窺われ、対内直接投資低迷も続くのではないかと懸念しています。2025年1-3月の実質GDP成長率は前年比+5.4%と高い伸び率でしたが、内需の成長率寄与度は+3.3%ポイントと低調でした。GDPの名実逆転が2年続く等、デフレ傾向が強く、米中貿易摩擦も拡大していますので、5%成長率目標達成のハードルは高いと思われます。ASEAN経済は、グローバルなIT需要が回復するもとで緩やかに改善していますが、中国や米国への貿易依存度が高いことや、人口ボーナス期を過ぎ価格競争力低下が成長の足かせとなる「中所得国の罠」に陥る国もあることなどから、成長力低下が懸念されます。日本企業は、米国による関税引き上げの影響もあって、中国市場だけでなく、ASEAN市場や国内市場でも価格競争力のある中国企業との競争激化が懸念されます。先日、米中の通商交渉に一定の進展がみられましたが、今後の経済動向に注意が必要な状況は変わらないように思われます。

日本経済は、緩やかに回復していますが、一部に弱めの動きもみられます。私としては、ここにきて米国の関税政策発動により、下押し圧力が強まってきていると考えています。足もとまでの動きは、企業部門では、輸出や鉱工業生産は、一部に米国の関税引き上げに伴う駆け込みの動きがみられますが、基調としては横ばい圏内の動きを続けています。企業収益は改善傾向にあり、設備投資も省力化やDX・GX等の投資ニーズが強まり、緩やかな増加傾向にあります。ここまで順調な回復を続けてきましたが、国難にもなりかねない米国の関税政策による不確実性の高まりを背景に、今年度通期の業績を減益見通しとするケースも一部にみられ、コストカットの縮み志向に戻らないか、今後の動向を注視しています。家計部門では、所得環境は昨年5月以降足もとまで(振れを伴いつつも)前年比+2から5%程度の賃金上昇が続くなど、緩やかに改善しています。もっとも、大企業を中心とした成長志向の先と、中小企業を中心とした「稼ぐ力」の回復が遅れている先との間で、「前向きな賃上げ」と「防衛的な賃上げ」の二極化が窺われ、米国の関税政策の影響次第では積極化してきた賃上げモメンタムが低下する可能性があり、今後の動向を注視しています。また、個人消費は、展望レポートでは緩やかな増加基調を維持していると判断していますが、私としては、物価上昇や節約志向の影響等により、力強さに欠けていると感じています。物価面では、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、既往の輸入物価上昇を起点とする価格転嫁の影響が減衰してきているものの、米価格の大幅な上昇や賃金上昇等を受けたサービス価格の緩やかな上昇が続いており、政府によるエネルギー負担緩和策の縮小もあって、足もとは3%台前半となっています。

日本経済の先行きを展望しますと、各国の通商政策等の影響を受けて、海外経済が減速し、わが国企業の収益なども下押しされるもとで、緩和的な金融環境が下支えとして作用するものの、成長ペースは鈍化すると考えています(図表2)。物価については、これまで物価上昇率を押し上げてきた既往の輸入物価上昇やこのところの米などの食料品価格上昇の影響は減衰していき、今年度後半以降、プラス幅が縮小していくとみています。もっとも、リスク要因として、様々なものがありますが、特に各国通商政策等の今後の展開やその影響を受けた海外の経済・物価動向を巡る不確実性はきわめて高く、その金融・為替市場やわが国経済・物価への影響については、十分注視する必要があります。この点、私自身の考えについては、後ほどご説明させて頂きます。

3.経済の成長軌道への回復状況に応じた金融政策運営

わが国の金融政策は、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を通じて国民経済の健全な発展に資することを目的としています。米国の金融・通商政策、海外経済、為替の動向等は、日本の経済・物価に影響を与えますので考慮する必要がありますが、私は、産業構造の変化や人口動態によって低成長・低収益化した経済の回復状況に応じて、中長期的な視点でわが国のファンダメンタルズの向上に資することが、金融政策運営にとって大変重要と考えています。こうした観点から、やや長い目でみた日本の産業構造の変化等について、私の経験も踏まえて整理してみましたので、以下お話しさせて頂きます。

