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【講演】デフレ脱却に向けて

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コロンビア大学ビジネススクール日本経済経営研究所東京コンファレンスにおける講演の邦訳

日本銀行総裁 黒田 東彦
2014年5月15日

目次

1. はじめに

本日は、コロンビア大学ビジネススクール日本経済経営研究所主催のコンファレンスにおいて、講演を行うことができ、大変光栄です。

日本経済を長年研究されてきた当研究所が、「日本経済の復活」というテーマで、コンファレンスを行うことは、非常に意義のあることであり、この場の議論から導き出される提言は、今後の日本経済にとって必ずや有益なものとなるでしょう。

私からは、デフレ脱却に向けた日本銀行の取組みと経済・物価の展望についてお話しした後、最後に「日本経済の復活」のカギとなる成長力の問題に触れたいと思います。

2. 「量的・質的金融緩和」の効果と経済・物価情勢の展望

日本銀行は、昨年4月、2%の「物価安定の目標」を、2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に実現することを目指して、「量的・質的金融緩和」を導入しました。それから約1年、「量的・質的金融緩和」は、所期の効果を発揮しています。「物価安定の目標」の早期実現に対する明確なコミットメントと大規模な緩和によって、人々のインフレ予想は全体として上昇しています。一方で、日本銀行の巨額の国債買い入れは、10年長期金利を0.6%程度という低水準に抑制しています。これらの結果、実質金利はマイナス圏で低下を続け、実体経済を刺激してきました。日本経済は、内需を中心に成長を続け、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は、昨年3月に−0.5%であったのが、今年の3月には+1.3%になりました(図表1)。

先行きも、国内需要が引き続き堅調さを維持し、輸出も緩やかながら増加していく中、経済の好循環は持続すると考えています。したがって、わが国経済は、2回の消費税率引き上げによる振れを伴いながらも、基調的には潜在成長率を上回る成長を続けると予想しています。これを先日公表した「展望レポート」における実質GDP成長率の見通しで申し上げると、2014年度は+1.1%、2015年度は+1.5%、2016年度は+1.3%と予想しています(図表2)。

消費者物価(除く生鮮食品)の先行きを、消費税率引き上げの直接的な影響を除いた前年比でみると、エネルギーを中心とした輸入物価の押し上げ効果が本年夏頃にかけて減衰していく一方、需給ギャップの改善など基調的な物価上昇圧力が強まっていくことから、両者の要因が概ね相殺し合い、暫くの間、1%台前半で推移するとみています。その後、基調的な物価上昇圧力が引き続き強まっていく中で、本年度後半から再び上昇傾向をたどり、2014年度から16年度までの見通し期間の中盤頃に、「物価安定の目標」である2%程度に達する可能性が高いと考えています。更にその先は、中長期的なインフレ予想が2%程度に向けて収斂していくもとで、需給ギャップのプラス幅が拡大することから、強含んで推移するとみています。「展望レポート」の見通しでは、2014年度は+1.3%、2015年度は+1.9%、2016年度は+2.1%と予想しています(前掲図表2)。

以上のように、わが国経済は、2%程度の物価上昇率を実現し、その後、これを安定的に持続する成長経路へと移行していく可能性が高いと考えています。

3. 経済の先行きを巡る論点

こうした経済・物価見通しに関してポイントとなる論点を、実体経済に関して2つ、物価に関して2つ、お話ししたいと思います。

消費税率引き上げの影響と国内民間需要の持続性

実体経済については、第一に、―おそらく皆さんの当面の関心事項の一つであろうと思いますが―消費税率引き上げの影響についてです。消費税率引き上げに伴う駆け込み需要は、3月末にかけて、相応の規模で確認されました(図表3)。1997年4月に税率が引き上げられた前回の局面では、その後、景気後退に陥ったことから、その再現を懸念する向きもあります。ただ、当時の経済情勢を改めて振り返ってみると、駆け込みとその反動の後、7〜9月に一度は回復の兆しをみせていました。その後、夏に発生したアジア通貨危機や11月に起きた日本の大手金融機関の破たんの影響から、景気後退に向かったということです。現状は、当時と異なり、新興国の負のショックへの耐性は高まっていますし、日本の金融システムは、安定した状態にあります。また、今回は、企業の業況感などにみられる景気のモメンタムや、失業率などからみた雇用環境がしっかりしており、このことは、雇用者所得やその見通し、すなわち恒常所得に好影響を与え、個人消費の底堅さを支えると考えられます。企業からのヒアリングによれば、駆け込みの反動は、今のところ概ね想定の範囲内のようです。以上から、この4〜6月の成長率ははっきりと落ち込むものの、その後、反動減の影響は減衰していき、夏場以降は、潜在成長率を上回る成長経路に復するとみています。

