【挨拶】最近の金融経済情勢と金融政策運営道東地域金融経済懇談会における挨拶
日本銀行副総裁 氷見野 良三
2025年9月2日
1.はじめに
みなさま、本日はお忙しい中ありがとうございます。日ごろから日本銀行、また釧路支店や帯広事務所にご支援ご協力をいただき、感謝申し上げます。
2.経済と物価の見通し
さて、まず、わが国の経済と物価の見通しについて申し上げたいと思いますが、それを大きく左右しかねないのが米国の新政権の考え方です。
米国新政権の思想と政策
これについては、政権発足後8か月を経て、分かるようになったことも増えてきたように思いますが、予想を超えるようなニュースも日々続いており、分からないことも増え続けているような気がします。
そのうえで、分からないながらも現時点での個人的な感想を申し上げますと、新政権の考え方の大きな特徴としては、第一に、政治と経済と文化、内政と外交を、垣根なく一体的にとらえていること、第二に、状況に応じて方法を変えるとか、一旦退却してから再度前進するといった「戦術」のレベルでは極めて柔軟だが、最終的に何を達成しようとするのか、といった「戦略」のレベルでは頑強であること、第三に、昔からの通説や定石だけで物事を考えずに、力の所在と源泉に関する事実に立ち返って様々な可能性を追求すること、の三つが挙げられるのではないかと思います。
例えば、通商政策について我々が教科書でまず習うのは、自由貿易体制をなぜ守っていかなければならないか、という理由です。「比較優位の原則に基づき、各国が最も得意な分野に特化して生産を行い、国際的な分業を進めることで、経済全体の効率性と成長を高めることができ、それは、全ての国にとってメリットをもたらす。だから、世界全体で力を合わせてポジティブ・サム・ゲームを追求していこう」というワシントン・コンセンサス的な考え方で、私もこの考え方には多くの真実が含まれていると思います。
他方、これで物事のすべての側面を捉えきれているかというと、必ずしもそうとは限りません。超大国の場合には、自らの対応によって輸入価格を左右できるほどの市場規模があり、しかも、貿易相手国の対抗関税を抑止できるだけの影響力もあるので、いわゆる最適関税理論によれば、関税をゼロにするより一定の関税を課す方が交易条件が改善して有利になる、といわれます1。また、現在の地政学的な状況に鑑みれば、自国の戦略的自律性と戦略的不可欠性の確保を目指す経済安全保障の考え方の重要性は増大していかざるを得ません。さらに、「最も効率的な経済体制が公正や分配の面で必ずしも理想的な結果をもたらすとは限らず、しかも政府の再分配機能には限界がある」という議論も、社会的・経済的な分断が深まるにつれ、重みを増します。
すなわち、関税だけをとってみても、交易条件という経済的な面、経済安全保障という外交的な面、公正や分配を巡る政治的な面がないまぜになっているような気がします。「知的エスタブリッシュメントは、極端に格差が拡大するような新自由主義的な経済体制を、経済効率を根拠に弁護してきたのではないか」という批判も含まれているとすれば、彼らに対する文化闘争の面すらあるかもしれません。関税は経済・外交・政治・文化を横断した大きな運動の一つの表れと捉えることができるのではないかと思います。
ですので、米国の新政権の政策の影響を関税の問題だけに限って論じるのでは話を矮小化し過ぎであり、わが国の経済や物価の中長期的な展望を語るためにはもっと広い視点の議論が必要だと思います。ただ、それでは私の能力を超えてしまいますので、以下では関税政策の当面の影響に絞って議論させていただければと思います。
- Nicholas Kaldor, "A Note on Tariffs and the Terms of Trade," Economica 7, no.28, (1940):377-80
関税政策の影響
といっても、米国の関税政策がわが国の経済や物価にどのような経路でどの程度影響するかを見極めるだけでも容易ではありません。
第一に考えられる経路は、米国が日本からの輸入品に関税をかけると、日本から米国への輸出がしにくくなる、という直接的な経路です。今まで通りの価格で輸出すれば、米国市場では関税分の値上げをしなければならないので、売れ行きが減ってしまいます。といって、米国内での値上げを避けようとすれば、輸出価格を下げなければならず、それでは輸出企業の側の収益は減ってしまいます。
