【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策宮崎県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 野口 旭
2025年5月22日
1.はじめに
日本銀行の野口です。本日は、県各界を代表する皆さまとの懇談の機会を賜り誠に有り難く存じます。皆さまには、日本銀行宮崎事務所・鹿児島支店の業務運営への日頃からの多大なご協力を、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
本日はまず私の方から、国内外の経済動向と日本銀行の政策運営についてお話しし、その後に、日本銀行が実現しようとする「物価の安定」とは経済のどのような姿を意味するのかについて、私見を交えてお話しさせて頂きます。その後は皆さまから、当地の経済状況についてのお話、さらには私どもの政策・業務運営に対する忌憚のないご意見を承りたく存じます。
2.経済・物価情勢
(1)内外経済情勢
わが国経済は、1990年代初頭のバブル崩壊以来、コロナ禍からの回復が始まった2021年頃まで、物価と賃金が低下はしてもほとんど上昇することがない、名目的低成長の状態にありました。しかし、コロナ禍後に始まった世界的インフレの波はわが国にも押し寄せ、2022年度以降は2%を越える物価上昇が続いています。その高インフレは、家計にとっては大きな負担となって消費を抑え続けている一方で、これまで抑制されてきた賃金を押し上げる大きな力にもなってきました。その結果、わが国経済は今、賃金上昇を伴う持続的な物価上昇が実現される新たな段階に移行しつつあります。その実現の鍵は、賃金上昇モメンタムの定着と、賃金の価格転嫁を通じた「物価の基調」の強まりにあります。
現況の国内経済は、米や生鮮食品の価格上昇というやや想定外といえる要因が物価全体を上振れさせている点を除けば、順調に進展しています。GDPの前期比上昇率(年率換算)は、依然として物価高による内需の弱さはみられるものの、円安を背景とした外需拡大もあり、緩やかな回復が継続しています(図表1)。他方で、米国で第2次トランプ政権が誕生し、新たな関税政策が想定外の強度で進展したことから、海外発の下方リスクは急速に高まっています。そのため、海外経済の見通しは、はっきりと引き下げられています(図表2)。
海外経済はこれまで、経済の脱コロナ禍に伴って生じていた高インフレが失業率の大きな上昇なく収束しつつあるという意味で、いわゆるソフト・ランディングが達成されつつありました(図表3)。とりわけ米国は、移民による労働供給拡大や労働生産性の上昇もあって、金融引き締めによってインフレが徐々に抑制される中でも、高い経済成長が維持されてきました。その米国で今、インフレ再燃の中で経済は逆に縮小する、いわゆるスタグフレーションの懸念が急速に強まっています(図表4)。それは、広範な関税の導入は、国内物価引き上げを通じて家計の実質所得と消費の減少を招き、雇用や投資にも悪影響を与えるからです。他方で、関税で保護される一部の輸入競争産業は利益を得られますが、それらは本来、相対的に生産性が低い比較劣位部門であるため、その拡大はむしろ経済全体の生産性を低下させます。
さらに危惧されるのは、既に部分的に生じている、報復関税の応酬による世界的な貿易摩擦の拡大です。それがさらに進めば、1930年代的なブロック経済化が再現されかねません。その場合、30年代がそうであったように、世界貿易の縮小を媒介として景況悪化が各国に伝播していきます。この貿易縮小は、最終的にはすべての国を敗者にします。デヴィッド・リカードウ以来の貿易理論によれば、自由な貿易はそれを行うすべての国に利益となります。したがって、それを巻き戻せば、その貿易の利益が失われ、すべての国が損をするということです。
(2)物価情勢
わが国では、コロナ禍以降、世界的インフレの影響を受けた輸入財価格の上昇によって、典型的なコストプッシュ型インフレが生じていました。それはとりわけ、消費者物価へのエネルギー価格さらには食料品価格の高い上昇寄与として現れていました。しかし、世界的インフレの収束に伴って輸入価格上昇が緩やかになり、エネルギーや食料品の価格上昇も落ち着き始めたことで、消費者物価上昇率は、昨年半ば頃には2%から2%半ばまで低下していました(図表5)。
