【挨拶】わが国の経済・物価情勢と金融政策三重県金融経済懇談会における挨拶要旨
日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2025年7月3日
1.はじめに
日本銀行の高田でございます。本日は、三重県の行政、財界、金融界を代表する皆様と懇談させて頂く貴重な機会を賜りましたこと、誠にありがとうございます。皆様には、日頃から日本銀行名古屋支店の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますこと、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。
本日は、わが国の経済・物価情勢や金融政策運営などについてお話しします。その後、三重県経済の動向や日本銀行の業務・政策運営に対するご意見などをお聞かせ頂ければと存じます。
2.経済・物価情勢
経済・物価情勢です。海外経済は、各国の通商政策等の影響を受けて一部に弱めの動きもみられますが、総じてみれば緩やかに成長しています。今年4月に改訂されたIMFの世界経済見通しは、米国の関税政策の影響を大きく受ける見通しとなっており、一段の下振れリスクも指摘されています(図表1)。ただし、関税政策の影響が懸念される米国経済について、最近の経済指標――ハードデータ――からはなお緩やかに成長している姿も窺われます。1月FOMC以降、政策金利は据え置かれていますが、FRBは再び利下げに転じるとの市場参加者の見方もみられます(図表2)。先行きについても、家計・企業・金融機関はバランスシートが健全であることなどから、従来、景気悪化局面でみられた信用収縮に伴う急激な落ち込みは想定され難いと捉えており、私としては、深刻な景気後退というよりは、消費者マインド低迷の影響などから、潜在成長率を下回る成長率への減速を見込んでいました。ただし、この減速は、米政権の政策に起因するだけに、上下双方向に不確実性は極めて高い点を念頭に置く必要があります。現時点では堅調であっても、関税への不安が長引けば長引くほど、不確実性の高まりから経済への下押し圧力は高まると考えられ、時間軸のなかで慎重に見極める必要があります。他方で、後段で改めてお話ししたいと思いますが、新政権発足後、経済成長にマイナスに働く関税等の政策が先行しており、今後、減税等の成長にプラスの政策が進められた場合、成長率の上振れもあり得ると考えています。また、海外では、欧米、中国、新興国で押しなべて、財政金融政策が同時に緩和方向に傾き、世界中のベクトルが揃うことで、合成されて予想以上の経済押し上げ・インフレ圧力が生じる可能性にも留意したいと思います。
こうした米国の関税政策の影響は、海外経済の減速や、わが国企業の収益の減少とそれに伴う賃上げの減速、不確実性の高まりによる企業・家計の支出の先送りなどの経路を通じてわが国経済を下押しすると考えられ、4月展望レポートでは、1月対比で成長率・物価見通しとも下方修正しています(図表3)。
ただし、足もと、日本の企業部門では、企業収益の改善傾向が続いており、2025年の春季労使交渉でも、連合の第6回集計時点で、高水準の賃上げ率が実現しています(図表4)。家計部門では、個人消費は、物価上昇の影響などから消費者マインドに弱さがみられるものの、雇用者所得の改善を背景に緩やかな増加基調を維持しています(図表5)。コメなどの食料品価格上昇で足もとの物価上昇率は高まっていますが(図表6)、先行き、輸入物価の下落等に伴う物価上昇の落ちつきに加え、賃金上昇率の高まりを背景に、先行して上昇した物価を賃金が追いかけるかたちで、個人消費も緩やかな増加を続けると期待されます。
また、物価の基調をみるうえで、様々な主体の中長期的な予想物価上昇率をみると、着実な底上げが継続しています(図表7)。加えて、国内のインフレ圧力を示すGDPデフレーターをみると、これまでユニット・プロフィット(UP)等が伸びの中心でしたが、2024年以降は賃金上昇を背景にユニット・レーバー・コスト(ULC)の寄与が高まり、UPとULCがバランスよく伸びる姿に近付き、物価上昇が輸入物価要因だけでなく国内要因による上昇、いよいよホームメード化する兆しが生じています。この点、2025年春季労使交渉の賃上げ率が高水準となったことは、こうした傾向が継続する可能性を示唆します。