ただ、輸出側では、関税引き上げの前の駆け込み輸出で売れ行きが一旦増える場合がありますし、また、輸入側では、これまでの在庫を活用して、当面は国内の販売価格を維持する、という場合もありえます。そうすると、関税の影響がでるまでに時間がかかることになります。
さらに、不確実性は影響が出るタイミングの問題に限られません。例えば、輸出しているのが必需品で、しかもわが国企業の主な競争相手となっている国からの輸出にも同じように関税がかけられる、というような場合には、関税分を転嫁しても売れ行きはあまり落ちないかもしれません。
なお、日本企業を全体としてみると、2021年以降の円安の過程では、ドル建ての輸出価格をおおむね維持したので、円建ての輸出価格は上昇する形となりました(図表1)。個別の企業ごとに事情はさまざまだろうと思いますが、日本企業全体としては極端な円高に苦しんでいた時期に比べれば価格設定に当たっての自由度は大きくなっているかもしれません。
第二に考えられるのは、不確実性の影響で経済活動が抑制される経路です。例えば、幅広い品目に対して課せられる「相互関税」の税率についての米国政府の方針は、日本に対しては、0%から24%、10%、25%、15%と変化してきました。また、日本企業の競争相手でもあり生産拠点でもある中国や東南アジアの国々に対する税率も、大きく変動してきました。そうすると、どこで生産するか、いつ輸出するか、設備投資をどこでどれだけ行うのか、判断が極めて難しくなります。
政府の努力により日米間の交渉が合意に至ったことは大きな前進であり、日本経済にとって先行きの不確実性の低下につながると思います。ただ、依然交渉中の国もありますし、品目別関税の扱いについても不確定な部分があります。通商政策が経済にどう波及するかについての不確実性もあります。世界経済にとっての不確実性は引き続き高いといっていいのではないかと思います。
第三に考えられるのは、世界経済、特に米国経済が下押しされ、その結果、日本から世界、特に米国への輸出がしにくくなる、という経路です。例えば、米国経済については、関税によって輸入物価が上昇すれば、物価が上押しされて消費が抑制されるかもしれません。また、不確実性の高まりは経済活動を困難にします。
実際、例えばIMFは、世界経済の今年の成長率見通しを、関税政策以前の見通しよりも0.3パーセントポイント切り下げており、しかもリスクは下方向の方が大きいとしています。特に、米国経済については0.8パーセントポイント切り下げています(図表2)。
ただ、米国の本年4から6月の成長率は予想を上回るものでした(図表3左)。また、これまでのところ、米国の消費者物価には関税政策の影響はあまり顕在化していないように見えます(図表3中)。もっとも、関税収入は増加していますし、米国内の生産者同士の取引価格も上昇していますので、今後、輸出側の値上げ、輸入側の在庫の入れ替わり、様々な段階での価格転嫁が進めば、影響は顕在化するはずだ、という見方が多いようです。
また、関税を巡る不確実性が家計・企業のセンチメントや雇用に影響し始めている、ともいわれています(図表3右)。消費者物価への影響が顕在化すれば、消費への影響はさらに大きくなる、とみる人もいます。移民政策の変化の影響も論じられています。
他方、米国が最適関税理論に沿った水準の関税を賦課して関税収入を減税に回すのであれば、米国経済に対するネットの効果はプラスかもしれない、という意見もあります。AI革命、規制緩和、環境政策の見直し、エネルギー価格の下落などの効果が出てくる、という論者もいます。
米国経済の先行きは、よくみていく必要のある点の一つです。
第四に考えられるのは、金融資本市場の不安定化を通じた経路です。4月はじめにはボラティリティが拡大する局面がありました。現在では市場のセンチメントも概ね4月より前の状況に戻っているようですが、市場の動向は引き続きよくモニタリングしていく必要があるだろうと思います。
想定される4つの主な経路と、それらの経路を通じた影響が思ったより大きくなる可能性と小さくなる可能性とについて申し上げてきました。では、これらの経路を通じた影響は、日本の側にはどのように表れているでしょうか。
