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【講演】デフレ脱却へ向けた日本銀行の取り組み

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日本記者クラブにおける講演

日本銀行総裁 白川 方明
2012年2月17日

目次

1. はじめに

日本銀行の白川でございます。本日は、伝統ある日本記者クラブでお話しする機会を賜り、誠に光栄に存じます。この席でお話しするのはこれで3回目になります。ちなみに第1回目は2008年5月、私の総裁就任後の初めての講演でした。第2回目は2010年5月、ギリシャ危機の発生を発端に欧州債務問題が国際金融資本市場に影を投げかけ始めた時期でした。そして、今回は、日本銀行が一段の金融緩和強化措置を講じた直後であり、この最新の政策決定についてまとまったお話を申し上げる最初の機会ということになります。前々回、前回とも、皆様方から示唆に富むご意見・ご質問を多数頂戴し、私自身、考え方を整理する貴重な機会になりました。本日も、この後の意見交換を楽しみにしていますので、よろしくお願い致します。

さて、ただ今申し述べたとおり、私どもは、今週14日に金融政策決定会合を開催し、わが国経済のデフレからの脱却と物価安定のもとでの持続的な成長の実現に向けて、日本銀行の政策姿勢をより明確化するとともに、金融緩和を一段と強化するため、3つの措置を決定しました(図表1)。第1に、日本銀行の考える物価安定について、新たに「中長期的な物価安定の目途」という数値表現を採用しました。第2に、当面の金融政策運営に当たって、「消費者物価の前年比上昇率1%を目指して、それが見通せるようになるまで強力に金融緩和を推進していく」という方針を示しました。そして、第3に、一昨年秋に開始した「資産買入等の基金」による長期国債の買入れを10兆円程度増額し、基金の規模を55兆円程度から65兆円程度に拡大することとしました。

そこで、本日は、まず前半では、今回の決定の狙いや考え方をご説明します。後半では、こうした政策の目的であるデフレからの脱却という政策課題に焦点を当て、デフレの原因や、デフレ克服のために必要な対応の考え方などを申し述べることとします。わが国を含め主要国の短期金利が実質的にゼロ金利になってからは、金融政策の運営手法が、伝統的な「金利の上げ下げ」から、様々な金融資産の買入れなど「非伝統的政策」といわれる領域に拡大しているため、話がどうしてもやや専門的、技術的になる部分があるかもしれませんが、この点はご容赦頂ければと存じます。

2. 「中長期的な物価安定の目途」

物価安定の数値表現

まず初めに、「中長期的な物価安定の目途」からご説明します。これは、中長期的に持続可能な物価の安定と整合的と判断できる状態を物価上昇率の数字で示したものです。具体的には、「消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラスの領域にあると判断しており、当面は1%を目途とする」こととしました。

日本銀行の行う金融政策運営の目的は、日本銀行法上、「通貨及び金融の調節の理念」として明確に定められています。それは「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」というものです。その際の「物価の安定」とは、後ほど詳しく説明しますが、中長期的に持続可能なものでなければなりません。それでは、この「物価の安定」とはどのような状態を指すのでしょうか。概念的には、「家計や企業などが物価水準の変動に煩わされることなく、経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況」ということができますが、金融政策運営に当たっては、これを数字で表現することが必要になります。各国の中央銀行は、名称は異なりますが、物価安定の数値表現を有しています。例えば、イングランド銀行は「目標(target)」、欧州中央銀行やスイス国民銀行は「定義(definition)」、米国FRBの場合は、これまで採用していた「物価の長期的な見通し(longer-run projection)」、あるいは先般新たに導入した「長期的な目標(longer-run goal)」が、物価安定の数値表現に該当します。

「理解」、「目途」、「目標」

日本銀行も、今から6年前の2006年3月に、「中長期的な物価安定の理解」という名称で、物価安定の数値表現を導入しました。その後、何回かの表現の変遷を経て、最近では「消費者物価指数の前年比で2%以下のプラスの領域にあり、中心は1%程度」というものとなっていました。