人手不足を背景とした供給制約――言わば「人手不足経済」への転換――のもとで、企業の賃金・価格設定行動には積極的な動きがみられており、少なくともこうした国内の動向をみる限り、私としては、「物価安定の目標」実現が目前に迫りつつある局面と捉えています。このシナリオは、4月に公表された相互関税後も大筋では変わらないと想定していますが、漸く「物価安定の目標」への動きが生じてきたなかで、このモメンタムに米国による関税政策が水を差さないか注視したいと思います。その際、関税政策のわが国経済への波及経路を考えると、次の4点でマイナスの影響が現れないかに注目する必要があると思います。具体的には、第1に、不確実性の高まりからの設備投資の下振れがあるか。第2に、米国の関税政策に起因した世界経済の減速を背景とする輸出下振れがないか。第3に、企業収益の低下から2026年に向けた賃上げの動きが抑制されるとともに、販売価格も抑制する動きが生じないか。さらに、第4として、米国の各種政策に伴う思惑から為替円高が進行し、企業収益や輸入物価等を押し下げないか。私としては、特に、第4の米新政権の政策への期待次第で市場が大きく変動する可能性に留意したいと思っています。
3.最近の金融政策運営
次に、金融政策運営に対する考えをお話しします。本年1月には、わが国の経済・物価は、これまで示してきた見通しに概ね沿って推移し、先行き見通しが実現していく確度が高まってきていたため、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、金融緩和度合いを調整することが適切と判断し、政策金利の0.5%程度への引き上げを決定しました。
先ほど述べたように、国内要因をみる限り「物価安定の目標」実現が目前に迫りつつあるなかで、特に短期の実質金利は大幅なマイナスとなっており緩和的な金融環境は継続しています(図表8)。こうしたもと、私としては、堅調な設備投資や賃上げ、価格転嫁の継続など「前向きな企業行動」の持続性が確認されていけば、その都度、もう一段のギアシフト――金融緩和度合いの更なる調整――を進めることが引き続き必要だと考えています。
もっとも、関税政策による影響で米国経済の減速が見込まれるもと、内外の異なる景気サイクルを背景とする金融政策のスタンスの違いで、為替を中心とする金融市場に大きな変動が及ぶリスクへの注視も引き続き重要です。実際、1970年代の変動相場制への移行後、今次局面を除いた日本銀行の過去5回の利上げ局面を振り返ると、米国の利下げ後に、日本も利下げに転じていました。今後、FRBが利下げを再開する場合には、こうした観点で日本銀行の金融政策の自由度が低下する可能性も考えられます。ただし、先に述べたように米国の深刻な景気後退が想定され難いもとでは、2000年頃のITバブル崩壊後や2000年代後半の世界金融危機後とは異なり、足もとは利上げの一旦休止局面であって一定期間の様子見の後、再びギアシフトを続けていく状況だと評価しています。米国では相互関税賦課に伴いインフレ率が反転上昇する観測も根強く、利下げの可能性は低下する傾向にあるだけに、夏場にかけてのFRBの動向に注目です。
なお、米国の各種政策にかかる不確実性が引き続き高いだけに、経済の下押し圧力が強まった場合の対応だけではなく、米国の政策転換次第では機動的に利上げへ回帰する可能性も考えられるため、私としては、過度な悲観に陥ることを排し、自由度を高めた柔軟な金融政策運営が求められていると認識しています。同様に、漸く迫ってきた「物価安定の目標」実現への動きを維持すべく、企業や家計の行動が過度に悲観に振れないよう、日本銀行として緩和的な金融環境の継続でサポートしていく姿勢も必要と考えています。
また、6月会合では、市場参加者の方々のご意見も参考にさせていただいたうえで、長期国債買入れの減額計画の中間評価を行い、今後、これまでと同じ毎四半期4,000億円程度の減額を2026年1から3月まで続けることとしました(図表9)。また、その後も毎四半期2,000億円程度ずつ減額し、2027年1から3月に2兆円程度とすることとしています。こうした措置は、国債買入れの減額を行うことによる市場の正常化、市場機能の改善を意図したものです。4月の内外の債券市場変動時以降、超長期金利が大幅に上昇し、超長期ゾーンに市場分断が生じたほか、スワップスプレッドの急拡大など市場間の相関も崩れる事態が生じました(図表10)。イールドカーブ上、局所的にリスクプレミアムが高まり、直近5月の債券市場サーベイでは市場機能度が大きく低下するに至っています。以上の背景には、生保の超長期債ニーズが限界的になっているほか、市場変動を受けて業者がマーケットメイクしにくくなっているとの声も聞かれています。従って、今後、市場全体としての機能度の改善を念頭に、年限別の需給動向や流動性も踏まえたうえで、国債買入れの減額を進めていく必要があると思っています。