日本から米国への自動車の輸出価格は大きく下落しましたし、日本銀行が行っている企業へのアンケート調査「短観」でも、一部の業種では業況や収益見通しの悪化が見られます。企業へのヒアリングを行うと、今後についての不安を口にされる経営者は少なくありません。
ただ、経済全体としてみれば、現地通貨建ての輸出価格は横ばい、輸出数量は駆け込みとその反動があるので評価しにくいですが、史上最高に近い水準で概ね横ばい、鉱工業生産も横ばいです。企業の業況感や収益計画・設備投資計画の水準は引き続き高く(図表4)、本年度分の賃上げや夏のボーナスには顕著な影響は見られていません。個人消費も底堅く推移しています。
関税政策の影響がこれまでのところ思ったほどには顕在化していないことについては、影響が出るまでに時間がかかっているだけであり、影響はこれから及んでくる、というのが基本的な見方だろうと思います。
ただ、既に述べたような理由で、そもそも関税政策の影響が思ったほどは大きくない可能性も考えられます。他方、思ったより大きい可能性も、米国新政権から我々が想定していないような政策が新たに打ち出される可能性も考えられます。いずれも頭の隅にはおいておいた方がよいのではないかと思います。
いろいろ申し上げましたが、今後についてのメイン・シナリオとしては、各国の通商政策の影響はいずれ顕在化し、海外経済が減速、わが国の企業の収益も下押しされるだろうと見ています。その場合、緩和的な金融環境などが下支え要因として作用するものの、日本経済の成長ペースは鈍化するものと考えられます。ただ、影響が思ったより小さくなる可能性も、大きくなる可能性も、両方考えられるところで、当面は大きくなる可能性の方により注意が必要ではないかと考えています。その後については、海外経済が緩やかな成長経路に復していくもとで、日本経済も成長率を高めていくと見込んでいます。
物価の見通し
さて、次は物価についてです。現時点でメイン・シナリオと考えているのは、「現実のインフレ率はお米の値上がりとその波及を主因に物価安定目標の2%を大きく上回っているが、いずれ落ち着いていく。他方、基調的なインフレ率は2%より低いが、賃金と物価の相互参照のメカニズムが働いて2%にかなり近づきつつあり、足踏みはあっても、いずれ2%に達する」といったものです。
こうした「基調的なインフレ率はまだ2%を下回っている」という見方については、現実のインフレ率が既に3年余りの間2%を上回っており、しかも3%を上回る期間が多くなっていることから、分かりにくいといったご意見や、その適切性についてのご疑問をいただくことが少なくありません。
基調的なインフレ率というのは、一時的な変動を除いたインフレ率のことです。一時的なショックの影響がなくなった後の落ち着き先のインフレ率、ということもできます。
直近の消費者物価の統計に即して申し上げますと(図表5)、7月の消費者物価上昇率は3.1%と、2%を大きく上回っています。これは、ガソリン補助金などによる引き下げ効果があった上での数字ですが、そうした効果は、上昇率の面では一時的な変動と考えることができます。他方、この3.1%という消費者物価上昇率には、食料価格の上昇が2.1パーセントポイント寄与しています。これについても、米価格の急上昇が起点となって起きた一時的な変動の面がかなりある、とみることができます。こうした上下の要因を除いて基調をみるために、例えば食料とエネルギーを除いた品目の上昇率でみると、1.6%であり、まだ2%には達していません。
実際には、何が一時的で何が基調的な変化か、何を除いて何を含めて考えたらよいか、の判断は簡単ではありません。そのため、日本銀行では、変動の大きな品目を除いて考える、というやり方のほかに、経済構造をモデル化して基調を推計する方法や、家計や企業や市場参加者などが中長期的なインフレ率についてどのような予想を持っているかを計測する方法など、さまざまな手法を用いて分析を行っています。
そうした分析を総合すると、「基調的なインフレ率は2010年代には0%と1%の間あたりにあったと思われるが、最近では2%にかなり近づいてきている。ただ、2%に達しているとまではまだ言えないのではないか」といった結果になっています。
そこで、「現実のインフレ率は高いが、一時的な要因の影響が収まるにつれ、いずれ落ち着いていく」というシナリオをメインに置いているわけです。