(1)わが国産業構造の変化と経済の回復状況

昭和の高度経済成長時代には、為替円安環境のもとで豊富な労働力を活用し、高性能・高品質・低価格を大量生産・垂直統合モデルによって実現した輸出産業が急速に成長し、家計所得も高い伸びを続けました。一方、生産効率の向上を追求する過程で、終身雇用・年功序列システムも形成されました。その後、日米貿易摩擦が起き、プラザ合意を契機に急速な円高が始まり、大企業を中心に海外拠点展開が活発化していきました。

平成の時代においては、為替円高のもとでも、バブル景気に支えられ輸出産業の低迷がカバーされたように思われましたが、世界ではIT技術の進展とともにデジタル化とグローバル化が進み、水平分業モデルの優位性が高まる中、日本では「事業構造(ポートフォリオ)改革」が遅れ、1992年まで1位だった日本企業のグローバル競争力1は、徐々に低下しました(図表3)。バブル崩壊・金融システム危機の発生等もあって、企業業績が悪化する中、生産性の高い大企業は、コスト削減と成長を求めて海外投資を積極化し、中国・東南アジア等へサプライチェーンを移す一方、国内では工場閉鎖・規模縮小・投資抑制・希望退職・賃下げ等の「コスト構造改革」を実行しました。中小企業にも、受注減少、価格競争激化、コスト削減、投資抑制の動きが波及し、少子高齢化・人口減少下にも拘らず人手不足感が表面化しませんでした(図表4)。希望退職が募集された一方で、多くの企業では「賃金よりも雇用の維持」が優先され、過剰雇用を社内に保蔵したため、付加価値創出力を強化する「事業構造(ポートフォリオ)改革」が進まず、既存事業での価格競争激化により国内産業の低成長・低収益化が進み、賃金も物価も上がりにくいデフレ経済に陥りました。30年に亘るデフレマインドとコストカットの縮み志向により個人消費や設備投資が低迷する悪循環が続き、企業の賃金・価格設定行動が慎重化し、イノベーション創出力を強化する研究開発投資やソフトウェア投資が遅れ、節約志向も定着したように思います(図表5)。特に工業製品の輸出金額減少と、鉱物性燃料等の輸入増加などを背景としたエネルギーコストの上昇により、「加工貿易立国」といわれたわが国の「稼ぐ力」は低下しました(図表6)。こうした中、賃金水準の伸びは、大企業でもG7やアジアの主要国と比較して低くなり、賃金カーブもフラット化し、部長が「憧れ」の存在ではなくなり(図表7)、賃金水準はG7の中では最下位となるなど(図表8)、経済はバブル崩壊以降、長期間停滞しました。その後、大規模な金融緩和と機動的な財政政策等により、デフレではない状態になりましたが、ビジネスモデルの変革が遅れた日本の賃金水準は、米国・カナダ・ドイツ・フランス・英国との格差が拡大しました。

令和の時代に入り、コロナ禍以降の世界的なインフレの高進や為替円安により、日本でも輸入物価を起点としたインフレが生じました。大企業を中心に、これまで取り組んできた「事業構造(ポートフォリオ)改革」による「稼ぐ力」の強化が奏功して、600兆円を超えた名目GDP、2年連続5%を超えた賃上げ率2、100兆円を超えた設備投資など、積極化した経営が進みました。また、グローバル市場での成長力強化のため、M&Aや人財3・研究開発等の成長投資を積極化する動きがみられ、人手不足の中、デジタル化の遅れを取り戻す省力化やDX投資など新たな投資ニーズも生まれています。3月の消費者物価(除く生鮮食品)は+3.2%と2%を超えるインフレが3年続き、(振れを伴いつつも)前年比+2から5%程度の賃金上昇も約1年続くなど、企業業績の拡大とともに賃金も物価も上昇するという「賃上げモメンタムの定着」を期待するところまで来れたと思います(図表9)。