日本銀行の買入れ減額は、「長期金利は金融市場において形成されることが基本」としたうえで、国債買入れは「国債市場の安定に配慮するための柔軟性を確保しつつ、予見可能な形で減額していく」としています。私としては、これまでの日本銀行の国債買入れは、国債保有を増やすことで市場における国債の量を抑制する効果を持っていたと考えています。一方、買入れ減額はこれまで日本銀行が買入れていた額の一部が市場に供給され、事実上、市場における国債の量が増加することになります。この点を踏まえれば、今次局面は過去と比べて有数の市中への大量国債供給局面とも考えられます。図表11は、「ネット発行額」として、これまで発行された国債の残高前年差の推移を示します。これから、日本銀行が行ってきた国債買入れを勘案して、「市中残高」として、事実上、市場に供給される国債の前年差が示され、国債買入れ減額の影響もここに表れます。昨年から始まった買入れの減額に伴い、市中への国債供給は増加し、2025年度末で2000年代以降における国債市中残高の前年差のピークに匹敵する状況となることがわかります。そのため、国債が市場に供給されることに伴う不安定性を回避するためにも、減額幅の調整や市場の受容状況の見極めが必要と考えています。
なお、超長期ゾーンのリスクプレミアム上昇は、ボラティリティの変動がイールドカーブ全体に波及し市場機能の低下に繋がりやすいため、その結果、意図せざる金融引き締め効果が幅広く市場に伝播するリスクも生じえます。また、安定した国債市場におけるリスクフリーのイールドカーブの形成は、日本の金融インフラを支えるものでもあります。日本銀行による国債買入れの減額が財政に対する配慮ではないことは言うまでもありませんが、先ほど述べたように、事実上、市場に国債を供給する効果が生じるだけに、市場全体としての機能度の改善の観点から、当局間で十分に意見交換し、市場の安定に努めていく必要もあると考えております。この1年を振り返り、超長期ゾーンの投資ニーズの減退等、当初の想定外の市場構造変化もあっただけに、今後も、1年後に改めて中間評価を行って状況に応じた見直しも必要と考えます。
4.過去半世紀の通商摩擦と日本経済への影響の振り返り
4月展望レポートにおける成長率・物価見通しの下方修正に繋がったなど、米国による関税政策に注目が集まっています。米新政権の各種対応は、1971年のニクソン・ショックと比較されることもあります。そこで、1970年代以降の日米通商摩擦を振り返り、今回の関税政策による経済への下押し圧力について歴史的な観点から、私見を述べたいと思います。
長期でみた米国の経常収支・貿易赤字
過去半世紀における米国との通商摩擦を考えるうえで前提となるのは米国の経常収支赤字の存在です(図表12)。そもそも、1971年のニクソン・ショックは、経常赤字の継続に伴う正貨である金の流出を抑制することが背景にありました。過去半世紀余り続く、米国の経常収支赤字の主因となる貿易赤字は、1980から1990年代まで、日本と(西)ドイツが中心となっていましたが、日本が圧倒的なウエイトを占めていました(図表13、14)。米国の貿易赤字に占める日本の割合は、1991年のピークには53%にまで達し、「米国の貿易赤字問題=日米通商問題」と位置付けられる状況でした。当時、経常収支赤字の改善に為替市場を通じた調整機能が期待されており、為替調整圧力は、貿易黒字国である日本や(西)ドイツでは、円高・マルク高となりましたが、特にドル円に注目が集まりました。
図表15は、ドル円相場と日米通商摩擦の歴史です。1970年代は繊維や鉄鋼が通商摩擦の生じた主要産業でしたが、1980年代には、自動車、家電製品が中心となり、1990年代には半導体に及びました。為替市場では、1985年のプラザ合意で、貿易収支改善を企図したドル高是正に向けた通貨当局の協調介入が合意されました。さらに、1990年代の日米通商摩擦のピークとも言える1995年には、1ドル80円近い水準まで円高が進行しました。