消費者物価はその後、食料品価格の上昇などを主因として、再び上昇率を高めていきました。その原因の一つは、昨年の夏にいったん急激な為替円高が生じたあとに、再び円安が進行したことです。それが輸入食材等の価格上昇に直結した理由は、以前は低かった輸入価格の国内パススルーがインフレ傾向の定着によって強まっていた点にあります。そしてもう一つは、米や生鮮食品の供給不足による価格上昇です(図表6)。これらは基本的には外生的な要因による物価上昇ですが、その金融政策上の位置付けについては後に詳述します。
3.金融政策
(1)政策金利の調整
日本銀行は昨年3月の金融政策決定会合において、物価安定の目標が持続的・安定的に実現していくことが見通せる状況に至ったと判断して、それまでの大規模金融緩和政策を停止し、短期金利の操作によって金融緩和の度合いを調整する伝統的な政策枠組みに移行しました。日本銀行はその上で、政策金利である無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標を昨年7月には0から0.1%程度から0.25%程度に、そして本年1月には0.5%程度まで引き上げました(図表7)。
日本銀行がこのように政策金利の調整を進めてきた理由は、2%程度の物価上昇が安定的に達成される状況に可能な限り円滑に到達する点にあります。確かに物価は上振れているとはいえ、後述の「物価の基調」を勘案すると、現状ではまだその目標地点には到達してはいません。他方で、様々な指標はそこに着実に近づいていることをも示唆しています。仮に目標到達が完遂されるまでは政策金利調整を一切行わないとすると、目標達成時には、経済的ショックをもたらしかねない、より急激な調整が必要となります。
日本銀行は今後も、物価の基調が2%近傍で安定しつつあることを慎重に見極めつつ、政策金利を調整していくことになります。私は、その調整においては、ほふく前進的なアプローチが重要と考えます。それは、「政策金利を一段階引き上げるごとに相応の時間をかけてその経済への影響を確認し、さらにその時々の上下リスクを十分に点検した後に次の利上げを決める」といったやり方です。これは、政策金利の終着点であるターミナルレートを中立金利の推計などから決め打ちするようなやり方はとらないことを意味します。そうした推計は、日本経済が数十年もデフレ的状況にあったことを踏まえると、ターミナルレートのおおまかな目途をつける以上の役には立ちません。政策金利の終着点は、その時点の経済状況とりわけ物価動向から判断する以外にはないのです。
(2)バランスシートの調整
日本銀行は昨年7月の金融政策決定会合で、2026年3月までの長期国債買入れ減額計画を決定しました(図表8)。その目的は大規模金融緩和政策によって縮小した市場の回復であり、金融緩和の調整にはありません。政策金利である短期市場金利がもっぱら金融調節を通じて誘導・維持されていた世界金融危機以前の「希少な準備預金」の時代とは異なり、現在は政策金利が中央銀行当座預金への付利を通じて設定されており、政策運営はバランスシートからは独立しています。仮に国債買入れ減額の多寡によって金融引き締めや緩和効果が生じたとしても、それは短期市場金利の操作によって調整されるべきものです。
昨年7月の計画は、月間の長期国債の買入れ予定額を原則として毎四半期4千億円程度ずつ減額するといった、それ自体は機械的ともいえるものでした。これは、長期金利の形成がもはや市場に委ねられた以上、政策的な意図による国債買入れの増減は行わないことを意味します。他方で、市場急変時には買入れ額を機動的に変更するという部分では、その計画には一定の柔軟性が担保されています。それは、市場の回復が重要とはいっても、そのことがむしろ市場の混乱を助長あるいは放置する結果になっては無意味だからです。ただし、そのような例外措置は、あくまでも市場に無秩序な攪乱が生じた場合に限定されます。日本の10年物国債金利はこの3月には1.6%弱まで急上昇しましたが、それは個人的には、急激ではあっても攪乱的とはいえなかったと考えます。というのは、それは主に、日本の経済や物価の上振れを背景とした、ターミナルレートに関する市場の目線の切り上がりを反映する動きであったように思われたからです。