  1. IMDによる「世界競争力年鑑」では、日本の国際競争力は1992年まで1位であったが、現在は38位と低迷している。
  2. 連合による第5回回答集計ベースで、定昇込みの値。
  3. 「人財」は、人が会社経営にとって財産(human capital)である旨を表す造語。

(2)わが国経済の改善状況

続いて、わが国経済の改善状況についてもう少し詳しくお話しします。まず、企業業績ですが、企業の「稼ぐ力」を表す指標として、法人季報における2024年4-12月累計の一人当たり営業利益をみますと、前年同期比+10%と増加を続け、労働分配率も59%とバブル期(1990年同期累計)の61%を下回るなど、企業の「賃上げ余力」が向上しています(図表10)。特に、大企業は、一人当たり営業利益がバブル期(1990年同期累計)の約2倍に増加するなど好調で、設備投資もコロナ禍前(2018年同期累計)から約2割増加し、労働分配率も43%とバブル期よりも10%ポイント低下しています。また、キャリア採用拡大に伴う賃金体系の歪みや主要国との年収格差等の是正の必要性もあって、今後も高い賃上げ率を継続すると思われます(図表11)。雇用の7割を占める中小企業も、価格転嫁率向上4の効果等もあって、一人当たり営業利益は前年同期比+11%と増加し、労働分配率も74%と高水準ながらも若干低下するなど、「賃上げ余力」の改善が窺われます(図表10<再掲>)。このうち、多くの雇用を抱える(資本金1千万円以上5千万円未満の)小さめの中小企業では、一人当たりの営業利益や給与・賞与は増加しているものの、水準は大企業の夫々13%、57%に止まり、一人当たり設備投資は2年連続減少し、水準も大企業の14%と格差が拡大しており、防衛的な賃上げと設備投資の両立が難しい状況が窺われます。こうした中小企業では、「稼ぐ力」の強化が遅れており、持続的な賃上げのハードルは引き続き高いように思います。しかし、雇用の1割強を抱える(資本金5千万円以上1億円未満の)大きめの中小企業は、一人当たりの設備投資や営業利益も増加し、労働分配率も小さめの中小企業より低く、成長志向の中小企業が比較的多いように思われます。2025年1-3月期の法人季報で、大・中堅企業に加え、雇用の7割を占める中小企業においても設備投資と営業利益の増加が確認できれば、(米国の関税政策の影響が懸念されますが)「賃上げと投資が牽引する成長型経済」への移行の実現に一歩近づくと考えています。

次に、物価面では、消費者物価(生鮮食品を除く総合)の前年比は、2%以上の上昇が3年続いています(図表9<再掲>)。2024年10-12月期のGDPデフレーターは前年同期比+2.9%と8四半期連続で2%を上回っており、価格転嫁が続いている様子が窺われます。もっとも、3月の消費者物価(食料<酒類を除く>及びエネルギーを除く総合)は+1.6%と2%を約1年の間下回っているほか、一般サービスも+1.4%と2%を約半年の間下回っています。賃金上昇を価格転嫁することによって物価をスパイラル的に押し上げる粘着的な賃金インフレの状態に陥ってしまうリスクは、まだ高くないと思います。しかし、米価格を含む食料品価格の上昇については、家計のコンフィデンスや予想物価上昇率の変化を介して、基調的な物価上昇率に影響を及ぼしうる点にも留意が必要ですので、物価の動向について今後もしっかりと注視していきたいと思います。