振り返ってみますと、2021年からは原油や小麦などの国際商品市況、次いで円安の進行を要因として輸入物価の上昇が起こりました。2023年以降は、輸入物価指数は下落に転じたものの、今度は国内の生鮮食品、次いで米、と、新たな供給ショックが物価を引き上げてきました。
2021年以降を通してみれば、一時的な要因は次々に消えていくものの、次々に新しい要因が登場するというパターンになっているわけです。
しかし、これについては、上向きの一時要因が続いているのはたまたまにすぎず、次は下向きのショックが来るかもしれない、いや、米国関税政策という形ですでに来ている、という風に考えることができます。
他方、あえて別の見方を考えてみますと、二つぐらい挙げられるかと思います。
第一は、日本の国内事情に関するもので、「デフレ・ノルムの時代には、一時的な物価下押し要因の効き目が大きかったが、最近は、輸入物価の下落などの下押し要因が生じても影響に広がりはみられず、逆に、一時的な物価上押し要因が大きく効くようになってきている。これは、人手不足、価格設定や転嫁に関する企業や消費者の考え方の変化、インフレ予想の上昇などが下地にあるからだ。」という仮説です。
今、下地として申し上げた三つのうち、人手不足の影響について見てみたいと思います。
経済の供給力と需要との関係を示す「需給ギャップ」は、ゼロ近傍、すなわち、供給力と需要はおおむね見合っている、と推計されています。しかし、「短観」への回答をみると、生産設備の余裕はあまりなく、人手は大変に不足している、という結果になっています(図表6左)。
しかも、業種ごとに、生産設備と人手がどれだけ代替的かを推計すると、宿泊・飲食サービスなど非製造業業種を中心に代替性が低い業種がかなりあるという結果になりました(図表6右)2。人手不足を設備の拡充で補うことに限界がある場合もあるようなのです。
経済がタイトになるとインフレ率が上昇する、という関係を示したグラフを「フィリップス・カーブ」と呼びます。経済のタイトさを示す際には需給ギャップを横軸にとることが多いのですが、人手不足とインフレの関係をみるために、元祖のフィリップスさんの1958年の論文3に倣って、失業率を横軸にしたものも描いてみました(図表7)。需給ギャップで描くよりは関係が見やすいようにも見えます。また、足もとでは勾配のきついゾーンに入っているようにも見えます。
こうしたことからすれば、マクロ的な需給ギャップの推計値が示唆する以上に、賃金や物価には上昇圧力がかかりやすくなっているとも考えられます。
もっとも、一時的な変動の背景に基調的な動きがあるのかどうかを見極めることは極めて難しいです。経済の変化はいきなり基調的な姿をとって表れてくるわけではなく、まず個別の、特殊な、いわゆるウィーク・リンク的なところの奇妙な動きとして表れてきます。しかし、そうした動きが本当に一時的なものに過ぎない場合もしばしばあり、それを基調的な動きの表れと誤認すると、政策は無用にブレてしまいます。
物価を上押しするような一時的な要因の継続に関する第二の解釈としては、グローバルな環境が、2010年代までのデフレ的なものから、2020年代にはインフレ的なものに変わってきているためだ、という見方が考えられます。これも、「地政学的な理由からグローバル化の巻き戻しが始まっており、国際分業によるコスト最小化が行いにくくなっているから」とか、「人口動態の変化により世界全体が人手不足の時代に入っているから」とか、「気候変動及びその対策のコストが増加しているから」とか、いろいろな議論があります4。
もっとも、これらの議論はかなり長い時間軸での話であり、それをどの程度足もとの情勢判断と結びつけてよいのかの見極めはやはり難しいです。
以上のような議論は、いずれも上振れ方向のリスクを示すものですが、他方、下振れ方向のリスクも考えられるところです。
まず、各国通商政策を起点として、先ほど申し上げたような経路で日本経済の下押しが始まれば、それが日本の物価や賃金にも下押し方向に効きます。輸出企業が「関税分は輸出価格を引き下げたい」と考え、仮にそれをきっかけにコスト削減を優先する傾向が復活するようなことになれば、賃金と物価が相互に参照しながら緩やかに上昇するメカニズムが停滞する可能性もあります。