昨年7月の長期国債買入れ減額計画は、本年6月に中間評価を行った上で、2026年4月以降の新方針が示されることになります。私自身は、今のところは、既存の計画を大きく変更する必要性は感じませんが、2026年4月以降に関しては、より長期的な視点から検討する必要があると考えます。いずれにせよ、現在の「潤沢な準備預金」を前提とした政策レジームでは、バランスシートの縮小は十分な時間をかけて進めていくことが可能であり、それが市場の安定にとっても望ましいといえます。
4.2%の「物価安定の目標」の持続的達成に向けて
(1)持続的な物価安定の重要性
日本銀行はこれまで、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を目指して、十分に低い実質金利を維持するという意味での金融緩和を続けてきました。他方で、日本の消費者物価の前年比上昇率は、2022年春から現在まで、目標とされている2%を一貫して上回っています(図表5)。日本銀行がその中で金融緩和を続けてきたのは、それが基本的には輸入価格を主因とする外生的な物価上昇であり、必ずしも持続的ではないと考えられるためです。これまで為替の円安が長く続いてきたことから、輸入価格上昇の影響は未だに根強いものがあります。しかし、円安が継続的に進むのでない限り、その影響はやがて収束していきます。また、昨年末頃からは米や生鮮食品の価格上昇が物価を大きく押し上げてきましたが、それは供給不足が主因であるため、供給悪化がさらに進まない限り、少なくとも価格が一方的に上昇し続けることはないはずです。
こうした外生要因による物価上昇は、仮にそれが長引いたにしても、基本的には持続性のない一過性のものです。それに対して、物価上昇が労働への対価である名目賃金の持続的上昇を伴って生じているとすれば、それは必ず持続的となるはずです。労働はあらゆる財やサービスの生産に不可欠な、本源的な生産要素です。したがって、労務費としての名目賃金が上昇し続ければ、多くの場合、物価もまた上昇し続けます。実際、多くの国や時代において、物価上昇率と名目賃金上昇率との間には概ね強い相関が認められます(図表9)。これは、物価が2%程度で緩やかに上昇し続けるには、名目賃金もまたそれと整合的な水準で上昇し続ける必要があることを意味します。
物価上昇と名目賃金上昇との間にはまた、後者が前者を必要とするという関係もあります。というのは、財やサービスの多くは、賃上げのためにはどうしてもその価格への転嫁が必要となるからです。つまり、そのような産業では、値上げができない場合には賃上げも困難になります。日本では、デフレが深刻化した1990年代末からコロナ禍に見舞われた2020年代初頭まで、名目賃金が下落はしても上昇しにくい状況が続いてきました(図表9)。これは、値上げによる売上げや収益の減少を怖れた企業が、賃上げを極力避け続けてきたことを示唆しています。日本ではそのため、企業収益が拡大しても実質賃金は十分に上昇せず、労働分配率の傾向的低下が続いてきました(図表10、11)。
日本銀行が2%程度で物価が持続的に上昇する状況の実現を目指して政策を運営している理由の一つは、多くの企業がそれと同程度の販売価格引き上げを実行できることで相応の賃上げも可能となると考えられる点にあります。私自身は、その賃上げを通じて人々の実質賃金が生産性上昇を反映して上昇する段階に至れば、そこでようやく「賃金と物価の好循環」が結実したと考えます。
(2)着実に強まりつつある「賃金上昇を伴う物価上昇」
つまり、金融政策が目標とする物価の安定とは、価格が動かないことではありません。財貨サービスの価格がまったく動かないとすれば、それはむしろ市場機能の不全を意味します。目標とすべきは、多くの財貨サービスの価格が名目賃金上昇を伴って緩やかに上昇し続けるような状態の実現です。これは、金融政策の焦点は、輸入や供給側の要因による一時的な価格変動にではなく、名目賃金の動向と強く結びついているような「物価の基調」にあることを意味します。
日本銀行は、2022年春から現在まで続く消費者物価上昇に関して、外生要因による一時的な上昇を、賃金上昇に基づくより持続的な上昇と区別するために、「第一の力」と「第二の力」という概念区分を用いてきました1。現状では消費者物価上昇の過半がエネルギーや食料の寄与によるものであることから、第一の力の比重はまだきわめて大きく、足許では米や生鮮食品の価格上昇によってむしろ強まっていると考えられます。逆にいえば、「物価の基調」に相当する第二の力の強さはまだ十分ではありません。少なくとも、その部分だけで2%に達しているとはいえません。