このように、1970年代から本格化した日米通商摩擦は、そのクライマックスとバブル崩壊に伴う長期低迷とは重なる面があると捉えています。すなわち、バブル崩壊に伴う長期低迷は、2つの柱、(1)資産デフレと、(2)通商摩擦を主因とした為替円高などの外需に依存しにくい環境の継続によって生じたと考えられます。改めて振り返ると、わが国経済は、1990年代以降、バブル崩壊とともに低成長が続きました。成長率の低下には、人口動態など様々な構造要因が影響していますが、バブル崩壊以降に直面した企業の行動変化が大きいと考えています。具体的には、2つの柱とも関連する、図表16のように、大幅な資産デフレ環境のなか、バランスシート上の資産圧縮と投資抑制を通じた「持たない経営」の拡がりと、損益計算書上、通商摩擦を中心にした海外との競合環境を背景に、マージンや人件費を圧縮する「リストラ経営」の拡大が指摘できます。個々の企業の立場からみれば、以上の企業行動は環境変化を踏まえた合理的なものでしたが、マクロ的には、「合成の誤謬」で縮小均衡に陥りました。企業の「持たない経営」、「リストラ経営」は、設備投資圧縮に止まらず、人的投資の抑制も相まって、わが国の潜在成長率を長期にわたり低下させ続けたと考えられます。
バブル崩壊後の長期低迷の背景の1つ目の柱が資産デフレです。1980年代、ピーク時には世界の株式市場の時価総額の半分近くをわが国が占めました。当時、米国の貿易赤字の半分近くを日本が占めたことに加え、資産市場でのプレゼンスの高まりが、日本の経済的な脅威論として通商摩擦を先鋭化させる要因となったと言えます。その後、1990年代以降、株価は大きく下落したほか、不動産価格も低迷しました(図表17)。実質自己資本が大幅に低下することで投資の抑制や有利子負債削減が進み、バブル崩壊後の金融システムの問題に伴う資金調達への不安が、現預金を積み上げる企業行動にも繋がりました。資産デフレに陥った歴史的な事例として、1930年代の大恐慌時の欧米や1990年代初の北欧が挙げられます。これらの国々では、通貨安による外需拡大が経済の回復に寄与したと指摘されています。例えば、大恐慌時には金本位制離脱を含めた通貨下落が、1990年代初の北欧では通貨下落に加えてドイツ統合に伴う需要増加が、外需の拡大に繋がりデフレからの脱却に寄与しました。
それに対し、日本では資産デフレにもかかわらず、通商摩擦を主因に外需に依存しにくい環境が継続するという海外との厳しい競合環境――バブル崩壊後の長期低迷の2つ目の柱――が、「リストラ経営」に繋がりました。第二次世界大戦後、日本は長らく、西側陣営の工場として地政学的にも世界貿易の追い風を享受しました。もっとも、1989年のベルリンの壁崩壊以降は、ソ連の脅威が後退する点で地政学的環境に転換が生じ、それ以降、一転し日本が経済的な脅威の対象になることで通商摩擦がピークを迎えるとともに、為替市場では急速な円高が進行しました(前掲図表15)。1980年代までは日本だけでなく西ドイツも通商摩擦の対象となっていましたが、ドイツ統合に伴って対象が日本一国に集中したことも、外需に依存し難い環境構築に深刻な影響を与えたと考えられます。本邦企業は自動車など幅広い業種で海外への生産拠点のシフトが求められ、国内の産業空洞化に繋がりました。例えば、半導体産業では、通商摩擦を通じて、クオータ(割当枠)を設けるかたちで生産シェア抑制を余儀なくされ、韓国や台湾といったアジア諸国への生産拠点シフトに繋がりました1。日本が経済的な脅威であるとの認識のもと、日本のプレゼンスを抑制する一方、アジアを中心とした新興国の台頭をサポートする動きであり、2001年の中国のWTO加盟もその文脈で捉えられると思われます。すなわち、1990年代までの通商摩擦は米国の最大貿易赤字国である日本に対して、為替円高進行に加えて、直接的な輸出割当制や輸出自主規制というかたちで抑制策が行われたと整理できます。