続いて、賃上げ動向についてお話しします。まず、2024年の賃上げ動向を振り返りますと、連合の最終回答集計におけるベア+3.6%に対して、毎月勤労統計調査の所定内給与上昇率は月間単純平均で+2.6%、連合の(比較的規模の大きい中小企業が含まれる)組合員300人未満の企業の定昇込みの賃上げ率+4.5%に対して、中小企業を対象とする日本商工会議所調査の定昇込みの賃上げ率は年度ベースで+3.6%と、何れも約1%ポイント下回りましたが、2025年の賃上げ率向上に期待が高まりました。1990年以降の連合の全体の賃上げ率と組合員300人未満の賃上げ率の推移をみますと(図表11<再掲>)、バブル期以降暫くの間は両者に大きな差はなく、バブル崩壊後の1995年以降、この格差が広がり、コロナ禍で一旦縮まりましたが、人手不足が深刻化したコロナ禍明けの2023年から再び拡大しています。法人季報では、中小企業の一人当たり営業利益は、バブル期の1990年度では大企業の40%の水準でしたが、現在は13%と「稼ぐ力」や「賃上げ余力」の差が拡大しており(図表10<再掲>)、賃金格差縮小のハードルはまだ高いように思われます。連合による2025年春季労使交渉の第5回回答集計では、好調な企業業績を背景に、平均賃上げ率は+5.3%、ベアは+3.8%と昨年を上回っていますので、(米国の関税政策の影響が懸念されますが)大企業の賃上げの勢いが中小企業に波及するか、注目しています。なお、この格差縮小の改善には、中小企業の「生産性を向上する設備投資」の推進や「もう一回り大きくなる構造改革」の増加といった経営努力による「稼ぐ力」と「賃上げ余力」の向上が必要だと考えていますが、詳細は後程ご説明します。

現在、米国の関税政策の発動により、わが国の基幹産業である自動車産業の業績悪化を始め、世界経済の下振れ等、深刻な影響が懸念され、わが国経済への下押し圧力が高まっています(図表12)。生産性向上に必要な設備投資についても、3月短観では省力化やDX・GX等の新たな分野での投資ニーズの高まりから高めの投資計画が維持されていましたが、米国の25%の自動車関税、10%の一律相互関税や(7月8日まで停止中の)14%の上乗せ相互関税等、想定を上回る関税政策の影響により、計画の先送り等、様子見姿勢が強まっています。また、労働者不足やコスト高騰による設備投資の遅れや先送りもみられます。これらの動きがさらに広がれば、生産性向上の遅れや供給制約から、サプライチェーンの海外シフトにも繋がりかねません。

  1. 4 中小企業庁による2024年9月の「価格交渉促進月間フォローアップ調査」では、中小企業の価格転嫁率は50%と前回調査から4%ポイント改善し、そのうち労務費転嫁率も45%と5%ポイント改善している。

(3)経済の回復状況に応じた金融政策運営

ここまでお話ししてきましたように、わが国経済は、コストカット型経済から脱却し、デフレに後戻りせず、「賃上げと投資が牽引する成長型経済」へ移行できるかどうかの分岐点にあります。先ほど申し上げましたように、多くの大企業は高い賃上げ率を続けると思われますので、「成長戦略の要である賃上げ」の定着には、中小企業の持続的な賃上げを可能とする「稼ぐ力」と「賃上げ余力」の向上、そのために必要な「生産性を向上する設備投資」と「もう一回り大きくなる構造改革」が鍵になると考えています。私としては、金融政策については、わが国経済の成長スピードに応じた運営に努め、現時点では米国の関税政策の影響が広く懸念され、企業業績や設備投資、賃上げの状況等を丁寧に把握していく必要がありますので、当面は現状維持が適当と考えています。

また、今後の金融政策については、「賃上げと投資が牽引する成長型経済」への移行状況に応じて運営する視点も、重要だと考えています。少子高齢化・人口減少、低成長下の日本では、海外投資ニーズが強く、サプライチェーンの海外シフト圧力も強い傾向があります。世界経済の中で成長力を高めるためには、先進国として先端技術開発やイノベーション創出に努め、事業の高付加価値化や構造改革を通じたコア事業強化等による企業の「稼ぐ力」と「賃上げ余力」の向上が必要です。企業業績の拡大とともに賃金も物価も上昇する「賃上げモメンタムの定着」に向けて、投資を拡大し営業利益の成長を押し上げる企業が増え、賃上げ余力の改善に勢いがみられるかなど、慎重に状況変化の確認を進めています。