とはいえ、第二の力もまた確実に強まりつつあります。それは何よりも、コロナ禍後の労働需給逼迫や、これまでの春季労使交渉などを通じて、名目賃金上昇率が高まり続けているからです(図表12)。その賃金上昇が物価をどれだけ押し上げているのかを正確に判別することは困難ですが、後述のように、サービス価格の動向等からある程度の目星を付けることはできます。
金融政策の判断において重要なのは、物価の一時的変動を除いた「基調」の部分です。しかしながらそれは、第一の力を無視してよいことを意味しません。というのは、そちらもまた間接的には物価の基調に影響を与える可能性があるからです。それ自体は一過性の物価変動が、人々のインフレ期待などを通じて名目賃金さらには物価の基調にまで影響を与えるケースは、一般に「二次的効果」と呼ばれています。1970年代に先進諸国の多くで見られた賃金・物価スパイラル、すなわち賃金と物価が相伴って上昇し続ける現象は、その典型的実例です。
この二次的効果は、通常は物価の安定を損なう望ましからぬ要因として認識されていますが、それが必要となる場合がないわけではありません。それは例えば、賃金と物価のゼロノルム、すなわち「賃金が上がらないために物価が上がらず、物価が上がらないために賃金が上がらない」という悪循環から永らく抜け出せずにいた日本経済です。わが国ではようやく今、賃金上昇を伴う物価上昇という好循環の芽が生まれ始めていますが、その契機となったのは明らかに、コロナ禍後に生じた世界インフレの波及による輸入価格上昇でした。その意味では、第一の力もまた物価の基調に一定の影響を及ぼしているといえます。
- 植田和男「最近の金融経済情勢と金融政策運営――大阪経済4団体共催懇談会における挨拶――」2023 年9月25 日。
(3)生産性上昇格差による財とサービスの価格変動
この二つの力の事例が示すように、一般に物価の上昇とはいっても、それを主導する品目の属性はしばしば大きく異なります。まず、エネルギーや生鮮食品のように、供給変動による価格の短期的変動がきわめて大きい品目があります。これらの品目の価格は、われわれの生活への影響は大きいのですが、物価の基調との結びつきは大きくはありません。物価の基調において重要なのは、それらを除く財とサービスの価格動向です。しかし、その両者に関しても、その変動のあり方にはきわめて大きな相違が見出せます。
米国や英国などの消費者物価の動向からは、コロナ禍等の時期を除けば、上昇し続けるのはもっぱらサービス価格であり、財価格の方は平均的にはそれほど上がらないことが確認できます(図表13)。われわれの周囲を眺めても、技術進歩による性能の向上も勘案すると、工業製品の多くは明らかにより安価になっています。これは、生産性上昇が生じやすい財の価格は、それが生じにくいサービスの価格に対して、相対的により安価になる傾向を持つことを意味します。ただし、このような財とサービスとの生産性上昇格差は、あくまでも両者の相対価格変動を説明するものであって、財価格の低下とかサービス価格の上昇といった絶対価格の動きを説明はしません。それを説明するには、その財部門の生産性上昇によって賃金がどう動くかを考える必要があります。
ある企業や産業に生産性上昇が生じた場合、そこには一時的に収益の拡大が生じますが、競争市場においては、その原資はやがて賃金引き上げか価格引き下げのどちらかに用いられるはずです。そのどちらになるのかは、おそらく景況や労働市場の状況等に依存します。仮にそのような企業が、販売価格を維持しつつその原資をすべて雇用の維持拡大のための賃上げに用いたとすれば、労働市場はより逼迫し、名目賃金は上昇するはずです。その場合、生産性が上昇していない他企業は、労働者の係留のために賃上げを行いつつ、それを販売価格に転嫁していくしかありません。つまり、ある部門に生じた生産性上昇が、当該部門の価格低下ではなく、名目賃金上昇を通じて生産性上昇が生じていない別の部門の価格上昇をもたらすことになります2。米英などの消費者物価動向は、それがまさしく財価格とサービス価格において生じていることを示していると考えます。