また、世界経済が停滞すれば、原油をはじめとした国際商品相場には下押し方向に効きます。更に、既に過剰生産能力を抱えた国もある中で、米国という輸出先を失った国々が、日本を含めた他の輸出先での売り上げ拡大を狙って輸出価格の引き下げを行うならば、これも物価への下押し圧力となります。
これまでのところ、こうした経路では目立った影響は観察できませんが、いずれ顕在化する可能性も否定できません。
以上をまとめますと、メイン・シナリオとしては、このところの米などの食料品価格上昇の影響はいずれ減衰して、現実のインフレ率は下がっていくと見込んでいます。基調的なインフレ率については2%に向かって徐々に上昇しつつあり、関税による経済下押しの影響を受けて足踏みがあったとしても、いずれ物価安定の目標である2%と概ね整合的な水準で推移するようになるのではないか、と見ています。ただ、既に述べましたように、このシナリオについても、上下双方向のリスクが考えられるところです(図表8)。
- 2 日本銀行「経済・物価情勢の展望」2025年1月のBOX2「資本と労働の代替性と労働の供給制約」
- 3 A. W. Phillips, "The Relation between Unemployment and the Rate of Change of Money Wage Rates in the United Kingdom, 1861-1957," Economica 25, no. 100 (1958):283-299. なお、オリジナルのフィリップス・カーブは縦軸に賃金上昇率をとっている。
- 4 例えばCharles Goodhart and Manoj Pradhan, The Great Demographic Reversal: Ageing Societies, Waning Inequality, and an Inflation Revival, (Palgrave Macmillan, 2020)。
3.日本銀行の金融政策運営
日本の経済と物価に関する以上のような「メイン・シナリオ」と「上下双方向のリスク」を踏まえ、当面の金融政策運営についてはどのように考えていけばよいでしょうか。
当面の金融政策運営
経済や物価への影響が大きいのは、名目金利からインフレ率についての見通しを差し引いた実質金利ですが、これは、これまで3回政策金利を引き上げてきたにもかかわらず、インフレ率が上振れしてきたこともあり、依然きわめて低い水準にあります。
このため、これまでご説明したような経済・物価のメイン・シナリオが実現していくとすれば、経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していくことが適切だろうと考えています(図表9)。
ただ、既に申し上げた通り、経済も物価も様々な要因から上下双方向のリスクが考えられます。メイン・シナリオが本当に実現していくかどうかについては、予断を持たずにみていきたいと思います。
先日、私どもの金融研究所が主催している国際コンファレンスに、ニューヨーク連銀のウィリアムズ総裁が参加されました。この方は高名な研究者でもあり、「不確実性の下での金融政策」を研究テーマの一つとしてこられました。せっかくの機会なので、「こういう不確実性の高い環境では、どういう作戦で金融政策を運営していったらいいと思うか」と尋ねてみました。
ウィリアムズ総裁のお返事は、私の理解したところでは、だいたい以下のようなことだったと思います。すなわち、金融政策はいつだって不確実性に直面してきた。不確実性が高いからゆっくり進めたらいいとか、迅速に進めたらいいとか、小刻みにやった方がいいとか、大きなステップを取った方がいいとか、そんなことはいえない。ただ、特定のシナリオを前提に厳密な最適解を求めようとするのではなく、むしろいろんなシナリオを想定してもちゃんと機能するような作戦を見つけるようにした方がいい。――こんな感じのお返事ではなかったかと思います5。
私たちの前からリスクや不確実性がなくなることはありませんので、上方向のリスクと下方向のリスクのバランスを評価して、メイン・シナリオから離れた時にもあまり困ったことにならないよう、適時適切に対応してまいりたいと思います。
- 5 ウィリアムズ総裁の実際の発言は金融研究所のYouTubeチャンネルに掲載した動画(https://www.youtube.com/watch?v=1XLWWSoB_Ok)の冒頭部分でご覧いただけます。