この「理解」という表現を選択したことには、明確な理由がありました。当時は、2001年以降5年間続いた量的緩和政策を終了するという段階にあり、新しい局面における物価安定の考え方については、政策委員の見解にかなりばらつきがありました。それでも、政策委員会としておよその数値的イメージを伝える必要性は全員認識していました。この結果、物価が安定していると各委員が理解している物価上昇率を個別に提示してもらったうえで、それらを包含する範囲で数値表現を行い、これを「理解」と命名し公表するという方法をとることにしました1

しかし、各委員の見解の集合体という位置づけであったため、日本銀行としての判断がわかりにくいという声が、時が経過するにつれ、多くなってきました。また、「理解」という言葉の語感からは、物価安定の実現、現在の状況に照らしていえばデフレ脱却に向けての日本銀行の政策姿勢が読み取りにくい、といった意見も出ていました。今回、そうした様々な意見も踏まえ、新たに導入した「中長期的な物価安定の目途」について、これまでの「理解」との違いを整理しますと、第1に、今回の「目途」は「各政策委員の見解」ではなく、「日本銀行としての判断」であるということです。第2に、物価安定の領域として「消費者物価の前年比上昇率で2%以下のプラス」としたうえで、「当面は1%を目途とする」ことを明確にしました(図表2)。第3に、後で詳しく申し上げますが、実質的なゼロ金利政策などの強力な金融緩和政策の継続期間に関する約束、いわゆる時間軸政策との結びつきを強めました。

さて、ここまでご説明すると、なぜ「目標」あるいは「ターゲット」という表現を使わなかったのかというご疑問が生じるかもしれません。今回の「目途」は、中央銀行の使命と整合的な物価上昇率を数値的に示し、それを中長期的に目指していくという点では、「ターゲット」という表現を使っている国の中央銀行と、考え方そのものに大きな違いはありません。しかし、わが国では、「インフレ目標」という言葉が、一定の物価上昇率と関係づけて機械的に金融政策を運営することと同義に使われることも未だ多いように思われます。実際には、後ほど詳しく述べるように、インフレーション・ターゲティングの採用国を含め、金融政策運営は、そうした機械的な運営ではなく、中長期的にみた物価や経済の安定を重視して行われるようになっています。私どもとしては、そうした金融政策運営の実態にもっとも相応しい日本語の言葉は、「中長期的な物価安定の目途」であると判断しました。

また、日本の場合、これまで、長期間にわたって低い物価上昇率が続いてきている一方、将来は成長力強化への取り組みの成果が挙がっていけば、持続可能な物価上昇率が次第に高まっていく可能性もあります2。こうした構造変化の可能性や国際的な経済環境などを巡り、先行きの不確実性が大きいことを踏まえますと、中長期的に目指すべき物価上昇率について、固定的なイメージの強い「目標」という表現を使わずに、「目途」と位置づけて、原則として1年ごとに見直していくことが適当と考えました。

  • 1 「物価の安定」についての考え方(2006年3月10日)、金融政策決定会合議事要旨(2006年3月8、9日開催分)参照。
  • 2 政府が今年1月に公表した「経済財政の中長期試算」においては、消費者物価上昇率の試算結果について、(1)内外の経済環境について慎重な前提を置いた場合は「1%近傍(2020年度までの平均1.1%)」、(2)堅調な内外経済環境の下で、「日本再生の基本戦略」において示された施策が着実に実施され、2020年度までの平均的な成長率が2%程度まで引き上げられる場合は「2%近傍(2020年度までの平均1.7%)」という計数が示されている。

