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【挨拶】 日本銀行金融研究所主催2025年国際コンファランスにおける開会挨拶の邦訳

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日本銀行総裁 植田 和男
2025年5月27日

1.はじめに

本日は、日本銀行金融研究所の国際コンファランスに、識者の皆さまをお迎えすることができ、大変光栄に存じます。コンファランスの主催者を代表して、皆さまに心から感謝申し上げます。

1983年に始まった本コンファランスは、当初は隔年で開催しておりましたが、今年で第30回になります。これまで中央銀行、国際機関、学界などから数多くの方にご参加いただき、その時々の世界を取り巻く状況を反映した、中央銀行に関するテーマについて活発な議論が交わされてきました。

さて、節目となる今回のテーマは、「金融政策の新たな課題」です。私は、カナダで開催されたG7の会議から戻ったところですが、そこでは、中銀コミュニティの仲間の多くが、それぞれのマンデートの達成に向けて前進してきたことを確信していました。同時に、通商政策を巡る不確実性の高まりや頻繁に生じるサプライショックへの適切な対応といった新たな課題に直面しているとの認識も共有されました。

正直なところ、初めてではありませんが、私自身、やや取り残されたように感じました。なぜなら、私どもは今なお、金利のゼロ金利制約の存在を念頭に置きつつ、2%の物価安定の目標を持続的に達成するという長きにわたる課題に取組み続けているからです。

もっとも、私どもの課題の性質は、近年、大きく変容してきました。日本銀行は、現在、物価安定の目標にまだ到達していないものの、過去30年間のどの時点よりもそれに近づいています。近年、私どもは、特異な状況のもと、サプライショックに向き合ってきました。

これを念頭に、私どもの経験がどう進展し、それが他の国々とどう異なるかについて、この場を借りて、率直にお話ししたいと思います。そうすることによって、本コンファランスにおける議論のための有益な視点を提供したいと思っています。

2.わが国の金融政策が直面している課題

物価上昇率

最初に、消費者物価上昇率の現状を確認したいと思います。図表1は、日本、ユーロ圏、米国の総合ベースの物価上昇率を示しています。2021年から2023年にかけて、ユーロ圏と米国の物価上昇率は大幅に高まりました。広く指摘されてきたように、この高騰のかなりの部分はサプライショックによるものでした。サプライショックは、元来一時的であった一方、今回は当初想定されたよりも持続的な影響をもたらしました。これらの経済における物価上昇率のその後の低下は、ショックの減衰と欧州中央銀行と連邦準備制度による金融引締めの影響を反映していると考えられます。

対照的に、日本では、やや遅れて物価上昇率が高まりました。これには、日本の予想物価上昇率が低い水準に定着していたことが影響した可能性があります。しかし、ユーロ圏や米国と異なり、物価上昇は、2023年初め頃に最初のピークを付けた後、あまり減速しませんでした。後ほどみるように、この時期、徐々に予想物価上昇率が高まっていました。

足もとでは、日本の物価上昇率は再び上昇しています。この高まりは、主に米価格といった食料品価格の上昇によってもたらされています。過去12か月の間、米価格は98%上昇し、生鮮食品を除く食料品価格は7.0%上昇しました1

つまり、日本は、2度にわたる大きなサプライショックに見舞われてきました。その結果、足もとの物価上昇率は、ユーロ圏や米国よりも高くなっています。

  1. 消費バスケットに占める生鮮食品を除く食料品ウェイトは、22.3%となっています。

政策金利

政策金利をみると、図表2が示す通り、日本の政策金利は0.5%と3つの経済のなかで最も低くなっており、政策金利が4%以上の米国を大きく下回る水準となっています。

図表3は、名目政策金利と物価上昇率との差で試算された実質政策金利を示しています。ユーロ圏と米国ともに、物価上昇率が目標水準を上回る状況のもと、実質政策金利はゼロを上回っています。一方、日本では、物価上昇率が同様に目標水準から上方に乖離しているにも関わらず、実質政策金利は深いマイナスの値にあります。物価上昇率と金利を巡るこれらの特徴はよく知られているところです。

難しい質問は、実際の物価上昇率が2%を上回って3年以上推移しているにも関わらず、なぜ日本銀行はそのような緩和的なスタンスを維持しているのか、ということです。この問いに対して、日本銀行は、基調的な物価上昇率が2%を下回っているため、と答えてきました。これは自然と次の質問につながります。基調的な物価上昇率は、何によって構成されているのでしょうか。

基本的には、基調的な物価上昇率とは、一時的な変動要因を除いた物価上昇率を指します。しかし、実際には、この概念を捉える完璧なデータは存在しません。そのため、データの全体感と経済を巡る情報を勘案して総合的に判断しなければなりません。そして、この点は、人々とのコミュニケーションを難しくさせます。私どもは、基調的な物価上昇率を巡る説明が不明瞭であるとの厳しい指摘をしばしば受けてきました。

予想物価上昇率

基調的な物価上昇率を評価するために注意深くモニターしている指標のひとつは、予想物価上昇率です。基調的な物価上昇率という概念よりは明瞭ですが、予想物価上昇率もまた、誰の予想が最も重要なのか、どの予想年限が適当なのか、などの問題を伴います。