GDP成長率を米国と比べてみますと、2010-2019年の前年比の単純平均は、米国2.4%、日本1.2%でしたが、コロナ禍以降の2020-2024年では、米国2.4%と成長率が維持されているのに対し、日本は0.2%と低下し、米国との差が2%以上に拡大する等、コロナ禍からの回復力が弱く、円安が続いていますが、米国経済が悪化すれば円安修正が進む可能性もありますので、留意が必要です(図表13)。成長率は政策委員見通しの中央値で2024年度に+0.7%となったあと、2025年度は+0.5%に低下する見通しですが(図表2<再掲>)、私としては、不確実性が極めて高くなっていますので、経済の回復状況に応じた慎重な金融政策運営が適当であると考えています。成長率が鈍化する中で利上げを急ぎますと、ラグを伴って消費や投資を抑制しかねません。消費支出が多い働き盛り世代の家計には、「負債のある家計」も多く、金利負担増加が実質可処分所得の増加を上回る場合、消費が抑制されかねません(図表14)。また、「負債のある企業」では、値上げによる売上減少への懸念から金利負担増加分の価格転嫁が難しい中で、コストカットや設備投資抑制を余儀なくされるかもしれません。さらに米国の関税政策により企業業績が悪化し、需要や物価が押し下げられる悪循環に陥るかもしれません。このため、賃上げや国内の消費・投資需要の動向を確認しつつ、慎重かつ適切に政策を判断して参ります。

4.構造的課題の克服による持続的な経済成長に向けて

ここからは、わが国経済が抱える構造的課題と、持続的に成長していくために必要な「企業・雇用・家計のダイナミズム」について、中長期的な視点から私見をお話ししたいと思います。

(1)わが国経済が抱える構造的課題

まず、低成長に陥ったわが国経済が抱える構造的課題についてお話しします。私は、(1)産業構造の低収益化、(2)少子高齢化・人口減少、(3)労働移動の低さ、(4)家計の金融資産の低収益性が、わが国経済が抱える大きな課題であると考えています。この4つの構造的課題について、一つずつご説明して参ります。

まず1つ目ですが、先ほど申し上げた通り、わが国では過去、産業構造の低収益化が進みました。海外に価値提供する輸出は、過去の急速な円高局面でサプライチェーンの海外シフトが進展し産業構造が変化し、輸入に比べ伸び率が低下しています。名目貿易収支の構成変化をみますと、工業製品の輸出金額の伸び率低下と鉱物性燃料等の輸入金額の伸び率上昇により貿易収支が赤字化し、世界のインフレの影響をより大きく受けるようになり、国内の付加価値を下押しする影響が大きくなっています(図表6<再掲>)。このため、国内市場中心で雇用の7割を占める中小企業の一人当たり営業利益は、依然としてバブル期の1990年度を下回っており(図表10<再掲>)、賃金水準の伸びはG7各国の中で低調な状態が続いています(図表8<再掲>)。2024年度は33年ぶりの高い賃上げ率が実現しましたが、日本商工会議所調査における中小企業の賃上げの性格をみますと、3割が業績の裏付けのある「前向きな賃上げ」で、4割は業績の裏付けのない人財係留目的の「防衛的な賃上げ」、残る3割は「未定・(賃上げの)予定なし」となっており、雇用の7割を占める中小企業では、二極化の様相を呈していました。「防衛的な賃上げ」や「未定・予定なし」が7割と多かったため、多くの家計は、漠とした将来不安から節約志向を強めざるを得ません。先ほど申し上げました通り、企業の賃上げ余力は足もとまで徐々に改善していますが、中小企業は設備投資が2年連続減少するなど、「稼ぐ力」と「賃上げ余力」の向上には懸念が残っています。また、米国の関税政策が長期化すれば、企業業績の悪化や賃金・価格設定行動の慎重化、大企業によるバリューチェーン強靭化に伴う取引先の選別や多層化した下請け構造の圧縮、生産拠点の米国シフトによる国内産業の空洞化等が再び進む可能性もあります。