3. 時間軸政策の強化

金融緩和姿勢の明確化

次に、2番目の措置として、先ほど少し触れた時間軸政策の強化についてご説明します。時間軸政策と呼ばれる政策は、将来の金融政策運営方針を何らかの条件に結びつけて約束する手法です。短期金利がほぼゼロ%まで低下し、それ以上の引き下げ余地がなくなると、伝統的な短期金利操作に代わる方法を使って、長めの金利を含むイールドカーブ全体に働きかけることが必要になります。一般に、長期金利は、市場参加者による将来の短期金利の予想にリスク・プレミアムを乗せて形成されると考えられます。したがって、中央銀行が金融緩和政策を長期間にわたって継続すると約束し、政策金利である短期金利の低い状態が長く続くという約束が市場参加者に信頼されれば、それによって、長期金利を引き下げる力が働くことになります。

日本銀行は、1999年以降のゼロ金利政策時代や2001年以降の量的緩和政策時代にも、時間軸政策を活用していました。最近では、先ほどご説明した「中長期的な物価安定の理解」に基づき、「物価の安定が展望できる情勢になったと判断するまで、実質ゼロ金利政策を継続していく」という方針を明らかにしていました。この方針も長期金利の安定的な形成を図るうえで一定の役割を果たしてきましたが、今回、日本銀行のデフレ脱却に向けた政策姿勢をより明確にするという観点から、2つの点で見直しを図りました。第1に、時間軸の条件として、「中長期的な物価安定の目途」で示した当面の目途である1%という物価上昇率に明確に結びつけることとしました。第2に、具体的な政策運営指針については、実質的なゼロ金利の継続だけでなく、それ以外にも実際に行ってきた政策措置を踏まえて、より能動的な表現とすることが適当と判断しました。この結果、新しい時間軸政策として、次のような方針を採用しました。すなわち、「当面、消費者物価の前年比上昇率1%を目指して、それが見通せるようになるまで、実質的なゼロ金利政策と金融資産の買入れ等の措置により、強力に金融緩和を推進していく」というものです。ただし、わが国のバブルの発生と崩壊や、近年の世界的なバブルや金融危機などの経験を踏まえ(前出図表2)、物価が安定している場合であっても、金融面での不均衡の蓄積を含めたリスク要因を点検し、経済の持続的な成長を確保する観点から、問題が生じていないことを条件とすることとしました3

  • 3 バブル期の日本の消費者物価上昇率(除く生鮮食品、消費税調整済み)をみると、1987年度は0.4%、1988年度は0.6%、1989年度は1.6%であった。

「時期」の約束、「条件」の約束

こうした時間軸政策は海外の中央銀行でも採用されています。その1つに、米国FRBのように、特定の時期に言及する手法があります。すなわち、FRBは、政策金利が例外的に低い水準となると見込まれる期間について、経済・物価見通しによって変わりうるという大きな条件をつけたうえで、「少なくとも2014年終盤まで」という表現をとっています。これに対して、日本銀行の方法は、緩和政策の出口に関する特定の「時期」ではなく、消費者物価の上昇率という「条件」に結びつける約束です。これは、現在の日本のように経済・物価見通しについて不確実性が高い状況を踏まえると、金融緩和の出口の時期を特定するよりも、目指している物価上昇率を示すほうが、「約束の信頼性」、ひいては金融政策の有効性という点で優れていると判断したことによるものです。経済・物価見通しが不確実である以上、緩和政策の「出口」の具体的な時期を特定することはできませんが、「出口」に至るまでの、日本銀行の金融緩和推進の姿勢は確固としたものです。現在の日本の状況を踏まえると、こうした時間軸政策の方が、デフレ脱却に向けた強固な政策姿勢を示すうえで有効と考えています。

インフレーション・ターゲティングとの関係

それでは、以上のような「中長期的な物価安定の目途」と「消費者物価上昇率に結びつけた強固な時間軸政策」の組み合わせは、いわゆるインフレーション・ターゲティングとの関係でどう位置づければよいでしょうか。

まず指摘したい点は、各国とも、日本のバブルや近年の世界的な金融危機の経験を含め、そこから得られる教訓をお互いに学び合いながら、金融政策運営の枠組みの改良に努めてきているということです。その結果、各国中央銀行の金融政策運営の枠組みは以下の3つの点でかなり収斂してきています。