その結果、日本企業は円高環境でも輸出価格を据え置いて価格競争力を維持し、国内では、リストラに向けた経営やマージンを圧縮しつつ賃上げには慎重にならざるを得ない状況が定着しました。そこでは、原材料価格が上昇しても販売価格に転嫁せず、コスト削減によって吸収することが長く続きノルムとして習慣化されました。その結果、サプライチェーンのトップにある輸出製造業を起点に、垂直的な企業関係を維持した幾層にもわたる関連企業に幅広く原価低減の動きが浸透するに至りました。この点、米欧企業がグローバルなサプライチェーンを活用して水平分業を果たし、企画・開発などの付加価値の高い分野に注力した一方、多くの本邦製造業は垂直統合モデルのもとで既存の製造工程の維持に注力したことも、こうした動きを一段と強めたと考えられます。従業員の賃上げよりも雇用の安定を優先し、ワークシェアリング的な賃金設定行動が定着しました。すなわち、正社員を中心とした既存の雇用をできるだけ維持しつつ、新規雇用を抑制2したほか、賃金上昇を抑える動きに繋がりました。2002年の大手製造業のベア取り止め―「ショック」とも称されます――や、同年12月の経団連による春季労使交渉の終焉宣言、2003年の連合によるベア統一要求打ち止めの宣言は、その象徴と言えます3。こうした状況からの転換はその後、2023年の大幅ベア上昇まで20年近くを要することになりました。
以上を振り返ると、本邦企業は、過去の通商摩擦、為替円高進行に伴う海外とのコスト競争を、賃金を中心としたリストラや関連企業を含めた原価低減を行うことで乗り切りましたが、その副作用として賃金や価格が上がらないノルムや就職氷河期が形成されたと評価できると思います。また、投資不足に伴う潜在成長率の低下を招いたと考えられます。
- 1986年の第一次日米半導体協定や1991年の第二次日米半導体協定では、米国から日本の半導体生産シェアを制限する数値目標が求められ、1980年代前半に世界のシェア70%を占めた半導体生産は1990年代以降、急速に低下するに至ったとの指摘があります。
- 新規雇用の抑制が1990年代から2000年代初にかけて就職市場に参入した世代の就職難や非正規雇用の拡大――就職氷河期――に繋がったとの指摘もみられます。
- 渡辺努(2024年)「物価を考える:デフレの謎、インフレの謎」を参照。ここでは、1995年に日経連が賃金を抑制するとの姿勢を示し、その後、労使が正社員の雇用を守る代わりに賃上げを抑制したとの仮説が示されています。
過去の通商摩擦からの転換・資産価格の改善
近年の状況をみると、2010年代以降、株式や不動産市場を中心に資産価格が上昇したなど、バランスシート面で「持たない経営」に繋がった資産デフレは大きく改善しました(前掲図表17)。「リストラ経営」についても、損益計算書の面で海外との競合激化に繋がった為替の過度な円高進行が解消したほか、通商摩擦を巡る環境は大きく変わりました。米国の貿易赤字に占める日本のウエイトは足もと6%まで低下しており、50%以上を占めた1990年代前半と比べ隔世の感があります(前掲図表13、14)。今日、1990年前後とは大きく異なるわが国の地政学的な立場の変化から、熊本や北海道で半導体の国内生産が強化されるなど、経済安全保障の観点から日本に生産拠点が回帰し、1990年代の通商摩擦時の言わば「封じ込め」とは全く異なる状況となっています。
一方、過去から続いてきたノルムの転換には長い時間を要しました。ノルムと化した根強い企業行動等の転換には、1つの世代を形成する10年単位(decade)と、予想以上に時間を要する可能性も示唆されます4。この点、金利低下が需給ギャップを改善させる効果の波及経路として、資金調達コストの低下を通じた経路に加え、金融資本市場(株価・為替)を通じた経路も大きな影響を与えていたことが示されています(図表18)。この結果から、日本銀行の金融緩和が、バブル崩壊後の企業行動の変化を招いた要因である資産デフレや円高も含めたいわゆる「六重苦」5からの転換に貢献した可能性が示唆されます。私としては、日本銀行が長年にわたって粘り強い緩和姿勢を続け、資産価格の改善や極端な円高からの反転を支えたことが、バブル崩壊からの歴史的な変化となるノルム転換の変曲点を迎える「下地」となったと捉えています。
- 4 以下では、株価による試算を一例に、バブル崩壊後、長期にわたる負の経験からの改善に時間を要する可能性について言及しています。
高田創(2025)、「わが国経済・物価情勢と金融政策――宮城県金融経済懇談会における挨拶要旨――」