また、2つ目の少子高齢化・人口減少も供給制約と国内需要低迷の大きな原因となっています。供給面では、生産年齢人口が30年で1割減少しており、深刻な人手不足が供給制約となっています(図表15)。需要面でも、年金受給世代は2.4倍に増加して人口の3割を占め、所得代替率が6割弱で所得増加期待も薄く、これを支える現役世代も社会保障負担の増加5により可処分所得が伸びないため、家計の購買力は低迷し、GDPの5割強を占める個人消費の節約志向が続いています。このため、わが国の潜在成長率は、低成長から抜け出せていません。

次に、3つ目の日本の雇用慣行に伴う労働移動の低さについてお話しします。労働経済白書の分析を私なりに解釈すると、2001から2022年の賃金上昇ドライバーは、成長を続ける米国では生産性向上ですが、停滞を続けた日本では、終身雇用・年功序列システムの下で人財係留でした6。このため、米国に比べて労働移動が低調で(図表16)、労働生産性が高い企業の成長の障害となり、賃金上昇圧力も高まらなかったため、個人消費の節約志向は強まり、経済が停滞したように思います。その後、リーマン・ショックを経て、多くの大企業は「事業構造(ポートフォリオ)改革」を積極化し、「稼ぐ力」の強化とともに、人財強化に必要なキャリア採用も拡大し大企業への労働移動が進んでいます。これに比べて中小企業への労働移動は低調です(図表17)。中小企業のM&A件数(14→21年度:7倍)や第三者事業承継件数(14→23年度:20倍)は増加していますが、まだ年間5千件程度と少ないと感じています。変革スピードの速い中国企業のイノベーション創出力や価格競争力に対抗できるよう、成長志向の中堅・中小企業も、コア事業の生産性と付加価値創出力の向上に必要な「もう一回り大きくなる構造改革」を加速して「稼ぐ力」と人財をさらに強化していく必要があります。

最後は、家計の金融資産の低収益性についてです。成長を続ける米国では家計の可処分所得に占める雇用者報酬は7割ですが、日本では、賃金の伸びが停滞する中でも、9割超を占める「一本足構造」となっています。これは家計の金融資産に占める低収益な現預金の割合が5割を超え、生産性の高い大企業への投資である株式・投資信託の割合は2割に止まっているため、可処分所得に占める配当収入の割合が僅か3%と、生産性の高い大企業からの所得分配が少ない家計の所得構造に課題があります(図表18、19)。このため、雇用の7割を中小企業が占めていますので、多くの家計の所得は中小企業の業績に大きく依存し、消費行動も節約志向が強まる傾向にあります。

  1. 5 わが国の国民負担率は、1970年度の24.3%から2024年度の45.8%へと倍増している。
  2. 6 2024年労働経済白書における分析によれば、生産性が1%上昇した時の名目賃金上昇率は、米国の0.78%に対して日本は0.44%と低い。一方で、欠員率が1%上昇した時の名目賃金上昇率は、米国の0.45%に対して日本では1.54%と高い。

(2)産業の高収益化に向けた「企業と雇用のダイナミズム」の向上

ここからは、構造的問題を克服して持続的に成長していくために必要な「企業・雇用・家計のダイナミズム」について、お話しします。「ダイナミズム」は、変革を希求しそれを実現する能力です。私は、企業は日本を「豊かな国」にする原動力であると信じています。