第1に、自らの責務と整合的と考えられる物価上昇率を数値で示すことです。先ほど述べたように、イングランド銀行の「ターゲット」、欧州中央銀行やスイス国民銀行の「定義」、FRBの「ゴール」、日本銀行の「目途」など、言葉は異なりますが、いずれも同様です。

第2に、より重要な点として、今申し上げた物価安定の数値表現を政策運営において活用する際に、短期的な物価動向ではなく、中長期的にみた物価や経済・金融の安定を重視する度合いを強めてきていることです。多くの場合、バブルは物価の安定を謳歌している時期に発生し、結局、バブル崩壊後には経済活動や物価の大きな変動をもたらします。また、原油価格の変動といったサプライ・ショックを短期的にコントロールしようとすると経済活動に大きな負荷がかかり、結局、長期的な物価安定が実現できません。これらの近年の経験は、すべて、持続可能な物価安定を中長期的な視野で達成することの重要性を裏打ちするものです。英国のように、金融政策の枠組みをインフレーション・ターゲティングと称している国であっても、実際の運営については、物価目標を短期間で無理に実現するのではなく、経済や金融の安定を図ることを意識して物価目標を中長期的に達成していく、という色彩が強まってきています。

第3に、それとの関連で、主要中央銀行が公表する経済・物価見通しは、従来よりも幾分長い期間を視野に入れたものになってきています。ただし、見通しは遠い将来になるほどその信頼性は低下しますので、見通しの数値そのものを過度に強調するのではなく、見通しの背後にあるメカニズムについての考え方やリスクの評価において、中長期的な観点をより重視するようになってきています。

このように、主要中央銀行の間で金融政策運営の枠組みが収斂してきていることを踏まえますと、それぞれがインフレーション・ターゲティングに当たるかどうかという分類学は、本質的な論点ではなくなってきています。実際、FRBが今回採用した「ゴール」についても、バーナンキ議長自身は、インフレーション・ターゲティングではないと言っている一方で、論者によっては、これをインフレーション・ターゲティングと呼んでいます。そのうえで申し述べれば、もし、今回のFRBの金融政策運営の枠組みをインフレーション・ターゲティングと呼ぶのであれば、日本銀行の方法もそれに近いと言えると思います。

4. 資産買入等の基金の拡大

国債買入れの10兆円増額

次に、今回決定した3番目の措置である資産買入れの拡大について申し述べます(図表3)。

日本銀行は、一昨年の10月に導入した包括的な金融緩和政策の一環として、「資産買入等の基金」を通じた多様な金融資産の買入れを進めてきています。すなわち、日本銀行は、バランスシート上に分別管理した基金を設定し、期間が長めの資金供給オペに加え、長期・短期の国債、さらには中央銀行としてはきわめて異例ですが、CP、社債、指数連動型上場投資信託いわゆるETF、あるいは不動産投資信託いわゆるJ-REITといった、リスク性資産の買入れを進めています。その狙いは、長めの市場金利の低下と各種リスク・プレミアムの縮小を促すことによって、最終的な資金調達主体である企業や家計が直面する金融環境を、一段と緩和的なものにすることです。この「資産買入等の基金」の総枠は、2010年10月に35兆円程度でスタートした後、累次にわたる金融緩和の強化を経て総額55兆円程度まで拡大していましたが、今回、長期国債の買入れを10兆円程度増額し、総額65兆円程度とすることとしました。これで、スタート時と比べ、基金の規模は累計で30兆円程度増額したことになります。

なお、日本銀行はこの基金とは別に、長期安定的な資金需要を満たす観点から、長期国債を月間1.8兆円、年間21.6兆円のペースで買入れています。そうした長期国債の買入れ分と基金を通じた買入れ分を合わせますと、本年末まで、月3.3兆円、年率換算で約40兆円のペースで大規模に長期国債を買入れていくことになります。ちなみに、昨年末時点の日本銀行の長期国債保有残高は66.1兆円、対名目GDP比率でみれば14.2%という高い水準になっています。大胆に国債を買入れているというイメージが強い米国FRBの場合でも、昨年末におけるこの比率は10.8%ですし、一昨年に国債買入れを開始したECBは2.2%です。