輸出の回復

次に輸出です。過度な円高水準の修正にもかかわらず、輸出が伸び悩んでいることから、日本企業の国際競争力の低下を論じる論調もみられます(図表4)。輸出の伸び悩みには、日本企業の海外生産移管の加速などの構造的要因が相応に影響していると思いますが、基本的にはASEANなど日本と関係の深い新興国経済のもたつきなど、循環的な要因の影響が大きいと考えています。それに加えて、特にこの第1四半期は、消費税率引き上げに伴う駆け込み需要を受けて国内向け供給を優先してきたことや米国の寒波などの一時的要因も、輸出を抑制したと考えられます。したがって、一時的な要因が剥落するもとで、海外経済の成長率が高まっていけば、輸出は緩やかながらも増加に転じていくとみています。

また、構造的な要因の一つである海外生産移管についても、意思決定から移管にかかるタイムラグを考えれば、既往の円高修正はこの先の海外生産移管のペースを抑制すると考えられます。したがって、この面でも、輸出を支える方向に働くとみています。

4. 物価の先行きを巡る論点

以上のように、日本経済は、潜在成長率を上回る成長を続ける可能性が高いと考えています。ただ、成長率に関して言えば、輸出の回復が後ずれしているため、13年度、14年度は、これまで見ていたよりも幾分下振れています。にもかかわらず、消費者物価は、13年度は見通しどおり着地し、先行きの見通しも不変です。これは、第一に、労働需給の引き締まりを中心に需給ギャップが想定通り着実に改善していること、第二に、中長期的なインフレ予想の高まりが実際の賃金・物価形成に影響を与え始めているとみられること、によるものです。以下、この2点についてお話しします。

需給ギャップと物価

まず、需給ギャップについてです。今回の回復局面は、国内需要が牽引し、特に非製造業の業況が好転しています。これらは雇用誘発効果が大きいため、労働需給は、引き締まり傾向が強まっています。例えば、失業率は構造的失業率に近付いていますし(図表5)、有効求人倍率はリーマンショック前のピーク水準に達しています。我々の短観でみた企業の雇用判断も、不足感が高まっています。こうした労働需給の引き締まりは、賃金にも影響し始めています。今春の賃金改定交渉では、賞与の引き上げのほかに、ベースアップを実施する企業が大幅に増えました。

さらに、非製造業を中心に設備の不足感も強まってきています。需給ギャップの推計値は幅を持ってみる必要がありますが、こうした労働や設備の稼働状況を踏まえると、過去の長期平均並みであるゼロ%近傍にまで改善しているとみています(図表6)。

先行きも潜在成長率を上回る成長を続ける中で、労働需給の引き締まりはさらに強まっていく可能性が高く、賃金や需給ギャップの面からの物価上昇圧力は、着実に強まっていくと考えられます。このことが持つインプリケーションについては、本日の最後に触れたいと思います。

中長期的な予想物価上昇率

次に、中長期的なインフレ予想は、様々なアンケートや市場の指標からみて、全体として上昇しているとみられます(図表7)。

冒頭申し上げたように、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は4か月連続で+1.3%になっています。これは1997年の消費税率の引き上げや2008年頃の国際商品市況高の時期を除けば1993年以来のことです。企業や家計がそのような物価上昇を実際に経験するもとで、インフレ予想を適合的に変化させる動きも加わって、中長期的な予想物価上昇率は上昇傾向を辿り、「物価安定の目標」である2%程度に向けて次第に収斂していくと考えています。

こうした動きは、実際の賃金・物価形成にも影響を及ぼし始めています。さきほど述べたとおりベースアップを行う企業が増えましたし、従来は低価格戦略を最優先にしてきた企業の中にも、最近では付加価値を高めつつ販売価格を引き上げる戦略に切り替える企業がみられてきました。消費税率引き上げ分を価格に転嫁できるかという意味で注目された4月の消費者物価指数について、全国に先行して公表された東京の指数では、価格転嫁は進んでいるようにうかがわれます。