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2025/ko250219a.htm - 5 企業が直面した「六重苦」として、円高、経済連携協定の遅れ、法人税率の高さ、労働市場の硬直性、環境規制、電力コスト高が指摘されました。詳細は、「令和3年度 年次経済財政報告―レジリエントな日本経済へ:強さと柔軟性を持つ経済社会に向けた変革の加速―」等を参照。
今回の米国の関税政策の影響の考え方
1970年代以降の半世紀にわたる通商摩擦の歴史を振り返りました。ここから、今回の米国の関税政策をどう位置付けるか私見を述べたいと思います。なお、今回の米国の関税政策は米国製造業の国内回帰を意図したものではありますが、米国のようにグローバルなサプライチェーンを活用し、水平分業モデルで高い生産性を保っているもとでは、製造業の国内回帰が賃金抑制に繋がり得ると考えられるだけに、米国が高い関税を続けることには難があるように思います6。
前掲図表1で確認したIMFなど、市場参加者を含む各機関・企業の経済見通しは、足もと、米国による関税政策を受けて引き下げられています。いずれも、現在の経済情勢は大きく悪化していなくても、経済の下押し要因が将来発生すると想定した――公共交通機関における「計画運休」のような――対応と言えます。言わば、「相互関税台風」の到来に対処して、事前に見通しの引き下げを行ったようなものです。従って、事前の想定が転換すれば、自ずと経済見通しも大きく変化し得る状況にあります。この点、各機関・企業の経済見通しでは、米新政権の公約に示された政策のうち、財政政策の詳細が不透明なこともあって、関税措置に伴う経済の下押し減速がより意識されているように思われます(図表19)。公約のなかにある減税等の財政政策や規制緩和は、将来の経済成長の押し上げに寄与し得る点は念頭に置いておく必要があります。
改めて、関税賦課の直接的な影響を需要・供給曲線で確認したいと思います。図表20左図で確認できるように、関税賦課で供給曲線が上方シフトすることで、価格上昇(P0→P1)と、販売数量減少(S0→S1)が生じます。関税負担は米国の輸入業者が負担するため、米国の消費者も関税が価格転嫁されるかたちで負担すると想定されます(図表20左図上の(1))。また、輸出側の企業は関税賦課に伴う収入減のかたちで負担が生じます(図表20左図上の(2))。ここで、関税が米国の消費者にどの程度価格転嫁されるかは、その商品の需要の価格弾力性によって左右されます。米国における必需品で、米国で代替的な生産が難しい商品の場合、需要曲線が垂直になりやすく、関税の価格転嫁が生じやすくなります。なお、今回の関税賦課では価格転嫁しない方針を示す企業も一部みられていますが、その場合は、販売数量は変化せず、図表20左図上の(3)の輸入関税支払分の大きな負担が企業に生じます。図表20右図では、輸出国側から関税賦課の影響をみていますが、左図に対応するように、価格上昇に伴う販売数量減少、すなわち需要曲線の下方シフト、需要ショックが生じ、経済にデフレ的な圧力をもたらすことになりました。整理すると、関税を賦課された輸出国側では、価格転嫁した場合には関税賦課に伴う需要減(図表20左図上の(2))が、価格転嫁しない場合には関税支払分(図表20左図上の(3))と、かなり大幅な負担が加わることとなります。
今回の米国の関税政策と、1990年代までの通商摩擦時を比べてみたいと思います。前掲図表14のように米国の貿易赤字の圧倒的なプレゼンスを日本が占めていたもと、ここまで確認したように、為替円高進行に加えて、直接的な輸出割当制や輸出自主規制といった米国側の対応がとられました。このことは、関税賦課ではないものの、当時、日本だけ競争環境が悪化――前掲図表20左図、供給曲線が上方シフト――した状況にあったと捉えられます。その結果、日本企業は米国市場での他国との競争条件を保つ観点から、為替円高のもとでも現地のドル建て価格を据え置くかたちで価格転嫁を避け、図表20左図上の(3)を負担するまでの深刻な影響が生じました。日本企業はその負担に対して、「リストラ経営」でコスト圧縮を行い、その過程で賃金が圧縮され、同時に、マージンも圧縮されました。実際、日本企業のマークアップが他国と比べても大幅に抑制された状況が長期にわたって生じたとの研究結果が示されています7。