これほどの大規模の国債買入れですから、それに伴って一段と留意しなければならない点もあります。すなわち、中央銀行による国債の買入れが、金融政策運営上の必要性から離れて、財政ファイナンスを目的として行われていると受け止められると、かえって長期金利の上昇や金融市場の不安定化を招きかねないということです。日本銀行としてこれまでも繰り返し申し上げてきていることですが、財政ファイナンスを目的とした国債買入れは行いません。

緩和的な金融環境の確保

さて、以上のような積極的な資産買入れに加え、実質的なゼロ金利政策も含めた包括的な金融緩和政策により、わが国の金融環境はきわめて緩和的になっています(図表4)。具体的には、金融機関間で資金の貸し借りを行う短期金融市場の金利は長めのものも含めて非常に低い水準で推移しています。社債やCPの信用スプレッドも低水準で落ち着いています。銀行の貸出金利も既にかなりの低水準ですが、なお緩やかに低下を続けています。各種のアンケート調査によれば、企業からみた金融機関の貸出態度および企業の資金繰りについても、改善の動きがはっきりしています。

一方で、日本銀行のバランスシートや、中央銀行の供給するお金であるマネタリーベースなどの量的指標は、リーマン・ショック以降の局面でみると米欧に比べれば拡大が緩やかであるため、日本銀行の金融緩和は不十分ではないか、との誤解を受けることがあります。そもそも、金利がきわめて低い水準まで低下すると、人々がお金を抱え込む傾向が強まります。すなわち、「流動性のわな」と呼ばれる状態です。そうなると、金融の量的な指標では金融の緩和度を測ることはできなくなります。実際、わが国の企業経営者の皆さんに直面する経営上の問題を聞いてみても、手元流動性が不足しているという声はほとんど聞かれません。仕事の量あるいは需要そのものが不足していることを訴える方が多いのが実情です。いずれにせよ、そういう状況の下では、金融面で言えば、企業の実際の長期、短期の調達金利がどうなっているのか、企業などが直面する資金調達環境がどうなっているのかなど、広い意味での金融環境( Financial conditions)がどの程度、緩和的であるかが鍵を握ります。米欧の場合、リーマン・ショックの後、金融市場の機能が著しく毀損したため、その安定回復には中央銀行のバランスシートの大幅な拡大が不可欠でした。そして一旦供給されたお金は、きわめて低い金利水準の下、保有コストはほとんどかからないため、中央銀行の預金口座にそのまま滞留します。これに対し、わが国では、リーマン・ショック時も金融市場の機能低下は米欧に比べれば限定的で、金融システムの安定も維持されていたため、米欧ほど極端な量的拡大を行わなくても、むしろ米欧以上に緩和的な金融環境を実現することができました。昨年は欧州債務問題により、再び国際金融資本市場で緊張が高まりましたが、そうした中でもわが国の金融環境については、緩和的な状況をしっかりと保持できました。さらに、今回の国債買入れの思い切った増額により、長めの金利を含むイールドカーブ全体への影響を通じて、金融緩和効果は一段と強まるものと見込んでいます。

5. デフレ問題の考え方と対応

デフレの原因

以上、日本経済がデフレから脱却し、物価安定のもとでの持続的成長経路に復することを狙いとした、日本銀行の新たな措置を説明しました。それでは、このような金融政策運営により、デフレ脱却に向けてどの程度の効果が期待できるでしょうか。あるいは、デフレからの脱却を確実にするためには、日本全体としてどのような対応が必要でしょうか。そこで、残された時間を使って、デフレ問題に関する私どもの考え方をご説明したいと思います。まず、日本のデフレの根本的な原因は何か、ということを正確に理解することが出発点になります。