- 2 経済学者の高須賀義博は、この論理を高度成長期の日本の物価上昇に適用し、それを「生産性格差インフレーション」と名付けました(『現代日本の物価問題』新評論、1972年、第2章)。ただし、生産性上昇が部門ごとに異なった大きさで生じた時、一般物価がどれだけ上昇するのかは、全体としての名目賃金上昇率に依存し、それはおそらく景況等に依存するため、生産性格差だけではインフレを説明できない点には注意が必要です。
(4)物価の基調判断におけるサービス価格の重要性
つまり、物価の基調判断においては、「通常は生産性が上昇しにくく、また労務費の比重も高いサービスの価格が、名目賃金上昇とともにどれだけ着実に上昇し続けているか」が重要です。コロナ禍前までのわが国の物価の特異性は、こうしたサービス価格主導の上昇がまったく生じていなかった点にあります。それはおそらく、「物価は下がっても上がることはない」というノルムが強く定着していたために、サービス業を含む多くの企業が「何があっても値上げだけは避ける」という選択を続けてきたからです。そうした経済環境では、企業は当然ながら、労務費増加による収益減少に直結する賃上げを極力回避します。
他方で、適切な物価上昇が続くためには、当然ながら、需要側の要因も重要です。その点に関しては、サービスの多くは国内で生み出されてそのまま消費される非貿易財であるため、その価格上昇は、国内需要拡大によるディマンドプルの強まりをより直接的に示すと考えることもできます。
ところで、サービス価格を主導するのが名目賃金とすれば、その賃金はどのように動くのでしょうか。名目賃金は一般には、上昇はしても低下しにくいという下方硬直性が存在することが知られています。しかし日本では、デフレが本格化した1990年代末以来、賃金が低下はしても上昇しにくい状況が続いてきました。この日本を例外とすれば、名目賃金は多くの国で着実に上昇し続けてきましたが、その動きは比較的緩慢です。そうしてみると、名目賃金の動きには、上方にも下方にも一定の硬直性あるいは粘着性があるといえそうです。
この名目賃金の粘着性はおそらく、マッチングにとりわけ費用がかかるという、労働市場の特殊性と関係しています。パートタイムなどを別とすれば、求職者が希望にかなう職を見つけるとか、企業が必要な人材を捜すことには、多大な費用と時間がかかります。しかもそれは、一度支払ったら取り戻せないサンクコストです3。雇う側も雇われる側もこの費用の新たな発生を避けようとするため、結果として、雇用関係は一般に継続的になりがちです。日本の終身雇用は、その究極の形態です。これは、労働市場には賃金の動きによって需給を調整するという市場機能が働きにくい、あるいは緩慢にしか働かないことを意味します。同様なことは、賃金と並んで粘着性が高い家賃についても当てはまります。
物価の基調的な上昇は、この粘着性が高い名目賃金が、景況の改善を反映して適切な伸びで上昇し続け、さらにサービス価格などがそれに伴って十分に伸び続けるに至った時に初めて実現されます。上述のように、サービスは通常は財よりも生産性上昇率が低い分だけ価格上昇率が高くなるため、一般物価が2%程度上昇し続けるためには、サービス価格の上昇率は2%を定常的に上回る必要があると考えられます。その条件が現状の日本でどの程度まで満たされているかを確認すると、例えば企業向けサービス価格では、2023年後半には2%越えが、そして2024年半ば以降は3%近傍が定着しつつあります(図表14)。その傾向は、費用に占める労務費の比率が高い高人件費率サービスでは、とりわけ顕著です。
他方で、消費者物価のサービス価格上昇率は、コロナ禍後から強まってきたとはいえ、2%超えの確実な定着にはまだ距離があります(図表15)。消費者物価の全体を人件費比率の高低で分けても、むしろ人件費比率の低い品目の価格上昇率の高さが目立ちます(図表16)。これは、消費者物価全体でみると、賃金上昇よりは輸入価格上昇の影響の方がはるかに大きいことを示しています。それはまた、賃上げの価格転嫁は、企業向け取引では進展していても、消費者向け取引ではまだ道半ばにすぎないという実情を示唆しています。
- 3 米国の経済学者アーサー・オークンは、このような労働市場固有の費用を通行料(toll)に例えています。Arthur M. Okun (1981), Prices and Quantities: A Macroeconomic Analysis, The Brookings Institution, ch.2.