他方、今回の米国の関税政策は、1990年代までの通商摩擦時と異なり、日本を含む各国・地域が幅広く対象となっており、日本だけに影響が及ぶわけではありません。しかも、その後約30年にわたる日本の産業高度化のなかで、自動車や半導体や鉄鋼・化学等の素材産業にしても、米国で代替的な生産が少ない品目のウエイトが高まっている面もあり、価格弾力性が低下している可能性があります。従って、今回の関税賦課については、過去よりは価格転嫁可能と考えられ、需要減少に伴う影響は免れないものの、その程度は1990年代を超えるものにはなり難いと考えられます。加えて、減税等の財政政策が打ち出される場合、その詳細によっては、資産価格の改善による影響なども相まって、図表21のように米国の消費者の購買力の拡大で需要曲線が上昇シフトすることで販売数量が回復する(S1→S0)場合もありえます。このように、特に本邦企業収益への影響が、少なくとも1990年前後の通商摩擦時と比べて限られるもと、従来のような賃金抑制といった縮小均衡的な企業行動には繋がり難い可能性が考えられます。
加えて、企業財務の改善で、海外発のショックへの耐性があることも指摘したいと思います。前掲図表16に沿って確認すると、バランスシートに関しては、資産価格が改善していることに加え、債務の圧縮が進み、バブル崩壊以降、企業は過剰であった有利子負債を削減――受取利息が支払利息を上回る利払い負担の低下といった財務の改善や自己資本比率の上昇(図表22)――してきました。損益計算書に関しては、図表23のとおり、企業収益は1990年代後半から直近2023年度で8倍以上に拡大し、80兆円程度と過去最大の水準、2024年度も一層の拡大が見込まれます。これだけの企業収益水準が続くことは2000年代に生じた経済回復局面とも異なる点であり、企業価値底上げの背景になっています。日本企業は30年以上にわたって通商摩擦に伴う厳しい外部環境に耐え抜くべく、相当な円高でも耐え抜くべく損益分岐点を引き下げ、ショックへの耐久度を増してきたと考えることも可能です。日本は稀な、通商摩擦への対応をしてきた先進国――「通商摩擦対応先進国」――と言えると思います。
- 6 関税政策による貿易赤字縮小も企図されているが、主流派経済学では、恒常的な経常赤字の解消――対外不均衡の是正――については、市場メカニズムを通じて緩やかに実現されるべきと考えられており、政策介入や通貨の信認を損ねる行為は円滑な解消プロセスを阻害すると指摘されています。小宮隆太郎「現代日本経済」(1988年)では、米国の経常赤字は米国のマクロバランス、過小貯蓄によるもので、一国の為替調整での効果は限定されると指摘しています。
- 7 青木浩介、法眼吉彦、伊藤洋二郎、金井健司、高富康介(2024)「わが国企業における価格マークアップの決定要因と生産性への含意」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズ、No.24-J-11を参照。
通商摩擦を振り返ったまとめー「通商摩擦対応先進国」
前段で述べたように、一段のギアシフトには「前向きな企業行動」の持続性がポイントであり、米国の関税政策による影響で、企業行動がバブル崩壊後の「持たない経営」と「リストラ経営」に再び戻らないかの確認が必要です。図表24の企業収益の拡大が経済全体へと巡る概念図をご覧ください。企業努力に加え、海外との競合の改善等を背景に、マクロの観点で企業収益は大きく拡大しました。一方、ミクロの面では企業収益の使途となる賃金や取引先への価格転嫁は、賃金や物価は上がらないと考えるノルムのもとで限定され、多くが配当や海外投資に回ってしまい、国内での設備投資も限られてきました。こうした状況は2023年以降、いくつかの取り組みで改善し家計や中小・地方企業への均霑に繋がり、好循環が実現することへの期待が生じています。米国の関税政策を受けて、こうした改善が途切れないか丁寧に確認していきたいと考えています。
改めて過去半世紀の通商摩擦を振り返ると、1990年代以降のバブル崩壊、海外との競合環境といった歴史的にも未曽有の状況で実体経済が下押しされてきたもと、30年以上にわたって企業は自らバランスシートの圧縮とリストラでショックへの耐久度を高めてきた歴史と捉えています。ただし、その副作用として、長期にわたる投資不足等に伴う縮小均衡、賃金・物価ともに動かないというノルムに至ったとも考えられます。世界に先駆けて導入してきた非伝統的金融政策に加えて、過去数年のビッグ・プッシュによって、こうしたノルムから漸く抜け出す状況になったものの、今回の米国の関税政策によって、改善が途切れる不安も存在します。実際に、2000年前後や2000年代半ばの回復局面では、結果として、海外発の需要ショックで「偽りの夜明け――経済の一時的な回復――」8が繰り返されました。私としては、今回の局面は「真の夜明け」9を期待しており、「これまでとは違って(This time is different)」、本当に実現していくか、注視していく所存です。