わが国のデフレの原因については様々な議論が行われてきました。例えば、ある時期までは、内外価格差是正という政策課題のもとで、規制緩和や流通合理化が物価引き下げに寄与していました。また、わが国では、企業も労働者も雇用の確保を優先し、賃金調整を受け入れる傾向が強いため、厳しい経済調整のもとでも失業率は米欧ほど大きくは上昇しない一方で、賃金の下落傾向が顕著になります。こうした賃金の下落傾向も、わが国のデフレを説明する要因の1つです。

この間、おカネの量が不足しているから、言い換えれば日本銀行の金融緩和が不足しているからデフレが続いているという意見も聞かれます。しかし、この主張については、事実をきちんと点検する必要があります(図表5)。代表的な指標として、企業や家計が保有する現預金、すなわちマネーストック(M2)をとってみます。マネーストックが実体経済活動に比べてどの程度の規模かを測る指標として、マーシャルのk、つまりマネーストックの対名目GDP比率があります。わが国では、1990年代半ばまでこの比率は1.1倍くらい、つまり、名目GDPとマネーストックはほぼ同じくらいの規模でした。その後、長引く金融緩和基調のもとでこの比率はどんどん上昇し、いまや1.7倍、つまり、名目GDP約467兆円に対し、マネーストックは約805兆円にのぼっています。この比率は、主要国の中で最も高くなっています。同様の計算を、マネタリーベースや中央銀行のバランスシートの規模で行ってみても、日本の比率は、主要国中、最も高い水準になっています。

先ほど申し述べたとおり、欧州債務危機を背景に国際金融資本市場が緊張度を増す中でも、わが国の金融環境は緩和的な状態を維持できています。その意味で、日本経済の問題は、おカネの量が足りないということではなく、むしろ、おカネを有効に使うビジネスチャンスや成長機会が乏しくなっているということにあるのではないでしょうか。

結局、デフレとは一般物価水準の下落ですので、その背後にあるマクロ経済全体としての需給バランスが崩れていること、つまり供給に対して需要が不足していることが原因となっているはずです。実際、需給バランスの指標として、一定の前提を置いて需給ギャップを計算すると、2000年以降ごく一時的な期間を除き、恒常的に需要不足の状態が続いています。

やや長い目で日本の実質GDP成長率を振り返ってみると、1980年代は4.4%、1990年代は1.5%、そして2000年代は0.6%と、次第に低下してきています(図表6)。このように成長率が低下してきた理由としては、いくつかの要因が考えられます。まず、1990年代入り後、バブル崩壊の後遺症が日本経済に重くのしかかっていました。もう少し具体的に言うと、企業や金融機関がバランスシート調整という課題の対処に追われている間に、日本経済全体として、グローバリゼーションの進展と人口の急速な高齢化という環境変化への対応に遅れをとりました。とくに、2000年代入り後は、世界に例をみない急激な高齢化の影響が一段と顕著になってきました。先ほど述べた需給ギャップの拡大は確かに供給能力に対する需要の不足を意味するものですが、その場合の供給能力は既存の財やサービスにかかる供給能力を指しています。しかし、新しい環境のもとでの新しいニーズ、例えば高齢者の需要に十分応えていないという意味では、需給ギャップというよりは、需給のミスマッチ拡大の表れと解釈すべきかもしれません。

いずれにせよ、このように趨勢的に成長率が低下してくると、家計部門では将来の所得に対する不安が強まり、個人消費が伸びない原因となりますし、企業部門では将来のための投資活動を抑制することになります。そうなると、企業や家計の支出活動の委縮がさらに現実の成長率を引き下げ、それが成長期待の低下をもたらすという悪循環につながってしまいます。