国債買入れの減額計画
さて、日本銀行は、2010年代以降、金融緩和の手段として大規模な長期国債の買入れを行ってまいりましたが、昨年3月には、今後は国債買入れではなく、「短期金利の操作を主たる政策手段として金融政策を運営する」旨決定いたしました。
さらに、昨年7月には毎月の買入れ額を当時の月間6兆円程度から徐々に減らし、来年の春に3兆円程度にする計画を公表しました。今年の6月にはこの計画の中間評価を行いましたが、再来年の春までさらに1年間をかけて、月間2兆円程度にまで買入れのペースを落とす計画としました(図表10)。
日本銀行が保有する国債には、毎月満期を迎えて償還される部分もありますので、こうした計画に沿って買入れ額を減らしていくと、日本銀行の持っている残高も徐々に減っていくことになります。
中央銀行のバランスシートは、資産・負債の両面から経済の諸側面に影響を及ぼし得るものですので、国債買入れの減額の問題も、様々な視点からみることができます。以下では、昨年3月や7月、本年6月の決定に参加するにあたって、私なりに考えたことのうちいくつかを紹介させていただければと思います。それぞれの政策委員ごとに視点がありますので、あくまでも私個人の考え方です。
第一に、物価への直接的な影響という視点があります。日本銀行の負債の規模は、日本銀行券の発行残高と金融機関から日本銀行への預け金との合計に概ね一致します。これをマネタリー・ベースと呼びます。日本銀行が国債保有を減らしてバランスシートの資産サイドを小さくすると、バランスシートの負債サイドであるマネタリー・ベースも小さくなります。
米国がインフレに苦しんだ1970年代末に一世を風靡したマネタリストの考え方では、このマネタリー・ベースが増減すれば、民間金融機関が受け入れる総預金額であるマネー・ストックが増減し、それが物価を左右する、とされていました。
しかし、この三者の間に安定的な関係がないらしいことは、FRBがマネタリー・ターゲットを採用して間もなく明らかになる、という展開となりました。
ただ、国際決済銀行のボリオらは、32か国の70年間にわたるデータを分析し、インフレ率が5%以下の低インフレ・レジームにある間はマネー・ストックとインフレの間に関係は見られないが、高インフレ・レジームになると急に関係が高まる、と論じています6。ボリオら自身、だからといって単純に因果関係を結論付けるべきではないと述べていますが、物価が安定していた時期の先進国だけの経験をもとに、過大な水準のマネーを不必要に放置しておくことにはリスクもあるのではないかと思います。
第二に、経済活動への影響の視点があります。日本銀行の保有国債の規模は、いわゆるストック効果を通じて長期金利の水準に影響を与えます。他方、私どもの分析では、実体経済に与える影響は短期金利が中期・長期に比べてはるかに大きく、超長期の金利の影響はごくわずかである、という結果になっています7。したがって、短期の政策金利を上下に操作できる状況においては、緩和や引き締めは政策金利の操作を主な手段とすれば足り、国債の購入額を緩和や引き締めの手段として位置付ける必要はない、と考えます。
第三に、市場機能の回復の視点があります。私どもが昨年末に公表した「多角的レビュー」の分析では、(1)日本銀行の銘柄ごとの国債保有比率が5割を超えると、国債市場において売り手が求めるレートと買い手が求めるレートの格差が非線形的に拡大していく、(2)7割を超えると、日本銀行による買入れ額の増額は、市場の取引高をむしろ減少させる方向に作用する、という結果になっています(図表11左、中)。現在、日本銀行の国債保有比率はかなりの銘柄でこうした水準を超えています(図表11右)。
ですので、市場機能回復の観点からは保有比率を引き下げることが望ましいですし、日本銀行の新規購入が少ないほど保有比率引き下げのスピードは速くなります。ただ、スピードを優先した結果、長期金利が急激に上昇し、臨時に買入れ額の増額や指値オペ、共通担保資金供給オペなどを実施することになれば、市場機能には却ってマイナスとなります。FRBが2019年に市場の混乱を受けてバランスシートの縮小を一旦停止せざるを得なくなった経験にもかんがみれば、「市場機能の回復」と「市場の安定」のバランスをとった減額スピードが適切ではないかと考えます。