図表4は、各指標が有する情報を集約した日本の合成予想物価上昇率に加えて、ドイツと米国の中長期の予想物価上昇率を示しています2

ドイツと米国では、予想物価上昇率は、おおむね2%から3%の間で、驚くほど安定していました。2022年から2023年の間に、物価上昇率が10%近くに達したときも、それは目標水準近くにアンカーされていました3。この安定は、中央銀行が物価を安定させる能力に対する人々の信頼を表しているのではないかと思われます。

対照的に、日本の中長期の予想物価上昇率は、1990年代後半から、大規模金融緩和が導入された2013年まで、概ね0%から1%の間にとどまっていました。予想物価上昇率は、2014年に1%以上に高まりましたが、2016年までに低下して、以前の範囲に戻り、2021年までそこにとどまりました。より短い年限の予想物価上昇率は、よりゼロに近い水準にとどまっていました。ゼロインフレという均衡の強固さを物語ります。

予想物価上昇率は、グローバルなインフレ高騰と日本の継続的な金融緩和に反応して、2022年に再び上昇し始めました。予想物価上昇率は、足もと、1.5%から2.0%の間にあり、まだ2%の目標水準を下回っているものの、この30年間で最も高い水準にあります。すなわち、私どもは、予想物価上昇率をゼロから引き上げることには成功しましたが、2%にアンカーされているという状況には、まだ至っていません。このため、私どもは、今なお緩和的な政策スタンスを維持し続けています4

  1. 2合成予想物価上昇率の算出方法の詳細は、長田充弘・中澤崇(2024)「期間構造や予測力からみたインフレ予想指標の有用性」、日銀レビュー、2024-J-5、を参照。
  2. 3足もと、米国において家計の長期の予想物価上昇率に大幅な上昇がみられたことが意味するところについては、まだ見方が定まっていません。
  3. 4基調的な物価上昇率を捉えるための他の指標をみると、その水準は区々となっています。ベースアップ率は3%近傍となっており、2%の基調的な物価上昇率と既に整合的な水準に達しています。一方で、2025年4月のサービス全体と一般サービスの価格上昇率は、それぞれ1.3%と1.5%となっています。

中央銀行コミュニケーション

この政策スタンスのコミュニケーションは容易ではありません。それは、基調的な物価上昇率の概念に伴う曖昧さもさることながら、図表5が示しているように、総合ベースでみた物価上昇率と基調的な物価上昇率との間に大きな乖離があるためです(ここでは、予想物価上昇率を基調的な物価上昇率の近似として用いています)。その乖離は、サプライショックの直接的な影響と、総合ベースでみた物価上昇率に影響するその他の一時的な要因に対応しています。中央銀行は、基調的な物価上昇率に主に反応しますが、人々は総合ベースでみた物価上昇率に反応する傾向があります。この反応の乖離は、常にある程度は存在するものですが、最近の乖離の大きさとそれが長い期間にわたって継続していることは、日本において特に問題となっています。

一般的に、中央銀行は、サプライショックに対して、それが基調的な物価上昇率に影響するとみられない限り、その状況を見守るアプローチを採用しています。私どももまた1度目のサプライショック、すなわち2022年から2023年にかけての輸入財の価格上昇の状況を見守ってきました。しかしながら、日本の近年の経験は固有のものです。総合ベースでみた物価上昇率が高まった一方、基調的な物価上昇率も高まりました。基調的な物価上昇率を高めた要因として、コロナ禍からの景気回復や労働需給の引き締まりに加え、国内物価・賃金に影響を及ぼしたサプライショックを指摘することができます。

足もと、私どもは、食料品価格の上昇というかたちで、もう1つのサプライショックに直面しています。私どもの中心的な見通しでは、食料品価格上昇の影響は減衰していくとみています。しかしながら、基調的な物価上昇率が以前よりも2%に近いことを踏まえると、食料品価格の上昇が基調的な物価上昇率に与え得る影響に注意する必要があります。

サプライショックが世界的により頻繁に生じるようになるにつれて、総合ベースでみた物価上昇率と基調的な物価上昇率の関係が、多くの中央銀行にとって主な焦点であり続けると考えられます。

今後の道のり

高まる不確実性、とりわけ通商政策に関連する不確実性の高まりをうけて、私どもはこの4月に経済と物価の見通しを下方修正しました。

しかしながら、私どもの中心的な見通しでは、基調的な物価上昇率は、見通し期間の後半に2%に徐々に収束していくと見込んでいます。展望レポートで議論したとおり、中心的な見通しを巡るリスクは、上下両方向で大きく、2025年度と2026年度は経済、物価ともに下振れリスクが大きいと考えています。先行き、中心的な見通しが実現していくとすれば、2%の物価安定の目標の持続的な達成を確かなものにするために、経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことになると考えています。そのうえで、見通しが実現していくかについては、通商政策等の不確実性がきわめて高い状況にあることを踏まえ、予断を持たずに判断していく方針です。

3.結び

国際コンファランスの開会にあたり、わが国の金融政策が直面している課題についてお話ししました。わが国固有の側面もありますが、基調的な物価上昇率と予想物価上昇率の概念と計測、それらに支えられた金融政策についてのコミュニケーションのあり方、頻繁に生じるサプライショックのもとでの金融政策運営など、互いに学び合えることが多いと思います。

本コンファランスでの議論が、これらの極めて重要な問題に光を当て、世界の中銀コミュニティに貴重な知見がもたらされることを祈念します。