経済活動と物価の関係は、人間の基礎体力と体温の関係に喩えることができます。体温を正常な状態に上げるためには、基礎体力を上げる必要があります。これと同様に、物価を適度に上げるためには、日本経済の成長力、成長期待を強化することが不可欠であり、それなしにデフレ問題の解決はできないという事実を直視する必要があります。もちろん、物価だけが先行して上昇するケースもあります。例えば、1970年代から1980年代にかけての2回の石油ショックがそれに相当します。しかし、原油価格の高騰が物価にはねてくるようなケースを考えればわかるように、物価だけが上がったとしても、それで企業業績や人々の暮らしが改善するわけではありませんし、そうした状態を我々が望んでいるわけでもありません。要は、実体経済が改善し、それが自然に物価上昇につながっていくという順番で望ましい状態を実現することが大事です。

成長力強化に向けた取り組み

しかし、成長力を強化するという課題は、日本が直面している急速な人口高齢化という条件のもとではたいへん難しいチャレンジです。簡単な試算をお示しします。経済成長率は、就業者数の増加率と、就業者一人当たりの国内総生産、つまり生産性の上昇率に分解できます(前出図表6)4。まず就業者数の増加率は、2000年代に年平均で−0.3%とマイナスに転じた後、最近発表された国立社会保障・人口問題研究所の推計値などを基に試算すると、2010年代に−0.7%、2020年代には−0.8%、そして2030年代には−1.2%と減少テンポを加速させていきます。一方、生産性の上昇率はリーマン・ショックの影響もあって振れもありますが、最近のトレンドをみると過去20年平均は1%、2000年代に入ってリーマン・ショック前までの平均で1.5%程度です。ちなみに、この生産性の上昇率自体は現在でもG7諸国の中でも遜色はなく、2000年代に入ってリーマン・ショック前までの時期では最高水準です。しかし、この生産性上昇率を就業者数の減少率に足し合わせて経済成長率を算出してみると、2010年代には年平均0.5%程度にとどまり、先行きはもっと低下してしまうという厳しい計算結果が得られます。

それでは、経済成長率を高めるにはどうしたらよいでしょうか。まず、就業者数を直ちに増やすことは難しいですが、高齢者や女性が働きやすい環境を整えることにより、減少テンポを和らげることは可能です。そのうえでやはり鍵となるのは、生産性の上昇率を引き上げる努力です。そのためには、まず、グローバル需要の取り込みと、多様化する国内需要の掘り起こしのための企業努力が必要です。政策面では、規制緩和などにより企業の挑戦を促す環境整備が重要になります。また、そうした企業努力を資金面から支えるうえで、金融機関の目利き力やリスクマネーの供給力も大事です。そして何よりも、日本経済がこうした厳しい現実と重い課題を抱えているという認識を社会全体で共有し、変化や新陳代謝を前向きに受け入れていく価値観を共有することが不可欠です。

成長力強化という点で中央銀行がなしうる最大の貢献は、緩和的な金融環境を維持し、金融面から企業が新分野にチャレンジしやすい環境を整えることです。今後とも、本日申し述べた「中長期的な物価安定の目途」をしっかり踏まえ、強力な金融緩和を推進していく方針です。また、欧州債務問題など、国際的な金融情勢を巡る不確実性が高い中で、海外で何らかの波乱要因が生じた場合でも、国内金融資本市場や金融システムへの影響を最小限にとどめ、安定確保に万全を期すことも、私どもの大事な役割です。さらに、日本銀行は、中央銀行として異例の措置ですが、金融機関の目利き力を活かして、企業の新分野への挑戦を後押しする仕組み、つまり、成長基盤強化を支援するための資金供給という新しい試みも行っています。

いずれにせよ、成長力強化のために、魔法の杖があるわけではありません。グローバリゼーションや人口高齢化というわが国経済を取り巻く環境変化を直視して、民間企業、金融機関、そして政府、日本銀行がそれぞれの役割に即して取り組みを続けていくことが重要です。わが国のデフレからの脱却も、こうした成長力強化の努力とそれに対する金融面からの後押しを通じて達成されるものです。