IMDによる「世界競争力年鑑」で、日本の国際競争力は1992年まで1位でしたが、現在は38位と低迷しています(図表3<再掲>)。特に、国際競争力の強化に重要な研究開発費は、2023年で米国は9,556億ドル、中国も9,172億ドルと経済成長とともに1991年から夫々6倍、100倍に増加しているのに対し、日本は2,138億ドルと3倍で、伸び率の差は歴然です。ソフトウェア投資も、米国は1991年の11倍に拡大しましたが、日本は5倍で、投資が遅れ乖離幅が広がっています(図表5<再掲>)。企業の人財能力開発投資も、やや古いデータですが、米欧主要国に比べ、抑制されてきました(図表20)。このため、国際競争力の低下は、先ほどご説明したような歴史的な経緯から、日本では、新興国との価格競争・コスト削減に追われ、先進国に求められるイノベーションが停滞したことが大きな要因と考えています。業績拡大とともに、将来の成長を加速させる研究開発投資・デジタル投資・人財投資を積極化し、イノベーション創出による価値提供の拡大を図ることが重要です。現在推進されている先端産業育成・強化や人財能力開発強化等の投資拡大を続けることにより、生産性の高い事業に人財が移動し、産業構造改革が加速すると期待しています。イノベーション創出力を高めて産業構造の高収益化を進めるとともに、国際競争力が向上すれば、海外市場の成長をより多く取り込むことが可能となり、持続的に国内設備投資ニーズが生まれ、産業集積が進み、中小・中堅企業への波及も広がります。このため、貿易収支の構成変化についても注視しています。

名目賃金上昇率の構成要素である「物価上昇率(生活水準の維持に向けた圧力)」、「労働生産性上昇率(生産性向上の成果)」、「労働分配率(賃上げ余力)」の変化をみますと、物価上昇率や労働生産性上昇率は賃金を押し上げる方向に作用しています。また、労働分配率は低下しており、企業の「賃上げ余力」は高まっているようにもみえます(図表21)。研究開発投資・デジタル投資・人財投資が進み、大企業・中堅企業中心に、「稼ぐ力」と「賃上げ余力」の強化により賃金上昇が続く「企業のダイナミズム」が強まりつつありますが、この動きを加速するためには、コア事業への集中・強化を図り、世界の企業と国内外の市場で戦えるイノベーションに積極的な企業の増加が必要です。老朽化更新投資では、イノベーション創出による潜在成長率の引き上げには繋がりませんので、成長投資(設備投資・ソフトウェア投資・M&A投資・研究開発投資・人財投資等)による経営リソースやイノベーション創出力の強化が重要です。

また、成長志向や世界で稼ぐマインドを持った中堅・中小企業やスタートアップの育成支援も大切です。多くの大企業は、かつては急速な成長を遂げたユニコーン企業でした。2011から2021年度の間に、欧米では大企業に成長した中堅企業の割合が2から3割あるのに対し、日本では1割しかなく7、国内の経済と投資を支える重要な存在の中堅・中小企業の成長力が低迷しています(図表10<再掲>)。政府施策の「大企業を目指す中堅企業と年商100億円を目指す中小企業」と「急速な成長を目指すスタートアップ」が、人財を集め国内投資を増やし、国内経済を成長させるダイナミズムが必要です。成長志向の中堅・中小企業を支援する政府施策の後押しも強化されていますので、その実現に期待しています。

深刻な人手不足が進む日本では、限りあるリソースである人財がより生産性の高い事業に移動し、さらに従業員のリスキリングの支援等を通じてエンゲージメントを向上させ生産性を高めることも重要です。そして、企業が生産性を向上させ利益成長を図るためには、自社の技術革新や「事業構造(ポートフォリオ)改革」に必要な人財の確保が必要です。大企業の人手不足は、大企業への労働移動を促し、スタートアップの成長は、大企業からスタートアップへの労働移動を促しているとみられ、その結果、転職で賃金が増えた人の割合も増加傾向で、「雇用のダイナミズム」を生んでいます(図表17<再掲>)。