一方で、過去半世紀の通商摩擦を振り返って確認できたように、日本は、現在を大幅に上回るストレス状況を耐え抜いてきた「通商摩擦対応先進国」でもあります。バブル崩壊後30年にわたる企業の財務内容の改善など、過去とは異なる面も冷静に受け止める必要があり、過度に悲観に陥ることも大きなリスクと考えています。繰り返しになりますが、私としては、金融政策運営については、当面は緩和的な金融環境の継続でサポートしつつも、非伝統的金融政策から平時の状況に戻る局面に漸く到達した、「真の夜明け」が視野に入ったとの基本的認識を持ったうえで、今後、米国の関税政策の動向やその日本経済への影響を丹念に見極め、慎重ながらも段階的にギアシフトを行っていく必要があると考えています。
- 8 白川方明(2009)、「経済・金融危機からの脱却:教訓と政策対応――ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳――」。
https://www2.boj.or.jp/archive/announcements/press/koen_2009/ko0904c.htm - 9 中曽宏(2017)、「日本経済の底力と構造改革――ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの共催講演会における講演の邦訳」。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2017/ko171005a.htm
5.三重県経済について
最後に、三重県経済についてお話しさせて頂きます。三重県経済は、多様な産業が集積し、歴史文化や自然などの観光資源が豊富であることが特徴として挙げられます。三重県では、こうした特徴を生かしつつ、人口減少やそれに伴う人手不足、気候変動問題、観光振興等の課題への対応が産官学の連携により進められています。
例えば、人手不足への対応では、リスキリング環境の整備やその支援、県内企業と若者のマッチング促進、外国人材受入・多文化共生の推進等の取り組みがみられています。全国有数の半導体産業のさらなる振興においても、人材の育成・確保のため、「みえ半導体ネットワーク」が設立され、企業・大学等の関係強化を通じた高度専門人材の育成や共同研究の推進等が実施されています。また、人口減少がみられるもと、地域の活力を維持するためには、中小企業等の担い手確保も必要となります。当県では、「三重県事業承継ネットワーク」による取り組みがすでに後継者の確保等で成果を挙げており、金融機関も含む関係機関が一丸となった今後の支援により事業承継がさらに前進することを期待しています。
気候変動問題については、カーボンニュートラルの実現に向けた企業等の積極的な取り組みを促し、産業振興や地域経済の活性化につなげる「ゼロエミッションみえ」プロジェクトのもと、自動車分野のEV化・サプライチェーン再編等への対応や再生可能エネルギーの導入・利用促進等が行われています。
観光振興に向けては、人手不足への対応に加えて、外国人延べ宿泊者数のコロナ禍からの回復余地が他地域に比べ大きいことを踏まえ、インバウンド誘客に向けた施策も進められています。具体的には、DX化の推進支援や観光産業に特化した合同就職説明会の開催のほか、インバウンドの受入環境充実や大阪・関西万博の機会を捉えた万博会場・関西国際空港での広報、産業観光の推進等、様々な取り組みが行われています。
取り巻く環境に様々な変化がみられる中でも、自然豊かで風光明媚な「美(うま)し国(くに)」としての強みや高度な産業集積に一段と磨きをかける皆様のこうした取り組みにより、三重県経済がさらなる発展を遂げることを祈念いたしまして、結びの言葉とさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。