  • 4 各種の生産性上昇率については、白川方明「デレバレッジと経済成長——先進国は日本が過去に歩んだ「長く曲がりくねった道」を辿っていくのか?——」、 London School of Economics and Political Scienceにおける講演(アジアリサーチセンター・STICERD共催)、2012年1月10日の図表13 [PDF 940KB]を参照。

6. 経済・物価情勢と先行き見通し

最後に、デフレからの脱却という観点からみて、日本経済が現在どこまできているのか、最近の経済・物価情勢と先行きの見通しについてお話しします。

日本経済は、昨年後半には、大震災後の大きな落ち込みから急速に回復しましたが、最近では、海外経済の減速や円高の影響による外需の下押し圧力と、個人消費など内需の底堅さという2つの力が拮抗するかたちで、横ばい圏内の動きとなっています。当面そうした動きが続くとみられますが、春先以降は、新興国・資源国に牽引されるかたちで海外経済の成長率が再び高まるとみられることや、震災復興関連の需要が徐々に強まっていくことなどから、緩やかな回復経路に復していくとみています。消費者物価の前年比は、当面はゼロ%近傍で推移しますが、先行き2年程度の期間でみればゼロ%台半ばまで高まっていくとみています。ちなみに、日本銀行が先月公表した2013年度までの経済・物価見通しを申し上げますと、実質GDP成長率は、2011年度は−0.4%とマイナス成長を予想していますが、2012年度は+2.0%、2013年度は+1.6%という見通しになっています。また、消費者物価の前年比は、2011年度が−0.1%、2012 年度は+0.1%、2013 年度は+0.5%と徐々に上昇率が高まる見通しです(図表7)。

振り返ってみると、消費者物価(除く生鮮食品)の下落率は、最近では、2009年半ばに、−2.4%と近年でもっとも大きな下落を記録しました。その後、緩やかではありますが景気が回復基調をたどり、需給ギャップが縮小する中で、物価の下落率も小さくなっており、ようやく、前年比でゼロ%近傍まで到達しました。その意味では、デフレ脱却に向けての歩みは進んでいるのですが、「中長期的な物価安定の目途」で示した当面の目途である1%を見通せるような状況までには、まだまだ距離があると言わざるをえません。

さらに、日本経済を取り巻く環境には様々な不確実性が存在します。欧州債務問題の今後の展開によっては国際金融資本市場の緊張を通じて日本に影響が及ぶ可能性は排除できません。国内要因をみても、電力需給や円高の影響に加え、復興関連需要の増加ペースなど、多くの不確実性が存在します。しかし、同時に、このところ内外経済に明るい兆しが出始めていることも見逃せません。欧州債務問題を巡る国際金融資本市場の緊張は、昨年末頃に比べると幾分和らいでいます。米国経済では、バランスシート調整の重石はあるものの、このところ雇用情勢などに改善の動きがみられています。国内に目を転じても、公共事業と民間需要の両面で震災復興関連の需要が動き出していますし、昨年の震災後の支出抑制の反動もあって、このところ個人消費が底堅さをみせています。

今回の私どもの金融緩和強化策も、こうした前向きの動きを金融面から後押しするという狙いを込めて実施したものです。日本銀行としては、今後とも、わが国経済のデフレからの脱却と物価安定のもとでの持続的成長の実現に向けて、最大限の努力を講じていく方針です。同時に、繰り返しになりますが、日本経済の成長の基盤を強化するためには、こうした緩和的な金融環境を活用する民間企業や金融機関の積極的な取り組み、それを後押しする政府の政策など、各方面の努力を結集する必要があります。その際、わが国が急激な人口高齢化という世界最先端のチャレンジに直面している以上、その対処方法も世界最先端でなければなりません。問題解決の事例や政策対応のお手本を海外に求めることはできません。このことを肝に銘じて、自ら道を切り拓いていく構えが必要ですし、それに成功すれば、わが国は、かつての高度成長モデル以来、再び、世界に対して経済社会運営の規範を提供できることになるはずです。自らの知恵と意思による問題解決の重要性ということを強調して、本日の私の話を終えることとします。

ご清聴ありがとうございました。