(5)好循環の実現とそれに向けた政策対応
日本経済はこれまで、物価も賃金も上がらず、そのため人々の実質賃金も上がらない状況が続いてきました。その間にも新商品や改良された商品が続々と登場したにもかかわらず、人々がより豊かにならなかったのは、名目賃金が生産性の改善を反映するようには上昇しなかったためです。通常の成長する経済では、ある部門で生産性が改善すれば、そこを起点として物価上昇以上の名目賃金上昇が生じ、それが経済全体に拡散され、生産性が改善しにくい部門で働く人々も恩恵を得られます。しかし日本では、そもそも名目賃金がほとんど上昇しなかったため、人々はその生産性改善の恩恵を受けることができませんでした。
結局のところ、人々が成長の果実を享受できるためには、物価上昇を上回る名目賃金の上昇、すなわち実質賃金の上昇が必要です。その点、日本の実質賃金上昇率は、今ようやくマイナスからプラスに転じつつある段階です(図表10)。その実質賃金上昇には、名目賃金上昇トレンドが維持される中での消費者物価上昇率の低下が必要ですが、そこには以下の留意点があります。
まず名目賃金については、現段階で必要なのは、上昇モメンタムのさらなる強まりというよりは、中小企業や地方経済等への拡散を通じた、その定着です。仮に名目賃金上昇率が今後3%を上回る水準で定着したとすれば、1%前後であった日本のこれまでの労働生産性上昇率を前提とした場合、2%物価目標と整合的な水準の近傍に達したと評価できます。他方で物価に関しては、「第一の力」が弱まり、消費者物価上昇率が全体として低下する中で、「第二の力」は逆に強まっていかなければなりません。より具体的には、輸入価格上昇と米や生鮮食品の供給不足の影響が減衰していく一方で、サービス価格の上昇率は2%を上回る水準に高まっていく必要があり、これが、2%の物価上昇が持続的・安定的に実現されるための重要な要件であろうと私は考えています。
このような見通しを踏まえた上での、今後の金融政策運営の基本スタンスとは、「上下リスクを含む経済状況の進展を注意深く確認しつつ、慎重に政策調整を進めていく」というものになるはずです。それは、抽象的な経済モデルの世界とは異なり、様々な摩擦現象やそれに基づく粘着性が存在する現実経済では、仮に経済的因果の力が作用するにしても、それが現実化するまでには相応の時間が必要になるからです。しかし、コロナ禍後のわが国経済の進展は、その力が確実に働いていることを示しています。私はその意味で、今後の金融政策運営に必要なのは、拡大しつつある海外リスクをしっかり見据えつつも、状況の進展を冷静に見極めるような、「慎重な楽観論」ではないかと考えています。
5.おわりに ―― 宮崎県経済について ――
最後に、宮崎事務所および鹿児島支店を通じての情報も踏まえ、宮崎県経済についてお話しいたします。
宮崎県は、本格焼酎の生産はもちろん、温暖多照な気候を活用し、質・量ともに全国有数の農畜水産業を誇っております。農産物では完熟マンゴーや日向夏、きんかん、ピーマン、お茶などが、畜産物や水産物では、肉用牛や豚、ブロイラー、キャビアなどが、全国でもトップクラスの産地となっています。肉用牛やお茶は、最近の日本食ブームもあり積極的に輸出されています。また、食だけでなく、豊かな自然や古事記や日本書紀の舞台となった神話など魅力あふれる観光資源に加え、「スポーツランドみやざき」としての取り組みが、多くの観光客や野球、ゴルフ、サーフィンなどのスポーツ・ファンを惹きつけています。
こうした中、足もとの宮崎県の景気は、緩やかに回復しています。個人消費は緩やかな回復が続いているほか、韓国、台湾からのインバウンド需要の増加もあり、観光も緩やかに回復しています。また、宮崎中心市街地の再開発が進められており、さらなる賑わいの創出とともに、大学の新たなキャンパスでは、産学共働の取り組みが期待されています。そして、2027年に第81回国民スポーツ大会・第26回全国障害者スポーツ大会が予定されていることから、同大会に向けた施設整備など、公共投資が増加しています。都城・志布志道路といった物流の効率化や防災に資する道路整備も進んでいます。
宮崎県経済をより長い目でみますと、人口減少に伴う地域経済の趨勢的な縮小や人手不足が大きな課題となっています。この点、宮崎県では、(1)生み育てやすさ、(2)杉などの再造林率、(3)スポーツ環境での「3つの日本一挑戦プロジェクト」という取り組みが行われ、宮崎市では「第六次宮崎市総合計画」が推進されています。基幹産業の一つである農業分野では、AIやロボット技術の活用によるスマート農業の実現に向けた取り組みが着実に広がっています。また、前年にユネスコの無形文化遺産に登録された「伝統的酒造り」を営む焼酎業界では、新商品開発などにより海外を含む新たな消費者の取り込みが行われています。各経済団体や地域金融機関においても、デジタル技術の活用や事業承継の支援などを通じて、企業の取り組みが後押しされています。
こうした取り組みが実を結ぶもとで、宮崎県経済がますます発展していくことを祈念いたします。なお、日本銀行宮崎事務所は来年2月に開設80周年を迎えます。これまで支えて頂いた皆様に、深く御礼を申し上げます。今後も中央銀行業務の遂行と宮崎県経済の発展に貢献できるように努めてまいります。
ご清聴ありがとうございました。