フィリップス曲線

こうした物価上昇メカニズムを、需給ギャップと物価の関係性をみたフィリップス曲線で整理してみます(図表8)。

リアルタイムにフィリップス曲線の形状や位置の変化を確認することは困難ですが、最近1年の動きを示す赤い丸は、過去18年間のフィリップス曲線の上方に位置しています。先程述べたような、様々なインフレ予想指標の上昇や、賃金・価格設定行動の変化も併せて考えると、需給ギャップ改善による物価押し上げと、インフレ予想の上昇によるフィリップス曲線の上方シフトの2つの動きが起きていることが推測されます。今後もこれらの動きが続き、2%の「物価安定の目標」の実現に向かって進んでいくと考えています。

5. 金融政策運営と日本経済の成長力

お話ししてきたように、「量的・質的金融緩和」は所期の効果を発揮しています。したがって、2%の「物価安定の目標」の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで、「量的・質的金融緩和」を継続していくことが重要であると考えています。そのうえで、何らかのリスク要因によって見通しに変化が生じ、「物価安定の目標」を実現するために必要になれば、躊躇なく調整を行います。

ここで強調したいのは、我々の2%の「物価安定の目標」への強いコミットメントです。我々の見通しどおりに日本経済が2%の目標に向かっていくのであれば、「量的・質的金融緩和」を着実に推進しますし、そうでないのであれば、2%を実現するように調整を行う、ということです。

最後に、本日のテーマに沿って、日本経済の成長力について一言申し上げて講演を終えたいと思います。日本銀行の「量的・質的金融緩和」は、長年にわたるデフレ均衡から抜け出し、2%程度の物価上昇率を前提として人々が行動する経済を実現させようとするものです。この15年間、日本経済で起きていたのは、製品価格の下落が企業の売上げの減少につながり、それが、賃金の抑制、消費の低迷を通じて、再び価格の下落をもたらすという悪循環でした。このようなデフレ経済を前提にした場合には、個々の企業や個人にとっては、「現状維持」や「現金選好」といった行動が合理的になり、「挑戦」はリスクの割には報われませんでした。我々が目指すのは、こうした「協調の失敗」を打破し、アニマルスピリッツを復活させることです。そして、このことは、成長期待や成長力を高めるための、ひとつの重要なピースです。

ただ、もうひとつ重要なピースがあります。先程述べたように、労働需給の引き締まりなど経済のスラックが縮小している状況を考えると、日本経済が中長期的に成長するためには供給力を強化することが重要だということもはっきりとしてきました。趨勢的な人口減少と高齢化や、デフレのもとでの資本ストックの蓄積鈍化などによって、日本経済の供給力の伸びは低下してきました。それでも、この間は需要も弱かったため、「人手不足」や「供給制約」といった形で表面化することはありませんでした。ところが、この1年ほどの間に、大規模な金融緩和、財政支出、民間活動の活性化によって、需要が高まると、水面下に隠れていた供給力の問題が姿を現しました。

私は、供給力の問題が表面化した今が、日本経済が抱える中長期的な課題を解決していく好機だと思います。規制・制度改革によって生産性を向上させること、女性・高齢者などを中心に労働参加を高めるほか高度な外国人材の活用を図ること、財政と社会保障制度の持続性を確立することなど、課題そのものは、以前から国民の間で共有されてきました。ただ、人々は、これらを十分理解しながらも、これまで実行へのモメンタムがつきませんでした。人手が余っていて雇用の確保が問題のときに、労働参加を高める施策に賛同を得るのは困難です。いずれ人口減少で問題になるとしても、「今やらなくても」となりがちでした。現在、一部の業種で明らかになってきている深刻な人手不足には、高水準の公共工事や駆け込みの影響など一時的な現象も含まれていますので、そのすべてを中長期的な課題に結びつけることは不適当かもしれません。ただ、趨勢的な人口減少と高齢化のもとで、近い将来、労働供給が様々な形で問題になりうることは疑いがありません。だとすれば、具体的な「人手不足」という現象を推進力にして、成長力の問題を広く議論し、解決を模索していくべきだと思います。そして実際に、政府は、幅広い分野にわたって成長戦略の方針を示し、実行を加速しようと取り組んでいます。これが、私のスピーチテーマである「デフレからの脱却」と、コンファレンス全体のテーマである「日本経済の復活」をつなぐ、最後の、そして、最も重要なピースになると信じています。

ご清聴ありがとうございました。