「賃上げモメンタムの定着」には、顧客が必要とする製品・サービスによる価値提供、省力化やデジタル投資、イノベーション創出力強化投資等による生産性向上が必要です。このためには、経営リソースの強化(オーガニック・M&Aによる経営規模・人財の強化)等、「もう一回り大きくなる構造改革」が必要です。進み始めた経営者の世代交代も、この構造改革を後押ししているように思います。こうして「企業と雇用のダイナミズム」が向上し、企業業績の拡大とともに賃金も物価も上昇する「賃上げモメンタムの定着」に繋がると期待しています。

  1. 7 「成長力が高く地域経済を牽引する中堅企業の成長を促進する政策について」(経済産業省、2024年3月13日)によると、2011から2021年度の10年間で中堅企業から大企業へと従業員規模が成長した企業の割合は、米国では30%、欧州(英・仏・独)では22%であるのに対して、日本は11%となっている。

(3)将来不安を軽減する「家計のダイナミズム」の向上

日本は、資源の大部分を輸入に依存しており、サプライチェーンがグローバル化していることも踏まえると、グローバルなインフレの影響を受けやすい経済構造になっていると思います。33年ぶりの高い賃上げ率が反映され、一人当たり賃金は(振れを伴いつつも)前年比+2から5%程度と高めの伸びが続いていますが、先ほど申し上げた通り、少子高齢化・人口減少や生産性向上の遅れにより、総じて家計の購買力は低迷し、節約志向になりやすい構造になっています。

低収益化した経済構造においては、大企業を中心とした成長志向の先が経済全体の回復をリードし、多くの従業員が働いている、「稼ぐ力」の回復が遅れている中小企業等にも「前向きな賃上げ」が広がることが、漠とした将来不安の軽減に繋がります。可処分所得に占める雇用者報酬の割合が7割、配当収入が1割の米国の家計のように、「稼ぐ力」の多様化も家計の将来不安の軽減には必要です(図表18<再掲>)。勤務先の業績に過度に依存する終身雇用慣行から脱却し、より生産性の高い企業への転職による賃金上昇や(図表17<再掲>)、新NISAのメリットを活用した「長期・積立・分散投資」によって生産性の高い大企業からの所得分配を増やす等の所得構造の多様化も進み始め、「家計のダイナミズム」が生まれています。今後、この家計の「稼ぐ力」を向上させる動きが、消費行動の改善に繋がると期待しております。

(4)成長を支援する地域金融機関の価値提供サービスへの期待

雇用の7割を占める中小企業の成長は、全国の賃金水準向上には欠かせません。地域に根差した地域金融機関が、地域の中小・中堅企業の「稼ぐ力」の強化、人口流出に悩む地域経済の改革・活性化や働き甲斐向上等の動きを後押ししています。さらに、産業技術総合研究所・中小企業基盤整備機構・JETRO・大学研究所・コンサルティング組織等の支援組織との連携を強化し、M&A・第三者事業承継・アライアンス等、踏み込んだビジネスマッチングを含む付加価値提供サービスを通じて、中小・中堅企業のコア事業の強化・成長、経営規模の拡大、スタートアップの急速な成長等への貢献の拡大を期待しています。経済の持続的な成長には、中小企業から中堅企業へ、中堅企業から大企業への成長による既存企業の成長と、新たな技術で新市場を創出するスタートアップのユニコーンへの急速な成長が、必要不可欠な要素です。スタートアップが資金調達(総額・1社当たりとも)で伸び悩んでいる現状は、新市場創生の勢いに欠けている証左であり、政府の「スタートアップ育成5か年計画」の着実な実行が期待されます(図表22)。

日本銀行と致しましても、引き続き企業の経営努力を後押しし、「企業・雇用・家計のダイナミズム」の向上とともに日本経済が成長軌道に乗ることをサポートするよう、金融政策を適切に運営して参ります。

5.おわりに

最後になりましたが、福岡県経済の発展とそれを支えておられる皆様の今後のご健勝とご活躍を祈念いたしまして、私の講演を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。