第四に、銀行システムの機能と安定性への影響です。日本銀行が市場から国債を購入すると、その代金は金融機関が日本銀行に対して持つ預け金の形で支払われます。こうやって一旦日銀預け金が供給されてしまうと、保有主体は移り変わっても、銀行システム全体としての日銀預け金保有高は金融機関側の意思では変えられません。現在、日銀預け金が金融機関の資産の部の5分の1程度を占めていますが、全体としてはおそらく金融機関が必要とする水準をかなり上回っているのではないかと思います。
他方、金融機関は流動性管理のために一定の日銀預け金を必要としていますので、FRBがしばしば強調するように、日銀預け金の供給を過剰に減らすと金融システム・金融市場の安定にマイナスに働く可能性もあります。ストックはフローよりゆっくり動くので、残高ベースで日本銀行がこの問題に直面するのはまだ先だと思いますが、適切な残高と整合的な月間購入額の定常的な水準がどの程度なのか、という問題は、考えながら進めていく必要があるだろうと思います。
第五に日本銀行の財務との関係があります。日本銀行の財務についての考慮が政策判断の主要因となるべきではありませんが、バランスシートが大きくなればなるほど財務の変動は激しくなります。現状のバランスシートでも債務超過に陥る可能性が大きいとは思いませんし、また、仮にそうなっても直接政策遂行に問題が生じるわけではありませんが、日本銀行に対する信認の低下につながり得るリスクを抑制する観点からは、バランスシート規模は縮小していくことが望ましいと考えます。
国債の購入額については、以上のような諸視点を踏まえながら、「長期金利は市場で形成されるべきものだ」という基本に立脚して、国債市場の安定に配慮するための柔軟性を確保しながら、予見可能な形で減額していくことが適切だと思います。
なお、日本銀行のバランスシート上の資産としては、ETFやJ-REITもあります。これらについては、国債とは異なり、昨年3月に新規の買入れを終了する旨決定しています。他方、これらは国債とは異なり満期のない商品ですので、そのままでは残高は減少しません。
以前日本銀行はこれらに加え、金融システムの安定確保のために金融機関から買入れた株式も保有していましたが、これについては、市場に極力影響を与えないよう時間をかけて処分を進め、今年の7月に無事処分を終了しました。ETFやJ-REITの処分の仕方についても、株式処分の過程で得られた知見も生かして、検討していきたいと考えております。
- 6 Claudio Borio, Boris Hofmann, and Egon Zakrajsek, "Does Money Growth Help Explain the Recent Inflation Surge?," BIS Bulletin, no. 67, 26 January 2023.
- 7 日本銀行「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」2016年9月
4.道東の経済について
最後に、道東の経済について一言申し上げます。
道東の皆様は、根室、釧路、十勝といった地域ごとの特性を活かしながら経済を発展させてこられました。現在も様々な新しい取り組みを進めておられると承知しております(図表12)。
例えば、農業では自走式の農機の活用などのDXが、漁業では海面養殖や陸上養殖の実験が進められています。アジア初の民間に開かれた宇宙港では、再使用型ロケットの離着陸が実現しました。温泉街の面的再生、大型船が入港できるような港湾整備、市街地の再開発構想など、皆様の努力の一部を挙げさせていただきましたが、これ以外にも様々な取り組みを進めておられると承知しております。
また、日本最大の国立公園である日高山脈襟裳十勝国立公園の指定、全長410キロメートルにも及ぶ北海道東トレイルの開通、北海道横断自動車道の延伸なども、道東経済の後押しとなるものと思います。
道東の皆様の取り組みに敬意を表するとともに、道東経済の更なる発展を祈念するものであります。
私からの挨拶は以上といたしまして、引き続き意見交換に移らせていただきたいと思いますが、経済の実情、皆様の取り組み、日本銀行に対するご意見など、忌憚のないところをお聞かせいただければと存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。